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香港 戦争の記憶と伝承に挑む③「戦跡に行って、見て、触って」 香港歴史研究者・高添強さん 

旧英国領だった香港には、第2次世界大戦の前後に英軍あるいは旧日本軍が建設したり関わったりした戦争遺跡が今でも数多く残っている。だが、英国と中国両政府のはざまで翻弄されてきたという香港の歴史や、旧日本軍による占領という英中双方にとって不都合、かつ負の歴史を想起させることから、長く放置されてきた。
 
今から約30年前に、戦争遺跡の歴史的意義や価値を感じ、単独で調査を始めたのが、香港で生まれ育った高添強さん(59)だ。高さんが1995年に刊行した香港初の戦争遺跡に関する著書は反響を呼び、政府部門が現状把握に乗り出す道筋をつくった。香港の代表的な歴史研究者の一人となるまでの経緯や思いなどを聞いた。

--生い立ちを教えてください。
「わたしは香港生まれ香港育ちで、香港では大変珍しいのですが、(自分の兄弟世代で)5代目になります。先祖は(英国統治時代の初期にあたる)1850年代に働くために香港に来ました。当時、英国政府は香港で都市開発を進めており、建築用石材の需要が高まっていました。あちこちにあった採石場では働き手を必要としていて、これをチャンスと捉えて中国本土から香港に来た人も多かった。先祖もそうでした。大変な仕事ですが、採石場があった九龍地区の牛頭角村(筆者注:既に消失)に住み、働きました。中国本土の(独自の言語や文化を持つ漢民族の一集団である)客家(はっか)がルーツです」
 
--どんな子どもだったのですか。戦争に関心を持つようになったのはいつごろですか。
「わたしは4人兄弟の3番目ですが、戦争の歴史に興味を持ったのは、わたしだけでした。理由は自分でもよく分かりません。ただ、1973年に亡くなった祖母(当時63歳)が生前、(日本占領期である)戦争の時代の苦しさをたまに口にしていたのをよく覚えています。とにかく食べ物がなかったと。祖父は戦後まもなく30代の若さで亡くなったのですが、栄養失調が原因でした」
 
「祖母は生前、わたしが(間食として)里芋を食べているのを見つけると、いつもひどく怒りました。祖母にとっては、里芋とは戦争の辛さを思い出させるものだったからでしょう。祖父が早くに亡くなったため、祖母は大変苦労しました。祖父や祖母にとっては忘れられない時代だったと思います」

「1929年生まれだった父からも戦争の話を聞きました。(41年12月に)太平洋戦争が始まった時、父は12歳でしたから記憶がはっきりしていました。父は『日本人は怖い』とか、空襲があったこと、ひどい食料不足で『いまの人間では食べないものを食べていた 』といった話をしていました」

九龍地区の一角でインタビューに応じる高添強さん=2023年1月

「(九龍地区北部の)楽富の近くで育ちました。通っていた学校の同級生を振り返ると、ほとんどが中国本土から逃げてきた人で、自分のように父や祖母から戦争体験を直接聞くということはなかったように思います。(中国本土の)国共内戦をくぐり抜けてきた人たちにとって、香港の歴史などほとんど興味がなかったし、周囲に戦争体験者もいなかったのです」
 
「当時、周りの同級生で中国本土の故郷に帰省する人が多かったのですが、自分に故郷がないのはなぜだろうと思っていましたね。自分の家族のように祖父母も香港で生まれ育った人は珍しかった。墓参りも香港のみで、本土に行ったりしませんでした」
 
| 歴史も戦争も知らない世代
「わたしたちの世代は学校で香港の歴史を教えられませんでした。基本的に香港の歴史を全く知らない。戦争の歴史はもっと知りませんでした。(1997年の)中国への香港返還後、少しずつ変わりつつありますが、『アヘン戦争』(1840〜42年)ぐらいしか知りませんでした。なぜアヘン戦争が起きたのかも、あまり教えられませんでした。英国人にとって芳しくない話ですし、自慢するようなことでもなかったからです。香港でも有名な(英系複合企業の)ジャーディン・マセソンなどが当初、アヘンの売買を行っていたという背景もあります」
 
「でもわたしには、小さいころから過去の戦争の歴史を『怖いけど知りたい』、第2次世界大戦や太平洋戦争のドキュメンタリーなども『怖いけどとても見たい』という気持ちがありました。9歳の頃、1972年に(香港の民間放送局)TVBで放映された『第2次世界大戦回憶録』というシリーズ番組を見たのをよく覚えています。成長するにつれ、祖母や父から戦争の話を聞くようになりましたが、最初は自分で調査するつもりはありませんでした」
 
「20歳になるまでに、歴史はもう好きでしたね。日本史はもちろん、アメリカやヨーロッパの歴史などいろいろな本を読みました。暇さえあれば図書館に本を借りに行って読んでいました。それでも当時は、香港のことは全く知らなかったんです」

--歴史研究に本格的に取り組むことになった理由は。転機はいつですか。
「香港の歴史について、誰かに教わったことはこれまで一度もありません。中学(日本の中学・高校に相当)卒業後、香港理工学院(現・香港理工大学)に入学しました。専攻は日本語でした。日本で生活したことはありませんが、(日本語が上達したのは)庄野晴己(せいき)先生(故人)という非常に素晴らしい、尊敬する日本人の先生がいらっしゃったおかげです。数年前に出版した『彩色香港 1970s-1980s』(三聯書店、2014年)は、庄野先生のために書きました」
 
「2年で卒業して、最初は地元の一般企業に就職しました。その後辞めて、22歳で香港旅遊協会(現・香港旅遊発展局)に入り、業務の7割ぐらい日本関係の仕事をしていました。(中国返還前の)1997年まで、新聞や雑誌、テレビ局といった日本メディアは香港に非常に関心を持っていました。 特集やガイドブック制作などインタビューの通訳を含め、いろいろやりましたね」
 
「香港旅遊協会には当時、図書館があって、公共図書館にもない香港関連の資料がたくさん置いてありました。暇さえあればそこに本を借りに行って読んでいました。同じ部門に職員があと20人ほどいましたが、香港の歴史に興味を持っている人はわたしぐらいで、他の人は仕事として割り切っている様子でした」
 
「本を読み進めるうち、香港のことを全然知らなかったことに気が付いたんです。歴史はもともと好きでしたが、なぜ自分は知らなかったのか。好きなのに知らない。好奇心すら持っていなかった。今考えてみると、教育のせいだったんです。(中国系住民が)知らないほうが英国政府にとって都合が良かったからです」
 
|「もっと知りたい」から「自分で調べよう」へ
「香港旅遊協会で5年間働きました。各地の廟(びょう=先祖や主神を祀る建物)や古い村などを訪れたり、伝統的な祭りに参加したり、あちこち見て回る機会を得ました。一方で香港のことをもっと知りたいのに仕事はとても忙しいという状況が続いて。朝早いだけでなく十数時間働くこともあり、日曜日に仕事が入っていることもありました。香港旅遊協会の図書館で香港関連の本を借りて読み漁っている時期でしたが、学術論文のような資料をもっと読みたいと思っても、ほとんど時間が取れませんでした」
 
「香港の歴史の本を読み進めるうち(戦争遺跡がある)城門水塘や魔鬼山(デビルズピーク)などを実際に見に行きたいという気持ちが強まっていきました。当時、トーチカなど小規模な戦争遺跡を紹介する本は1冊も出ていなくて、香港政府のAMO(古物古跡弁事処)にトーチカの場所を問い合わせても、職員も答えられない。それでも何か残っていると思って、自分で調査を始めることにしました」

「(1991年に仕事を辞めて)最初の半年ぐらいは、できる限り知ろうと現地に(トーチカ跡などを)探しに行ったりしました。でも半年では絶対に時間が足りない、1年か2年は必要だと感じて。イギリス国立公文書館(旧パブリック・レコード・オフィス=PRO)や日本の防衛省(防衛研究所戦史研究センター)にも資料を探しに行きたかった。全て自費ですよ。少し貯金はしていたのですが、1年間は仕事をしなくてもいいという気持ちでした。当時は母と同居していて、亡くなるまで一緒に住んでいました」
 
「わたしがラッキーだったのは、香港旅遊協会を辞めた後も、元同僚から日本メディアのコーディネーターの仕事を依頼されたことです。香港のことを分かっていて、日本語が話せ、フリーランスで仕事を引き受けられる人はなかなかいなかった。『記者が香港の歴史を知りたいと言っている』という感じで連絡があって。香港旅遊協会の同僚だった辻村哲郎さんから頼まれて、連れていくこともありました。生活はギリギリでしたが、1カ月のうち1週間は仕事、残りの3週間は調査や写真撮影、執筆といった感じで、92年から10年ほど過ごしました」
 
--香港の歴史研究に取り組む強い原動力になったものは何ですか。
「わたしには二つ大きなテーマがあります。一つは戦争。こどもの頃、1971、72年には祖母がまだ生きていて。戦争が終わって二十数年経ったぐらいでしょうか、そんなに遠い昔の話ではなかった。祖母から話を聞き、不思議な時代だと感じていました」
 
「祖父が生きていた頃の(戦前の)香港はどんな様子だったのか。香港は貿易港でしたが戦争が始まり貿易が止まってしまったこと、日本軍が人を殺したりしてとても残酷だった話など、祖母らからたくさん聞いていました。なぜそんなことが起きたのだろうと疑問を持つとともに、香港の歴史を勉強して、もっと知りたいと。これが日本やイギリスなどへ香港関連の資料を探しに行く動機になりました」
 
「もう一つのテーマは村です。祖父が亡くなった牛頭角の村は今からは全く想像できない様子でした。もともと香港にも古い村がたくさんありました。たとえば(九龍地区屈指の繁華街である)尖沙咀もそうです。アヘン戦争の原因となった、英国商船の水夫が酒に酔って尖沙咀村の林(維喜)という村民を殺害した事件では、水夫が船に戻ったことから、英国が(同国の法律で審理されるべきだとして)中国(清朝)政府からの身柄引き渡し要求を拒んだということがありました」
 
「1950年代や60年代に香港に来ていた学者は結構、新界の大きな村を研究していましたが、市街地の村の研究はあまりしていませんでした。たとえば油尖旺エリアには廟が密集していますが、これらは今では消失した村の名残です。旺角の水月宮はなぜ建っているのか。廟を建てるというのは簡単ではないため、なぜ建てたのかということにも興味を持ちました。なぜこの神様を参拝するのかといったことまで知りたいと思いました」
 
「香港の歴史は、一般の人にとっては『アヘン戦争の前は何もなかった』『ひなびた村しかなかった』という認識になっていますが、実は違います。それはイギリス人が作った伝説です。今でも香港政府の説明はそうだし、香港旅遊協会もそうですが、香港は(英国が統治するまで)何もなかったという歴史は、イギリス人が作った神話なのです」
 
--1994年に初めての著書「香港今昔」を刊行し、翌年に戦争遺跡についてまとめた香港初の書籍「香港戦地指南」を出版されています。特に苦労されたことは何でしょうか。
「『香港今昔』は29年前に出した本で、自分でも想像していませんでしたが、20回以上重版され、3万冊以上売れているベストセラーになっています。香港のような小さな場所では驚くべきことです。アヘン戦争以前を知らないわたしの世代や、当時の1990年代の若者に香港の歴史の全体像について、簡単に分かる本を作りたいと考えていました」
 
「写真を多用した本の構成にしていますが、撮るだけでなく、集めるのが非常に難しかったです。ただ、中学生の頃から写真を撮るのが好きでしたし、暇さえあれば写真を撮りに行っていました。仕事を辞めてからは、特に香港の古い村やお寺を全て回り、写真に収めました」
 
「村だけでなく戦争の時代についても知りたいと思っていましたから、イギリス国立公文書館に行き、19世紀の砲台設計図の原本を探したりしていました。防衛省にも行きましたが、かなり詳しい資料が残っています。わたしは日本語を書くのは難しいですが、読むことはだいたいできます」
 
「1930年代に英軍が作成した香港防衛地図を見て、まだ発見されていない戦跡があるのではないかと山に登って探しました。新界地区・金山のトーチカを見つけるのも難しかったです。今は周辺の木々が伐採されていますが、30年前はそうではありませんでした。(広東省深セン市との境界に近い)鹿頸もそうですが、一生懸命探しました」

|街中に点在する戦跡
「街中にもトーチカや戦跡が数多く残っていました。戦時中に造られたものですが、防衛省やイギリス側の資料を見て知りました。香港島・中環(セントラル)のある一角にトーチカが残っていたのですが(筆者注:1993年11月に撤去)、皆毎日その場所を通り過ぎているのに気が付いていませんでした。中環のHSBC香港本店ビルに鎮座する獅子の銅像2対のうちの1つに弾痕が残っているという話は、もともと元兵士だった方にインタビューをした際に教えてもらったのでした」
 
「1990年代はイギリスや日本を行ったり来たりして香港義勇軍を含む英軍関係者や当時のことを覚えている人に30人ぐらいインタビューしました。1995年に『香港日佔時期』という本を出した後、香港の戦争に関するさらに詳しい本を書きたかったからです。何年か経つと行き方などのデータにどうしてもずれが出ます。インタビューの内容や新しい情報を追加して改めて出版したかったのですが、お金と時間もかかりますし、今から20年前にギブアップしました」
 
「特に日本での資料探しは簡単ではないんです。外務省や防衛省に保管されている香港関連の資料は整理されていないものばかりで、山ほどある中から香港のことだけ見つけるのは大変で難しかった。ただ、わたしの知る限り戦争研究で(香港から)日本まで資料を探しに行く人は(当時は)一人もいませんでした。日本のビジネスや文化を研究し、日本語を読める学者はいても、多くの人が戦争に関心がありませんでした」
 
「香港今昔、香港日佔時期、香港戦地指南――。これら3冊の本を出してから、博物館や政府のさまざまな部門に頼まれて歴史関係の研究に本格的に携わるようになりました。大学の教授は専門以外には興味がない人が多いですが、私がラッキーだったのは他の研究者がやりたくないことに携われたことです。警察の宿舎だったり過去の尖沙咀だったり香港のことを全般的によく分かるようになりました」
 
--日本占領期を含む過去の香港の写真収集家としても知られています。
「写真の整理はほとんどしていません。30年ほど前に撮った写真は少なくとも1万枚はあると思います。戦跡や古い建物、道路などを1カ所ずつ、全て歩いて見て回り、写真も撮りました。香港島には戦時中に建てられたトーチカがかなり残っていたんですよ」
 
「現像は真夜中に一人で、母が寝た後にトイレでしていました。簡単な作業部屋も作って。今でこそ小さなオフィスを持っていて、そこに保管していますが、半分以上は現像できていません。30年以上前のネガなので劣化してしまったものも少なくありません。現像には大変時間がかかりますし(ネガの本数が多く)暇もなかった。わずかな収入ですし、アシスタントも雇えなくて。歴史の資料整理は面白そうに見えて実際は大半がつまらない作業ですし、ボランティアの手を借りることもありませんでした」
 
--長年にわたり香港防衛戦や日本占領期に関する研究をされています。日本や日本人に嫌悪感などを持ったことはありますか。
「日本に行く時は毎回、(東京・九段北の)靖国神社に行きます。新しい出版物があるか、どういうものが展示されているかなど、一番新しい情報を見たいと思って。(展示物などでアジアの)解放、解放といいながら全て嘘ですよね」

「もう大半が亡くなってしまいましたが、30年前に(日本占領期)当時の年齢で20歳以上だった人にインタビューをしたことがあります。日本軍に殺された人を見た人の話も聞きました。斬首された人もいたと。 1944年に九龍・茘枝角(ライチコック)の山で日本軍に無断で燃料用の木を切ったという理由だけでその場で殺された人の話も聞きました。祖母を含む複数の人によると、香港島の西環・堅尼地城(ケネディータウン)では食べ物を盗んだという理由で殺された後、浜に投げ捨てられた人の遺骸がいくつも転がっていたそうです」
 
「経験した人にとっては亡くなる前まで忘れられない辛い時代です。祖父も栄養失調になりました。もし戦争がなければ、30代で亡くなることはなかったと思います。祖母も祖父が早くに亡くなったことでその後何十年も苦しい生活を送ることはなかったでしょう。父方母方の両方の親戚に日本軍に殺された人がいます。『アジア人を助ける(ための戦争だった)』といった主旨の本などを見ると嫌な気持ちにはなります」
 
「日本の若者は歴史のことをあまり分かっていません。二十数年前、米国の有名大学に留学していた友人に会いに行った時、友人のルームメイトだった日本人の2人からそれぞれ、わたしが日本の侵略に関する研究をしていると知って『なぜ日本の暗い時代を研究するのか』と言われたことがあります。(専門外だったとはいえ)とてもびっくりしました。日本の大手新聞社の香港支局長と太平洋戦争の話をしていて『開戦はいつですか』と聞かれたこともあります」
 
--日本や日本人、後世の人に伝えたいことは何でしょうか。
「日本の若者や、これからの世代の人に香港の歴史に興味を持ってもらいたいというのが、わたしの最大の希望です。戦争の歴史については、もっと知ってほしい。学校の先生には生徒や学生をぜひ連れて行ってもらいたいです。実際に砲台やトーチカ跡に連れていって、触れてもらいたい。教室の外も素晴らしい『教室』ですから。ここで兵隊さんが亡くなったとか、どういう時代だったのかとか、現地を訪れて知ってもらいたい」
 
「香港の社会史を知りたかったら一番素晴らしい教室はお墓です。『からゆきさん』や孫文と関係がある日本人のお墓などが残っています。100年以上前に日本人やアメリカ人、ドイツ人、さまざまな国の人が香港に来て生活や仕事をしていました。好奇心が出てきたら、香港の歴史をもっと知りたいと思うかもしれません」
 
「もう一つは砲台やトーチカ(の遺構)です。(香港島東部の)香港海防博物館はもともと1887年に建設された要塞でしたが、当時、イギリスにとって香港はどういう位置付けで、最大の仮想敵国としていたのはどこだったのか」
 
「答えはロシアとフランスですが、イギリスはこれらの国が香港を侵略する可能性を考えて、1880年代に要塞などを造りました。このように戦跡から世界情勢の中での香港の位置付けや世界との関係性が分かるわけです。第1次世界大戦も主な戦場はヨーロッパですが、香港とも関係があります。歴史を知っていれば、今後の香港を見通したり、視野を広げたりするのを助けてくれます」
 
「香港政府には第2次世界大戦で亡くなった一般市民を追悼する記念碑をつくってもらいたいです。香港にはこうした記念碑が一つもありません。自分の親戚のように日本軍に殺された人、病気で死んだ人、餓死した人、米軍の空襲に巻き込まれた人・・・。特に餓死した人はたくさんいて、普通のことでしたのでニュースにもなりませんでした。日本が香港を占領していた3年8カ月の間に亡くなった人は少なくとも10万人、20万~30万人はいたのではないでしょうか」

--10年前と比べて、香港の戦争遺跡を取り巻く環境はどのように変わりましたか。
「実はあまり大きく変わっていません。小規模でなくなってしまったトーチカもありますが、残っているトーチカもかなりあります。民間レベルでは10年、20年前と比べて戦跡への関心がかなり高まりました。しかし、政府の態度はほとんど変わりません」
 
「(第2次世界大戦に直接関わる)戦跡で保存が義務付けられている法定古跡は香港に一つもありません。4段階あって法定古跡が最上位、その下が1級歴史築物、2級、3級となります。1級になっても保存義務がないので、壊される可能性があります。政府の立場として保存に努力してもらいたいですが、現状として何の法律もありません。1級や2級になったとしても、法定古跡にならないと何の意味もありません」
 
「(英軍の要塞があった)城門水塘はカントリーパーク(郊外公園)内にあるもので、保存とは関係ありません。カントリーパークの管理当局は管理しているだけです。ただ、昔は知り合いもいましたが、個人的に保存に熱心な人もいます。城門水塘の戦跡の説明書きなどはその熱心な人たちが作ったものです。二十数年前、管理当局の人はわたしの本を読み、そんなものがあったとは全く知らなかったと驚いて、関心を持ってくれたそうです。職員が何回も来てくれて説明したことがあります。AMOとは全く関係ありません」
 
「政府の態度が変わっていない理由の一つは、政府の職員自身も、戦跡を取り巻く香港の歴史をよく知らないからです」
 
--香港の戦争遺跡の価値とは何でしょうか。
「一般の人、わたしの世代の人も下の人も、歴史教育が非常に弱かったので、香港のことをよく分からないし、たとえば19世紀の香港が世界のなかでどんな位置付けだったのかも知らない。戦跡は見て、触れるものですから、若い人、特に学生さんに頭の中で考えているだけではなく訪れてもらって、戦争だけでなく、少しずつ香港の歴史あるいは世界史に関心を持つきっかけとなってくれたら非常にうれしいです」

*******************************************************************************  高添強(Ko Tim-keung) 1963年香港生まれ。香港理工学院(現・香港理工大)日本語学科卒。地元の一般企業勤務を経て、香港旅遊協会(現・香港旅遊発展局)の職員として91年まで5年間働く。92年から戦争遺跡を含む香港の歴史に関する調査活動を進めるかたわら、フリーのメディアコーディネーターとして働く。94年に初の著書「香港今昔」(三聯書店)、95年に「香港戦地指南」(同)を刊行。その後、現在に至るまで香港の歴史研究者として調査や講演活動などに携わる。著書はこのほか「Ruins of war: A guide to Hong Kong's battlefields and wartime sites」(Ko Tim Keung & Jason Wordie、Joint Pub. (H.K.) Co;)「香港日佔時期」(高添強/唐卓敏、三聯書店)など多数。

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