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視界はクリア、でも見えない。

さっき幽霊についてスッキリとした。

朝からなにを考えているんだと思われるかもしれない。オカルトは好きな方だが、別に四六時中、スピリチュアルなことを考えている霊感大好き人間ではない。稲川淳二の怪談を何度か聞きに行ったし、面白かったのでまた行きたいし、もっと早くこの楽しみを知りたかったとは思う。
それから、鬼太郎も好きだし、やりすぎ都市伝説も好きだ。昔やってたUFO特番も好きだったし、キョンシーの御札も真似して書いていた子供だった。そんな感じでエンタテインメントとして好きなジャンルではあるが、故人に対しての作法とかバチが当たる当たらないなんかは信じていない。というか、そういうことを重んじる人たちからは、それこそ「罰当たり」と思われる部類の人種だろう。

でも、そんなわたしでも「寂しさ」は分かるし、感じている。だから、その「寂しさ」の捉え方が今までよりクリアになったと言う話だ。

「幽霊は見えない」。
これについて今迄は、「見えなくなっても側にいる」的な捉え方だった。だから、「心配ない」や「いい加減なことをすると怒られる」のような、ネガティブにもポジティブにも考えているんだと解釈していた。いや正直、解釈というか古来からの風習、気持ちの整理の仕方として宗教があるんだろうなと考えていた。日本だと火葬するのだから、もう形は消えてしまっているけど、それはあくまでも「形」だけだあって、それ以外が消える理由にはしなくてもいい。皆、それが受け入れやすくて、自分もそうなんだと思っていた。でも、今日は少し違う、自分に合ったものが見付かった。

いま、「芸人と俳人」という本を読んでいる。又吉直樹さん(芸人)と堀本裕樹さん(俳人)の対談。まだ読み始めだけど、その中にそれがあった。

「渡り鳥みるみるわれの小さくなり」
上田五千石

学が無いわたしには見たことも聞いたことも無い人だが、この俳句を例に出して二人が楽しそうにしている。
大体の人が鳥を見ている自分を想像し小さくなっていく様子を表していると思いがちだけど、そうではなくて、途中から渡り鳥の方に自分の意識を置いているといった面白い俳句らしい。
渡り鳥として飛んでゆく自分。それを残って地上から見上げている自分の姿が段々と小さく見えなくなっていく。
これを読んだ時、「この感覚のほうだな」としっくりきた。
見えないのは、別に消えた時だけでは無い。遠く離れても見えなくなるなと思った。何だかすごくスッキリする。
かつて有った場所や思い出は、そこに残っている。
でも、自分たちは渡り鳥だ。
飛んでいく。
そういうものだ。

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