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殺して生きると書いて殺生

友人から声が掛かり出掛けて行った店で鯵の活き造りを注文しました。出てきた鯵は三枚に下ろされながらもまだパクパクと息をし尾びれを震わせています。何と残酷な料理を頼んでしまったのだろうと思わず手を合わせました。魚には痛点がないしただの脊髄反射だとしても、やはりそこまでする必要があるのかと思わずにはいられません。結局大変美味しくいただきましたが、そんな自分が偽善者に思えるのです。残酷な調理法は他にも山程ある上にそうやって作られた料理はとてもおいしいのです。

食の嗜好は人それぞれです。生きる上での信念として動物を摂取しない人もいれば、戒律の下で食事をする人も。ダイエットやアレルギー、好き嫌い。私は食事にまつわる人の主義趣味嗜好について特に反感も懸念も異議もありませんが、中にはヴィーガンやベジタリアンを毛嫌いする人もいます。なんと心の狭いことか。

宮沢賢治は殺生して生きることに耐えられず命を削ったように思われます。生命は宇宙から降り注いだ有機物から始まり、人間は地球上の生態系の一端を成し、何らかの殺生をせずには生きられません。皆誰かを殺すことで生きていくという宿命を持って生まれ、宿命に生き、そして死んでいく。

その宿命にどう向き合うかは一人ひとり違うでしょう。圧倒的曲解により殺人を犯す個人や組織は論外として、生きる為に動物を食べ植物を食べ水を飲み空気を吸う行為、すなわち、生きることそのものが殺生だと自覚しつつ、それをどこまで容認して生きるのか。それが有機物として生まれてきた我々が生涯向き合う課題、そう思うのです。

わたくしといふ現象は
仮定された有機交流電燈の
ひとつの青い照明です
- 宮沢賢治『春と修羅』序 より

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