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「人望」と「人付き合い」の黄金ルールを大公開:実際の力量だけでなく、心と知性が作り上げる社会的影響力とその高め方。人々とのコミュニケーションの極意を徹底解析【学問のすすめ2.0:十七編】福沢諭吉から学ぶ

十七編
人望論

 十人の見るところ、百人の指《ゆびさ》すところにて、「何某《なにがし》は慥《たし》かなる人なり、たのもしき人物なり、この始末を託しても必ず間違いなからん、この仕事を任しても必ず成就することならん」と、あらかじめその人柄を当てにして世上一般より望みをかけらるる人を称して、人望を得る人物という。およそ人間世界に人望の大小軽重はあれども、かりそめにも人に当てにせらるる人にあらざれば、なんの用にも立たぬものなり。その小なるを言えば、十銭の銭を持たせて町使いに遣《や》る者も、十銭だけの人望ありて、十銭だけは人に当てにせらるる人物なり。十銭より一円、一円より千円万円、ついには幾百万円の元金を集めたる銀行の支配人となり、または一府一省の長官となりて、ただに金銭を預かるのみならず、人民の便不便を預かり、その貧富を預かり、その栄辱をも預かることあるものなれば、かかる大任に当たる者は、必ず平生より人望を得て、人に当てにせらるる人にあらざれば、とても事をなすことは叶い難し。

福沢諭吉『学問のすすめ』
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 十人が見て、百人が指差すところで、「彼は確かに頼もしい人物だ。この任務を彼に託せば、間違いなく達成されるだろう」と広く認められる人物を、人望があるという。人間社会には人望の大小があるが、誰からも信頼されない人は役に立たない。小さな例で言えば、十銭を持たせて使いに出す者も、十銭分の人望があり、十銭分だけ信頼される人物である。十銭から一円、一円から千円、万円と増え、最終的には数百万円を扱う銀行の支配人や、一府一省の長官となり、金銭だけでなく、人々の利便や貧富、栄誉までも預かる者もいる。これらの重要な役割を担う者は、常に人望を得て、信頼される人でなければ、その職務を果たすことは困難である。

 人を当てにせざるはその人を疑えばなり。人を疑えば際限もあらず。目付《めつけ》に目をつけるがために目付を置き、監察を監察するがために監察を命じ、結局なんの取締りにもならずしていたずらに人の気配を損じたるの奇談は、古今にその例はなはだ多し。また三井・大丸の品は正札《しょうふだ》にて大丈夫なりとて品柄をも改めずしてこれを買い、馬琴の作なれば必ずおもしろしとて、表題ばかりを聞きて注文する者多し。ゆえに三井・大丸の店はますます繁盛し、馬琴の著書はますます流行して、商売にも著述にもはなはだ都合よきことあり。人望を得るの大切なることもって知るべし。
 「十六貫目の力量ある者へ十六貫目の物を負わせ、千円の身代ある者へ千円の金を貸すべし」と言うときは、人望も栄名も無用に属し、ただ実物を当てにして事をなすべきようなれども、世の中の人事はかく簡易にして淡泊なるものにあらず、十貫目の力量なき者も坐《ざ》して数百万貫の物を動かすべし、千円の身代なき者も数十万の金を運用すべし。試みに今、富豪の聞こえある商人の帳場に飛び込み、一時に諸帳面の精算をなさば、出入《しゅつにゅう》差引きして幾百幾千円の不足する者あらん。この不足はすなわち身代の零点より以下の不足なるゆえ、無一銭の乞食に劣ること幾百幾千なれども、世人のこれを視《み》ること乞食のごとくせざるはなんぞや。他なし、この商人に人望あればなり。されば人望はもとより力量によりて得《う》べきものにあらず、また身代の富豪なるのみによりて得べきものにもあらず、ただその人の活発なる才智の働きと正直なる本心の徳義とをもってしだいに積んで得べきものなり。

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 人を疑うことは、その人を信じないことであり、人を疑うときには限りがない。監視者を監視するために監視者を置き、さらに監察を監察するために監察者を任命し、結局は何の管理にもならず、ただ人々の気配を損なうばかりの不思議な話は、古今に多く存在する。また、三井や大丸の商品は正札であり信頼できるとして品質を確認せずに購入し、馬琴の作品であれば必ず面白いと信じて、表題だけを見て注文する人が多い。そのため、三井や大丸の店はますます繁盛し、馬琴の著書はますます流行する。これは商売や著述にとって非常に都合が良い。人望を得ることの重要性を知るべきである。

 「十六貫目の力量のある者には十六貫目の重さの物を負わせ、千円の身代のある者には千円の金を貸すべきだ」と言われるが、実際には、世の中の人事はそう簡単ではなく、淡泊でもない。十貫目の力量もない者が数百万貫の物を動かし、千円の身代もない者が数十万の金を運用することもある。たとえば、今、名声のある富豪の商人の帳簿を見れば、一時的に数百、数千円の不足があるかもしれない。この不足は身代以下の不足であり、無一文の乞食に劣ることはないが、人々はこの商人を乞食のようには見ない。なぜなら、この商人には人望があるからである。したがって、人望は単に力量や財力によって得られるものではなく、その人の活発な才知と正直な本心の徳義によって徐々に築かれるものである。

 人望は智徳に属すること当然の道理にして、必ず然るべきはずなれども、天下古今の事実においてあるいはその反対を見ること少なからず。藪医者が玄関を広大にして盛んに流行し、売薬師が看板を金にして大いに売り弘《ひろ》め、山師の帳場に空虚なる金箱を据え、学者の書斎に読めぬ原書を飾り、人力車中に新聞紙を読みて宅に帰りて午睡《ごすい》を催す者あり、日曜日の午後に礼拝堂に泣きて月曜日の朝に夫婦喧嘩する者あり。滔々《とうとう》たる天下、真偽雑駁ざっぱく、善悪混同、いずれを是《ぜ》としいずれを非とすべきや。はなはだしきに至りては、人望の属するを見て、本人の不智不徳を卜《ぼく》すべき者なきにあらず。ここにおいてか、やや見識高き士君子は世間に栄誉を求めず、あるいはこれを浮世の虚名なりとして、ことさらに避くる者あるもまた無理ならぬことなり。士君子の心がけにおいて称すべき一ヵ条と言うべし。

福沢諭吉『学問のすすめ』
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 人望は智徳に属するべき明らかな道理だが、歴史を通じてしばしばその逆が見られる。例えば、素人の医者が大々的に営業し、売薬師が金の看板で商売を繁盛させ、山師が空虚な金箱を置き、学者が読まない原書を飾り、人力車で新聞を読んで帰宅後昼寝をする者、日曜日に教会で泣いて月曜日に家族喧嘩をする者もいる。世の中は真実と偽り、善と悪が混在していて、何を正しく何を誤りとすべきか分かりにくい。極端な例では、人望があることを見て、その人の無智無徳を予測することもある。そのため、見識の高い士君子は、世間の名誉を求めず、虚名であると考えて避けることも理にかなっている。士君子が心掛けるべきことの一つと言える。

 然りといえども、およそ世の事物につきその極度の一方のみを論ずれば弊害あらざるものなし。かの士君子が世間の栄誉を求めざるは大いに称すべきに似たれども、そのこれを求むると求めざるとを決するの前に、まず栄誉の性質を詳《つまび》らかにせざるべからず。その栄誉なるもの、はたして虚名の極度にして、医者の玄関、売薬の看板のごとくならば、もとよりこれを遠ざけ、これを避くべきは論を俟《ま》たずといえども、また一方より見れば社会の人事は悉皆《しっかい》虚をもって成るものにあらず。人の智徳はなお花樹のごとく、その栄誉人望はなお花のごとし。花樹を培養して花を開くに、なんぞことさらにこれを避くることをせんや。栄誉の性質を詳らかにせずして、概してこれを投棄せんとするは、花を払いて樹木の所在を隠すがごとし。これを隠してその功用を増すにあらず、あたかも活物を死用するに異ならず、世間のためを謀《はか》りて不便利の大なるものと言うべし。

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 確かにそうだが、世の中の事物について極端な一方のみを論じると、弊害がないものはない。士君子が世間の名誉を求めない態度は賞賛に値するかのように見えるが、名誉を求めるか否かを決める前に、まずその名誉の本質をしっかり理解すべきである。その名誉が単なる虚名であり、医者の玄関や売薬の看板のようなものならば、避けるべきであることは言うまでもない。しかし、他方から見れば、社会の人事はすべて虚構に基づくわけではない。人の知恵や徳は花木のようであり、その名誉や人望は花のようなものである。花木を育てて花を咲かせることから、わざわざ避ける必要はない。名誉の本質を深く理解せずに、一概にそれを捨てようとするのは、花を払って木の存在を隠すようなものである。これを隠しても何の益もなく、まるで生き物を死用するようなものであり、世の中にとって不便なことであると言える。

 しからばすなわち栄誉人望はこれを求むべきものか。いわく、然り、勉めてこれを求めざるべからず。ただこれを求むるに当たりて分に適すること緊要なるのみ。心身の働きをもって世間の人望を収むるは、米を計りて人に渡すがごとし。升《ます》取りの巧みなる者は一斗の米を一斗三合に計り出し、その拙なる者は九升七合に計り込むことあり。余輩のいわゆる分に適するとは、計り出しもなくまた計り込みもなく、まさに一斗の米を一斗に計ることなり。升取りには巧拙あるも、これによりて生ずるところの差はわずかに内外の二、三分なれども、才徳の働きを升取りするに至りてはその差けっして三分にとどまるべからず、巧みなるは正味の二倍三倍にも計り出し、拙なるは半分にも計り込む者あらん。この計り出しの法外なる者は世間に法外なる妨げをなしてもとより悪《にく》むべきなれども、しばらくこれを擱《お》き、今ここには正味の働きを計り込む人のために少しく論ずるところあらんとす。

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 栄誉や人望を求めるべきかという問いに対し、確かに求めるべきである。しかし、その追求にあたっては、自分に適した範囲内で行うことが重要だ。心身の努力によって社会からの人望を獲得することは、米を計って人に渡すことに似ている。器用な者は一斗の米を一斗三合と計り、不器用な者は九升七合にしか計らないことがある。私が言う「分に適する」とは、過不足なく正確に一斗の米を一斗と計ることである。升取りには巧拙があるが、その結果の差はわずかである。しかし、才徳の発揮を升取りにたとえると、その差は決してわずかではなく、巧みな者はその能力を二倍三倍にも発揮し、不器用な者は半分にも満たないことがある。この法外な計り方をする者は、世間に迷惑をかけるため非難されるが、ここでは正味の努力を計り込む人について少し論じることにする。

 孔子のいわく、「君子は人の己れを知らざるを憂えず、人を知らざるを憂う」と。この教えは当時世間に流行する弊害を矯《た》めんとして述べたる言ならんといえども、後世無気無力の腐儒は、この言葉をまともに受けて、引込み思案にのみ心を凝らし、その悪弊ようやく増長して、ついには奇物変人、無言無情、笑うことも知らず、泣くことも知らざる木の切れのごとき男を崇《あが》めて奥ゆかしき先生なぞと称するに至りしは、人間世界の一奇談なり。今この陋《いや》しき習俗を脱して活発なる境界に入り、多くの事物に接し博《ひろ》く世人に交わり、人をも知り己れをも知られ、一身に持ち前正味の働きを逞しゅうして、自分のためにし、兼ねて世のためにせんとするには、
 第一 言語を学ばざるべからず。文字に記して意を通ずるは、もとより有力なるものにして、文通または著述等の心がけも等閑にすべからざるは無論なれども、近く人に接して、直ちにわが思うところを人に知らしむるには、言葉のほかに有力なるものなし。ゆえに言葉は、なるたけ流暢《りゅうちょう》にして活発ならざるべからず。近来世上に演説会の設けあり。この演説にて有益なる事柄を聞くはもとより利益なれども、このほかに言葉の流暢活発を得るの利益は、演説者も聴聞者もともにするところなり。

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 孔子が言った「君子は人が自分を知らないことを憂えず、自分が人を知らないことを憂う」という教えは、当時の流行する弊害を正すために述べられたものであろう。しかし、後世の無気力な学者たちはこの言葉をそのまま受け取り、内向的になり、その結果、奇妙な変わり者や無口で無感情な人々を崇めるようになった。これは人間社会の奇妙な話である。この悪い習慣を捨てて、活発な生活に入り、多くの事物と接し、広く人々と交わり、他人を理解し、自分も理解されるためには、まず言語を学ばなければならない。文字で意を伝えることはもちろん重要だが、直接人と接して自分の考えを伝えるためには、言葉ほど有力なものはない。したがって、言葉はできるだけ流暢で活発であるべきだ。最近は演説会が開かれ、そこで有益な情報を得るのはもちろん、言葉の流暢さや活発さを得る利益も演説者と聴衆にとって重要である。

 また今日不弁なる人の言を聞くに、その言葉の数はなはだ少なくしていかにも不自由なるがごとし。譬《たと》えば学校の教師が訳書の講義なぞするときに、「円《まる》き水晶の玉」とあれば、わかりきったることと思うゆえか、少しも弁解をなさず、ただむずかしき顔をして子供を睨《にら》みつけ、「円き水晶の玉」と言うばかりなれども、もしこの教師が言葉に富みて言い回しのよき人物にして、「円きとは角《かど》の取れて団子のようなということ、水晶とは山から掘り出すガラスのようなもので甲州なぞからいくらも出ます。この水晶でこしらえたごろごろする団子のような玉」と解き聞かせたらば、婦人にも子供にも腹の底からよくわかるべきはずなるに、用いて不自由なき言葉を用いずして不自由するは、畢竟演説を学ばざるの罪なり。
 あるいは書生が「日本の言語は不便利にして、文章も演説もできぬゆえ、英語を使い英文を用うる」なぞと、取るにも足らぬ馬鹿を言う者あり。按《あん》ずるにこの書生は日本に生まれていまだ十分に日本語を用いたることなき男ならん。国の言葉はその国に事物の繁多なる割合に従いて、しだいに増加し、毫《ごう》も不自由なきはずのものなり。何はさておき今の日本人は今の日本語を巧みに用いて弁舌の上達せんことを勉むべきなり。

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 また現代において、能弁でない人の言葉を聞くと、その語数は非常に少なく不自由さが伺える。例えば、学校の教師が翻訳本の講義をする際に、「丸い水晶の玉」という表現が出てきても、明らかなこととして深く説明せず、ただ難しい顔をして生徒を睨み、「丸い水晶の玉」と繰り返すだけである。しかし、もし言葉に富み、表現が巧みな教師が、「丸いとは角がなく団子のような形状のこと、水晶は山から掘り出されるガラスのような物質で、甲州などから多く産出される。この水晶で作られた団子のような玉」と説明すれば、大人も子供も理解しやすいはずだ。しかし、適切な言葉を使わずに不自由を感じるのは、結局は弁論を学ばないことが原因である。

 また、ある学生が「日本語は不便で、文章や弁論ができないから英語を使い英文を用いる」という愚かなことを言う者もいる。考えてみれば、この学生は日本で生まれ育ちながら、十分に日本語を使った経験がないのだろう。国の言語はその国の事物が豊かであるほど豊富になり、不自由さはないはずである。何よりも現代の日本人は、現代の日本語を巧みに使い、弁論の技術を磨くべきである。

 第二 顔色容貌を快くして、一見、直ちに人に厭わるることなきを要す。肩をそびやかして諂《へつら》い笑い、巧言令色、太鼓持ちの媚《こび》を献ずるがごとくするはもとより厭うべしといえども、苦虫を噛み潰して熊の胆《い》をすすりたるがごとく、黙して誉《ほ》められて笑いて損をしたるがごとく、終歳胸痛を患《うれ》うるがごとく、生涯父母の喪にいるがごとくなるもまたはなはだ厭うべし。顔色容貌の活発愉快なるは人の徳義の一ヵ条にして、人間交際においてもっとも大切なるものなり。人の顔色はなお家の門戸のごとし、広く人に交わりて客来を自由にせんには、まず門戸を開きて入口を洒掃《さいそう》し、とにかくに寄りつきを好くするこそ緊要なれ。
 しかるに今、人に交わらんとして顔色を和するに意を用いざるのみならず、かえって偽君子を学んで、ことさらに渋き風を示すは、戸の入口に骸骨をぶら下げて、門の前に棺桶を安置するがごとし。誰かこれに近づく者あらんや。世界中にフランスを文明の源と言い、智識分布の中心と称するも、その由縁を尋ぬれば、国民の挙動常に活発気軽にして言語容貌ともに親しむべく近づくべきの気風あるをもって原因の一ヵ条となせり。

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 第二に、人に嫌われないような顔つきや態度を心がけることが必要である。肩をそびやかし、お世辞を言い、媚びを売るような態度は避けるべきだが、苦虫を噛んだような顔や、いつも不機嫌そうな態度も同様に避けるべきである。顔つきや態度の活発さと快活さは、人間関係において非常に重要な要素である。人の顔は家の門のようなもので、人との交流をスムーズにするためには、まずはその門を開放し、歓迎の態度を示すことが重要である。

 しかし現在、人と交わる際に顔つきを和やかにすることを怠るばかりか、わざと渋い態度をとることは、入口に骸骨を吊るし、門前に棺桶を置くようなものである。誰がそんな場所に近づきたいと思うだろうか。世界中でフランスが文明の源とされ、知識の中心とみなされているのは、国民の行動が常に活発で気軽であり、言葉や態度が親しみやすく、近づきやすい雰囲気を持つことが一因である。

 人あるいは言わん、「言語・容貌は人々の天性に存するものなれば勉めてこれを如何《いかん》ともすべからず、これを論ずるも詰まるところは無益に属するのみ」と。この言あるいは是《ぜ》なるがごとくなれども、人智発育の理を考えなば、その当たらざるを知るべし。およそ人心の働き、これを進めて進まざるものあることなし。その趣は人身の手足を役《えき》してその筋を強くするに異ならず。されば言語・容貌も人の心身の働きなれば、これを放却して上達するの理あるべからず。しかるに古来日本国中の習慣において、この大切なる心身の働きを捨てて顧みる者なきは、大なる心得違いにあらずや。ゆえに余輩の望むところは、改めて今日より言語容貌の学問と言うにはあらざれども、この働きを人の徳義の一ヵ条として等閑にすることなく、常に心にとどめて忘れざらんことを欲するのみ。

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 人は言うかもしれない、「言語や容貌は天性によるものだから、いくら努力しても変えられない。これについて論じるのは結局無益だ」と。しかし、人間の知恵と成長の原理を考えれば、この考えが間違っていることがわかる。人間の心の働きは、常に進歩するもので、それは身体の手足を使って筋肉を鍛えることと変わらない。従って、言語や容貌も心身の働きの一部であり、放っておいて上達することはあり得ない。しかし、古来からの日本の習慣では、この重要な心身の働きを軽視する傾向がある。これは大きな誤解ではないだろうか。私が望むのは、言語や容貌を学問として学ぶことではなく、これらを徳義の一部として重視し、常に心に留めて忘れないようにすることである。

 或る人またいわく、「容貌を快くするとは表を飾《かざ》ることなり。表を飾るをもって人間交際の要となすときは、ただに容貌顔色のみならず、衣服も飾り飲食も飾り、気に叶わぬ客をも招待して、身分不相応の馳走するなぞ、まったく虚飾をもって人に交わるの弊あらん」と。この言もまた一理あるがごとくなれども、虚飾は交際の弊にしてその本色にあらず。事物の弊害はややもすればその本色に反対するもの多し。「過ぎたるはなお及ばざるがごとし」とは、すなわち弊害と本色と相反対するを評したる語なり。譬《たと》えば食物の要は身体を養うにありといえども、これを過食すればかえってその栄養を害するがごとし。栄養は食物の本色なり、過食はその弊害なり。弊害と本色と相反対するものと言うべし。
 されば人間交際の要も和して真率なるにあるのみ。その虚飾に流るるものはけっして交際の本色にあらず。およそ世の中に夫婦親子より親しき者はあらず、これを天下の至親と称す。しこうしてこの至親の間を支配するは何ものなるや、ただ和して真率なる丹心あるのみ。表面の虚飾を却《しりぞ》け、またこれを掃《はら》い、これを却掃し尽くして、はじめて至親の存するものを見るべし。しからばすなわち交際の親睦は、真率のうちに存して、虚飾と並び立つべからざるものなり。

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 ある人が言うには、「容貌を快くすることは外見を飾ることだ。外見を飾ることが人間関係の要であるならば、容貌や顔色だけでなく、服装や飲食も飾り、気に入らない客を招いて、身分にそぐわない豪華なもてなしをすることは、単なる虚飾による交流の弊害だ」という。この意見にも一理はあるが、虚飾は交流の弊害であり、その本質ではない。物事の弊害はしばしばその本質と反対である。「過ぎたるは及ばざるが如し」というのは、弊害と本質が反対であることを言っている。例えば、食事の目的は身体を養うことにあるが、過食すればかえって栄養を害する。栄養は食事の本質であり、過食はその弊害である。

 したがって、人間関係の要は、誠実で素直であることにある。虚飾に流されるものは決して人間関係の本質ではない。世の中に夫婦や親子ほど親しい関係はなく、これらを至親と呼ぶ。そして、この至親の関係を支えるのは、誠実で素直な心だけである。外見の虚飾を取り除き、それを払い清め、完全に排除して初めて、至親の関係が存在することが分かる。だからこそ、人間関係の親密さは、誠実さに基づいており、虚飾とは並立すべきではない。

 余輩もとより今の人民に向かいて、その交際、親子夫婦のごとくならんことを望むにあらざれども、ただその赴くべきの方向を示すのみ。今日俗間の言に人を評して、あの人は気軽な人と言い、気のおけぬ人と言い、遠慮なき人と言い、さっぱりした人と言い、男らしき人と言い、あるいは多言なれどもほどのよき人と言い、騒々しけれども悪《にく》からぬ人と言い、無言なれども親切らしき人と言い、こわいようなれどもあっさりした人と言うがごときは、あたかも家族交際の有様を表わし出して、和して真率なるを称したるものなり。

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 私自身、現代の人々に対し、親子や夫婦のような関係を望んでいるわけではないが、進むべき方向を示しているだけだ。現在、人々は他者を評するときに、「あの人は気軽で、気を使わない」「遠慮がなく、さっぱりしている」「男らしい」「話が多いが程よい」「騒がしいが憎めない」「無口だが親切」「怖そうだが率直」といった表現を使う。これらはまるで家族間の交流を示しており、和やかで真率な態度を評価しているのだ。

 第三 「道同じからざれば相ともに謀《はか》らず」と。世人またこの教えを誤解して、学者は学者、医者は医者、少しくその業を異にすれば相近づくことなし、同塾同窓の懇意にても、塾を巣立ちしたる後に、一人が町人となり一人が役人となれば、千里隔絶、呉越の観をなす者なきにあらず。はなはだしき無分別なり。人に交わらんとするには、ただに旧友を忘れざるのみならず、兼ねてまた新友を求めざるべからず。人類相接せざれば互いにその意を尽くすこと能《あた》わず、意を尽くすこと能わざればその人物を知るに由《よし》なし。試みに思え、世間の士君子、いったんの偶然に人に遭《あ》うて生涯の親友たる者あるにあらずや。十人に遭うて一人の偶然に当たらば、二十人に接して二人の偶然を得べし。人を知り、人に知らるるの始源は、多くこの辺にありて存するものなり。人望栄名なぞの話はしばらく擱《お》き、今日世間に知己朋友の多きは、差し向きの便利にあらずや。先年宮の渡しに同船したる人を、今日銀座の往来に見かけて双方図らず便利を得ることあり。今年出入りの八百屋が、来年奥州街道の旅籠屋《はたごや》にて腹痛の介抱してくれることもあらん。

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 「道が異なれば共に計らず」という教えを、世の人々は誤解している。学者は学者と、医者は医者としか交わらないように、わずかな違いで接触しなくなることが多い。同じ学校やクラスの仲間であっても、卒業後に一人が市民に、もう一人が官僚になると、全く交流がなくなることがある。これは大いに無分別である。人と交流する際には、旧友を大切にするだけでなく、新たな友人も求めるべきである。人と交流しなければ、互いの考えを十分に理解することができず、考えを理解できなければ、その人物を本当に知ることはできない。考えてみれば、偶然の出会いが生涯の親友になることもある。十人に出会って一人と親しくなれば、二十人に接すれば二人と親しくなるかもしれない。人を知り、人に知られることの出発点は、多くの場合、こうした出会いにある。人望や名声の話は一旦置いて、現代の世界では知人や友人が多いことは単なる便利ではないか。以前に宮の渡しで一緒だった人を、今日銀座で偶然見かけて両方ともに便益を得ることもあり、今年出入りしている八百屋が、来年には東北の街道の旅館で腹痛を介抱してくれることもあるだろう。

 人類多しといえども、鬼にもあらず蛇《じゃ》にもあらず、ことさらにわれを害せんとする悪敵はなきものなり。恐れはばかるところなく、心事を丸出しにしてさっさと応接すべし。ゆえに交わりを広くするの要は、この心事をなるたけ沢山にして、多芸多能一色に偏せず、さまざまの方向によりて人に接するにあり。あるいは学問をもって接し、あるいは商売によりて交わり、あるいは書画の友あり、あるいは碁・将棋の相手あり、およそ遊冶放蕩の悪事にあらざるより以上のことなれば、友を会するの方便たらざるものなし。あるいはきわめて芸能なき者ならばともに会食するもよし、茶を飲むもよし。なお下りて筋骨の丈夫なる者は腕押し、枕引き、足角力ずもうも一席の興として交際の一助たるべし。腕押しと学問とは道同じからずして相ともに謀るべからざるようなれども、世界の土地は広く、人間の交際は繁多にして、三、五尾《び》の鮒《ふな》が井中《せいちゅう》に日月を消するとは少しく趣を異にするものなり。人にして人を毛嫌いするなかれ。

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 人類は多数存在するが、鬼でも蛇でもなく、特別に害を加えようとする悪敵はいない。恐れることなく、素直に自分を出して積極的に応対すべきである。そのためには、交流を広げるためには、心を広く持ち、多様な才能や能力を持って、一つの分野に偏らず、様々な方面で人々と関わることが重要である。学問で接することもあり、商売を通じて交流することもあり、書画や囲碁・将棋の友達もいる。遊びや放蕩以外のことであれば、友を作る方法に限りはない。技能がない者とは食事を共にするもよし、お茶を飲むもよし。さらに体格がしっかりしている者は腕相撲や枕引き、相撲も交流の一環として良い。腕相撲と学問は同じ道ではないが、世界は広く、人間関係は多様であり、小さな井戸の中の魚が大海を知らないようなものだ。人を毛嫌いしてはならない。

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