「声が小さい」といわれたら:非言語的情報と他者を矯正する権利

はじめに

筆者は「声が小さい」といわれたことが何回かある。そのたびに一抹の違和感が胸をうずいた。違和感は疑問になり、問いかけは新たな問いかけを生み出し、ゆっくりと時間をかけて、筆者なりの一応の答えがでた。

「声が小さい」と誰かが叱られている場面において、一般的には声が小さい人が「悪い」のであり、注意した方は社会人として当たり前のことを言っただけだ、と思われるだろう。
しかし、理性的によく考えてみると「声が小さい」という注意は一定の問題をはらんでいることが分かる。
まず、筆者が体験してきた「声が小さい」というお叱りをAとBの2パターンに分ける。そしてそれぞれの相違点である非言語的情報と、共通点である言語的情報について検証したい。

A 発言者の苛立ちや悪意を含む「声が小さい」
B 発言者の善意からくる紳士的な「声が小さい」

相違点の課題からは「声の大きさ」を越えた、より一般的な「非言語的情報」の構造から導かれる「悪意の表現に対する論理的な理解」を目指す。共通点の課題からは「声の大きさ」への注意(言語的情報)を具体的な事例として取りあげて「他者に介入する権利の射程と力学」を明らかにする。

1 非言語的情報

前述の通り、ここでは「声の大きさ」という注意の正当性ではなく「発言の仕方」が問題になる。「声が小さい」という注意の場面において、第三者からすると、この発言者の苛立ちや悪意は「ごもっとも」であり「しょうがないよ」と一般的には思われるかもしれない。しかし断じて発言者の苛立ちや悪意は「ごもっとも」でも何でもない。AとBの違いを考えれば一目瞭然である。

AとBの共通点は「声が小さい」という注意の内容(言語的情報)であろう。相違点は悪意的か善意的か、つまりは非言語的情報である。話を分かりやすくするために「言語的情報」を「黒板の文字」に、「非言語的情報」を「指示棒」にたとえる。

2人の教師がいる。ひとりの生徒が席に座っており、黒板には「人前で話すときは、声を大きく話しましょう」と書いてある。
Aの教師は文字を読みあげながら、指示棒で黒板をぶっきらぼうに数次にわたり叩く。明らかに怒気を含んだ暴力的なモノの扱いである。何が起きたのかと、生徒は教師の顔色を伺う。
他方、Bの教師は文字を読みあげながら、指示棒で黒板の文字をトントン、スーッとなぞる。生徒の目は黒板の文字に注目している。

AとBを比べると、黒板の文字は不変であり、指示棒(非言語的情報)を使う目的が違う。Aの教師は指示棒を苛立ちを表現する目的で用いるのに対し、Bの教師は言語的情報のよりよい伝達を目的としていることが分かる。

対人関係で悪意的であるということは、本来の目的から逸脱して、別の目的を優先している。その逸脱的な目的は自己中心的で、幼稚な感情の発露である。

「声が小さい」という注意の目的は「声が小さかった人の、次の発声を大きくすること」が第一義的なものであるべきである。
にも拘らず「このままだと彼の声が聞こえないかも知れない」「彼の話している内容が分からないかも知れない」という「自己能力の不全」を恐れて、あるいは、他者に影響力を及ぼすことについての歪んだ優越感に浸るため、あるいは、声が大きい=正義・強者、声が小さい=不義・弱者という一般的構図を念頭にした正義の執行についての歪んだ正義感に浸るため、感情と理性のせめぎ合いの結果(愚かな人では、せめぎ合いすら無いかもしれない)理性ではなく、感情を優先するのである。
いうまでもなく理性を優先すれば、言語情報のスムーズな伝達を目的としたBの教師のような非言語的情報による目的達成が可能である。

「そんなこと言ったって、人の性格にもよるでしょう」とか「その人の、そのときの気分にもよるでしょう」とかいった反論があるだろうが、重要なのは「声が小さいこと」に対して悪意的な表現が許されているような、この風潮である。悪意的な表現は本来の目的の達成を阻害し、自己中心的な目的を達成するために採用される。

時と場合にもよるが、筆者は苛立ちや悪意を含む非言語的表現に頼る人を「指示棒の使い方が乱暴な人」だと思っている。要するに論理的に物事を考えることができず、言語の力を信じることもできず、自分の不可能性からくる不安や、歪んだ自己実現欲求に押しつぶされる人である。下品で、粗悪で、尊敬できない。真似したくない。こうした人に悪意的である筆者の倫理性はまた別の機会に考える。

2 他者を矯正する権利

前段では、AとBの相違点であるAの悪意、Bの善意という非言語的表現について検証し、言語的表現を黒板、非言語的表現を指示棒にたとえて、Aを低価値とした。前述の通り、ここでは「声の大きさ」に対する注意を具体的な事例として「他者に介入する権利の射程と力学」を明らかにする。
つまり、AとBの共通点である「声が小さい」という他者に対する矯正行為は論理的に正しいのか否か。たとえるならば、声が小さい生徒を前にして、教師は黒板に「人前で話すときは、声を大きく話しましょう」と書くことが許されるのか否かを検証する。

一般論を確認すると、社会人は「声が大きくなければならない」または「ハキハキとしゃべって、言語情報の伝達をスムーズにするべき」という風潮がある。
たしかに、小さい声でボソボソと話すとなると、よりよい言語情報の伝達に阻害がある。また、小さい声の話者が体現する非言語的表現が、意図せずして周囲に消極的であるような悪い印象を持たれる可能性もある。声が小さいことは、対人関係において本来的に短所だろう。

前提として筆者は「声が小さい人は、その短所を自覚して、みんなのためにできるだけ大きな声で頑張って話した方がよい」と思う。
しかし「声が小さい」という注意の発言者については「他者を矯正する権利について理解が浅いな」とも思う。

他者を矯正する権利とは、いついかなるときも許されるわけではない。ではどのようなときに許されるのか。筆者は、矯正を行うにあたり①相当の理由があり、②その結果、十分な影響力を及ぼし、③公共の利を得るであろうと予想される場合に許されると思う。
この場合の③公共の利とは、当事者間の情報のスムーズな伝達である。先ほど見たように、なるほど、声が小さいことは当事者間の情報のスムーズな伝達のために(①相当の理由)改善されるべきであろう。
ここまでは理解できる。

しかし、実体験を振り返るとぜんぜん腑に落ちない。
実際の注意の場面では②十分な影響力は勘案されていないからだ。
筆者は「声が小さい」といわれて、頑張って声を大きくしてみる。しかし実際はそんなに変わっていない。
それでも、現場では「良し」なのである。
つまり、意味がない、内実のない、注意になってしまっているし、注意した方もぜんぜん気にも留めない様子である。それはつまり「声が小さい」ことの実際上の影響力の些事を証明しているのではないか。

さらに、そもそも「発声」について、②十分な影響力は期待できないのである。
なぜならば「発声」とは身体的、精神的な活動であるからである。身体的とくに顔周りの筋肉、肺活量の活動であり、精神的とは普段の対人関係についての環境やそれに対する経験値からくる心理的負荷の如何などによって、つまり、比較的長い時間をかけて筋肉量、性格など心理面といった、総体的なライフスタイルによって確立するものが「発声」であるから。

つまり、声が小さい人に対して「声を大きく」という注意は、身体的な面でいえば、トレーニングジムで50㎏のバーベルを上げている人に対して「重量が軽い。70㎏にしよう」といっているようなものである。

声が小さい人に対して「声を大きく」という注意は、精神的な面でいえば、高所恐怖症の人に対して「ぜんぜん低いから。ほら上がれよ」といっているようなものである。

声が小さい人が、大きな声で発声できるには、精神的な改善や進歩、慣れ、そして経験や蓄積、心理的負担の軽減からくる発話に関する器官の身体的発達を、長期的な視点で成長させる必要があるのである。

また、上記では納得した体で話を進めたが、「声の大きさ」を注意する言語情報は、実はアイデンティティの侵害という意味で③公共の利にも抵触しているのだ。
居住地、人種、宗教、思想信条など「変えられないもの」ないし「その人がその人たるゆえん」への矯正は差別である。これらは個人のアイデンティティであるから、これを侵せば矯正発動条件の③公共の利を侵すことになり、矯正は発動できない。

矯正とは「頑張って変えていこうね」という意味である。
頑張って変えていこうね?
矯正力を行使していい範囲に「声の大きさ」は含まれる?
ましてや、その、たったひとこと「声が小さい」、その矯正で?

声が小さいことは、これまでの人生の総体としての私の世界観や、人間観、人間関係論が背景になっているだろう。そこには対人関係に関する苦い思い出とその教訓もあるかもしれない。感情と理性の、アクセルとブレーキの、その使い方をだんだんに覚えていって、わたしのリズム、心臓の音が一定のごとく、ニュートラルなテンションや自然な発話が形成されていく。声が小さいことは、対人関係に痛みを覚えながらも、それを求め、あるいは対人関係以外の事象にも多くの時間を割いてきたという、わたしを形づくるアイデンティティのひとつともいえるのではないのか。
つまり「声が小さい」ということは「わたしがわたしである」ということと切り離せないのである。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?