心理的安全性って、誰が作るんだっけ
待っていてもいつか現れるわけじゃないしなあ、という話。
最も生産性が高いチームは、心理的に安全なチーム、だけど
Googleが実施したプロジェクト・アリストテレスは素晴らしい成果を提示してくれた。もう、「成果が出るチームはどう有ればよいのか」に悩む必要はないのだ。ここに決着をつけたというのは本当にイノベーティブなことだと思う。そのインパクトは大きく、「心理的安全性」は瞬く間に世界津々浦々まで染み渡ったかのように思える。
・・・が。では、現代の世の中には、生産性が高いチームが目白押しになったのだろうか。なんだか余りそうは思えないのだ。
何が起こっているのか?
チームの状況について、このようなコメントを見かけることが増えたように思う。
「うちのチームのパフォーマンスが高くないのは心理的安全性が担保されていないからだ」
「うちのマネージャーには心理的安全性なんて理解できないんだろうなあ。。。」
「もしかしたら心理的安全性っていう言葉すら知らない可能性もあるかもね」
「まあ、もし知っていたとしてもマネージャーにはとてもそんな場作りはできないだろうなあ」
心理的安全性が待っていてもやって来ない理由
心理的安全性待望論。これはなんだか、不景気な社会に置いてカリスマリーダーが求められる構図に似ているかもしれない。だれか、私達の苦しみを理解してくれ!そして、この窮状を救ってくれ!どうすればいいかはわかっている、簡単なんだ。強力なリーダーシップでもって、一歩ブレークスルーしてくれればいいだけなんだ!
しかし。カリスマリーダーは現れない(それっぽい人は出てくるけど、それがあなたの求めているものと同じではないことは知っての通り)。それと同様に、シルバーブレットとしての心理的安全性は、あなたのもとには訪れない。
これは、確率論的な話でもあるけれど、それ以上に心理的な話だ。つまり、「いつか誰かが心理的に安全なチームを作ってくれる」というメンタリティーを持っていると、いつまで経っても心理的な安全性を感じることはできない。
そして、実は逆もまた然りだ。傍から見ていると過酷な環境のようであったとしても、実はその中で心理的安全性を感じながらいきいきと生産性高く仕事をしている人は存在する。
チェックリストのようなものを用いて「心理的安全性診断」のようなことをやっても余り意味がない。なぜならそれは、欠点のない聖人君子を探しているようなものだから。どこか一つでもチェックがついてしまったらもうその職場はあなたにとって安全な場ではない、とするならば、おそらくあなたには永遠に安全な職場は手に入らない。
心理的安全性は作るもの
相対的に過酷な環境でもいきいき働いている人の動きを見ていると、彼女ら・彼らにとってもはじめから快適な環境であったわけではないことがわかる。上司からはどやされる。クライアントからは無理難題が降ってくる。同僚は心を開かない。後輩は何を考えているかわからない。
もちろんそこで、チェックがたくさんついたリストを眺めてため息をつきながら、いつか聖人君子が上司に取って代わることを夢見て耐え忍ぶのも悪くない。実はそれは結構安定的で心地よい選択だ。なぜなら、物事がうまく行かない状況を、誰かのせいにし続けることができるのだから。
でも、そうではない選択をする人もいる。つまり、「心理的安全性を感じられる状況を自ら作る」選択をする人だ。
上司が怖い?怒られる?なら、パフォーマンスを上げて怒られないようにすることもできるし、反論することだってできる。相互に信頼関係を築くことができれば、もはや上司は怖い存在ではなくなる。
クライアントに無理難題をふっかけられる?どうしてクライアントはそうするのか。なにか理由があるのでは。もしくはそれはクライアントにとっては無理難題には思えていないのかもしれない。こちらが勝手に誤解しているだけかもしれない。やはり懐に飛び込んで背景を理解し合えれば、むしろ強固な信頼関係に変わることはよくある話だ。
同僚だって後輩だって、「よくわからない」と思っているのはおそらくお互い様だ。よくわからないのが居心地悪いのなら、わかりあえば良いだけ。
安全な場かどうかは、自分が決めることだ。
もちろん、すべてを自己責任に帰結させるつもりはない。心理的安全性がある職場づくりに、マネージャーが持つ影響力は絶大だ。マネージャーこそが心理的安全性の主役であるということを否定するつもりはまったくないし、私自身もピープルマネージャーとして、自分自身の責任を非常に強く感じ、努力し続けているつもりだ。ただ、もし「自分の職場には心理的安全性がない」と嘆いているとしたら、もしかしたらご自身でなにかできることがあるかもしれませんよ、ということを伝えたい。
上司がコンシャスになってくれることを待っていたら、待っているだけで人生が終わってしまうかもしれない。その選択をされることももちろんありだとおもう。その場合、いつかその方に心理的安全性が訪れる日が来ることを願いたい。
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