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「自分を大切に思う」が「シビックプライド」につながるといいな

「地元が好きやねん」

実は、私はこれを明確には言えません。

言えます?


市役所で仕事をしていると、
「地元が好きやねん」という、
地域への愛着とか誇りが大切、
それを育てていこう
という考え方に触れることが多い。

むしろ、
地方創生・・・最近この言葉も聞かなくなって久しいけど、
人口減少対策、地域活性化、
東京一極集中の緩和といったワードで地方を語るとき、
「シビックプライドの醸成」という考え方が
あたかも切り札的に使われることが多い。

確かに一理あると思うし、否定しない。

「こんな地元嫌いやから早く引っ越そう」よりは良い。
でも、そんなことを思う人は、
どこへ行っても、「こんなとこ嫌い」と思ってそう・・・


大阪も、東京も、函館も、山形も、福岡も、
尾道も、長崎も、淡路島も、長野も、西宮も、
沖縄も、芦屋も、山口も、名古屋も、松山も、
熊本も、宇治も、姫路も、松江も、横浜も、
(例に挙げた理由は特にありません笑)
どこもどこもとってもステキなところだと思う。

ロサンジェルス、シドニー、シンガポール、
ニューデリー、イスタンブール、パリ・・・
どこだってステキなところだと思う。

逆に、ダメなところってある?
いや、確かに怖い人がいるところ、
紛争が起こっているところは、
ちょっと心がひるむけど、
だからといって、嫌いかと言ったらそうじゃない。


もちろん、
私のご先祖さまが生きていたところ、
たとえば、
三重県上野、滋賀県甲賀、大阪市寺田町、
兵庫県の山間部。
確かに私のふるさとであり、
ステキなところ。

でも、
ここが好きと言い切る感性は私にはないかな。

どこもステキだと思う、
それこそ住めば都じゃない?と。
好きって地域に対して言えない私。
まだ、人生の途中なのかな。
亡くなったおばあちゃんは二人とも、
「ここが好きだ」と言ってた。

好きを自覚できることは幸せだと思う。
好きな地域がある、という感覚は、
きっととても幸せなんだと思う。

よい思い出があってこそ、
好きだと言えるんだと思う。


先日、あるこども園にうかがったら、
地域に伝わる民話の紙芝居などを
元気いっぱいに披露してくれた。
あまりにかわいくて元気ではつらつとしていて、
涙がでちゃった。

こどもたちは、目をキラキラさせながら、
「○○(地域名)が大好き~!」って
満面の笑みで言ってるの。

すごいなぁと。
ある意味、先生がすごいのか?


確かに、海外から帰ってきたとき、
日本の風景を見ると、
ああ、私はここで育った、この文化圏だなぁと思う。

お出汁のきいた料理、
しょうゆの香り、
みずみずしい山の木々、
日本語、関西弁、
木造の戸建て住宅、
左側通行する、傷のないたくさんの自動車


シビックプライドを否定するつもりはないし、
むしろ、
好きなものがあることは幸せだと思う。

ただ、
ここはいいところだと、
シビックプライドを育てようとすること、
行政や先生が誘導、指導することには、
なんだかちょっとした違和感。

「ここはいいところです!」的な
シティプロモーション、PR、シティセールスを
子どもたちが受けるって、どうなのかな。
子どもたちだけじゃなく、
大人たちも、そんな価値観の押し付けって、
どうなのかな。
それで本当に人口減少に効く「シビックプライド」が
生まれるのかしら。

「自分を好きになりましょう」から始まるなら
私にはしっくりくる。


自分を大切だと思うように、
他者のことも大切にしましょう。

誰かを大切にした人、
誰かのために動いた人は、
とてもいい思い出ができる。

誰かに大切にされた人は、
とてもいい思い出ができる。

いい思い出を積み重ねた人は、
肯定的に物事を見ることができ、
まあまあな生き方をしていると、
肯定的に自分を受け入れることができる。


この好循環が幸せを招く、と、私は思う。

その結果、
「ここが大好き!」と言えたら、
幸せだと思う。

ということは、
私はまだまだ、
この地でいい思い出を積み重ねていないのかもね。

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