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青ブラ文学部 #祈りの雨

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"不死鳥"と呼ばれた男
ニキ・ラウダと雨の物語



彼は1949年オーストリアで製紙工場を営む資産家の長男として産まれた。

ニキが17歳になった時
初めて観戦したフォーミュラー・レースに
すっかりと魅了されてしまう。

彼の中で憧れのレーシング・ドライバーになる夢は膨らみ、
彼自身もその職業に就くことが至極当然の欲求であった。

しかし、父親はニキに家業を継がせようと望んでいた。

ある日の朝刊__
父親はふと目についたレース結果の記事を読んでみると、
息子のニキの名前が2位になっていた。

父親はニキを呼び出し問い質してみると、ニキはレーシング・ドライバーを志していると言う。

(大事な跡取り息子をこんな危険な目に遭わせてはならない。)

父親はニキに金輪際レースに出場しないことを誓わせるのだった。




それから、ほどなく父親がいつもの朝刊に掲載されているレース結果を見ると、なんとニキが優勝を飾る記事が掲載されているではないか。

激怒した父親は、家業を継ぐ気のない放蕩息子のニキに対して
「ラウダ家の金目の物一切を置いて、この家から出ていけ。」と吐き捨て
ニキは遂に勘当されるのであった。

資産家の息子であった立場から一転し、経済的援助の後ろ盾を失ったニキであったが、
彼にとってはむしろ籠から放たれた鳥のように自由を手に入れた。

スポンサー獲得の交渉や自らの生命保険を担保に資金調達を重ねてレースに出場し、めきめきと頭角を表してゆく。

遂には地元のオーストリアGPにマーチのドライバーとしてスポット参戦ながら晴れてF1デビューを飾ることとなる。

この間も__
ニキと父親との確執は続いていた。

父親は息子がレースを出来ないよう各所に圧力を掛けていた。

しかし、ニキ自身は自身の話術や交渉術を駆使して、銀行から融資を受けたり様々なスポンサーと契約を取り付ける。

ニキはレース参戦前には、レースプランや将来の目標について記者会見で語る、新しいタイプの有言実行の男であった。




彼はBRMに所属し、信頼性に問題のあるマシンながら、たびたび速さを見せつけてエンツォ・フェラーリの目に留まる。

ニキはフェラーリからの勧誘があり、"跳ね馬の新旗手"として、その不屈の才能を花開かせて
1975年にはフェラーリ312Tを駆って初のチャンピオンに輝いた。

Ferrari 312T


1975 年間チャンピオンに輝く







翌1976年 
このシーズンも前年覇者のニキがシリーズを席巻していた。

全16戦中の第9戦イギリスGPまで5勝と2位2回、3位1回を記録する。

その圧巻の走りで2位のシェクターに25点差という大差のチャンピオンシップポイントをあげていた。

第10戦
運命のドイツGP
小雨がそぼ降るニュルブルリンクでレースの火蓋が切って落とされた。

オープニングラップ
レインタイヤでスタートを切ったニキだったが、雨で湿った路面が乾きつゝあり、スリックタイヤへとタイヤ交換を行う。

ごった返すピット・インでタイヤ交換に手間取り、ニキがピットを出て猛烈な勢いで戦列に復帰したものの下位グループの直後につき、前の車を抜きあぐねていた。


S字コーナーの出口を時速180km/hで車体後部が幾分スライドした。

その刹那__
僅かにカウンターを当てた途端、
ニキが駆るフェラーリ 312 T2は外向きに方向を変えスピン状態に陥ってしまった。

左側面からキャッチフェンスに当たって突き破る。
車体のサイド側が破壊され燃料が噴出したところでまともにフェンスに激突。

一気に引火したマシンは火の玉となった。

あたり一面が火の海となるコース上でニキは車体に挟まれたまゝ脱出することが出来ない。

(このまゝでは、ニキが死んでしまう。) 

ニキの事故に巻き込まれる形となった後続のランガーとアートルはすぐさまマシンを降りて、炎に包まれるニキのもとへ駆け寄る。

「助けてくれ!」

しかし、ドライバー仲間達の懸命の救助を拒むかのように、火の手は勢いを増して近づくことが出来ず、
近くのマーシャルから消火器を奪い取り、燃え盛るマシンに向けて噴射するまでに50秒近く経過していた。

ニキを救出するまで、かなりの時間を要してしまっていた。

ニキの容態は深刻で、顔面に重度の火傷と肺を熱傷した。

周囲はこの地獄絵図さながらの状況から大方の結末は絶望的であった。

一部のマスコミに至っては「ニキ・ラウダ死亡説」まで報道する始末だった。






事故からわずか42日後__
ニキは驚異的な回復力を見せて、奇跡的に死の淵から蘇る。

第13戦イタリアGPには包帯姿のままニキは戦列復帰し、そのレースで4位完走を遂げてみせた。

ニキは不死鳥のごとく、まさに炎の中から復活してみせるのだった。

顔面の火傷が壮絶さを物語る


ニキが欠場している間に、イギリス出身ドライバーでマクラーレン所属のジェームズ・ハントがシリーズ4勝と追い上げて、年間チャンピオン争いは最終戦の日本GPにもつれ込むことなった。

総合2位のジェームス・ハントにニキは3ポイントのリードを保っていた。

このレースでは、ニキが勝つか、ハントがニキよりも直順が下、もしくはハントが5位以下であれば、ニキが2年連続となる1976年のチャンピオン獲得となるはずだった。






最終戦 第16戦 日本GP

決勝前日から富士スピードウェイには雨が降り始めた。
さらに朝になると本降りになった。

コース上には川のような水たまりができ、ウオームアップ走行ではスピンアウトするマシンが続出する。

視界を遮る霧も発生し、コンディションはさらに悪化した。

予定の午後1時半になってもレースを始められない。

ドライバーからは中止を求める声も上がったが、午後3時に夕闇迫る雨の中、悪条件の下でスタートが切られることとなる。

その主催者側の判断に抗議するように、なんとニキは2周目で自らレースを棄権した。

「二度も死ぬような目に遭うのはゴメンだ。」と主催者に対して辛辣なコメントを残した。

このレースで3位に入賞した、ジェームス・ハントが1976年の年間チャンピオンシップを獲得する結果となる。

ニキはわずか1ポイント差でチャンピオンの座を逃した。






この死地から這い上がってきた男は__
ドライバーとして命懸けである限り、安全性への祈りを訴え続けたのに過ぎないのだった。



そして、翌1977年
ニキは再度シリーズ・チャンピオンに返り咲くのであった__ 。

"祈りの雨"
不死鳥が駆け抜けていく__ 。



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ニキ・ラウダWikipediaより抜粋

山根あきら様
お題をありがとうございました。

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