見出し画像

「自己決定」という罠

 突然ですが、以下の話を読んでみてください。


 「いったん入場したら外に出ることはできないテーマパークのような場所があって、そこには一軒しかレストランがない、とする。このレストランのランチメニューはカレーライス(五○○円)、Aランチ(三○○○円)、Bランチ(五○○○円)、Cランチ(一○○○○円)となっている。レストランに入った客のほとんどはカレーを注文する。この事実からこのレストランの圧倒的人気メニューはカレーである、などと言えるか」(「安楽死・尊厳死を語る前に知っておきたいこと」(安藤泰至著、岩波ブックレット)より)

 この話のキモがお分かりでしょうか。選択肢があってその中から自分が選んでいるように見えてもそうではないことが、意外と世の中には多いのではないかと、私はそう思うのです。このレストランの話でいうと、自分の選択というより「お金」が決めているということになるのでしょうか。しかし外見上、自分で選べるように見えるというところが厄介だなあと思うのです。なぜ厄介なのでしょうか、考えてみてください。


 この例だけだと、「自分で物事を決めている」という罠になかなか気づけないと思うので、少し違った例を考えてみました。


 「いったん入場したら外に出ることはできないテーマパークのような場所があって、そこには一軒しかレストランがない、とする。このレストランのランチメニューはカレーライス、Aランチ、Bランチ、Cランチとなっている。テーマパーク内ではしきりにAランチを勧める放送や、Aランチのチラシがあちらこちらで配られている。店内ではレストランに入った客のほとんどはAランチを注文する。この事実からこのレストランの圧倒的人気メニューはAランチである、などと言えるか」

 この話でAランチに決めた人々というのは、果たして本当に「自分で」Aランチに決めているのでしょうか。考えてみてください。


 テーマパークのレストランという例でしたが、私は基本的には「自分で物事を決めている」というのはまやかしでしかないと思うようになりました。でもそれって良いことなのでしょうか。私は何かに支配されながら生きているような気がして、どことなく不快な感じがするのです。


 かといって何にも影響されずに生きるというのは無理だと思います。また、他からの良い影響というのもあると思うので、自分が何らかの影響を受けること全てが悪いとは思いません。ただ、「自己決定」という聞こえが良い言葉の裏で、自分の選択が狭められていることって意外にあるんじゃないかとそう思うのです。


 この罠に多くの人が気づきさえすれば、本当の意味の平和に近づくんじゃないかと、この頃考えています。


 少し哲学的な話で難しかったかもしれませんが、何か引っかかる部分があればぜひコメントでお知らせください。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?