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タランティーノ作品を前期・中期・後期で考える

『パルプ・フィクション』は傑作だ。

1994年、クエンティン・タランティーノ脚本・監督によるこの作品は、公開と同時に世界に衝撃を与えた。監督二作目にしてカンヌ国際映画祭でパルムドールを受賞、タランティーノの名は世界中に轟き、時代の寵児となった。

『パルプ・フィクション』は、その後多くの映画に影響を与えることとなった。また、タランティーノの発言ひとつひとつが注目され、映画界に与える影響は絶大なものとなった。

『パルプ・フィクション』以降、その影響を受けたであろう、時系列を操作した作品が多くみられるようになった。『パルプ・フィクション』以降、"タランティーノが絶賛"という謳い文句の映画をよく目にするようになった。

その影響は、今日でも衰えることがない。

もしもまだ観ていないなら観ろと、ただその一言を伝えたい。とにかく凄いから、と。

『パルプ・フィクション』という呪縛

『パルプ・フィクション』以降も、タランティーノは作品を発表してきた。どれも一定の評価を得、時には賞を受賞し、興行的にもある程度の成功をおさめている。

しかし、『パルプ・フィクション』を超える作品は作られていない。

観る側は、どうしても『パルプ・フィクション』のような、もしかすると『パルプ・フィクション』を超える衝撃を期待してしまう。

しかし、監督二作目にして、映画界に燦然と輝く大傑作を送り出してしまったことは、ある意味で不幸なことだったとも感じる。まだ監督二作目、歳も若く、これからも傑作を作り出してくれるだろう、世の中にそう期待させてしまったのだ。

長い事、『パルプ・フィクション』を超える作品を待った。しかし、現れない。タランティーノ自身がどう思っているかわからない。しかしもう、タランティーノは『パルプ・フィクション』を超える作品を作ることが出来ないのだなと、諦めを感じてしまうようになった。

その後のタランティーノ作品を観ると、『パルプ・フィクション』を越えようとしてもがき、しかし決して『パルプ・フィクション』を超えられない『パルプ・フィクション』の呪縛に捕えられているようにさえ感じられてくる。

そこで、この記事では、タランティーノの作品がどう変化し現在に至るのか、初期・中期・後期に分けて考えてみたいと思う。

※ 脚本作品、『フォー・ルームス』(1995年)などの短編、一部のシーンを演出した作品は除く。

前期 ~逆説によるカタルシスを生み出す作品群~

前記、つまりタランティーノの初期作品は以下の3作品だ。

・レザボア・ドッグス(1992年)
・パルプ・フィクション(1994年)
・ジャッキー・ブラウン(1997年)

その特徴をあげると以下になる。

・時系列の操作
・主張しない暴力描写
・レトロとオマージュ
・ユーモアある会話
・物語と一体化した音楽

時系列の操作

初期作品における最も大きな特徴は、時系列の操作であろう。『パルプ・フィクション』を頂点にして、『レザボア・ドッグス』にも『ジャッキー・ブラウン』にも、巧みな時系列の操作がある。

それまでの映画でも、過去の回想や、過去と現在を交互に見せる方法は多く用いられてきた。しかし、複数人がおりなす一連の話の流れを一度解体して再構築、登場人物毎に異なる視点で描き、一見関係なさそうな物語のピースがピタリとはまる、そうすることで、見る側に一種のカタルシスを与える、そのような作品はなかった。

だから、『パルプ・フィクション』は衝撃だった。

このような時系列操作の原型は、キューブリックの『現金に体を張れ』(1956年)に見られるし、『ジャッキー・ブラウン』の後半、デパートシーンで見せたそれは、まさに『現金に体を張れ』である。

しかし、『パルプ・フィクション』のように、話全体の時系列が解体・再構築され、観る側にカタルシスを与える巧みな作品は存在しなかった。

このような時系列を操作した映画を、グランドホテル方式や羅生門方式などと同様、勝手にパルプ・フィクション方式と呼んでいる。

クリストファー・ノーラン監督は時系列の操作で有名だが、そもそもタランティーノの影響を受けていると思われる。内田けんじ監督の『運命じゃない人』(2005年)も、もろにパルプ・フィクション形式の作品だ。さらに、『ロック、ストック&トゥー・スモーキングバレルズ』(1998年)『21グラム』(2003年)など、複数人が絡み合い、時系列を操作した作品は多岐にわたる。これらはすべて『パルプ・フィクション』以降の作品で、『パルプ・フィクション』の影響抜きには語れないだろう。

主張しない暴力

タランティーノと聞いて、バイオレンス作品を想像する人がいるかもしれない。激しい銃撃戦や大量の血塗れシーンなどである。

しかし、初期三作は極めて静かな作品だ。

例えば『パルプ・フィクション』では、流血シーンが多いわけでない。大量の人間が死ぬわけでもない。あっさり何でもないように、それまで主役級だった人が殺されたりする。

主役級の人があっさり殺される。つまり、初期作品の暴力は、これなのである。

話の流れの中で突然、暴力が発生する。そして、何事もなかったように話は続いていく。そうすることで、話の中で暴力が浮き立ち、かえって見ている側に強烈な印象を残す。

つまり、主張しない暴力描写がかえって暴力を際立たせているのである。

北野武監督作品も同じように、突如起こる暴力が描かれ、彼の作品の特徴となっている。タランティーノが北野武監督作『ソナチネ』(1993年)を絶賛したのも頷ける。

『レザボア・ドッグス』で、マイケル・マドセンが一人軽妙にダンスをしていたかと思うと、平然とした顔で、縛り上げた警官の耳を切り落とす。

主張しない暴力が現れた極致的なシーンだ。

レトロとオマージュ

これは初期作品に限ったことでないが、オープニングのテロップが流れると、タランティーノ作品だなと感じる。フォントや色使いなどが、古いのである。別の言い方にすれば、レトロなのだ。

しかも、クラシックや古典的古さでなく、70年代頃のB級作品的な古さを感じさせる。

これはオープニングテロップに限ったことでなく、作品全体に、レトロ、B級感を漂わせる。絵画のような映像美とは真反対だ。しかし、それが却ってクール、かっこいい、お洒落に感じるのである。

また、随所にさり気なく過去の映画のオマージュを感じさせ、わかる人にはわかる、映画ファンの心をくすぐり、ニヤリとさせるようなオマージュや引用が多数用いられている。

ユーモアある会話

これも初期作品に限ったことでないが、タランティーノ作品には、作品全体にユーモア感が漂う。それを演出しているのは、登場人物たちの会話である。

ストーリーとは無関係な話を、登場人物たちがただグダグダ喋っているシーンは、タランティーノ映画の特徴としてよく言及される。では、そのグダグタの会話シーンは、何を生み出しているのか。それは、作品全体にユーモアの空気を醸し出すことだ。

タランティーノ映画をカテゴリーするなら、おそらくバイオレンス映画となるとのだと思う。もしくはアクション映画とされるかもしれない。しかし、コメディ映画とされてもおかしくないと感じる。それは、グダグダの会話によって醸し出されるユーモアが、作品全体から感じられるからに他ならない。

例えば、シリアスな政治映画で、『レザボア・ドッグス』のようにマドンナの歌詞について延々と話すシーンなんて描かれない。ホラー映画で、『パルプ・フィクション』のように、どうでもいいヨーロッパでのハンバーガーの呼び方についての会話なんて描かれない。

マフィアや強盗団が登場するバイオレンスを描いた映画で、グダグダの会話が続くことで、観客にユーモアの空気を感じさせているのである。

物語と一体化した音楽

初期三作は、『レザボア・ドッグス』といえば、ジョージ・ベイカー・セレクションの『Little Green Bag』。『パルプ・フィクション』といえばディック・デイルの『Misirlou』。『ジャッキー・ブラウン』といえばボビー・ウーマックの『110番街交差点』というように、音楽が非常に印象的だ。それは、映像とマッチしたタランティーノの抜群のセンスで生み出されたものであろう。

ただ、それ以上に、初期作品のなかで印象的なのは、音楽の使い方といえる。例えば、『パルプ・フィクション』のオープニング・クレジット中、グチャグチャというラジオのチューニングをしている音が鳴り、音楽は『Misirlou』からクール & ザ・ギャング の『Jungle Boogie』に切り替わる。そして画面は、ジョン・トラボルタ演じるヴィンセントと、サミュエル・L・ジャクソン演じるジュールスが、車中で会話しているシーンとなる。

つまり、『Misirlou』も『Jungle Boogie』も、トラボルタとサミュエル・L・ジャクソンが聴いていたラジオの音楽だった、という仕掛けだ。

これは、観客が、物語中で登場人物たちと一緒に同じ音楽を聴いている状態となる。物語と一体化した音楽とはこのことだ。

こうした音楽の使い方は、初期作品で随所にみられる。

これまでも映画において、登場人物がテレビやラジオ、レコードで聴いている音楽を流すという手法はあった。しかし、タランティーノの初期作品ほど顕著に、物語と一体化した音楽として使われたことはない。映画音楽の正攻法とは異なるのである。

『ジョーズ』の恐怖をあおる音楽。『ロッキー』の心を震い立たせる音楽。『地獄の黙示録』でのワーグナー。どの音楽も、映像とマッチしていてとても印象的だ。しかし、タランティーノの初期作品の音楽の使い方は、それら有名な音楽シーンのどれとも異なる。

タランティーノの初期作品は、登場人物と一緒になって、観客も同じ音楽を聴くのである。そうすることで、観客に映画の世界にいるような錯覚を抱かせ、そして、音楽と映像を強烈な印象として残させる。

逆説によるカタルシス

こうして初期作品、特に『パルプ・フィクション』に顕著にみられる特徴を眺めたとき、ひとつの共通点が浮かび上がる。

これら特徴は、すべて、逆説なのだ

順序だっていないのに抜群に面白いストーリー。静かなのに強烈な暴力。レトロなのに新しい映像。ただの会話なのに面白い会話。正攻法でないのに印象的な音楽。

これまで、古い、ダサい、正しくない、もしくは正攻法とは異なる、そうしたものを、新しくてお洒落なものに昇華させる。

それが、観ている側に価値観の逆転を体験させ、壮大なカタルシスを提供する。

タランティーノは価値観の逆転を作り出した。それまで、つまらない、B級、低俗といわれるものに価値を見出した。

その価値観の逆転という影響は、映画界にとどまならない。タランティーノは、芸術・文化全体へ影響を作りだした人物なのだ。

中期 ~偏執的な映画愛と大衆への意識が混濁した混迷期~

中期作品は、以下の3作品を指す。

・キル・ビル Vol.1(2003年)
・キル・ビル Vol.2(2004年)
・デス・プルーフ in グラインドハウス(2007年)

『ジャッキー・ブラウン』の発表後、6年間、タランティーノは沈黙した。

タランティーノが愛する70年代のブラックスプロイテーション映画へのオマージュを捧げた『ジャッキー・ブラウン』に対して、世の中の反応は芳しくなかった。『パルプ・フィクション』のような絶賛を受けることもなく、興行面でも伸び悩んだ。

この結果をみて、タランティーノは、自らの偏執的な映画愛と、大衆への意識との折り合いに悩んだのではないだろうか。自らが愛する映画愛を描くだけではダメだ。観客はパルプ・フィクション以上の衝撃を求めている…どうすればいいのか。

そして、6年間の沈黙を破り発表したのが『キル・ビル Vol.1』『キル・ビル Vol.2』である。

この作品は、文句なしに面白い。

しかし、作風は前三作とは異なった。

・時系列の操作はあるが目立たない
・暴力描写が派手
・プロモーションビデオ的な音楽
・オマージュがオマージュとわかりやすい

時系列の操作はあるが目立たない

初期三作、特に『パルプ・フィクション』で衝撃を与えた時系列の操作は確かにあるものの、それでカタルシスを与えるものでもなく、目立った存在ではない。

暴力描写が派手

暴力描写は激しく血しぶきが飛び散り、派手である。しかしそれは、これまでの主張しない暴力とは異なる。

プロモーションビデオ的な音楽

音楽は、非常に印象的に使われている。しかし、初期作品のような物語と一体化した音楽でなく、楽曲のプロモーション映像のような使われ方だ。

例えば、ルーシー・リューが布袋寅泰の音楽をバックに颯爽と登場するシーン。実にカッコいい。しかし、『パルプ・フィクション』での『Misirlou』や『Jungle Boogie』とは違う。それは、楽曲のPVのようなカッコよさだ。

オマージュがオマージュとわかりやすい

初期作品で、わかる人にはわかる、さりげなく登場していたオマージュが、非常にわかりやすく登場するようになった。

ユマ・サーマンの衣装はそのままブルース・リーの『死亡遊戯』であるし、他にも、『吸血鬼ゴケミドロ』の飛行機シーンや、GOGO夕張が使う鉄球は『片腕カンフー対空とぶギロチン片腕カンフー対空とぶギロチン』のそれだ。

それらのオマージュは、オマージュであることを隠そうとせず、逆に故意的に目立たせている。まるで、デカデカとCHANELのロゴが入ったバックのように、すぐに、ああ、あの作品のオマージュとわかるようになっている。

つまり、わかりやすくなったのである。だから『キル・ビル Vol.1』を観た時、タランティーノは、映画マニアだけでない、大衆がわかりやすい映画を作ろうとしたのだなと感じた。

観客に前提を設けた『デス・プルーフ in グラインドハウス』

『デス・プルーフ in グラインドハウス』は、大衆向けでなく、タランティーノが自らの偏執的な映画愛へ偏った作品と捉えられる。

ただし、タイトルから、「この作品は、グラインドハウス(70年代、低予算のB級映画を2本、3本立てで上映していた映画館のこと)へのオマージュです」とわかる形で伝えている。つまり観客に対して、鑑賞する前から「これは自分の映画愛が偏った映画です」という前提を持たせているのだ。

6年間の沈黙期、そしてこの混迷期、タランティーノの中で迷いがあったのではないだろうか。

『キル・ビル』で大衆がわかりやすい映画を作った。『デス・プルーフ』で前提を設けたうえで映画愛に偏った映画を作った。

しかしこれから、自らの偏執的な映画愛をそのまま描いてよいのか。それとも、大衆向けに意識した映画を作るべきか…

後期 ~大衆向けに吹っ切った作品群~

後期作品は、以外4作品である。

・イングロリアス・バスターズ(2009年)
・ジャンゴ 繋がれざる者(2012年)
・ヘイトフル・エイト(2015年)
・ワンス・アポン・ア・タイム・イン・ハリウッド(2019年)

混迷期を経て、タランティーノの作風は、大衆を意識した作りに吹っ切ったように感じる。

後期の作品を見ていて特に思うのは以下の3つだ。

・"史実を操作"したストーリー
・派手で残虐性が増した暴力描写
・登場人物の見た目がコミカル

"史実を操作"したストーリー

初期三作は、大胆な時系列の操作で評価された。これからは、時系列の操作とは違う何かを作ろなければいけない…となった時、「時系列よりもっとすごい時間の操作、それはつまり”史実の操作”だ!」という答えに辿り着いたのではないかと想像する。

時系列よりも大きな時間を操作する史実の操作、その方がより大胆であり、どうだ、面白いだろう!と。

それが、ヒトラーがボコボコにされて殺される『イングロリアス・バスターズ』であり、殺人事件で殺されたはずの人物が無事に生き残る『ワンス・アポン・ア・タイム・イン・ハリウッド』である。

派手で残虐性が増した暴力描写

また、後期の作品群にすべて共通しているのは、圧倒的な暴力描写である。これはタランティーノの作品ですよ、という目印のように、派手でリアルで残虐性のある描写だ。それらの描写は凄みがあるし、さすがタランティーノと思わせる。

「観客が俺の作品で観たいのはこれだろ?」というタランティーノの声が聞こえてくるようだ。

しかし、その凄みは、初期作品とは異なる。

前述した初期作品のような主張しない暴力ではない。後期の作品は、「さあこれから、凄い暴力描写のシーンが始まりますよ!」という風に、主張する暴力なのである。

『ジャンゴ 繋がれざる者』や『ワンス・アポン・ア・タイム・イン・ハリウッド』のラストの暴力シーンと、上述した『レザボア・ドッグス』の耳を切り落とすシーン、もしくは、『パルプ・フィクション』の中で、ジョン・トラボルタ演じるヴィンセントが、突然後部座席に座る黒人の青年を拳銃で撃ってしまうシーン、『ジャッキー・ブラウン』でいえば、ロバート・デ・ニーロが駐車場でブリジット・フォンダを突然打ち殺すシーンを見比べてみてほしい。

主張する暴力と主張しないことでかえって主張される暴力の違いがわかるはずだ。

登場人物の見た目がコミカル

また、後期作品は、登場人物の見た目がコミカルなこともあげられる。

『イングロリアス・バスターズ』でちょび髭を生やしたブラッド・ピットは、クリストフ・ヴァルツのシリアスな演技とは対照的に、コミカルなコメディ俳優のような雰囲気をまとわせている。

『ジャンゴ 繋がれざる者』で、襟巻トカゲのような衣装を着るジェイミー・フォックス。『エイトフル・エイト』で、シルクハットを被り、黒、黄、赤という原色衣装をまとったサミュエル・L・ジャクソン。

どこかヘンテコでコミカル、場違いな印象すら与える人物のシーンが登場する。初期作品で、ダラダラした会話でユーモアを作り出していたのとは異なり、見た目のコミカルさでユーモアを作り出しているのである。

会話に比べ、見た目や動きの面白さはわかりやすく、世界共通だ。

サイレント期、チャップリンやキートンの喜劇は、台詞がなくても動きだけで面白さを伝えてくれた。『男はつらいよ』の主題歌が流れるオープニングは、台詞がなく、寅さんの動きによるパントマイム的な面白さを提供してくれる。

つまり、会話によるユーモアから、わかりやすい世界共通の、見てわかるユーモアへと移行したと感じる。

後期の作品は、このように、混迷期を経て、大衆向けにわかりやすい作品になった。

実際、興行収入では、上位3作品は後期作品が並ぶ。

・1位 『ジャンゴ 繋がれざる者』
・2位 『ワンス・アポン・ア・タイム・イン・ハリウッド』
・3位 『イングロリアス・バスターズ』
・4位 『パルプ・フィクション』
・5位 『キル・ビル Vol.1』
・6位 『ヘイトフル・エイト』
・7位 『キル・ビル Vol.2』
・8位 『ジャッキー・ブラウン』
・9位 『デスプルーフ in グラインドハウス』
・10位 『レザボア・ドッグス』

出典:「【最新版】クエンティン・タランティーノ監督映画作品 世界興行収入TOP10」(https://eiga-board.com/posts/6454)

偏執的映画愛が主役だった初期作から、混迷期を経て、後期作品では、大衆への意識が主役となり、偏執的映画愛は脇役となったのだ。

タランティーノ10作目への期待

『パルプ・フィクション』を頂点に、初期三作品こそ、タランティーノらしい傑作群だと思っている。しかし、中期の作品も後期の作品も、作風は変われど、魅力ある作品だ。

タランティーノは、かねてから、自身の監督作は10作で終える、と発言している。

10作品目とは、つまり、次の作品だ(『キル・ビル Vol.1』『キル・ビル Vol2』は一つの作品として数える)。次の作品が、最後のタランティーノ監督作品となるのかもしれない。

果たして、最後の監督作品に何を選ぶのだろうか。

そして、後期作品に続く大衆向けを意識した作品となるのか。それとも原点回帰して初期作品のような作品になるのか。

そのどれとも違う、遂に『パルプ・フィクション』を超える、こちらが想像もしていない何か途方もなく新しくて斬新な衝撃を与えてくれるのかもしれない。

タランティーノ監督10作品目、そして最後の監督作となるかもしれない次作が待ち遠しい。

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