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多様性を問い続けて、考える

一人ひとり、違うもの。同じように時間が流れ、地球は回っていくという変わらなさ。いろんなことを考慮しても考慮しきれない世界の広さと深さ。

みんな違ってみんないい、で終わらせない。「結局、人それぞれだよね」は、答えでもなんでもない。その先を考えたい、と思う。多様性がある、ってなんだ、と分からないことをずっと分からないまま考えている。

たぶん、常に動き続ける、そんな「多様性」がある。みんな違ってみんないい、はそこで止まってしまって動かない「多様性」だ。

「みんな違って、みんないい」世界。本当にわたしはそこにいていいんだろうか。結局人それぞれだから、お互いには分かりあえないよね、という当たり前のことを確認して終わり、はやっぱりつまらない。

みんながいていい場所として作られた「ふれあい広場」のなかに、「ボール遊びは禁止です」「大声を出さないでください」とか、たくさんの看板が掲げられて、そこがなんだか居心地の悪いものになっていく。そこは静かで落ち着いている場所かもしれない。けれど、子どもたちの元気な遊び声は聞こえないし、友達どうしで笑い合って、語らうことは難しいかもしれない。お互いにただ「いる」だけで、とても分かりあえない。

一見、誰かのためのやさしさに見えるものが、他のだれかの「してもいい」ことをできなくさせている。人と人とが交わらない、見えない境界線がいつのまにかできてしまう。

主婦や主夫も立派なスキルだし、私もそのスキルを活かしたい、と思う。
でもいまの就職に関するルールだと、そうした個々の家庭環境について言及することは仕事とは関係ない事由とみなされ、独り身の人に配慮できていない、不公平なものになるから、本当は記載できないという。もちろん「主婦・主夫歓迎」という求人はたくさんあるけれど。

みんながそこにいていい場所、いられる場所は、本当はもっと雑然としていて、地面に子どもの掘った穴や落書きの線がのこっていて、ときどきボールが転がってくるような、デコボコした場所なんじゃないか、と思う。ルールはもっとゆるやかで、変わり続け、そこは雑然として、混沌とした開かれた場所。そんなイメージを追いかけ続けている。

ひとりで考えていても、きっと多様性は生まれない。異なる声を聞くこと、自分の言葉を見つけること、変わっていくことを恐れないこと、たくさんの時間をつかってゆっくり考えること。

ひとりで深く深く、水の中へと潜っていく。もし、知識やスキルがあれば、それはできるかもしれない。でも、それをもたない頼りない私はたぶん、誰かと手をつないで潜っていくほうがきっと安心できる。そうやってみんなで考えられる安心できる場が、もっとたくさんあればいいのに、と思う。
学校の道徳は、お決まりのルールは教えてくれても、ルールに対して疑問を投げかけることは教えてくれなかった。いまのルールに疑問を投げかけるところから、この世界への長い問いの旅は始まる。

問うことは面白いな、と思った本がある。多様性というよりは普遍性を求めて問い続けている哲学。だけど、同じように「分からなさ」は立ちはだかる。それと対峙しながら、対話の中でわからないことを共有してつながっていく。答えには、たどり着かないから、ずっと考えていく。


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