見出し画像

世界とわたしと、2

若い頃なんとなく見たドラマのセリフがずっと忘れられなかった話🙂そういえばその時も、4年テレビなし生活してて久々のテレビありになった頃だったんですよね。放送日がわかって。

単発ドラマです。その中で、うろおぼえなのですが

世界と自分は、隣り合って立つ2本の木みたいなものだ

というようなセリフがありました。
これが、私は、とてもショックだったのです。色々不安が大きい頃でもありました。


わりとプラスの意味でショックだったような気も。
木や大地についてのとらえ方が、今とは全然違う頃です。さっき、森を自転車で走りながら、その頃に戻ったつもりで考えてみました。


たぶんそれまでの私は、‘モヤモヤ’だったんじゃないでしょうか。
オヤとの関係がよくなかったのもあり、私は自己が確立しない存在で、他者との境界もあいまいな、自分がいるかいないかわからないようなモノだった気がします。

ただこれは数年後に気づきましたが、そう特殊なことではなく、ニホン人はある意味みんなこんな感じとも言えるかもしれません。

モヤモヤとヒトの意識がつながり混ざった怨念のかたまりになってるような絵を、その頃描きました。
‘他’が自分の中に入ってきてしまうのが強かったのもあると思います。


で、その時の‘木’というのは、根っこでつながってるとかそういうのなしに、本当に別個の、たとえば2台のロケットが並んで立っているようなものであり、サイズは同じなんですね。

自分の思ってる自分と、その他すべて、ヒトも景色も宇宙も何もかもひっくるめたそれが、その自分と同じサイズのそれなんです。

私の中では、そうだったんです。たぶんその時。



そして、‘孤独’とか‘切り離された感’というのも、なかった気がします。
むしろ逆のような。
そうか。それでいいんだ。みたいな?


10年近くもたった頃だったか、出演者をおぼえていたので調べました。

池澤夏樹原作「スティル・ライフ」。さっそく図書館で借りて読みましたが、?でした。ほんとにこれか?という感じ。今だナゾ。


1週間ほど前、ブックオフのついで買いで、池澤夏樹「科学する心」を買いました。


我々の日常生活は科学と技術によって包囲されている。
たった今、あなたの視野に純粋に自然に由来するものが見えるか?聞こえるか?匂いとして漂っているか?

日々の暮らしの場を敢えて離れなければ自然界と接することはできない。
そのために山に登り、海辺に遊ぶ。都会では星を見るのさえ容易ではないのだ。



それ以上に、我々は自然を科学の対象として見るばかりで、それをすっかり科学者に委ねてしまった結果、個人に属するものとしての自然を喪失した。
植物を例に取れば、庭の隅やプランターの中に押し込めてしまった。




それを嘆くのではなく、ちまちまと隅をつつくのではなく、自己という存在もっと大きなフレームの中で取り戻すことはできないか。

ぼくは『スティル・ライフ』(中公文庫)という小説の中で「大事なのは・・・外の世界と、きみの中にある広い世界との間に連絡をつけること、・・・たとえば、星を見るとかして。」と書いた。

休眠状態に置かれた五感を復帰させる。それに合わせて世界を再構築する。
個人単位ではなく(それでは趣味の登山とプランターになってしまうから)、人間ぜんたいの立つ位置を本来の場所に戻す。
人間を含む世界像から世界に働きかける。能動的な関与を目指す。


おもしろそうじゃないですか。

その時は、‘違う’ということに気をとられてたのかもしれません。

そして、ドラマというのは原作とは違ってしまうものだけど、何かやっぱ、感じたということでしょうか。

ドラマはザンネンながらもう見ることはできないようです。本は読んでみます。発見があるかも💫


たくさんの物語を作っていこうと思っています🙂💖電子書籍販売準備中。大切に使わせていただきます🌐🎀