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<海外生活悩める方へ>僕の「人生のターニングポイント」~中国の3年半の駐在員生活~

今から13年前(もうそんなになるのか、、、)、僕は万博が終わったばかりの熱気冷めやまない上海に赴任をした。
初めての海外での生活、不安も大きかったが、毎日が刺激的だった。

・出張先で激辛火鍋と白酒(アルコール度数50%弱ある激マズのお酒)をあびるだけ飲み食いさせられて、次の日1㎜も動けなかったあの日
・出張先のホテルでハニートラップにかけらそうになったあの日
・南京出張時に「初めて日本人を見た」と凄い怖い一言をかけられたあの日
・日本人向けKTV(キャバクラのようなもの)で日本人出張者に接待し続けたあの日
・反日デモで外出できない日々

嫌な思い出・辛い思い出もたくさんあるが、この3年間があったから僕は自分のやりたいこと・将来めざしたい姿の言語化ができた。
そしてこの3年間の評価で転職することもできた。

海外生活中で悩んでいる方、これから海外生活を控えている方に勇気をお届けできるように僕の3年半を赤裸々に書いてみる。


自己紹介

奥さんの海外赴任をきっかけに、2023年9月末に前職であるリクルートを退職をして、2023年10月よりシンガポールを主夫をしている。

リクルートでは化学業界専門のコンサルタントとして転職をエージェントをしていた。

その以前に日系メーカーで約8年勤務をしており、その時代に中国上海へ駐在していた。そんな駐在時代について本日は書いていきたい。

私のことは過去投稿でも書いているので是非ご覧いただきたい。

駐在前の私

英語も出来ず、海外とは無縁のキャリアだった。
新卒で日系のゴム(タイヤ)メーカーに入社。海外の売上比率が高い会社ではあったが、初期配属先も日本国内の営業部隊で、配属早々に子会社に出向といわいる花形ではなく、古臭く不人気部隊の配属だった。
当時はリーマンショック前で、銀座や赤坂で連日連夜会社のお金で飲みに行く時代。そして今では考えられないようなパワハラも横行していた。
そんな生活に疲れいて、ずっと会社を辞めようと思っていた。

そんな時に、突如来た「中国駐在」の話。

中国市場は目まぐるしく発展をしており売上も増加しているが、実際の販売現場では何がおきているか分からない。実際に現地に出向き小売店の声を集めてくるような人材が必要とのことでのオファー。

中国なので英語も関係ない、
必要なのは中国全土を飛び回る体力・各地で飲み歩く耐力

嫌で嫌で仕方なかった、新卒時代から続く飲み歩き・上司からのパワハラ、その先にまさかの駐在オファーがあった。

不安も大きかったが、人生を変えるチャンスかもしれないと思いオファーを承諾し中国生活が決定。

人生観を変えたできごと

①中国人同僚の退職

ケース①
「会社や同僚には満足をしている、ただし僕にとって会社や仕事は僕と僕の家族の生活を良くさせるために手段、もっと良い条件をもらっているのに転職しない選択肢はない、家族にも怒られる。」
僕の通訳をしてくれてた同僚の退職時の一言。

ケース②
入社後3日でやめていった同僚がいた。退職理由は競合他社への転職。
当時、ゴム業界のセールスマンのヒエラルキーは以下の通り。

メーカー(欧米)

メーカー(日本)

メーカー(その他各国)

販売総代理店

販売代理店

彼は地方の販売総代理店のセールスから転職をしてきた。更なるステップアップを狙うため欧米系のメーカーを狙っていたようで、入社早々に退職していった。

何も前触れのない突然の報告だったので衝撃とショックを受けた。

ただ同時に自分がいかに何も考えず会社に帰属している僕が会社の看板を外した時に、部下や同僚に勝てるものがあるのうだろうかという不安、自分自身を輝かせるのは自分だということを気づかせてくれた出来事だった。

②日本人幹部の左遷

駐在員は非常に役員や幹部層との距離が近く、日本では構築できない人脈・知ることもできない情報なども入ってくる。
人事ってこんなに些細なことで決まるのか、人の人生って好き嫌いできまるのかなど、ライバルを蹴落とすためにこんなことするのかといった半沢直樹の世界観がまさに繰り広げられていた。

僕自身はこの会社で輝くための道しるべを知ることはできたが、同時に僕はこの道しるべを歩きたくないという明確な答えを出すことができた。

③社外の日本人との出会い

海外にいると、日本より社外ネットワークが広がりやすい。やはり異国の地で頑張っている者、それだけで共通点となる。
私の場合は野球チームに所属をして毎週汗を流していた。仕事では出会えることが出来ない会社の社長から大学生まで利害関係なく共に汗を流し、夜は飲み会をしてという時間は本当に海外ならではであった。
社外のメンターや社外のロールモデルを見つけることができたのは、今後ありたい姿の解像度をあげるのに非常に役立った。

④3.11の大震災

3.11の大震災の時僕は中国にいた。中国でも大々的に報道されていた。
その時に初めて日本では報道規制されていることを知った。
中国では震災の翌日には大々的に報道されていた衝撃的な映像を日本の番組では一切報道されていなかった。
だから日本には報道的自由はないなんて言いたいわけではなく、与えられる情報の不確かさ、情報は受動的ではなく主体的にとりにいかないといけないことを学んだ。

駐在を経て決めたこと

①退職
駐在中に在籍していた企業での輝き方の解像度があがったが、上がったからこそ、僕がいる場所はここではない、だから退職することを決断した。

②将来なりたい姿の設定
当時は会社の看板ない自分に価値がないことにとても危機感を感じていた。だから「海外どこにいっても稼ぐことができる人材」になると設定をした。

③転職エージェント/キャリアコンサルタントになる決断
・個人の裁量が強い
・海外どこでもニーズがある
この2点に絞り仕事を探しをはじめた。
具体的には以下サイトで仕事一覧をみて探した。
ここでも中国で学んだ情報は自ら取得するということが役立った。

探していく中で、
・個人の日常に根差した仕事
・人に感謝をされたい
・ただ稼ぐだけだとメンタルもたなさそう

という条件も追加していき、最終的に転職エージェント・キャリアコンサルタント(当時はキャリアカウンセラー)になることを決めた。

最後に

結果として僕は希望していた転職エージェントになることもできた。
そしてキャリアに伴走できるこの仕事は天職だとも思う。

ただ冷静に考えると、天職だと思える理由は向いている向いていないということではなく、僕自身はじめて自分の力で思い描いた未来に自分の行動で獲得することができたものだから、価値を感じているのかもしれない。

そういった意味でも駐在の3年半は「ありたい姿」を言語化することができた僕のターニングポイントだと言わざる得ない。

駐在のメリットデメリットは過去も記載しているので是非ご確認ください。

本日も最後まで読んでいただきありがとうございます。
お問い合わせございましたら以下フォームより宜しくお願い致します。

ではまた。

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