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#2 タイの中で日本人として生きるということ【あとづけの留学日記】

  • 日本から留学に行くと、「日本人」であることを強く意識させられる。だからこそ、日本のことを知っておいた方が良い。

  • 日本のことを紹介できるようにした方が良い。留学先で、あなたは日本人の代表だ。

海外留学を巡って、このような「日本人」言説は広く流布していると言っていい。外国という社会空間に身を置いたとき、種類や程度の差はあれ、誰もが「自分はどこから来て、誰であるのか」という実存的な問いを突きつけられる。そして、それがときに不条理な刃として突き刺さってくる。

タイの中で日本人として生きるとはどのようなことなのか。

あとづけの日記を書くに当たって、大学の話よりも何よりも、これを先に綴っておかなければならない。ある種の焦燥感に駆られ、僕は今筆を取っている。

あとづけの留学日記 Chiang Mai, Thailand 2022-2023 とは
タイ語とタイ地域研究を専攻する大学生が、タイ・チェンマイにおける留学を振り返るエッセイ集。詳しくはこちらの記事をご覧ください。


全然話しかけてこない日本人

6月中旬のチェンマイは、曇っていた。初めてのタイでもなければ、初めてのチェンマイでもない。それなのに、街の西に連なる山々までもが厚い雲に覆われているとどことなく不安になる。それが空港に着いたときの率直な感想だった。留学先としてチェンマイに訪れた最初の日である。

後から振り返れば、初日の息苦しさはコロナ禍の閑散とした空港の雰囲気でも、ドイ・ステープを厚く覆う雲によるものでもなかった。息苦しさの原因は、ただただ自分にペタッと貼られた「日本人」という肩書きだ。

その日は空港に大学職員のSさんが迎えに来てくれる予定となっていた。チェンマイ大学に事務職員として務める30歳前後の女性で、留学中ずっとお世話になる方の一人だった。空港で初めてお会いして、挨拶をする。彼女は全く微笑まない。挨拶をする際も、荷物を運ぶのを手伝ってくれる際も、あまり目を合わせようとしない。自分が契約予定のアパートまで車を走らせているときも、常に無表情を貫いて話していた。

結局、世間話も何もなくアパートに到着。履修登録などのために大学へ行く日を調整し、そこで解散。別れ際に、彼女はこう告げてきた。

「とにかく何かあったら連絡してほしい。日本人の子たちは全然話しかけてこないから」

彼女の呪文にかけられたかのように、その日以降、自分は彼女の言う「全然話しかけてこない日本人」のリスト入りを果たした。

日本人だから…。日本人なのに…。

日本から来たというだけで、僕は「日本人」になる。

間違いではない。母語は100%日本語で、ご先祖様も振り返ることができる範囲では全員日本人で、日本で教育を受け、そして日本の大学のMOUと奨学金をもって留学をしている。それでも、「日本人」という淡白な枠組みで括られることに対して、違和感を覚えた。

外からペタッと貼られたレッテルに息苦しさを感じる原因は、日本の中にいる限りでは「日本人」であるということを意識しないからだろう。「日本人」という見えないレッテルに、私は1年間振り回されることになる。チェンマイでの1年間は、自分がとにかく「日本人」として生きていかなくてはいけない1年間でもあったのだ。

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タイで日本人として生きるとはどのようなことなのか。

振り返ってみれば、そこまで悪いことではない。現代のタイにおいて日本という国に対する印象は全くもって悪くない。むしろ、日本人に良い印象を抱いてくれる人の方が多いのだ。脱いだ上着を畳んでかばんにしまうとき、タイ文字の幅をひとつひとつ揃えて書くとき、感謝の言葉を述べながら思わずお辞儀をしてしまうとき、タイの人々は私に「日本人」を見出す。

同時に、自分が部屋にこもって読書がしたいと言うと「日本人だから」と言われ、値段の高い食事を渋っていると「日本人なのに」と言われ、例のSさんからは常に「日本人は話さない割に細かいから手間がかかる」ということを言われ続ける。何かにつけて「日本人」が付き纏ってくるのだ。

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話は変わるが、帰国後のある日、私は大学1年の頃からお世話になっているあるタイ人の教員が10年近く前に出版したという書籍を目にすることになる。タイ人の言語学博士の視点から日本人のコミュニケーションの不思議な側面に着目して紹介するという趣旨の本だ。決して学術的な本ではなく、「日本人のおつきあい&マナーのナゾをコミックエッセイに」という文言で紹介されている。

日本人はシャイ、表情に乏しい、ホメテクの罠、察しの文化、謝罪の流儀、結婚式はコミュ力集大成…。言語学博士と謳われておきながら、日本人に対する典型的なステレオタイプが嘲笑を伴ってひたすら羅列されている…。よく知っていると思っていた先生だったこともあり、大変ショックだった。以前、僕は同じ先生が日本での生活について綴ったタイ語のエッセイ本を読んだことがある。その本ももちろん、タイ人である先生の視点から垣間見た日本や日本人について書かれていた。ただ、あくまで先生の日常の一端を切り取ったエッセイであったため、日本人のステレオタイプを並べているような印象は感じなかった。

問題のコミックエッセイに関しても、書かれていることはある程度事実ではあるだろう。先生に「ランプーだってそうでしょう?」と言われれば「はい」としか答えられない。

「とはいえ、なぜそうだと決めつけられなければいけないのか?」

「なぜ「日本人」であるというだけで、シャイだの謝りがちだのと言われないといけないのか?」

これらはまさしく、チェンマイで抱き続けてきた違和感そのものだった。

観察した客観的事実としての<日本人>が描かれながらも、その<日本人>は一人歩きしていく。そしていつの間にか勝手に人格を帯びて、「日本人」と括られる人々に対する外在的な印象に浸食していく。こうして、<日本人>は「日本人」として再生産されていく。そして、いつの間にか自分も<タイ人>なり「タイ人」の再生産に加担していくようになるわけだが…。その話については稿を改めたい。

パーイにて。おそらくモチーフは日本兵?

marginal person

「日本人」というレッテルは、何もそのような文化的な習慣に依るものとは限らない。

留学が始まって間もない頃、日本では某元首相が暗殺された。大学の講義の合間に届いたニュースアプリの速報に、あまり現実味を覚えなかった。白昼のテロを擁護するわけではない。ただ振り返ってみれば、彼の死に際は決して良い形では訪れないだろうと、心のどこかで感じていたからだろう。

自分を現実に引き戻したのはその速報ではなく、友人からの一言だった。

-ลำพู ได้ข่าวแล้ว …เสียใจด้วยนะ-

-ランプー、聞いたよ。…御愁傷様-

身近の人間に不幸があったときに、タイ語では「เสียใจ(御愁傷様)」という言葉が使われる。一般的に「悲しい」という意味で使われるこの言葉を聞いたとき、僕は彼の死を「悲しい」とも何とも感じていない自分に気がついた。

何度でも言うが、合法・非合法を含めテロや暴力を擁護するつもりは全くない。ただ、事件勃発直後の日本のメディアのように、亡き人を偲ぶことや民主主義への冒涜とも取れる手段と、かの元首相が日本社会やそこに生きる人々に行ってきた政策への評価を一緒にすることはできない。合法的な暴力とも取れる彼の言動を、心のどこかで常に非難していた。彼の党に投票したことも彼の政策を肯定的に評価したことも一切ない。

為政者は死後にその価値を肯定的に評価されるようになる。そして、なぜか死に際が壮絶なものだった人ほど神格化されるようだ。自分は彼を「神」としても「お上<かみ>」としても捉えようとは思わない。

しかし、タイにいると、自分が日本人というだけで、お上の死に心を痛めているように思われてしまう。その友人に悪気はない。ただただ、僕自身が「日本人」として複雑な気持ちになるだけなのだ。

そうとは言っても、「日本人」として見られ続けることを無視できるくらいに慣れてしまえば、タイ社会は日本以上に過ごしやすかった。自分は確かに「日本人」ではあるけれども、今は日本にいない。日本社会で起きている現実から空間的に距離を置くことができるのだ。円安を除けば生活に具体的な支障も出ていない。一方で、身体はタイにあるからと言って、今度はタイの社会に政治的責任を取る必要もないのだ。

極端な話、タイにいながらもタイ社会の現実からも心理的な距離を置くことができる。実際に距離を置かないにしても、いざとなれば「逃げられる」という安心感は初めての海外留学における心の支えでもあった。

考えてみれば、すごく贅沢な話だ。日本からの交換留学生という安全が確保された社会的地位があり、欲張らなければお釣りが出るくらいの奨学金で生活し、帰る時期が決まっていて、現地の言葉に関しては不自由は全くない。そして、日本人であっても日本から距離を取ることができ、タイにいながらもタイから距離を取れる。ある思想家はその独特な空間を「解放区」と呼び、ある社会理論家はこのような人間を「marginal person」と呼んだ。

どこにでも属しているが故に、どこにも属していない。

どこにも属していないが故に、どこにでも属している。

チェンマイのアパートの一室で、僕はまさにそれを体現していた。

タイの中で日本人として生きるということ

チェンマイでの1年間は、自分がとにかく「日本人」として生きていかなくてはいけない1年間だった。もちろん、自分は日本人だ。それは死んでも拭えない自分の一部だ。それでも「日本人」ではいたくない。
ではどうすればいいのだろうか?

答えは意外に簡単かもしれない。日本人でありつつ、「日本人」になり得ない自分を、そのグラデーションの上に成り立っている存在を、いかに構築していくかである。それをどのように自分自身が整理し、受け入れていくかである。僕は日本語が好きだ。日本語という言葉で感覚し、思考し、表現している。日本の四季が好きだ。季節ごとに異なる色彩鮮やかな風景の中で、自分は生きている。しかし、自分は現在の日本の政治は好きではない。賛同だってできない。また、日本の「出る杭は打つ」というムラの伝統が好きではない。「日本人」という自分の身体に、そのどれもが並立している。グラデーションをもって「日本人」としての自分はできている。言い方を変えれば、「日本人」だって多様で、分解できるのだ。

これは何も、人種や民族、国籍についての話に留まらない。広くアイデンティティに関する話だ。「私」という存在は決して単一の個人ではなり得ない。日本人、男性、大学生、タイ語専攻、読書虫、ギター弾き、フェンサー…たくさんの<自分>さまざまに交差する(intersect)することで複雑な「自分」を構成しているのだ。自分自身は「分けられる」。分けられるものとして自分を捉えることで、括弧付きの肩書きから自由になれるのだ。

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「私とは何か」という実存的な問いに対する「多元的・多層的な自己」というアプローチ。いつしか自分自身の個人的な問いに収まらず、教育社会学と地域研究の狭間にある自分の研究課題にも反映されている。というわけで、自分の文章を読んでくださる方々は、この「多元的・多層的な自己」のアプローチを嫌というほど目にすることになる。

そうは言っても、この考え方はそんなに新しいわけでも、自分自身の考えというわけではない。アントニオ・タブッキに魅了され、フェルナンド・ペソアに憧憬を抱き、平野啓一郎氏の小説を愛読するなかで、自分の中でゆっくりと形成されてきた。(もちろん、学術の場合は哲学者と社会理論家の名前がずらりと並ぶわけだが)

「日本人」としては語りきれない自己をどのように自分に知らしめるのか、そして他者との絶え間ないやり取りの中で、どのようにしてお互いのグラデーションを認め合えるのか。そこに、留学の一つの価値を見出すことができたならば、自分の留学は成功だったのだろう。「あとづけ」で考えてみればだがー。

家の近くの大衆食堂(อาหารตามสั่ง)。

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