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第四の巨匠・成瀬巳喜男の魅力

戦前から戦後にかけて、多くの女性映画やメロドラマを手がけた映画監督・成瀬巳喜男は、小津安二郎、溝口健二、黒澤明に続く第四の巨匠と言われる。

この「第四の巨匠」という呼称は、成瀬監督に対してちょっと失礼ではないかと思ってしまうが、海外で評価されたのが死後10年以上経った1980年代と遅く、また、人気・知名度共どうしても他三人よりは劣るため、致し方ないのかもしれない。

実際、小津、溝口、黒澤のファンと公言する映画監督は挙げればきりがない程いるが、成瀬巳喜男のファンという人は、『汚れた血』(1986年)や『ポンヌフの恋人』(1991年)のレオス・カラックスくらいしか思いつかない。

レオス・カラックスの『汚れた血』も『ポンヌフの恋人』も傑作と思っているが、特に『ポンヌフの恋人』は、その世界観が成瀬巳喜男『浮雲』(1955年)とよく似ており、成瀬巳喜男の影響を受けていることが窺える。

このように、レオス・カラックスという才能に影響を与えた成瀬巳喜男の作品は、小津、溝口、黒澤の作品と比べても決して劣らぬ魅力がある。

成瀬巳喜男の作風

小津、溝口、黒澤の三人に対して、成瀬監督の作風は地味である。

例えばどこか旅行に行こうという際に、京都の金閣寺に行くのはブルジョア家庭を綺麗に撮った小津風であり、京都の舞妓を見に行くのは様式美と共に女性映画を撮った溝口風であり、大阪城に行くのは強い侍をダイナミックに撮った黒澤風といえる。

これらに対して成瀬風というのは、近所のお寺や神社に行くようなものである。

成瀬作品では、チンドン屋、戦後のバラック、パチンコ屋やスーパーマーケットといった現代社会が舞台装置として登場し、市民の日常生活の中でのドラマが描かれる。

成瀬作品はそういう意味で地味であり、金閣寺や舞妓や大阪城には観光客が集まるが、近所のお寺や神社は地元の人から愛されていても観光客は集まらない。だから、人気も知名度もイマイチなのだろうと思う。

このように小市民の日常とドラマを描いた成瀬監督は、他三人の巨匠たちと比べて最もリアリストであり写実主義といえる。成瀬監督が予算やスケジュールを厳格に守る人だったというのは、その現れだろうと思う。

成瀬作品の「微妙な変化」

成瀬作品にはどんな特徴があるかというと、一番の成瀬作品の魅力と思っているのが「微妙な変化」である。

変化というのは登場人物たちの心象の変化であり、それが「微妙な変化」として描かれる。大胆な変化とか過剰な変化ではなく、要するに変化の落差が小さい。

その小さな落差の変化は、成瀬作品でよく言及される「目線の演出」に代表されるように、登場人物たちの目線、表情、仕草といった何気ないところの変化によって描かれる。

例えば黒澤作品であれば、心象変化は役者たちの派手な演技、またはゴーゴーと鳴り響く砂嵐や豪雨で表現される。成瀬作品の場合、そのような過剰な演出はない。

人物が相手を見るとき、伏し目がちだったり、視線をチラリと送ったり、目が泳いだり、そうかと思うと、相手をじっと見つめたり、振り返って見つめたりする。このように視線に様々な表情があり、そしてそれらが心象の変化とともに変化する。

個人的に成瀬作品のなかでも好きな作品の一つに『乱れる』(1964年)があるが、『乱れる』は戦死した夫の弟(加山雄三)から愛の告白を受ける女性(高峰秀子)が描かれる。つまり許されぬ恋の話となる。その告白を受ける前と後、少しずつ高峰秀子の表情や加山雄三に対する視線、仕草が変化していく。

こういう変化を見ると、じれったいなのか、もどかしいなのか、何というか胸がザワザワさせられる。

成瀬作品は「微妙な変化」が描かれるから、感想としても単純に「面白かった」「感動した」というはっきりとした言葉にするのが難しく、どうしても「なんだかザワザワした」という擬態語になってしまうのである。

成瀬作品の「あきらめ」

もう一つ、成瀬作品の特徴であり魅力として「あきらめ」がある。

成瀬作品は、ラスボスを倒して「やったー!」とか、娘が結婚して家を去って「寂しい」とか、そういう「物語は終わったんだな」という終わり方でなく、突然ブツっと終わる作品が目立つ。

こういう終わり方から感じるのは、映画というのは、流れている時間の中の一か所を切り取ったに過ぎず、映画が終わっても時間は流れ物語は続くという、そういうメッセージである。

このブツっという終わり方に代表されるように、成瀬作品からは、流れる時間の中で「事象を眺める」という姿勢を感じる。つまり客観的なのである。客観的というのは、登場人物に深く肩入れするでもなく、明確なテーマを主張するのでもなく、日常生活を送る小市民をただ眺めている。

客観的もしくは「眺める」という姿勢は、1シーン1カットの長回しを最大の特徴にする溝口健二作品にも言えることだが、その作風は明らかに違う。溝口作品には長回しによる徹底したリアリズムがあるが、それは寓話の中のリアリズムであり、様式美ともいえるような美の追求に向けられている。

溝口作品は歌舞伎や演劇のように舞台上で行う寓話的物語を、カメラを長回しして捉え、様式美を追求した作品というのが近いのかもしれない。

それに対して成瀬作品は、カメラを街中もしくは家の中にストンと置いて、そこで繰り広げられる男女の日常をただ「眺める」というイメージに近い。

その眺める姿勢は、美の追求というよりも現実をありのまま描く姿勢であるし、そして、その姿勢からは強い主張やメッセージ性とは異なり、「あきらめ」や「諦観」のようなものを感じさせられる。

人生は辛いし世の中も辛い。楽しいこと美しいことばかりではない。夢をもって生きたり努力するといった聞こえのいいテーマは、映画という虚構の世界では光り輝く。しかし、現実では難しいことでもある。成瀬作品の「あきらめ」もしくは「諦観」というのは、そういった現実では難しいということこそ真実ではないか、という冷徹ともいえるような姿勢なのである。

つまり、ここでいう「あきらめ」というのはネガティブな姿勢ではなく、現実を直視して生きるというポジティブな意味での「あきらめ」である。

成瀬作品には嘘っぽさを感じない

映画は虚構の世界であるし、だからどの作品も、その質は違えど嘘っぽさがある。

成瀬作品で描かれる世界も虚構の世界、つまり嘘の世界である。しかし、現実をそのまま描こうとする成瀬作品からは、小津作品や溝口作品や黒澤作品のように、特徴的な嘘っぽさというのを感じない。

映画監督の作風や特徴というのを、嘘っぽさと言い換えてしまえば、成瀬監督の嘘っぽさは目立たない。そのため成瀬監督は、特徴がないのが特徴ともいえる。

だから地味であるし、だからザワザワというはっきりしたのとは異なる印象になるし、だから時代を経ても普遍的な人間が生きる上での悲しみや喜びということを感じさせてくれる。

そして、成瀬作品のように、作品を観て胸をザワザワさせられる映画監督というのはなかなか思いつかない。そのため、成瀬監督は特殊な映画監督だと思うし、成瀬作品には大きな魅力がある。

成瀬監督の代表作としては、一般的には『浮雲』(1955年)が挙げられる。

腐れ縁の男女を描いた『浮雲』は傑作だと思う。ただ、成瀬監督の魅力が詰まった作品は『浮雲』だけではなく、上述した『乱れる』の他、『めし』(1951年)、『女が階段を乗るとき』(1960年)、そして遺作の『乱れ雲』(1967年)など多くある。

こうして考えると、やはり成瀬巳喜男を第四の巨匠というのは失礼じゃないかと思ってしまうのである。

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