偶然とか自然現象とかそういう類のもの

 幸せでありたいと願っていた。そういう風に思っていた。全部気のせいだった。最初から望むものも、目指すべき幸せも、なかった。はなから知りもしないものを、求めようもなかった。
 いつだって、どこかで知らない誰かは死んでいるし、僕を生かすためだけに、ただの惰性で何かが犠牲になってゆく。虹の端はどこにもないし、見つからない場所を掘り進めたりもできない。そもそも、ないものだからと探したことすらない。

 換気のために開けた窓から、雨のにおいが入り込んできた。そういえば明日から天気が崩れると、何かで言っていた。
 分厚い布団を取りこんで、押し入れにしまう。生き延びることを望んでなどいないのに、次の寒さに備えて動く自分が、ひたすらに滑稽だった。
 薄い端末の画面が光って、「元気?」というメッセージが表示された。頭痛の予感に薬を飲みながら、それを横目に見ていた。
 天気の話と元気にしているかどうかという質問は同列で、大した意味を持たない。それらはただの時間稼ぎか、場を円滑にするためだけのもの。相手もこちらもそれを本気に捉えてはいないし、捉えるべきでもない。そう理解しているのに、僕はどうしたって、この「最近どう?」や「元気?」という質問に、いつだって何と返すべきか考えあぐねてしまう。だって相手は、「変わらず元気だ」という答えを求めているから。
 「今日も元気に消えてなくなりたいよ。」そう打った言葉を全て消して、「久しぶり。少し仕事が立て込んでるけど、ぼちぼちやってるよ。そっちはどう?」と返して、端末の電源を落とした。このたったひとつの小さくて薄いデバイスが、僕と世界を繋ぐ全てで、最も壊して無くしてしまいたいものだった。ーー僕は誰とも繋がっていたくない。だってそれは、ずっと嘘をつき続けることと同義だから。

 白い大きな鳥が、潰れて死んでいた。最初には赤であったろうそれは、すでに黒く変色していた。それを認めて可哀想と思えるほど、僕は上の方では生きてはいなかった。
 2メートルはゆうに超えていたであろうそれは、次通った時には、もう跡形もなくなっていた。おそらく誰かが連絡をして、収集されていったのであろう。最期にはみんな燃えてゆく。さっき買ったライターを、ぎゅっと握りしめた。

 心を揺さぶられすぎるものが、好きだけど苦手だ。あとになって孤独が大きな波になって押し寄せてくるから。楽しいも嬉しいも、悲しいも寂しいも、全部ずっと苦手だ。誰かの幸福も、誰かの不運も、目の当たりにしたくない。なぜかは分からないけれど、そういうものは全て等しく身を抉るのだ。
 僕は誰の救いも求めていない。理解のある誰かとやらも望んだりしていない。ただ、何かの対価を与えてくれる存在に焦がれている。愛着や愛情は求めていない。そんな傲慢なことはもう、考えない。縋りたいのではなく、対等に契約をして、交換をしてほしい。それだけが願いだった。
 生まれてきたことも、生き延びてしまったことも、随分前に恨むのをやめた。ただ自分に絶望して、僕にも「救い」とやらが現れてくれたらよかったなあと漫然と思ってみたりするだけだ。下手なプライドなどとうの昔に消え去って、動物的にも人間的にも「正しく」在れなかった虚しさを、ふと思い出してみたりする。そういう諦念と疲弊に、時折対価への願いが乗るだけだった。
 世界のどこにも、安心も安全も安堵もない。誰も守ってくれないし、守ってやりたい何かも、なくなってしまった。ずっと一緒に生きていたかったあの仔は長生きしてくれたけれど、種の壁は越えられず、やはり先にいなくなった。虹のたもとに、きっと僕は行けない。

 僕の人生は長すぎて、ようやく期待を捨てられたけれど、諦めたまま息をし続けることは、ずっと苦しい。息苦しさは最早僕の普通であったけれど、それでもやはり疲れてしまう。暗い画面に映る自分が、それを表していた。

 僕はずっと家族を欲していた。でも、向いてないと気づいてもいた。人生に意味などあってほしくないと祈るばかりだったし、そもそも自身が生きていることを良しとしたことが一度たりともなかったからだ。
 その場凌ぎの娯楽は、継続に必ず疲弊が伴っていて、部屋の隅ですぐに積まれてしまう。
 働いて明るい声で応えて「大丈夫」と自分に言い聞かせる。それが死ねない臆病な僕にできる全てだった。

 「嘘吐きなの?」
 澄んだ声がする。左を見れば、赤い瞳とかち合った。瞬きもせずにこちらをじっと見つめ返してくる。なぜか驚きはなく、ただ何と返したものかと困って、ただただぼんやりと、赤い瞳に自分の疲れた顔が映るのを眺めていた。
 一瞬にも何時間にも感じるような不思議な時間、互いに見つめあったあと、赤い瞳がゆっくりと瞬きをした。分厚く白いまつ毛が、陽光も室内灯の灯りもないのに、青くきらきらと瞬いた。
 「あ、ごめんなさい。人間は最初は挨拶から? だったよね? こんにちは。」先ほど飲んだ薬が効いてきたからなのか、ぼんやりとした頭痛の予兆が消えてゆくのを感じた。
 「ーーこんにちは。」やっとのことでそう返すと、赤い瞳が満足そうに笑った。
 「お兄さんは嘘つきの人?」それでは、と言わんばかりに、赤い瞳の主はそう尋ねてきた。何のことか見当もつかず、どうしたものかと再び困惑していると、僕の後ろを通って、そのこは、僕の右側、少し離れたところに座った。
 そこでようやく、このこが赤い瞳の白い鹿だと気がついた。
 「課題で嘘吐きを探さないといけないんだ。」神使に課題なんてものがあるのか。嘘吐きと言われたことよりも、そちらの方が疑問だった。「嘘吐きに定義はあるの?」気づけばそう返していて、まるで哲学の授業のようだと思った。
 僕の質問返しが意外だったのか、目を瞬(しばたた)かせ、そのこはうーんと唸った後、「特にはないけどーー、一緒にいて、自分の毛色が変わらない人にしなさいって。」と答えた。
 「嘘を吐いたことのない人なんていないんじゃない?」そのこの答えの意味をよく理解できないまま、そう返せば、「そしたらお兄さんは嘘吐きだね!」と嬉しそうにしていた。
 「あのね。嘘を知るのが課題なんだけどーー」
 そうして、そのこは課題の概要を語り始めた。不思議な声だった。頭の中が澄んでゆくような、ずっと聴いていたらきっと、それなしではいられなくなるような、麻薬みたいな音だった。
 一通り説明し終えると、まるで決定事項かのように、「で、協力してくれるよね?」と言った。それは、承諾以外は想定していない、確認にもならない確認だった。
 「うん。」僕の即答はまるで、考えるより先に喉が空気を震わせたようだった。驚きと困惑に喉元を抑える僕を見ながら、「こういう時は、ありがとうと言うものなんだよね? 人間は。」と、そのこは思い出したかのように謝辞を述べた。真っ赤な瞳は、ゆらゆらとゆらめいて、毛並みは青白く光っていた。不思議と承諾したことに後悔はなく、むしろじんわりと充たされるようだった。

 「ねえ、聞いてもいいかな?」
 課題への協力を承諾する書類を準備する傍ら、そのこに尋ねる。「私で答えられることと、答えていいことなら。」と、赤い瞳がこちらを見つめ返した。
 「どうして僕を選んだの?」
 驚いたような顔をして、分厚いまつ毛が上下した。そうして、「たまたまだけど、」と前置きをしてから、そのこはこう続けた。
 「全然大丈夫だとも思ってないし、そうでないって自分できちんと理解しているくせに、大丈夫大丈夫って、繰り返し自分自身に言い聞かせてるのが、興味深かったから。」
 興味深いーーそれはつまるところ、このこが滑稽という言葉を知らないだけなのだろう。
 何でもないような無垢な声音で、「でも本当にたまたまだよ。」と、そのこは最後に付け加えた。
 書類が整ったらしく、「はい、ここに血でお名前書いてね。」と、紙と小刀を手渡された。そこには僕の知らない文字だけが並んでいて、指定された場所の上には、おそらく名前であろうものが、そのこによって書かれていた。


 「何で嬉しそうなの?」
 全てが整った後、そのこが問う。
 「僕が選ばれたことに意味なんてなくて、誰でもよかった、たまたまだって言ってくれたからだよ。」その答えに興味なさげに「ふうん、そうなんだ。よく分からないや。」と返すと、そのこはすっくと立ち上がった。
 「ところで君は何なの? 神様のお使い?」
 僕の問いに白い鹿は大きく口を開けて、笑った。「人間もたくさん質問をするんだねえ。」

 「神使、ね。そう言えって言われてる。」
 ゆったりと開いた口の中、ぬらぬらとした牙が見えて、途端に獣の臭いがあたりに広がった。
 その言葉が嘘だと思ったその刹那、喉元から鋭い痛みがやってきて、目の前が真っ赤になった。世界はすぐには暗転せず、僕はひゅーひゅーとか細く息をして、それは気を失うまで続いた。

 課題の糧になりきるまで、もう少しだけ痛くて苦しい生をやる、ただの塊。


 「こういうとき人間はなんて言うんだっけ? ありがとう? さようなら? それともごちそうさま?」

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