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働いている妻がいる私はラッキーなのか?

妻もわたしも、ずっとフルタイムの共働きだった。二人で新しい住まいに暮らし始めた頃は、妻は病院勤務で早朝から深夜まで働きづめだった。わたしのほうが、朝ゆっくり出て、早くに帰ってくる。
家事をするのが、当たり前だった。

40代の夫が自分の夕食を作ること、お風呂場にタオルを置くこと、仕事が早く終わった時に「娘をサッカーの練習場に迎えに行こうか?」と聞いてくれることをラッキーだと言うのは、夫が大の大人という事を無視して、普通であるべき事を過大評価している。
大人が自分の事をやっている事はすごくも何ともない。問題は、それさえやらない事だ。

当たり前にやっていることをラッキーだといわれると、わたしもモヤモヤした気持ちになる。
わたしは、掃除機をかけて、洗濯機を回して、ベランダに布団を干して、窓を開け放して家じゅうの空気を入れ替える休日の朝が、とても好きだ。それがわたしにとっての日常で、それを妻が特別に思うことも無かったはずだ。

子どもが生まれてからも、共働きは続いた。ただ、2人とも職場が変わりどこかに無理がでてきていた。わたしは、だんだんうまく働けなくなって、キャリアを一旦降りることになった。

働けなくなっても、妻が稼いでくれる。働いている妻がいる私はラッキーだったのだろうか?

妻には本当にいつも感謝している。とても素晴らしい仕事をして、その対価を受け取り、私たちの家庭に恩恵をもたらしている。だけど、そのことをラッキーだと言ったら、きっと怒るだろう。

それは、ラッキーなんかじゃなく、彼女がずっと続けてきて頑張ってきた立派な仕事なのだから。それを、そんな軽い言葉であしらうことなんてできない。

わたしは、家事をしている。毎日子どものお迎えに行って、ごはんを作って、遊んで勉強して、一緒に寝る。いまは、それがちょうどいい。

それがわたしたち夫婦の暮らしで、偶然見つけたものじゃなく、手探りでちょうどいいやり方を見つけて、なんとかやっている。いっぱいケンカもして、悩んだことも多い。いまも完璧ではないし、変わりゆく状況に少しずつ調整しながら日々を過ごしている。

夫婦のあり方は人それぞれで、いろんなやり方がある。
けれど、ときどき社会の側がそれを邪魔する。暗黙のルールによってわたしたちを画一的な「ふつう」のなかに押し込める。そして、そんな圧力からうまく逃れられた人は、ラッキーであるかのように思われてしまう。

そんなラッキーなんてなくていい。
それがラッキーなんかじゃなく当たり前であるような社会であってほしい。

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