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【古代オリエント5】 諸王国の興亡

●世界史シリーズ Sec.5

1) 前2000年紀後半のオリエント情勢

 前2000年頃から,インド=ヨーロッパ語系の諸民族が,ユーラシア北部から南下し始め,アナトリアやバルカン半島に移動・定住します。

 アナトリアでは,インド=ヨーロッパ語系のヒッタイト王国が成立し,前16世紀初めにはバビロン第1王朝を滅ぼします。

 それ以降,オリエント世界には突出した大国が現れることはなく,力の拮抗する複数の国々が並び立つ情勢になりました。

 メソポタミアの南部では,バビロンを中心にカッシート王朝が長期政権を築き,北部ではミタンニ王国が拡大して,一時アッシリアを属国とし,さらにシリアやアナトリア南東部にまで及ぶ強国となりました。

 同じ頃エジプトでは,第18王朝の王がヒクソスを一掃して,エジプト人による統一王朝(新王国)を復活させ,ミタンニに対抗して,パレスチナからシリアへと軍事進出を繰り返すようになります。

 しばらく低迷していたヒッタイトは,前14世紀に再び勢力を取り戻し,シリアの支配をめぐって,ミタンニやエジプトと対立しました。

 ヒッタイトは,前14世紀半ばにミタンニを征服しますが,そのミタンニから独立したアッシリアが勢力を急拡大し,カッシートやヒッタイトと対峙するようになります。

 諸王国は互いに領土を争って対立し,各地で武力衝突が起こりました。
 その一方で,条約を結んで国境を定めたり,王の娘を他国の王家へ嫁がせる政略結婚で同盟を結ぶなど,共存を探る取り組みも行われました。

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[図版]前2000年紀中頃〜後半のオリエント
 図中の各国の領域は同時代のものではなく,それぞれの最大領域と思われるものを重ねています。なお,各国の最大領域の範囲については,文献によって捉え方に違いがあります。
 のちに世界帝国を築くアッシリアは,前2000年頃には既に王国として成立していたとされます。前18世紀初め,アムル系のシャムシ=アダド1世のもと隆盛を極めましたが,その後衰退して,一時期ミタンニ王国の属国になるなど低迷しました。表舞台への再登場は前14世紀以降になります。

デジタル解説 ▶︎オリエント諸王国の分立
(パイロット版)

2) インド=ヨーロッパ語系民族の登場

 インド・ヨーロッパ語系民族の原住地については,黒海・カスピ海北方の草原地帯とする説が唱えられており,前2000年頃には,ユーラシア大陸の各方面へ移動を始めたと考えられています。

 オリエントに登場したインド=ヨーロッパ語系民族として,前19世紀に,最初の一波がアナトリアへ到達していたことが確認されています。
 その中から,インド=ヨーロッパ語系であることが確実な最古の国として,ヒッタイト王国が成立します(前17世紀)。

 続いて前2000年紀中頃には,古代インド語を話す集団が,メソポタミア北部のフルリ人の国に現れ,オリエントの近隣では,ミケーネ文明を築いたギリシア人も現れました。
 彼らは,戦闘用の二輪馬車を操る戦士集団だったのではないかと考えられています。

 さらに時代が下って,前1000年紀には,メディア人ペルシア人などイラン系の民族がイラン高原に現れました。
 彼らはのちに,オリエント全域に広がるような巨大な帝国を築くことになります。

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3) 謎多き強国 〜ミタンニ興亡史〜

 ミタンニ王国フルリ人(フリ人)の興した国で,メソポタミア北部を中心に,前16世紀には成立していたと考えられています。

 フルリ人は古くからメソポタミア北部に住んでいたとされ,彼の地で出土した前3000年紀末の印影には,すでにフルリ語の王の名前が刻まれていました。

 フルリ語は,セム語系やインド=ヨーロッパ語系とは異なる系統で,コーカサス(カフカス)地方の言語との類縁関係が議論されています。

 ミタンニは,いまだ謎の多い国です。

 ミタンニ自体の遺跡の発掘が進んでおらず,ミタンニに服属していた国の文書や,エジプトやヒッタイトから出土するミタンニとの契約文書など,間接的な情報に頼っているためです。

 ミタンニは軍事力が強かったことでも知られています。

 その理由は,早くからに引かせる二輪戦車を用いていたこと。スポーク式の車輪を備えた軽量で機動力の高い戦車でした。これはインド系の戦士集団が伝えたものと考えられています。

 ヒッタイトの遺跡から,ミタンニの馬の調教師がつくった調教の教科書が発見されており,実は,ヒッタイトに戦車戦術を伝えたのはミタンニだったとする説もあります。

 ミタンニの最盛期は前15世紀で,シリア北部を支配下に収め,東はティグリス川を越え,西はアナトリア南東部にまで支配領域を拡大しました。その過程で,弱体化していたアッシリアを属国としたようです。

 この頃,エジプト新王国は,ミタンニのシリア・パレスチナ進出に危機感を覚え,アジア方面の植民地化に舵を切ります。エジプトとミタンニはシリア領有をめぐってたびたび衝突しました。

 前14世紀になると,ヒッタイトがシリアのミタンニ領に侵攻し,その対抗上,ミタンニはエジプトと同盟せざるを得なくなります。

 長期の和平交渉の末,シリア北部をミタンニ領,シリア南部から南をエジプト領として同盟を結ぶことに成功しました。

 一方,ヒッタイトはミタンニの周辺国と同盟を結んで包囲網を形成し,ついには,ミタンニの首都を攻め落とします。

 前1340年頃,ミタンニはヒッタイトの属国にされてしまいました。その後,前14世紀後半にミタンニ王国は滅亡したと考えられています。

 ミタンニの末裔がシリア北部に興した小国(ハニガルバト)も,独立したアッシリアに征服され,ミタンニの歴史は終わりを告げます。

<検証> ミタンニはインド=ヨーロッパ語系?
 かつて,フルリ人やミタンニ王国はインド=ヨーロッパ語系(印欧語系)であると考えられていた時期がありました。
 少なくともミタンニの支配者層はインド=ヨーロッパ語系だったとする文献は今でも見られ,それは次のような理由によります。
ーーーーーーーー
▶︎ミタンニの王は,即位前はフルリ語の名前だが,即位後に古代インド語の名前に変わること。
▶︎ミタンニ王が,ヒッタイト王と交わした契約文書の中で,フルリの神々とともに,古代インドの神々の名を列記していること。
▶︎二輪戦車を操る戦士層を指す語(マリヤンヌ)が,古代インド語に由来すると考えられること。
ーーーーーーーー
 しかし,その後の研究で,ミタンニは支配者層も含めてフルリ人主体の国であったとする説が有力になり,高校世界史の各社教科書からも,ミタンニをインド=ヨーロッパ語系であるとする記述は無くなりました。
 一方で,比較的新しい文献に,フルリの王に雇われた古代インド語を話す戦士集団が,その王位を奪ってミタンニ王国を興したのではないか,とする記述もあり,「謎」の追求は続いているようです。

アセット 2

[図版]スポーク式車輪の二輪戦車イメージ
 シュメール時代にもロバが引く四輪戦車はあったようですが,車輪は板を2枚合わせたようなものでした。
 スポーク式車輪は前2000年頃発明されたと考えられ,軽量な二輪戦車は機動力に優れていたとされます。

4) アナトリアの雄 〜ヒッタイト興亡史〜

 インド=ヨーロッパ語系のヒッタイト人は,前19〜18世紀にはアナトリアに定住し始めたと考えられています。

 前17世紀中頃,ヒッタイト人のグループを統一する王が現れ,ハットゥシャ(ボアズキョイ)を都としてヒッタイト王国を築き,アナトリア中央部を支配するようになります。

 ヒッタイト以前,アナトリアには先住民のハッティ人が住み,製鉄技術を有していました。ヒッタイトはその技術を受け継ぎ,高度な鉄器の製造(炭を用いて鍛える鋼の製造)に発展させたと考えられています。

 また,ヒッタイト人はの調教に優れ,スポーク式の車輪を備えた軽量な二輪戦車を馬に引かせる軍隊を組織しました。この二輪戦車と鉄製武器で強力な軍事力を持つことになったのです。

 前1595年頃,ヒッタイト王はユーフラテス川を下ってメソポタミアに遠征し,バビロンを陥落させ,バビロン第1王朝を崩壊させます。

 ヒッタイトは,その軍事力とは裏腹に国内政治は不安定でした。王位継承をめぐる争いが絶えず,バビロン遠征から戻った王が暗殺されるなど,謀反が相次ぎ,国力も低下しました。

 一方で,ミタンニ王国やアナトリアの小国家などとの抗争も絶えず,一時,滅亡の危機に瀕したこともあったようです。

 しかし,前14世紀中頃,シュピルリウマ1世が即位すると,アナトリアの支配を固めて国力を回復しました。

 シュピルリウマ1世は,敵対するミタンニを攻略するため,ミタンニの周辺国と同盟を結び,カッシート王朝と政略結婚を行うなど体制を固めます。
 そして,ついにミタンニの首都を攻め落とし,ミタンニ王国を征服しました(前1340年頃)。

 前13世紀初めには,ラメセス2世率いるエジプト新王国がシリアに侵攻し,ヒッタイトと対立しました。 
 前1286年,2国はカデシュで衝突(カデシュの戦い)しますが,この戦いは引き分けに終わったと推測されています。

 この後,ヒッタイト・エジプト間で成文化された平和条約が結ばれました。これは現存する世界最古の国際条約とされています。

 強勢を誇ったヒッタイト王国ですが,前13世紀末には,台頭するアッシリアやその他の勢力に押されて急速に衰え,前1200年頃滅亡したと考えられています。

 最期は,西方からの「海の民」の襲来で滅んだとする説もあります。

 その後,ヒッタイトが門外不出とした製鉄技術が近隣諸国に伝播し,オリエント世界は鉄器時代を迎えることになりました。

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[写真]ハットゥシャ遺跡のライオン門
 トルコ共和国の首都アンカラから東へ約150kmの位置にあり,現在の地名はボアズカレ(旧ボアズキョイ)といいます。20世紀初頭の調査で,ヒッタイトの都ハットゥシャであることが確認されました。
 大量の粘土版文書が発見され,その中にカデシュの戦いの後にエジプトと結ばれた平和条約のアッカド語版の写しもありました。

5) バビロンの継承国 〜カッシート興亡史〜

 バビロン第1王朝が滅びたあと,バビロニアに統一王朝を興したのは,ザグロス山脈を原住地とするカッシート人(民族系統不明)でした。

 前1500年頃,カッシートの王とアッシリア王の間で国境を確定する条約が結ばれており,この頃までにはカッシート王朝がバビロニアを支配していたと考えられます。

 カッシート人はバビロニアの文化や宗教を尊重し,カッシート王は,自らの地位の根拠をバビロニアの神々の意思によるものとしました。
 このカッシートによる王朝を「バビロン第3王朝」と呼ぶこともあります。

 カッシート王朝は,エジプトとの間で,政略結婚や贈答品のやり取りなどによって友好関係を保っていました。
 バビロニアにとって,建国当初の前15世紀は比較的安定していた時期といえるでしょう。

 前14世紀の半ばにミタンニ王国が滅びると,ミタンニから独立したアッシリアが強大化します。アッシリア王となったアッシュル=ウバリト1世が権勢を振るい,軍隊を強化して,エジプトとも国交を結びました。

 バビロニア王もアッシリアの脅威に対処せざるをえず,アッシュル=ウバリト1世の王女を政略結婚で受け入れました。

 のちに,その王女の産んだ子がバビロニア王に即位すると,すぐに反対派に暗殺されてしまい…
 その報復に,アッシュル=ウバリト1世は,反対派が立てた王を処刑して自ら別の王を立て,バビロニアの内政は混迷しました。

 一方で,バビロニアとアッシリアの間では国境紛争も絶えず,バビロニアは,ヒッタイトと同盟を結んでアッシリアに対抗しました。

 前13世紀の後半,アッシリア軍がバビロニアに攻め込んで,バビロニア王をアッシュルに連れ去りました。これにより,バビロニアは一時期にアッシリアの支配下に入りました。

 その後,バビロニアはアッシリアの支配を脱して独立を回復し,しばらくは安定した政権を保ちますが…

 前12世紀になると,イラン方面からエラムがバビロニアに侵攻して,諸都市を占領します。この時,他の戦利品とともにハンムラビ法典碑がエラムの首都スサに持ち去られました。

 前1155年,エラム軍によってバビロニア王が連れ去られ,カッシート王朝は滅亡します。

 カッシート王朝は,バビロニア史では最長のおよそ350年に及ぶ長期政権でした。

《参考文献》
▶︎赤井英男「最古の鋼片の検出とその意味 −ヒッタイト帝国が鉄生産に果たした役割の再検討−」『岩手県立博物館だより No.106』2005
▶︎クリストファー・ベックウィズ著,斎藤純男訳『ユーラシア帝国の興亡』筑摩書房 2017
▶︎大貫良夫他著『人類の起源と古代オリエント』(世界の歴史1) 中央公論社 1998
▶︎小川英雄他著『オリエント世界の発展』(世界の歴史4) 中央公論社 1997
▶︎小林登志子著『古代メソポタミア全史』(中公新書) 中央公論新社 2020
▶︎デイヴィッド・アンソニー著,東郷えりか訳『馬・車輪・言語(上)』筑摩書房 2018
▶︎前田徹他著『歴史学の現在 古代オリエント』山川出版社 2000

★次回「古代オリエント6  古代エジプト史概説」へつづく