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とてつもない悲しみを体験したあなたへ

悲しみを抱えているあなたへ。

あまりに強烈な感情で、どうやって向き合っていいのか、どう処理をしていいのかわからず、途方にくれているあなたへ。

今日は、私がどんな風に悲しみと向き合ってきたのか、どんな風に私の心が「大丈夫」になったのかをお伝えしたいと思います。

これを読んで、少しだけでも希望になれば幸いです。

生きていると、乗り越えられるのだろうかと思えるほどの悲しい出来事というものに何度も出会うことになります。

特に、愛する存在の「死」という出来事は、残された側にとっても強烈な体験です。

諸行無常。

避けられないことではあるのですが、この痛みほど避けたくなる事象はありません。

そして、不思議と「死」ほど、愛を浮き彫りにする出来事は他に無いようにも思えるのです。

昨年、父を亡くした際のことでした。

元気な間には、上手くコミュニケーションが取れなかったにも関わらず、死の前後には、涙が溢れ、自分が父を深く、深く愛していたことに気づいたのでした。

どうしてもっと早くに、優しく声をかけられなかったんだろう。

そんな後悔の気持ちは、まだ消えません。

ただ、きちんと悲しめた分だけ、きちんと涙を流せた分だけ、父親を愛おしく思う気持ちも感じられ、ショックは少なく済んだようでした。

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実は、若い頃の私は、悲しい気持ちのままに泣けない人間でした。

否定的な感情は、できる限り表現しない方がいいと、捉えていたのだと思います。

親が困ることは、しない方がいい。

そんな想いの積み重ねが、感情をこじらせていました。


私が19歳の時に、兄を交通事故で亡くした時も、涙は最小限に抑えようとしていました。

あまりのショックに、防衛本能が働いたのでしょう。

感じないようにと、一生懸命に感性に蓋をしたのです。

思い返すと、当時の私が見ていた心象風景は、モノクロの写真のようでした。

動きも、色もなく、記憶の断片がランダムに並んでいました。

「感じる」ことを閉ざした世界です。

唯一の方法として「時間」の流れに無力に委ねることで、向き合うには強烈過ぎる体験の熱が冷めるのを待っていました。

8年という歳月が過ぎ、私は、あるきっかけで、呼吸を使ったセラピーを受けることになりました。

深い呼吸を続けることで、私は変性意識になっていたのだと思います。

理性で強くせき止めていた感情の流れが、一気にあふれ出ました。

「お兄ちゃん、どうして死んじゃったの?」

「どうして?死なないで!」

駄々をこねる子供のように、足をじたばたさせて泣きじゃくりました。

そんな「理不尽な衝動的な行動」は、記憶にある限りしたことがありませんでした。

私は、小さな頃から、親を困らせないように生きてきた子供でした。

注射を打たれても、大きな声で泣けず、口をへの字にして、ポロリと涙を流すような子供だったそうです。

その癖がずっと続いていたのでしょう。

本当は、兄が死んでしまった時に、もっともっと悲しんで、泣いたら良かったのかもしれません。

ただ、振り返ると、兄が死んだ時だけの話だけではなかったのです。

その以前、小さい頃から、感情と上手く付き合えないできた結果だったのです。

そして、私を育てた両親と祖父母も、感情と上手く付き合っていなかったのですから、仕方のないことです。

私は、このセラピーを受けてから、感情と向き合い、否定的な感情も含めて仲良くしていくことを始めました。

ピクサー映画の『インサイドヘッド』は、このことが、とてもわかりやすい話としてまとまっていました。おすすめです。

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人前で、初めて大泣きしてからというもの、生きていくのがとても清々しく感じるようになりました。

心を解放したので、アップダウンはありました。

ただ、確実に言えたのは「恐怖感」が減ったことでした。

恐怖というのは、避けようとするとさらに膨張してきます。

なんだろう?と覗いてみると、本当の姿を現してきます。

本当の姿とは「愛」です。

長年連れ添った猫を見送る時も、「死」という恐怖を見ないようにするほど、「愛」を感じられないでいました。

覚悟を決めて、痩せていく愛猫の「死」を受け入れ、それに伴う様々な気持ち、悲しい、悔しい、後悔、寂しいも受け入れたら、

息をしている目の前の猫が、ただただ愛おしく感じられました。

ただただ感謝の気持ちで満たされました。

「ママのところに来てくれてありがとう」

「あなたと過ごせて本当に幸せだった」

そして、私の執着心や恐れを手放して、

「あなたのタイミングで逝っていいよ」と言えた時

猫は、息を引き取りました。

それから二日間、猫が火葬され、骨壷に入るまで、ずっと泣き続けました。

悲しい、寂しいと、泣き続けました。

その結果、予想以上に回復が早く、打ちひしがれるようなことにはなりませんでした。

今でも、思い返すとせつない気持ちは上がってきます。

ただ、そのせつなさには、しっかりと愛が一緒にあるのです。

大好きだから、会えなくて悲しい。

だから、まだ生きていて大好きな存在には、一瞬、一瞬を大切にしようと思える。

亡くなった存在は、そんなことを教えてくれている気がします。


とてつもない悲しみを体験したあなたへ。

どうぞ、悲しみを支える愛の存在に、心を開いてみてください。



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