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ニンゲンの皮を被っていた私もまた、ニンゲンだった。

所詮ニンゲンなんて、いやニンゲンも単純な生き物だと思う。

頭脳が発達している動物だなんて、どこかの誰かはいうけれど、本質はなんら変わっていない。自分の欲求に忠実で、それでいて自分勝手。

環境とか共生とか、そんなことを語る資格は自分にはないけれど、自分というニンゲンを通じて向き合ってみても、人間の身勝手さを痛感する。

どれだけ身勝手なのかというと、誰かに向けた言葉を綴っているそばから、ニンゲンという文字を3回書いて、インゲンを想像しているくらいだ。わかりやすくするために例を示してみたが、かえってわかりにくくなったかもしれない。

まあ、伝えたいことは、それくらい身勝手な生き物だと思うということ。

書くことが好きなのに、何かの理由をつけてそこから遠ざかっていた私。自分を表現しないと、生きていけさえしないのに、だ。

今思うと、それに気づけたのがせめてもの救いだったと思う。あらゆるSNSに自分を綴るようになってから、少しずつ、少しずつ言葉が自分に戻ってきたから。

鍵付きの、限られた人しかみれないInstagramのアカウントから、オープンなアカウントへ、そしてTwitter。最終的に辿り着いたのが、ここnoteだ。

いまさらもどってきて、なんのつもりだ。noteに心があるならば、わたしにそう語りかけているのかもしれない。

なぜここに戻ってこれたのか。それはわたしの言葉を認めてくれる他者がいたからだ。つまるところ、誰かに認められない限り、いいねをもらえない限り、わたしはここに二度と戻ってこれなかった、という世界線も大いにありうるのだ。

表現しないと生きていけないくせに、そんな自分を担保するために、知らず知らずのうちに他者にそれを求めていた。

いやはや、なんて身勝手な生き物なんだ。

そんな現実を突きつけられてもなお、わたしはnoteに言葉を綴っている。シンプルに書くのが好きだという自分と、だれか!これを見てくれ!という承認欲求の塊みたいな自分が、交互に入り乱れながら、今スマホで文字を打ち込んでいる。

所詮ニンゲンなんて、いやニンゲンである私も単純な生き物なのだ。

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