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檸檬読書記録 『亡き者たちの訪れ』(前編)

「大切な人を喪くす」それは本当に「別れ」なのだろうか。

実際に大切な人を亡くした著者が、死者との向き合い方捉え方を探る1冊。

若松英輔『亡き者たちの訪れ』

本作は、著者が以前講演で語った内容をまとめたもので、どこか傍らで語ってくれているような文体になっている。

内容は、とても深い。
実際に大切な人を亡くしているからこそ、語れる内容なのではないかと思う。
最初は「死者がひらく、生者の生き方」という題で、死者や生者について綴られている本から読み解き、死者の接し方や生者の生き方を探っていく内容で、個人的に心に残った箇所をいくつかあげていこうと思う。

「私たちが彼ら(死者)を見出すことによってのみ、その実在が証明されるのです。
(略)
死者はいる、死者は私たちのそばにいる、ときに私たち自身よりも近くに存在している、(略)そして、死者の臨在をもっとも強く感じさせるのは「悲しみ」です。」

これは決して、霊が見えるとか見えないだとかの話ではない。見えなくとも、誰でも感じられことができると言う。

「死者をめぐる悲しみとは、生者の感情の起伏ではありません。死者が生者の魂にふれる合図です。」

それは「悲しみ」という感情で、悲しみが込み上げた時は、その人がそばにいるということ。悲しみは単なる嘆きではないのだそう。

「悲しいときは、ほんとうに悲しんだらいいんです。悲しんで、悲しんで、悲しみぬいたらいいんです。死者をめぐる悲しみのない人生のほうがいいなんて、私は嘘だと思います。」

だからこそ、悲しんでいいのだと。悲しんだ方がいいのだと。

「その人が亡くなって、悲しくて悲しくて、どうようもない、それほどまでに思える人と出会えた人生は、素晴らしいではありませんか。そういう人に出会えた人生が、どうして不幸なはずがありましょう。悲しいということは、それだけ自分の人生に大きなものがもたらされていたことの証しであるのです。」

そうして悲しむからこそ、余計に大切さを知り、自分の人生が素晴らしいものだったのだと証明してくれる。

なんだか、新しい道を示してくれたようだった。
以前、同じ著者の『悲しみの秘儀』を読んで、「悲しみ」とは、嘆きや悲痛なだけのものではないと思わされたが、この本でより痛感させられた。
「亡くなる」=「悲しみ」=「悲痛」・「辛い」
と思っていたが、そうではないし、それだけではないのだと知らされた。

悲しいなら、無理して誤魔化すのではなく、悲しんだらいい。
ただ、悲しむだけではなくて、悲しみの中に大切な人を見つけ、そばに感じる。

なんて救われて、素敵なことだろうと思うし、確かにそうかもしれないと納得する部分もあった。
時に、凄く近くにいるような、見ていてくれているような感覚があるから。


そしてもう1箇所、柳宗悦「妹の死」から、著者が引用している箇所。
柳宗悦が妹の死にさいして、悲しみで妹に会えるなら、悲しみを近くに呼びよせたいと書いているのに対して

「悲しみを通じて死者に出会えるならば、私たちは悲しみを退けることはないはずです。でも、世の中の多くの人は、悲しんでいる人に向かって、悲しまないで、と言います。悲しんじゃだめ、もっと笑って、と言う。そんな残酷なことがあるでしょうか。
(中略)
妹に会いたい、だから自分は悲しみを近くに呼びよせよう(中略)こんな人に、どうして悲しむことをやめろと言えるでしょうか。」

悲しまないでと言う人は、自分の方がつらくて耐えられないからそう言うのではないかという。
それは病を抱えている人に対しても言えて

「(中略)人はしばしば、病床にある人に元気になってね、と言う。このことの残酷さを、私たちは本当にに知らなければなりません。元気になりたい、(中略)そう願ってるのは、苦しむ当人です。」

悲しみも苦しみも、その人のものであって、他の人がそれを奪ってはいけないのだと思わさせた。それが例え善意や励ましであっても。
それならばどうしたらいいかといえば、

寄り添うこと。

ただそれだけ。病人の横に、悲しみに寄り添う。今まで、励ますことがいいことだと思っていた自分が、恥ずかしくなった。
でもそれはとても簡単なようで、難しいことだと思う。実際にしようと思っても、なかなかできないことなんじゃないだろうか。けれど、自分も寄り添える人になりたいし、なろうと思った。


そして最後にもう1箇所。
奇蹟について。

宗教的に、奇蹟は確かにある。それは多くの事例があるから、否定できない。ただ、格別な意味を認めることなはいという、なぜなら

「単に『治る』ことが奇蹟であるなら、それはかならずいつか止む(中略)万人はいつか死者になるからです。また、治らないことが何かよくないことであるような世界観には、賛成することはできません。私は、不治の病を一身に背負って、美しいまでに勇ましく、その生涯を果敢に終えた人々を、あまりにもたくさん見てきたからです。」

それは宗教的でもそうでなくても、確かに奇蹟的に治ることもはあるかもしれない。けれど、それは永遠的ではない。
そして治らないことが悪ではなく、その道にも意味がある。そう言いたいのではないかと、個人的には感じた。
治ったから、奇蹟。治らなかったから、絶望。ではなく、どちらにも意味を見出す。
なかなかに難しいことだけど、その意識が大事なんではないかなと思った。


引用をもう少し続けると、治ることが奇蹟よりも、死者と共に生きるほうが「奇蹟」ではないかと著者はいう。

「私たちが、いまここに生きているのは、けっして当たり前なことではありません。それは本当に『奇蹟』的なことなのです。
(中略)
生きて明日を迎えるというこはそんなに確実なことでしょうか。震災のあの自然の猛威は、そうではないことを、私たちに示したのではなかったでしょうか。」

そして、毎日何気ない日常を送れることも、奇蹟ではないかという。
その言葉に、身に染みるおもいがした。
確かに、いつ何が起きるか分からない。若いからといって先が長い保証も、年をとっているからといって先が短いという確証もない。
だからこそ、毎日を大切にするのが大事なのかもしれないし、自分も大切に生きていきたい、そう思えた。


1つめの講演「死者がひらく、生者の生き方」についてはここまでに、次にいきたいが、大分長くなってしまった…。
なので一旦区切って、後編に続けたいと思います。
ここまで読んでいただき、ありがとうございました。
よろしければ、続けて後編も読んでもらえると幸いです。
ではでは。



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