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やりたくないことは、やりたいこと。

クリント・イーストウッド監督作『パーフェクト・ワールド』(1993年)は、脱獄囚の男と人質にされた少年の心の触れ合いを描いた、爽やかな感動をくれる作品である。

ケビン・コスナー演じる脱獄囚ブッチと少年は、二人とも、それぞれの事情で父の存在に飢えている。そんな彼らは、ブッチの父親がいるアラスカ目指して車を走らせる。父と過ごす完璧な世界=パーフェクト・ワールドを目指す逃避行となるのである。

しかし、悲劇が訪れ、パーフェクト・ワールドへの道は阻まれる。この時観客が感じるのは、道中を通じてブッチと少年は父と子のような関係を築いており、逃避行の最中こそパーフェクト・ワールド=完璧な世界だったということである。

こうして、この作品からは、完璧を目指すその過程にこそ価値がある、というメッセージを受け取ることになる。

しかし、それと同時に、この作品の裏テーマは、「自由がもたらす悲劇」という印象を受ける。

『パーフェクト・ワールド』における自由

脱獄囚ブッチは、意図せず少年を人質にとる。そして、ブッチは事あるごとに少年に言う。

「自分で選択しろ」と。

一緒に来るかどうかも自由。車に乗るかどうかも自由。逃げるかどうかも自由だと。

「自分で選択しろ」という台詞は複数回登場し、強い印象を受けることになる。そのため、この台詞にこそ、イーストウッドの本質的メッセージが込められているように感じる。

少年は、選択の自由を提示され、逡巡の末、常にブッチと行動を共にする。しかし最後、少年が取った選択こそが、悲劇を招くことになる。

自由は未熟さが生む傲慢

『パーフェクト・ワールド』で、「選択の自由」が提示される少年は8歳である。8歳といえば、まだまだ知識も浅く、経験も未熟である。

つまり、この8歳の少年は、未熟な人の象徴と感じる。未熟な人の自由は、リスキーである。

未熟な人は、子どもや若者に限らない。完全なる知識、経験を持った人間などおらず、全ての人は、個人的に限定された知識や経験しか持っていない。

そのため、全ての人は未熟な人と言える。

全ての人が未熟な人なのであれば、全ての人にとって自由はリスキーである。それでも自由な選択を行うのであれば、それは言ってしまえば、未熟さが生む傲慢である。

つまり、自由とは未熟さが生む傲慢であり、未熟さが生む傲慢が招くのは悲劇に他ならない。

「やりたいことをやろう」の嘘

自由という言葉は、なかなかトリッキーである。社会正義といった位置づけがなされながら、様々な場面で免罪符のようにも使われる。社会のスローガンとしても機能する。

現在、特に若者に対して、どんな人生を選ぶかは自由ということを前提に「やりたいことを見つけよう」「やりたいことをやろう」といったスローガンをよく目にする。

このようなスローガンを見たり聞いたりすると、随分と無責任だなと思う。

子どもや若者がこれから経験していく社会生活においては、大きいことであれ小さいことであれ、アンビバレンツの連続である。

「ケーキを食べたい」「けれど、太りたくない(だからケーキを食べない)」という相反する欲求が同時に発生する。

この場合、やりたいことは「ケーキを食べたい」なのか「太りたくない」なのか。

ケーキを食べて運動するという第三の選択肢もあるが、「ケーキを食べたい」を選択すれば「太りたくない」は達成されない。本当にやりたいことは「太りたくない」だと気づいた場合、今度は「ケーキを食べない」という、やりたくないことが立ち塞がる。

当然ながら、人生も社会も「ケーキを食べたい」という「やりたいこと」をやっていればいいというほど、甘っちょろいものではない。

大学に入りたいため、大変な受験勉強をする。やりたい仕事のため、難しい専門教育を受ける。社会人となって、やりたいプロジェクトのため、下っ端として経験を積む。

やりたいことのためには、やりたくないことが目白押しである。しかし、「ケーキを食べたい」のように、一見やりたいことは誘惑に溢れている。それでも、やりたくないことこそやりたいことである。

『パーフェクト・ワールド』の8歳の少年の選択は、常にブッチと行動を共にすることである。そしてブッチは、8歳の少年が経験したことのないハロウィンでの仮装や車の上でローラー・コースターを経験させる。それにより、少年は大きな喜びを得る。しかしブッチは凶悪犯であり脱獄囚である。

つまり、8歳の少年が「未熟な人」の象徴とするならば、ブッチは「悪魔の誘惑」の象徴である。

悪魔の誘惑に負け、やりたいことを選択すると、悲劇が待ち受けている。

一見、悪魔と過ごす時間はパーフェクト・ワールド=完璧な世界のようだった。しかしそれは、偽りの世界であり、やはり最後、二人に訪れるのは悲劇である。

人は皆未熟であり、自由であることは悪魔の誘惑との戦いである。

少年がするべき選択は、悪魔と過ごすことではない。そこで得た喜びは偽りであり悲劇である。少年が本当にするべき選択は、悪魔の誘惑に打ち勝ち、母親の元へ戻り警察に通報することだった。

『パーフェクト・ワールド』におけるイーストウッドの本質的なメッセージは、こういうことではないかと感じるのである。

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