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三谷幸喜と無人島ジョーク

三谷幸喜脚本の大河ドラマ『鎌倉殿の13人』はこれまで何度か見たが、あまり面白いという印象がなかった。

昨日の放送時、時間があったので見ようかと思ったけれども、楽しめる期待感もなく、見るのを止めた。

三谷幸喜脚本のドラマは未見の作品が多いため、映画作品を対象にして言うと、期待感はどんどん薄まっている。特に、近頃の三谷幸喜作品は安易だという印象を持っている。

三谷幸喜の作品パターン

近頃の作品は安易と思う理由の前に、三谷幸喜の作風について触れていくと、まず、作品(映画が対象。脚本だけの作品も含む)は、2つのパターンに分けられると思っている。

作品パターン(1)

一つ目のパターンは「もしも〇〇が△△だったら?」というシチュエーション物で、以下が挙げられる。

『12人の優しい日本人』(1991年)
もしも日本に陪審員制度があったら?

『ステキな金縛り』(2011年)
もしも幽霊が事件の目撃者だったら?

『ギャラクシー街道』(2015年)
もしも宇宙に夫婦経営のハンバーガー屋があったら?

『記憶にございません!』(2019年)
もしも総理大臣が記憶喪失になったら?

作品パターン(2)

二つ目は「複数人が共通のゴールに向かって努力するが、想定外の出来事によってゴールから脱線していく話」となる。

『ラヂオの時間』(1997年)
ラジオドラマの無事な放送がゴール

『みんなのいえ』(2001年)
新居の建設がゴール

『笑の大学』(2004年)
検閲を経ての上演許可がゴール。

『THE 有頂天ホテル』(2006年)
大晦日のホテルの無事な年明けがゴール。

『ザ・マジックアワー』(2008年)
街を牛耳るマフィアを騙し切ることがゴール。

『清須会議』(2013年)
信長亡き後の後継者の決定がゴール。

三谷幸喜作品の魅力

三谷幸喜のこれら2パターンに大別できる作品において、特徴的な魅力は3つあると思っている。

魅力(1)あり得なさと納得感

上述したパターン(1)の作品の場合、あり得ない設定で物語が進み、パターン(2)は、想定外のあり得ない事件が連続して起こる。

このように両パターンとも「あり得ない」物語なのだが、登場人物や事件の解決方法はあり得ないとは逆に、リアリティがある。そのため、納得感がある。

例えば、『12人の優しい日本人』は、日本に陪審員制度はないわけで、設定はあり得ない。しかし登場する人物たちは、自己中心的な人だったり、裁判に無関心だったり、自分の意見を言わない人だったり、「そういう人いるよね」となりそうな「あー、わかるわかる」な人たちである。

また、『笑の大学』でいえば、検閲官が修正指示するのはあり得ない無理難題ばかりである。それなのに、脚本家は無理難題に全て応えて、しかも更に面白いシナリオを書き直して来る。観客はそれを見て「なるほど」となる。

このように、三谷幸喜作品は「あり得ない」と「納得感」が同居している状態になる。

これは、例えるなら、地面に対してあり得ない角度の土台の上に、なぜか地面に対して平行つまりリアリティある家が建っている、そういう状態である。

あり得ない土台とリアリティある家

この一見おかしな状態、異質な組み合わせと不安定さこそ、三谷幸喜作品の大きな特徴であり、笑いを生み出している。

物語の設定はありえない。または次々起こる事件はあり得ない。しかし、そこに登場する人物や解決手段は「あー、わかるわかる」とか「なるほど」いう納得感がある。

そして、あり得ないはずなのに「あー、わかるわかる」や「なるほど」となるから、笑いと同時に「上手い」とか「巧み」という感想を抱くことになる。

魅力(2)突拍子のないオチ

三谷幸喜作品は喜劇であるから、笑いのオチがある。それは笑いのピークとなる。

オチのパターンのひとつは、あり得ない状況の中、何か問題解決に向かっている最中、突拍子もないことが問題解決の糸口になる。

『12人の優しい日本人』の場合、被告が事件現場で発したとされる「死んじゃえー!」が、実は「ジンジャーエール!」だったというオチになる。

これはそれまで展開されてきた流れからすると、予想できない突拍子もないことなのでギャップがある。ギャップという意外性によって、笑いが生まれている。

魅力(3)劇的変化のオチ

もう一つのオチのパターンは、問題解決の手段が劇的な変化によってもたらされるというものになる。

『笑いの大学』の場合、それまで人生で一度も笑ったことのない検閲官が、気がついたら自ら笑いもたらす台詞を考えたりシナリオ作りをするように”変化”する。『ラヂオの時間』は、それまでプロデューサーに従っていたディレクターが、心象”変化”してプロデューサーに反旗を翻す。そして、俳優陣と協力して放送は無事終了する。

これらは、それまでのキャラクター設定からすると劇的な変化であるから、これもまた、意外性がある。それが、笑いを生み出している。

近頃の三谷幸喜作品は安易

三谷幸喜作品は、上述した作品パターンと魅力があると思うが、しかし、冒頭に書いたように、ここ数年の作品から感じるのは安易さである。

近頃の作品を観ても、初期作品にあった「あー、わかるわかる」とか「なるほど」という印象が非常に少ない。また、突拍子の無さ、もしくは劇的な変化によるオチは、想定内の展開で驚きがない。つまりギャップの落差が小さい。だから、笑いを感じづらい。

近頃の作品においては、初期作品で色濃くあった魅力が薄まり、代わりに強くなったのは、”ナンセンスな見せる笑い”である。

それは、登場人物たちがおかしな装いをしていたり、おかしな動きで笑いを取るというもので、例えば、『ザ・マジックアワー』で佐藤浩市がナイフを舐めるシーンが象徴的といえる。

佐藤浩市のナイフ舐めシーンは、それはそれで非常に面白いシーンだったけれども、三谷幸喜の笑いはそういうことじゃないだろう、という思いも同時に抱く。

あり得なさと納得感の同居、突拍子の無さや劇的変化のオチは、巧みな言葉遊び、納得感を感じさせるため絶妙なリアリティ演出など、非常に練られた脚本が必要と思う。それに比べると、”ナンセンスな見せる笑い”は安易と感じる。

近年の三谷幸喜作品が安易と思うのはそのためである。

三谷幸喜と無人島ジョーク

三谷幸喜作品を観ると、「無人島ジョーク」を想起させられる。

「無人島ジョーク」は、国に対するステレオタイプを題材にしたジョークで、Wikipediaに書かれている「1人の美女と2人の男性が無人島に漂流したら?」のジョークを引用すると以下になる。

イタリア人
男2人が殺し合い、生き残った男が美女を愛する。

フランス人
美女は1人の男と結婚し、もう1人の男は美女の愛人となって、うまくいく。

イギリス人
互いに紹介されるまで口を利かないので、何も問題は起こらない。

日本人
どうしたら良いか、東京の本社にテレックスで問い合わせる。

Wikipediaより

これらは、あり得ない設定なのに「あー、わかるわかる」とか「なるほど」といった納得感がある。そして日本の場合、無人島なのに”東京の本社にテレックスで問い合わせる”という突拍子もない落差の激しいオチである。

初期の頃の三谷幸喜作品は、作品全体が「無人島ジョーク」のような秀逸なジョークだったといえる。

しかし、近年の三谷幸喜作品の場合、「無人島ジョーク」の設定でいえば、日本人が無人島で、突如、ヒマだからと皆で盆踊りを始めたり、または皆で顔芸を見せ合ったり、そんなような笑いと感じる。

三谷幸喜に思うこと

三谷幸喜は押しも押されぬ人気作家であり、大河ドラマや報道番組のキャスターのように、仕事のオファーも多いと思う。

ただ、近年の三谷幸喜作品の安易さから思うのは、三谷幸喜は本当にこの作品を書きたいと思って書いているのだろうか?という思いである。

三谷幸喜作品に期待するのは、笑いである。だから、笑いを取れるよう脚本を書く。笑いを取れるよう演出する。しかし、笑いを取るというのは難易度が高いであろうし、練られた脚本が必要と思う。

仕事として受けた脚本や監督作で、プレッシャーもある中、何とか笑いを取ろうとした結果、ナンセンスな笑いに比重が傾いていったのではないか、そんな風に思う。

三谷幸喜は十分に人気作家であり、自分の企画も通せる立場だろうと思う。筆が遅いで有名だけれど、腰を据えて今一度、本当に書きたいテーマを練りに練った脚本で、「あー、わかるわかる」とか「なるほど」とか落差の激しいギャップの巧みな笑いの作品を作ってほしいと願う。

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