元禄浪漫紀行(江戸時代小説)
江戸時代に主人公がタイムスリップする、タイムスリップ時代小説です。タイムスリップが苦手な方はお気を付け下さい。
まだ未完ですが、最終章の5話目まで書けています。現在56話、15万字くらいです。
それでは、お読み下さいます方へ、有難うございます。どうぞお進み下さい。
お江戸こんなところ編
第一話 謎のお香
「あー…これは、捨て、かな…?」
俺は今、納戸のようになってしまった自分の部屋で、とにかくゴミを捨てている。この秋23歳になった。なったというのに、部屋は片づけられないし、仕事もできない。彼女もいないし、友達も大して…。
そこまで考えて俺はため息を吐き、手元にあった古いカレンダーを、ぽいっと市の指定ゴミ袋に投げ入れた。
わけあって、仕事を辞めた。わけも何もない。上司を一切尊敬する気がなくなったから、辞めたのだ。
俺は大学を卒業してから、小説家になるのが目標だった。もちろんその夢が叶うまでも、日銭は稼がなくちゃいけない。だから適当に探した地元の料理店で、アルバイトをしていた。
俺が働いている中華料理屋の店長は、かなりのへそ曲がりだった。採用すると決めた時には、にこにこと笑いながら「頑張ってくれよ。うちもできる限り教える」なんて言ってたくせに、俺の目標が料理人ではなく小説家だとわかった途端に態度を変えて、いろいろと俺に嫌がらせをした。
まず、俺が洗い場に居た時に手渡してきたのが、持ち手を火で炙ったんだろう鉄のフライパン。そして、俺の近くを通る時に必ず店長は俺の足を蹴った。あとはもう、ネタを探しちゃ俺を怒鳴りつけて、今日はとうとう、一番言ってはいけないことを言ったのだ。
「お前な、小説家になりたいって言ったって、今の時代そんなもんで食ってくなんてできやしねえし、お前みてえに下らねえ人間にゃあ一番向かねえ仕事だよ。お前なんかにそんなことができるわけがねえ。やめちまえ、ばーか」
俺はそれを聞いて、度重なる理不尽もあって我慢の限界を超えたし、「さっさと次の仕事を見つけてれば、こんな下らない人間の相手をせずに済んだかもな」と思った。だから帰り際、俺は店長に一度頭を下げてからこう言ったのだ。
「すみません、店長。俺はあなたをこの店の店長として尊敬し、仕事を手伝う気にはもうなれません。だから辞めます。ロッカーの中には特に何もありません。お給料は店長の自由にしてください。その代わり、絶対に俺は辞めますから。それではいろいろとお世話になりました。失礼します」
それを聞きながらぽかんと口を開けている店長の前を俺は去り、ロッカーから鞄を手に取ると、家に帰ってきた。そして、心を入れ替えて綺麗さっぱり忘れる代わりに、掃除を始めたのだ。
それにしても、執筆の調べものや実際に小説を書くことばかりに熱中する毎日を送っていた俺の部屋は、とてもじゃないが言い表せないくらいに汚かった。
まず、掃除をしていないので埃が床に散らばり、なんだかわからないが砂のようなざらざらとした感触が床にあって、それから捨てるべきものがあるかどうかも気にも留めずに過ごしていたので、去年食べた弁当の空のパックなんてものまであった。
さすがに自分に呆れて、「これからは美しい生活を心がけよう」と思いながら、俺はついに、床がすべて見えるようにすることに成功した。とはいっても、小説の資料にした大量の本だけは、部屋の角に積み上げられていたけど。
「さーて、じゃあとはこの押し入れだけ…わっ!?」
俺が押し入れを開けると、中にあった物が支えを失くして、どどどどっとなだれ落ちてきた。俺は必死に両手でそれを押さえようとしたけど、小さなものも多かったのでそれは俺の腕をこぼれて次々にまた床を埋めていった。
「…あー…またかよ!!」
俺は、また一から掃除をしなければいけないことに嫌気が差して、思わずそう叫ぶ。
しかし、やってしまったことは仕方がない。とにかく俺は、「のちのち役立てる予定すらない物」を、すべて新しいゴミ袋に突っ込んでいった。
ほとんどの物を片付け終え、いくらか必要な物をまた押し入れに並べて突っ込んでから、俺は何かカサカサした物を踏んでいることに気づいて、足をどけた。
「なんだこれ…?」
俺が手に取ったのは小さなきんちゃく袋で、それは紙で作られていた。もうぼろぼろになった紙袋はあちこちが破けて、中から粉のようなものがこぼれ出ている。
「ああっ、また掃除機か!」
俺はそれからなんとなくテーブルの上に置いた古い古い紙のきんちゃく袋を背後に、改めて掃除機を掛けて、それから夕食を食べた。
「就職先探さないとな…」
俺はそんなふうにつぶやきながら、弁当箱をキッチンのゴミ箱に捨ててから、部屋に戻った。すると、なぜかテーブルにあったきんちゃく袋がまず目に留まった。
「そういえばこれ、なんだ?」
俺がそれをもう一度手に取って、中に入っている砂なんだか粉なんだかわからないものがこぼれ出ないように片手のひらに乗せると、なんだかいい香りがした。
「ん…?うわ、いい香りだな。お香かなんかかな?」
それにしても、俺はこんなものを持っていた覚えはない。前の住人の忘れ物だろうか?
試しに部屋にある灰皿を洗って中身の粉をあけてみると、ふうわりと懐かしいような、体の疲れが抜けるようないい香りが漂った。ふむ。これはきっとお香だな。そういえば、粉状のお香ってどうやって火を点けるんだったかな。…あ!そうだ!確か火を点けた炭を中に入れるんだったな!それならあるぞ!
俺は再び押し入れを開け、今度は物がなだれたりしない状況に満足してから、奥にあったバーベキュー用の炭の入った箱と、それから炭起しと網を取り出した。
俺は煙草を吸うのでライターはあるけど、炭に火を点けたかったら百円ライターなんかでは足りない。
キッチンでは、網の上に置いた炭起しの中で、ガスコンロの火で炙られた炭の欠片が、もう充分赤くなっていた。
「よしよし。じゃあ灰皿を持ってきてと…」
キッチンにお香が入った灰皿を持ってくると、俺はそこへ炭の小さな欠片を乗せてみた。
「うわあ…!」
途端に、上等な香のものなのだろう、かぐわしい香りが広がる。そしてもくもくとした煙。ああ、なんだか夢の中みたいだ。
…え?煙?
「わ、わあっ!なんだなんだ!?」
俺は周りを煙に取り巻かれて、まるで家の中が見えなくなっていた。それに、どんどん眠くなってくる。
火事を起こしたにしちゃおかしい状況だからおそらくそうではないんだろうけど、一体何事かと確かめる暇もなく、俺はどろどろとした眠気と、煙に捕まえられて、どこか遠い奥底へと落ちていくような心地を味わいながら、ついに抵抗できずに瞼を閉じた。
「まあお前さん。ねえ。ねえったら。起きないの?」
耳元で、女の人の声がする。俺がぱちりと目を開けると、目の前には昔の女の人のように髪を結って、着物を着た人の襟元が見えた。
「え…?誰…?」
俺は起き上がってみようとした。するとその女の人は素直に俺を放してくれたけど、俺はそれでびっくりしてしまった。
「なんだここ…?」
目の前にあったのは、人が行き交う道だった。まず、家に居たのにいきなり外に倒れているのもおかしいけど、周りに居た人たち全員の恰好がおかしかった。
全員が、着物なのだ。それに、男の人は残らずちょんまげ、そして女の人はみんな髪を結い上げている。中には、腰に刀を下げて紋付きの羽織を引っ掛けた人まで居た。それが幾人も幾人も、ぞろぞろと歩いている。
時代劇みたいな夢にしては、何もかもが現実だと思えてくる活発な空気があり、そこここで喧嘩じみた言い合いが聴こえていて、道に座り込んだままの俺を怒鳴りつけてくる男の人まで居た。
「くらぁっ!ぼけっとしてんな!踏み殺しちまうぞ!」
「すっ、すみません!」
すると、さっき俺を起こしてくれた女の人がその人に向かって頭を下げてくれた。
「堪忍してやっとくれな、行き倒れかと思ったら、生きてたのさ」
「なんだぁそうかよ。そらぁわりぃことしちまったな。まあがんばんな」
ちょんまげ頭で半纏のようなものを着て褌が見えたままの男の人は、俺をそう激励してから、さっさと向こうの路地へと駆けて行った。
俺がそれを目で追っていると、「ぼやぼやしてないで。ここは人通りが多いんだから、脇へ寄れるかいお前さん」と、女の人はまた声を掛けてくれた。
俺は、今こそ勇気を出さなきゃいけないと思った。とにかくこれを確かめないことには。それにしても、一体なぜ…!?
「あの、すみませんが…」
俺は脇に立っている店の軒先に入った女の人を追いかけ、こう聞いた。
「今は何年でしょう?」
すると女の人はびっくりしたように振り向いて首を傾げ、こう言った。
「何言ってんのさ。お前さん、行き倒れて年もわかんなくなっちまったのかい?先年に元禄になったばかりじゃないのさ!」
第二話 髷
俺はとにかく、どうやら江戸時代に一人きりでタイムスリップしたらしい。それか、もしくはこの何十人から百人くらいは居る人々が、全員何かのドッキリ番組かなんかのエキストラなのかのどちらかだ。俺は後者であることを祈りながら、女の人にこう聴いてみた。
「あの…助けてくれてありがとうございます。ところで、ここはどこですか?」
俺たちはどうやら漬物を売っているらしい店先で立ち話をしていた。店の奥の方には丸い桶のような漬物樽がたくさんある。女の人はまた呆れたように首を振り、大きく息を吸った。
「ここはねお前さん。江戸の真ん中、上様のお膝元さ。お前さんが今立っているのは、家康様が祀られている日光までの街道と、中山道がちょうど交わるところ。京都へ行こうと、日光へ行こうとどっちでもいいけどねえ…」
女の人はそう言いながら挑戦的な目を作って俺を見た。どうやら俺が自分の居る場所に恐れをなすと思ったようだ。
「日本橋だ…」
「なんだい。人に説明させといて、知ってるんじゃないか」
当てが外れたように手のひらをこちらに放り女の人はつまらなそうにそう言った。
俺は焦っていたし困っていたが、同時に興奮もしていた。なぜなら、俺は時代小説を書いてみたいと思ったこともある、小説家志望の人間だからだ。
もし元の時代に帰れるなら、最高の取材ができるぞ!
俺の心はそんなふうに沸き立ち、俺はきょろきょろと辺りを見回してみた。
「うわあ…!」
そこらに居る人たちは、時代劇で見るのとは違って、みんなめいめいにバラバラの恰好をしている。
鉢巻をして半纏を羽織った、職人らしき男の人たちの一群が俺たちの前を横切る。
鼠色の着物を着て、紺色のねんねこの中に赤ん坊をおぶった女の人が通る。
裃を着て脇差と刀を腰に差した武士らしき二人連れ、着流しだけでのんびり歩いている三人くらいの男性、裾に彩り豊かな折り返しのある着物を着て髪を大きく広げて結った女の人たち…それぞれどこへ行くのかわからないけど、みんな江戸の人たちなんだ!
そして俺は漬物屋を振り返って、助けてくれた女の人を見る。
彼女は鼠色の布地に紺色の縦縞が入った着物を着て、黒に近い太い帯を締め、裸足に草履を履いているようだった。彼女の髪の毛も、鬢が大きく広がった綺麗な結い上げ方だ。
「あの…その髷の作り方は…なんて言うんですか?」
俺は、目の前の景色が今までとはまるきり違って、何もかもが目に新しいことが、嬉しくてしかたなかった。だからそう聞いたのだが、女の人はまたもやため息を吐く。
「あのねお前さん。これじゃああたしはいちいちお前さんに教えて歩かなくちゃいけないじゃないかさ。これはね、勝山さ。流行ってる結い方だよ。ほんとに知らないのかい?」
彼女は自分の髷に手を添えて、こちらに見せてちょっと笑った。彼女の髪は向こう側が透けるほど鬢が広げてあって、大きく高く結い上げた後ろ髪がとても華やかだった。
へえ。髪の結い方にもやっぱり流行り廃りがあるんだなあと、俺は感心していた。
「でもねえ、あんた」
「は、はい?」
すると彼女は急に俺にびしっと指をさした。俺はぎょっとしてちょっと身を引く。
「とにかく!あんたの髷がほどけてる方が先!ほら、そこに床屋があるから、行くよ!銭はあたしが出してやるから!」
「えっ?ええっ!?」
いきなり彼女は俺の手を握ってずんずん進み出したので、俺はびっくりしてしまった。でも女の人は力いっぱい引っ張っているらしく、俺は大した抵抗も出来ず引きずられていく。
そういえば俺は現代人なんだから、ちょんまげなんか作っていない。彼女はとうとうそれに我慢がならなくなったようだ。確かに俺たちの進む先には、店先まで人がはみ出している床屋の看板を出した店があり、中の鏡の前では誰かの髪を結っている人が見えた。
「ちょっと!悪いですってそんな!僕、大丈夫ですから!」
「つべこべ言わず来る!髷もなくってどうやって生きていく気だい?お前さん!」
「そ、そんな~!」
俺は嫌だった。自分がちょんまげ姿になるなんて考えたこともないが、嫌だった。だって、どう考えたって機能的でもなんでもないのに、しかも、かっこ悪い。そんな髪型に誰がしたいと言うのだ。
しかし、不幸にもと言おうか幸いなことにと言おうか、俺は髪がえらく長かった。美容室も理容室も大っ嫌いだったからだ。これは小さい頃からそうで、俺も理由はよくわからない。ただ、髪を他人にいじくられるのは嫌いだ。
そして俺は、昔のものだからか、あまりよく映らない鏡の中でちょんまげ姿になった情けない自分の姿を見て、涙が出そうになった。なんの因果でこんなことをしなくちゃいけないんだ。
「じゃあお代の六十文。ちゃんと数えとくれよ」
「はい確かに!ありがとうございます。それにしても、珍しい方ですねえ…」
俺は、自分の後ろで床屋の主人と助けてくれた女の人が会話をしているのに、聞き耳を立てていた。
「まあそうなのよ。何から何まで変なのさ。着物も見たことがないものだし、髷はないし、それに「ここはどこだ」なんて、まさかそんなこと日本橋で聞かれるなんて、あたしゃ思ってもみなかったよ」
すると後ろから床屋の主人が近寄ってきて、俺の頭をもう一度くまなく眺めた。
「どうです旦那。いい男になりましたでしょう」
うるさい、ほっとけ。
そう言えたらどんなに楽か。でもここは江戸時代の江戸だ。そんなことを言ったら怪しまれる。いや、どうやらこれ以上怪しまれようがないくらい怪しまれているみたいだけど。
「えっと…いい、です…。ありがとうございました」
俺はそう言いながら店主を振り返って、立ち上がりお辞儀をする。
「うん!まあさっきの様子のまんまじゃあ、まるで山賊でしたからね。なかなかの二枚目になりましたよ!」
「はあ…」
山賊、ね。そうか、俺たち現代人の髪型は江戸時代の人からすれば山賊なのか。これはいい勉強になったかもしれない。
俺はそれから、油まみれにされてきつく結ばれた頭を気にしながら、女の人に連れられて店を出た。
「あの…すみません。お代は必ず返しますから」
「いいよ別に。あたしは稼ぎがないわけじゃないんだ。それにお前さん、悪いこと言うようだけど、文無しだろう?そんなつぎはぎだらけのへんてこな着物着てさ」
「あ、これは…その…」
俺が慌てて自分が着ていたパッチワーク模様のTシャツを隠そうとすると、女の人はまた俺の手を取る。
「さて、次は着物さね。急ぐよ!あたしは仕事の時分までに帰らなきゃいけないんだからね!」
「え、ええっ!?大丈夫ですよ!」
俺が腕を引っ張って止まろうとすると、女の人は俺を振り返って睨みつけた。
「さっきから文句ばかりだねえお前さんは!そんな派手な着物じゃ役人からお咎めを受けるよ!だから着物を買うの!」
「ひいっ!?そうなんですか!?」
俺がそう叫んで身を縮めると、彼女はまたため息を吐く。
「ほんとになんにも知らないんだねえ。もしかしてお前さん、とんでもないバカなんじゃないだろうね?」
第三話 着物
所変わって、ここは着物を売る店だ。だが俺たちが居るのは、俺が予想していた日本橋の呉服店ではない。女の人の話では、ここは神田らしい。
俺たちは川に出て、土手を降りた。神田にある川なら、神田川だろうか。その土手には、たくさんの店があった。俺たちが訪れたところは、どうやら古着屋が軒を連ねる場所だったらしい。
「おお!お久しぶりですおかねさん!」
「ごぶさたして悪いね、亀さん。ところで、この人に着物をあつらえてやっておくれな。かわいそうに行き倒れててね、今髷を結い直してやったばかりなんだよ」
おかねさんがそう言うと、急に店の主人は俺を見て気の毒そうな顔をして、こう言った。
「そりゃあ大変でしたね、こちらにおいでください。着物はどんなものがよろしいでしょう?」
俺は急に親し気に話しかけられたもんだからびっくりして、恥ずかしいのでうつむき、そのままでちょっとそこらを見渡してみた。
変だな。地味な柄や色のものしかない。赤も青も緑もなく、そこにある着物はほとんどが鼠色か紺色ばかりだった。
そういえば、さっきおかねさんが「そんな派手な着物だとお咎めを受ける」と言っていたし、江戸時代って案外そういうもんだったのかも?
なんとなく探していると、紺色と鼠色の中間のような縦縞の入った灰色の着物が目に止まった。
縞々っていいよな。ちょっと幅が大きいけど、あれなら…。
俺は勇気を振り絞り、うつむいたままで少し遠くにあったその着物を指さす。
「あ、あの…あれ…」
「はいはい、こちらですね。じゃあ帯は…このあたりでどんなもんでしょう?」
俺は、目の前に灰色の古い帯を差し出された。その時、こう思ったのだ。
そうか。自分は今からリアルタイムで江戸時代の着物を着るのか、と。
なんだそれ!めちゃくちゃ興奮する!
「は…はい!それでお願いします!」
俺が元気よく答えたので、店の主人もちょっとほっとした顔をしてくれた。
「へへ、承知しました。ところで旦那、もしお困りのようでしたら、お足元も一緒に揃えた方がいいんじゃないかと思うんですがね…」
そう言われてふと自分の足を見ると、家の中から急に江戸時代に飛んできてしまったからか、俺は裸足だった。確かにこれではいけないな。
「え、でもそれじゃ…」
遠慮しておかねさんをちらっと見ると、彼女はふふんと笑ってみせる。
「今更遠慮するんじゃないよ。ねえ亀さん。この下駄がいいんだけどねえ」
「ええ、ええ。じゃあこちらで。よろしいでしょうか?旦那」
俺は嬉しかったが、やっぱり申し訳ないので、おかねさんに頭を下げる。
「すみません!ありがとうございます!」
「お代は…そうだなあ、これなら二百文にしときますよ、おかねさん」
ご店主がそう言うと、おかねさんと言うらしい彼女は、財布らしき布包の紐をくるくるとほどいて、中から小銭を取り出し、きちんと数えてから古着屋さんに渡した。
「あいよ、確かにちょうだいしました。ありがとうぞんじます」
「いえいえありがとう。ところで、今は何刻かねえ?」
「はー…さっきちょうど神田明神様の八つの鐘を聴きましたからねえ。そのくらいじゃないでしょうか?」
「まあ!もう間に合わないじゃないかい!お前さん!急いどくれ!じゃあ亀さんまた!」
「わっ!」
俺はまた引っ張られ、そのままもう暗くなってきた外を駆けていった…。
第四話 おかねさんの正体
俺たちは暮れ方に駆け足で神田川らしき川の土手を離れ、そのまま日本橋の方角へ引き返していくらか歩いた。
目の前にある長屋の一戸の前には提灯が下がっていたけど、火は入っていない。
「ちょっと待ってな。今、御神灯をつけて、そしたらお前さんを家の中へ案内するから」
そう言っておかねさんは家の中に入っていき、火を灯したろうそくを持ってきて、提灯の中へ灯りをつける。するとそこへ、「常磐津 春風」と浮かび上がった。
「はるかぜ?」
俺がそう言うと、提灯を元に戻しておかねさんはきっと俺を睨む。
「“しゅんぷう”と読んでほしいね。ほら、入んな。どうやらまだ来てないようだけど、今日は稽古があるのさ。だからお前さんは見学ということにしといてやるよ」
「え、稽古…?ところで、この“じょうばんづ”ってなんです?」
「お前さんはいちいちひねくれた読み方をするんだねえ。これは“ときわづ”。あたしは常磐津の三味の師匠なんだよ」
「ええっ!三味線のお師匠さんなんですか!?」
江戸時代の三味線の師匠ともなれば、これは遊芸の一番見たいところじゃないか!
俺はそう思ってまた興奮したまま、中へ招き入れられた。
「お邪魔します…」
部屋の中はきちんと掃除が行き届き、四畳半ほどの広さしかないけど、十分居心地が良かった。
土間には桶があったので、「これで井戸の水を貯めるんだな」と、俺は察した。台所らしき場所には水甕、それから重ねられた食器やなんか。他にも盥などの生活の道具らしい物たちがあったけど、俺にはよくわからなかった。
部屋の奥に面した壁には、三味線が二つと、小さなちゃぶ台が立てかけてある。それから、火鉢らしき物、細く背の高い棚と、小さな仏壇、鏡台、向こう側の見えない衝立。あとは、神棚が吊ってある以外には何もなかった。
「やっぱり物が少ないんだなぁ…」
“江戸っ子は家財道具を必要最低限しか持たない”
それは、時代小説を書きたいなと思った時に調べたので、知っていた。しかし、ここまでとは。掃除機、洗濯機、果てはパソコンまで持っている俺たち現代人には、考えられない暮らしだ。
「何ぼさっとしてんだい。これから人が来るんだから、早くこっちへ来て着替えておくれな」
「あ、は、はい!」
おお、これが江戸時代の着物…!木綿だからかちょっとごわごわするけど、とにかく俺は今、江戸時代に居て、着物を着ているんだ!
俺は、わくわくしながら衝立の影から出る。
「ど、どうでしょうか…?」
するとおかねさんは飲んでいたお茶を噴き出して、大慌てで俺に駆け寄った。
「まーったくこの人は!帯の締め方も知らないのかい?今までどうやって生きてきたのさ!」
俺は、おかねさんに手ずから帯を直してもらっていた。
「す、すみません…。それから、ありがとうございました」
「別にいいよ。これでよし」
おかねさんはまたあっという間にちゃぶ台の前に戻って、満足そうに俺を眺めていた。
ありがたいなあ。こんなふうに助けてもらえなかったら、俺は今頃、夜の真ん中で困り果てているだけだっただろう。
俺がそう思っている時、表の戸を誰かが叩いた。
「お師匠、いますかい」
その声はどうも、威勢の良い男性のようだった。「男性も三味線を習ったりするんだな」と思ったので、意外だった。
「栄さんかい、開いてるからお入りな」
すると、ガラッと勢いよく扉が開き、着流しに草履を履いた若い男の人が入ってきた。
「おろっ、誰だいそりゃあ」
「栄さん」と呼ばれた人は、背が高く目が吊り上がっていて、ずいぶんと細い人だった。なんとなく、喧嘩っ早そうなきびきびとした体の動きで土間から上がり、俺の斜め前に腰掛ける。
「ああ、この人はねえ、昼間日本橋を通った時に見つけたんだ。かわいそうに、道端で行き倒れてたんでねえ…あ、ところでお前さん、なんて名だい?」
俺はその時、はたと困った。
俺の名前は「矢島昭」だ。しかし、江戸時代に「あきら」では不自然だろう。そこで俺は、名乗るのが恥ずかしい振りを装って、ちょっと考え込んでいた。
…よし。これでいこう。
「えーっと…秋兵衛と、言います…」
また怪しまれやしないだろうか。俺はそう思ってちょっと緊張したけど、栄さんは、さして興味もない風に「へーえ」と相槌を打った。
「秋兵衛ねえ。珍しい名じゃないかね」
「それで、拾ってやったはいいが、どうすんだい師匠」
心配そうに栄さんはそう言う。
「まあ、あとで考えるさ。さ、お茶も飲んだし、おさらいから始めるよ。いつも通り、あたしのあとにね」
いよいよ俺はこれから、江戸時代の三味線の稽古を見るんだと思うと、少し緊張した。
おかねさん、いや、“春風師匠”は、三味線を抱えて調子を合わせ、一息深く息を吸うと、撥を振り下ろした。
師匠の演奏は終わった。
俺は圧倒され、そして感動して、拍手喝采を送りたいのを我慢しているくらいだった。
それは、三味線の演奏なんてろくろく聴いたこともない俺からしても、見事なものだとわかった。
音色が華やかで、かつ深みがあって、凄みまで感じるものだった。
俺がにこにことして聴き入っていたことは師匠にも気づかれていたのか、一度おかねさんはこちらを向いて、微笑んでくれた。
ところが、そのあとが問題だったのだ。
「違う!違うったら!そうじゃない!」
「だ、だってこうなっちまうんで…」
「もう!お前さんは覚えが悪いねえ!いーい?もう一度やるからよくお聴き。次にできなかったら容赦はしないからね!」
「へ、へい…」
俺の聴いたところ、というか、誰がどう聴いても、「栄さん」はまったくの素人だった。ところが、“春風師匠”は気が強すぎるのか、間違えた時の怒り方が尋常ではなかった。
怒鳴りつけるのはもちろんのこと、一度なんか、師匠が撥をぐっと握りしめる場面もあった。俺はあの時ばかりは、「もし何かあったら自分が間に入ろう」と思った。
芸事の師匠は厳しいってイメージはあったけど、ここまでとは思わなかったな…。
「すみませんで師匠…」
「はいはい、もういいよ。お帰りな」
「へい…」
結局栄さんは謝りながらすごすごと帰って行き、次にまた男の人が現れた。
ところが、こちらは先ほどの栄さんとは違って、なかなかいい方と思えた。
静かに戸を開けた男の人は、すらりと背は高いながらも物腰は穏やかで、喋り調子も柔らかでよどみなかった。
師匠にきちんとした挨拶をしてから、俺のことを丁寧に聞き、そしてその人は、俺にも頭を下げてくれた。
「わたくしは角の味噌屋の者で、六助と申します。お見知りおきを」
「あ、ああ、ご丁寧にどうも…」
「では師匠、お願いいたします」
そして師匠は、さっき永さんが弾いていたものよりずっと難しそうな曲を弾き語り、六助さんはなんとかそれに調子よくついていっていた。
「…まあ、今日はこんなもんだろう。お父様とお母様によろしくと伝えておくれな」
「はい、今夜も、どうもありがとうございました」
そして六助さんは、にこっと笑って俺にも会釈をし、来た時と同じように静かに帰って行った。
しかし、扉が閉まると同時に春風師匠はどたーっと仰向けに倒れて、大きく息をする。
「ど、どうしました!」
俺が駆け寄ると、師匠は今度は笑い出した。
「いやあ、お師匠稼業は疲れるったらないよ。特に六助さんはお行儀の良い人だから、こっちも気が張るじゃないかさ」
俺はそんなことを言われてすっかり面食らってしまったが、春風師匠、いや、おかねさんは、からからと笑った。
「これから飯時だから、お前さんにここいらを案内してから、どっかで夕食にしよう」
第五話 鰹は刺身で
三味線の稽古が終わっておかねさんは「食事に出よう」と言ったけど、俺はそろそろ話を切り出す口実が欲しかった。つまり、俺の今後について。
今後も何も、俺は未来から来たんだから居場所なんてこの時代にあるはずもなく、昔ちょっと聞きかじった「人別帳」にも、名前はない。
そんな者を置いてくれる場所がないかどうか、おかねさんからそれとなく聞き出して、お礼を言ってからおかねさんのところを去ろうと俺は思っていた。当然そうなるだろうと思っていたんだ。
「さて、じゃあ出かけようか」
「あ、あの、おかねさん…」
「なんだい」
おかねさんは綺麗な羽織を出してきて、それを着てから俺を振り向く。俺はその時、初めて彼女の顔をまともに見たかもしれない。
おかねさんは、ちょっと見は、俺よりも少し歳が上のようだった。でも、美人だった。
目は少し吊り上がり気味だったけどそれがなんとも言えず涼やかで、それから色の抜けるように白い肌をして、わずかに頬だけに赤みが差していた。そして少し高い鼻と、ちょっと突き出た小さな唇が、さっきまでの彼女の気の強さを思い出させるような、そんな顔だった。
いわゆる美人ではないながらも、美しい人で、とても印象的だった。
そんな美人に連れられていながらなぜそこに気づかなかったかと、後々になっても不思議で仕方なかったが、おそらく俺がこの時まで、驚きと興奮、そして混乱の真っ只中に居たからだろう。
「どうしたい。それとも、出かけたくないのかい?」
「あ、いえ、そうではなくて…」
俺は、急に目の前に居る美人に対して、まともに口が利けなくなってしまった。しかし、これは黙っていていい話題ではない。
「あ、あの…私は、行くところがないので…どこかいい場所を知っていたらと思いまして…」
そう言って、なんとか彼女の目を見つめようとしたが、やっぱり怖くなって途中でうつむいてしまった。
自分の身の振り方を人様に相談していると言うのに、俺は何を考えているんだ!しっかりしろ!
するとちょっとしてから、小さく息を吐く音がした。
「なんだいそんなことかい。じゃあうちに居な。あたしも働き手が欲しかったところさね」
俺はびっくりして顔を上げた。
「えっ!そんな…そんなことをしてもらっては…」
どう考えても彼女に迷惑が掛かってしまう!と俺はそう思って、慌ててこう説明した。
「あ、あの、私なんか置いても、迷惑を掛けるだけですよ。とにかく、あの…」
「でも、行くところはないんだろ?」
「え、ええ、そうですが…」
「じゃあ決まりだ。こちらがいいと言うんだから、迷惑だってお互い様だよ。さ、行くよ」
おかねさんはあっさりと話を片付けて、小さな提灯を手に、表の戸をがらりと開けた。それがあんまりに自然で、早くに決まってしまったので、俺はあやうくお礼を言いそびれてしまうところだった。
「ありがとうございます!これから、よろしくお願いします!」
おかねさんと道々話したところによると、おかねさんは生まれた時から神田に住んでいたらしい。今よりもっと若い頃、花嫁修業のために始めた三味線がとても上手くできたので、十五歳で両親が亡くなってからは、一度師匠の家に住み込んで芸を学び、今ではお教室を構えて暮らしを立てているのだそうだ。
「それでねえ、あたしもお師匠稼業で忙しいもんだからさ、働き手が欲しかったんだよ。ちょうどよくお前さんが来てくれたもんでよかったくらいさ」
「は、はあ…で、僕は何をすればいいでしょうか?」
「そうねえ、まあ米が炊けて、水汲みと掃除洗濯ができれば、それでいいさね」
「えっ!それだけでいいんですか!?」
俺は驚いた。“そんなの、家で子供が手伝いをすることだってあるじゃないか。そんなことをするだけでいいんだろうか?”と、そう思ったのだ。
「ああ、いいよ。そうしたら小遣いくらいはやるから、それでせいぜい遊びな」
「あ、ありがとうございます。頑張ります!」
この時俺は、江戸時代の炊事や洗濯がどれだけ大変かをすっかり忘れていたのだが、それはあとの話にしよう。
俺たちは、おかねさんが手元にしまった小さな提灯の灯りで足元を照らして、なんとか歩いていた。
江戸時代には街灯なんてものはないから、そこらじゅうほとんど真っ暗で、ぽつぽつと下がっている表通りの大きな店の提灯くらいしか灯りがない。それは心細くなってくるくらいに暗いのに、どこか懐かしいような気がした。
こういうのを風情があるっていうのかな。まあ暗いから見えづらくて困るのは困るけど。
「さっきまであたしたちが歩いてた通りの裏は紺屋町さ。ここは鍛冶町で、先には鍋町。職人ばかりで昼はうるさいったらないけど、この先にいい料理屋があるんだ。ちょっとしたもんだよ。お前さんは行き倒れだったんだから、たらふく食べないとね」
「す、すみません…ありがとうございます」
「はいはい。さ、着いたよ。ここいらは須田町だ」
俺たちが着いたのは小さめの屋台が並ぶ通りで、赤々とした大きな提灯が夜の中に浮かんで、それぞれの店ののれんの隙間から灯りがわずかに漏れている様子は、どこか幻想的にも思えてくるような侘しい美しさがあった。
「ここはあたしの気に入りの料理を出す店でね、よく来るんだ」
そう言っておかねさんは屋台の前を素通りして、表通りに面したお店に入って行った。行灯には、「元徳」とだけ書かれていた。
のれんをくぐるとすぐに俺たちは、温泉旅館の中居さんのような恰好をした女の人に迎えられた。その人はおかねさんを見てにこにこと笑い、頭を下げて「いらっしゃいまし」と言った。
「よくおいで下さいましたお師匠。今晩はいい鰹がございますから、よろしい時でしたよ」
「そうかい、そりゃいいね」
「ではこちらへ…」
案内されたのは、なんと襖が閉まる、座敷の個室だった。
ぜ、贅沢だ…。これ、もしかしなくても“料亭”ってやつだろ…?三味線の師匠って、そんなに儲かるのかな?
俺は料亭なんて初めて来るし、ましてや今は江戸時代なわけだし、これ以上緊張しようがないくらい緊張していた。
「じゃあまず、熱燗を二本付けておくれ。それから鰹は刺身と、あとは鍋と握り飯をお願いできるかい?」
「はい、かしこまりました」
おかねさんは、“そんな大雑把な言い方でいいのだろうか”と思うくらいに曖昧な注文をして、それを承ると、女の人はすーっと襖を閉めて居なくなってしまった。
しばらくして運ばれてきたのは、温めた日本酒と、それから鰹の刺身、そしてすでにぐつぐつと煮え立った寄せ鍋のような器、あとは大きなおにぎりが二つだった。
さっきも来た女の人は、俺たちのそばにあった火鉢に火の点いた炭を足して、その上に鍋を乗せてから、「ごゆっくりと」と言い、また居なくなった。
「ああ、いいねえ。こりゃいい鰹だよ。さ、食べよう。お前さんも遠慮しないでどんどん食べな」
「す、すみません、では…」
江戸っ子はやっぱり鰹が大好きなんだなあ。俺はそう思って、自分も食べなれた鰹から箸をつけた。
それは確かに、とても美味しかった。うんうん、やっぱり秋の鰹は脂が乗ってうまい!
刺身のあとは鍋を食べたけど、味は薄味なのに出汁がよく効いて、これもとても美味しかった。具は白身の魚と、大根、それからがんもどきと豆腐だった。
具材は少ないけど温かくて、いい味で、火鉢で温まった鍋なんてものを食べていると、なんだか格別の贅沢をしているような気がした。
「お前さん、酒が冷めちまうよ。早くおやりな」
どうでもいいけど、さっきからおかねさんはどんどん日本酒を飲んでいる。俺が食べるのに夢中になっている間に、追加の注文も三回して、それを全部飲んでしまったのだ。
江戸っ子はやっぱり大酒飲みが多いんだろうか。
「えっと…私はあまり飲めなくて…おかねさん、よろしかったら、飲んで下さい」
正直に言うと、俺は相当の下戸だ。少し飲んだだけでも真っ赤になってへろへろに酔っぱらってしまう。美人の前でみっともない真似は避けたい。
しかし、おかねさんは「そうかい、じゃあ有難く頂くよ」なんて言わなかった。
「なんだい、つまらないことお言いでないよ。一人だけ飲むなんて馬鹿な話はないさね。ほら、あたしが酌をしてやるから」
そう言っておかねさんは袖を片手で押さえて俺に向かって徳利を差し出す。
「い、いえ、ほんとに飲めなくて…」
「そんな愛想のないこと言ってないで、男なら一合くらいきゅーっとやんな!」
「わ、わかりました…じゃあ一杯だけ…」
第六話 竈の火
「お前さん。ちょっと。ねえったらさ」
ぺちぺちと、また誰かが俺の頬を叩いている。ああ、数時間前みたいだ。
そうか。俺はまた時空の壁でも突き抜けて、きっと現代に戻ってきたんだ。だからこんなに頭がふわふわして、気持ち悪くて…。
すると、俺の胸元まで激しい悪心が込み上げ、俺は急いで起き上がった。
見ると目の前にまたおかねさんが居て、俺は戻ってなんかいなかった。でも、今はそんなことはどうでもいい。
とにかくトイレに!えーっと、なんて言うんだっけ…。
「あっ!むかむかするのかい?そりゃいけないね。さ、はばかりはこっちだよ」
おかねさんが慌てて俺を廊下に連れ出す。俺はそれになんとかついていき、吐き気はなんとか厠までこらえられた。
「それにしても、お前さんはお銚子一本しか飲んでないじゃないかさ。まったく、張り合いがないねえ」
そう言いながらも、おかねさんはたくさん並んだうちの最後の徳利を一気に傾けてぐい飲みに出してしまうと、それを一息に飲み干す。
俺は日本酒を徳利一本飲み干したところで酔っぱらって眠り込んでしまい、そして目が覚めて、食事を戻してしまったらしい。
「でもさ、加減を悪くしたんなら早く帰らないとね。ほら、立てるかい?」
おかねさんはそう言ってすぐに俺に手を差し出してくれた。
ああ、やっぱり綺麗な人だな。俺の前に居るなんて、もったいないくらいだ。
俺はもう気持ちが悪い感じはなかったけど、その時彼女が俺を気遣うために微笑んでいたから、黙ってその手を取り、大人しくあとについて歩いた。
翌朝も俺は、おかねさんに叩き起こされた。
「ちょっと!いつまで寝てるのさ!秋兵衛さん!ちょいと!起きとくれよ!」
「あ、はい…はい…起きます…」
「やっと起きた。さあさ、お前さんは今日からうちの下男だよ。ああ、おなかがすいちまった。早くごはんを炊いておくれな。お米は水を測ってあるから、火を起こしとくれ!」
俺はおかねさんの羽織を体からどけて、どっこいしょと起き上がる。布団は一組しかないし、一緒に寝るわけにはいかないと俺が断ったので、俺は畳の上に寝て、羽織をかぶって丸まっていた。うう、あちこち体が痛い。
起きたばかりだし、二日酔いを起こしていたので、俺はちょっと水が飲みたかった。でも水を得るには井戸から汲まないといけないことくらいはもうわかっていたので、それはあとにしようと思った。
そして、俺には強みがあった。俺はキャンプに一人で行くことがたまにあったので、炭や薪の扱いなら慣れている。これなら、教わらなくても怪しまれずに火を起こせるかもしれないぞ!
そこで俺は改めておかねさんに「おはようございます」と言ってから、台所とおぼしき場所に立った。
そこには、おそらく「へっつい」と呼ばれるのだろう竈が一つだけあった。一口しかないのか。これじゃお米を炊くことしかできなさそうだ。
「おかねさん、おかずはどうするんですか?」
「たくあんがあるよ。昨日ちょうどお前さんが倒れてたとこの漬物屋で買ったものさ。あたしはちょっとはばかりに行くから。帰るまでに頼むよ」
ええっ!?おかずがたくあんだけ!?それはおなかがすいてたまらないんじゃないか!?
俺はそう思いはしたが、「今日から下男」と言われたからには、おかずくらいで文句は言えないので、黙っていた。
さて、火を起こすならまずライターかマッチを…と、そこまで考えて俺は気づいた。
江戸時代って…ライターもマッチもないじゃないか!
俺は即座に混乱し始め、へっついの前で両手を揺らしている恰好でしばらくあたふたとしていた。そこへ、おかねさんが手洗いから戻ってくる。
「なんだい、まだ何もしてないのかい?何ぼーっとしてんだい!早くしとくれな!」
俺はもう泣きそうだった。だから、その時の俺はよほど困っている顔をしていただろう。そのことにおかねさんも気づいてくれたのか、急に体をかがめ、心配そうに俺を覗き込んだ。
「お前さん…もしかして、火の起こし方まで知らないのかい…?」
俺は、「いいえ」と言いたかった。だってそう言わなければ、ややもすれば「無用者」として追い出されてしまうことだってありうるからだ。
しかし俺が無言でしばらく悩んでいたからおかねさんは察したのか、大きくため息を吐く。俺は申し訳なくて、うつむくしかできなかった。
すると、不意に俺の右手がむずと掴まれ、へっついの上にあった小さな石のようなものへ向けられた。
おかねさんは俺の手を取ってその石を握らせ、こう言った。
「これだよ。これが火打石」
「えっ…これが…」
俺は、火打石を見るのは初めてだった。それは、黒くてすべすべとしているけど、割られた面の端は鋭い。確かに、これなら打ち合わせたら火が出そうだ。
そしておかねさんは今度は俺の左手を取って、そばにあった刃の付いた木片のようなものを取らせた。
どうでもいいけど近い!近いですおかねさん!もう肩なんかくっついてるし!いい匂いするし!いや、冷静になれ、俺!
「それでね、これが火打ち金。これとこれを打ち合わせるんだよ。できるかい?やってごらん」
「あ、は、はい…」
おかねさんは手を放したので、俺はちょっと緊張したけど、火打ち金の刃物のようなところに、石を叩きつけてみた。すると、ぱちっと小さな火花が散る。
「あっ…!」
「できた!そうだよ、それでね…こっちにある火口。これにその火花を移すんだよ。もう一度やってごらんなね」
おかねさんはもう怒っていなくて、俺に優しく火の点け方を教えてくれた。
「火口」はガサガサとした黒い塊で、俺はそれに火花を移し、そしておかねさんの教える通りにその小さな火に息を吹きかけてから、「付木」という木片にその火を移して、さらに大きくした。
「そうそう。できたじゃないかさ。それを竈に入れるんだよ。…あっと、いけない。薪を入れてないじゃないか!」
「す、すみません!」
慌てておかねさんが薪を持ってきて、それをへっついの中にくべて、俺はそこに付木を入れて火が起きた。
「さあ、これで覚えたろ?明日からは一人でできるね?」
おかねさんはそう言って得意げに、愉快そうに笑っていた。
「はい。ありがとうございます」
「そうそう、窓を開けなけりゃ。煙たくってしかたないよまったく…」
「えっ?窓?」
俺が見渡しても窓なんか見当たらなかったけど、おかねさんはへっついの脇にあった紐を引っ張る。すると、紐がするすると引かれていくにつれて、上から朝日が差してきた。
顔を上げると、天窓があった。
「わあ…」
俺は感心して思わず声を漏らした。
そうか、こうして煙を逃がすのか。確かにこうしないと、家じゅうに煙が充満してしまう。
「よく考えられてるなあ…」
俺がぼーっと突っ立っていると、おかねさんは「お米が炊けるまでお茶でも飲もう」と、俺を火鉢のそばに誘った。
「それにしても、火の起こし方まで知らないなんて、お前さんどっかの御大尽の家の生まれなんじゃないかい?」
「さあ…何せ、何もおぼえてなくて…」
俺はなるべくゆっくりと、悩んでいるふうにそう言った。ここで「未来から来た」なんて言っても、通じないだろうと思ったからだ。
おかねさんはそう言った俺をまた気の毒そうに見つめていたけど、しばらくして二度三度頷く。
「そうかい、そうかい…それじゃあ心細いだろうに…いいかい?安心おしよ?お前さんはちゃーんとあたしが面倒見るからさ」
俺はそれを聞いて、うつむいた格好だったところから顔を上げた。おかねさんは火鉢の横でちゃぶ台に向かって肘をつき、不安そうな顔で俺を見ている。
「はい、大丈夫です。ありがとうございます、おかねさん」
騙すような真似になるのが少しだけ心苦しかったけど、俺はおかねさんがもう一度元気を出して、お湯が沸いた鉄瓶を取ろうと火鉢に向かっている姿を見つめていて、満足だった。
第七話 江戸の朝ごはん
俺たちはお米が炊けるまで、お茶を飲んでいた。その間に俺は、気になっていたことをおかねさんに聞くことにした。
元禄と言えば、井原西鶴や松尾芭蕉が活躍した年号だった気がする。少なくとも、学校ではそう習ったような…。
「あの、おかねさん、井原西鶴と、松尾芭蕉って知ってますか…?」
もしかしたら一般の人は知らないかもしれないと思ったので、俺の口調はちょっと控えめになった。すると、おかねさんは嬉しそうな顔になって、こう話し出す。
「ああ、知ってるよ。「好色一代男」を書いた人だろ?井原西鶴って。あたしも読んだけど、おもしろいもんだねえ。ああいうのならいいさ。お武家様の話もいいけどね。松尾芭蕉は、えーっと、あたしもこの間初めて聞いたんだけど…」
そう言ってからおかねさんはちょっと考え込んで下を向く。
「松尾芭蕉は…そうそう!元々はお武家に近い家だったそうけど、今では句を詠む人さね。ついこの間も…えーっと、更科…「更科紀行」さ!そんな本が出たんだって、貸本屋が言ってたよ」
貸本屋?貸本屋は確か…家に本を持ってきてくれて、レンタル料…みたいなものを払うと、本を貸してくれる人だったかな?ちょっとあやふやだ。まあいいか。
「「おくのほそ道」は?」
「なんだいそりゃ。それも本の名かい?」
「あ、いえ。なんでもないです…」
もしかしたら、俺は「おくのほそ道」が出る前に来てしまったのかもしれないな。そう思ってその場はごまかした。
「でもさ、お前さん、火の起こし方は知らないのに、本のことは知ってるなんて、変な話だねえ。字は読めるのかい?」
「あ、はい、読み書きはできます」
俺がそう答えると、おかねさんはぱちっと両手を打つ。
「まあ!すごいねえ!じゃあ手内職に写し物なんてできるんじゃないかねえ」
「写し物ってなんですか?」
「知らないのかい?はじめに書かれたものを渡されてね、それを紙に書き写すのさ。そうするとねえ…いくらかはわからないけど、小銭稼ぎくらいにはなるよ」
「へえ、そうなんですね」
そういえば江戸時代には、貧しい武士たちが内職をして、家計をやりくりしていたこともあったと聞いた。「おかみさんが手内職をして」なんて文句を本で読んだこともあったな。
「まあ、今は家の仕事もままならないけど、そのうちにあたしがどっかから写し物の仕事を探してきてやるから、おやんなね。ね、そうおしよ」
「そうですね。わかりました。お願いします」
「決まりだね」
俺は下男として世話になるのだし、少しでもお金も稼いで、おかねさんに助けてもらった恩返しをしたかった。そのやりようがこんなに早く見つかったのは、嬉しいことだ。
「あ、いい匂いがしてきた。お米が炊けるようだよ。薪を入れなけりゃね」
「あ、はい!」
俺たちは台所の竈の前に腰かけて、俺はおかねさんにお米の炊き方を教わっていた。
「いいかい?こうして火を落としたら、しばらく蒸らすのさ」
おかねさんは、初めは弱火だった火を、薪を入れて強火にしてから、最後に火を消した。
あれ?これ…どっかで聞いたような…確かちっちゃい時にばあちゃんが…。
「あ、あ!これ…“はじめチョロチョロなかパッパ”!」
俺は思い出したことにびっくりして、思わず叫んでしまった。すると、おかねさんが驚いて振り向く。
「なんだいお前さん、そんなことは知ってるのかい?つくづく不思議な人だねえ」
おかねさんは怪訝そうに首を傾げたけど、すぐにふっと笑顔になる。
「まあそうだよ。あとに続くのは、“ジュウジュウいうとき火をひいて、赤子泣くとも蓋取るな”さ。わかってるなら任せるよ。蒸らし終わったらお茶碗に盛っておくれな」
「はい、わかりました」
俺はお釜の前でしばらく待ってから、おかねさんが用意してくれたお茶碗にお米を盛る。そして彼女に手渡すと、おかねさんはまたびっくりして叫んだ。
「なんだいこりゃ!こんなんじゃあとでおなかがすいちまうよ!」
そして俺が持っていたしゃもじをひったくると、おかねさんはお茶碗にどんどんお釜からお米を盛っていく。
俺がそのごはんの量にびっくりする暇もなく、目の前には山盛りのごはん茶碗ができあがった。
「これでよし。おかずが少ないんだから、このくらいは食べないとね」
そうか。おかずはたくあんだけと言っていたけど、江戸の人はその分お米をたくさん食べるのかもしれない。
「悪いけど、お前さんの茶碗と汁椀はまだないからね、今日はこのあと、身の回りのものなんかを買いに出よう」
そのあと、おかねさんは俺に先に食事を済ませるようにと言ってくれたので、俺は言われた通りに手早く食べさせてもらった。そして、同じ茶碗にお米を盛り直し、おかねさんもたくさんのごはんを食べていた。
第八話 “損料屋”って何?
俺は朝食を食べてから、おかねさんに「洗い物をしとくれ。それから遅くなったけど、水も汲んできておくれね」と言われた。だけど、家の中に水道はないし、どうするのかちょっと迷っていると、おかねさんがこう言った。
「ほらほら早く。そこで茶碗やらを水で流したら、井戸から水を汲んでくるんだよ!」
“そこ”と言われて振り返ると、確かにへっついの隣に、流し場らしきものがあった。でも、もちろん水道の蛇口はない。
俺はどうにかこうにか水瓶から水を汲んで食器を洗い流し、それから桶を持って、井戸へ行った。
「ふう。家の中に水道がないと、こうなんだなあ。それにしても、流し場があるとは思わなかった」
俺がそんな独り言を言ってから戻ると、おかねさんは出かけるためにお化粧をしていた。
うわ…ほんとに白粉はたいてる…。
おかねさんは三段重ねの丸い容器から水と粉を取り出し、水に粉を溶かして、刷毛のようなもので念入りに塗り重ねていた。そうして、あっという間に白粉でおかねさんの顔はとても色が白くなり、首や胸元にも塗っていたようだけど、そこは少し白色が薄かった。
それにしても、粉をはたくだけだと思ってたのに、本当は白塗りに近かったんだなあ。
俺は言われた通りに、水瓶と桶、食器をへっついの脇に重ねて置く。そして振り向いた時には、おかねさんは御猪口のようなものから薬指で口紅を取り、それをちょいちょいと唇に塗っていた。でもそれは唇全体に乗せるのではなく、ただちょっと真ん中あたりに色を付けるだけだったみたいだ。昔はおちょぼ口が好まれたって言うし、それでかな?
そしてお化粧道具を棚の中にしまうと、おかねさんはくるりと振り返る。それは、とてもじゃないけど口では言えないくらい、綺麗だった。
俺はもうおかねさんを見るたびに胸がときめくようになっていたけど、“そんなことは考えても無駄だ”と思っていた。
何しろ俺はただの下男だし、もし彼女を好きになったとしても、どうせ叶わぬ恋だ。何せ俺は、この時代の人間じゃないんだから。
「さ、じゃあお財布を持って、まずは損料屋に行くよ」
「あ、はい。よろしくお願いします」
俺には“損料屋”というものがなんなのかわからなかったけど、とにかくついていけばわかるかなと思って、そのまま二人で家を出た。
「着いたよ。ここがこの町内の損料屋。とにかく、お前さんの布団やら茶碗やらを借りないとね」
「え、借りる?それでいいんですか?」
布団や茶碗を貸してくれる店があるなんて俺は知らなかったし、“借りる方がお金が掛かるんじゃないだろうか”と思った。
「大丈夫だよ。使った分の損料を払えば、最初に払った銭は返してもらえるんだから。そうやってみんな、いろんなものを借りていくのさ。もし火事なんか起きて、買ったものが全部灰になるよりはいいからね」
おかねさんはそう言って安心したように笑っていた。俺も、“確かにそうかもな”と思いながら、おかねさんがその店ののれんをくぐるあとについて、店に入った。
店の中には、それこそありとあらゆる日用品が揃っているようだった。
食器、鍋、衣服に布団、それから火鉢やこたつらしきものに、ちゃぶ台まであって、他にもこまごまとしたもので店内は埋め尽くされていた。
「へえ…すごいなあ」
俺は感嘆の声を漏らして店内を見渡していた。おかねさんは「いらっしゃい」と迎えてくれた店員さんにこう切り出した。
「あのねえ、急に家に人が増えたからさ、膳と瀬戸物、それから羽織と布団を借りたいんだよ。いいかい?」
「ええ、もちろんですとも。どれになさいますか?」
「そうねえ。少し見て回るから、ちょっと待っておくれな」
「かしこまりました。何かございましたら、お声がけ下さい」
“損料屋”の店員さんはなんとなく俺たちを気にしていたようだけど、おかねさんは構わずにその場にあったごはんのお膳とにらめっこしたり、お茶碗を持ち比べて選んだりしてくれた。そして、不意に俺を振り向く。
「ねえお前さん。茶碗はこれでいいかい?」
見たところそれは青色で描かれた綺麗な模様のある大きめの茶碗で、俺は「はい」と頷く。そして、お膳も同じようにおかねさんの選んだものに従った。
「布団はねえ…ちょっと値が張るけど、このくらい柔らかくないとやっぱり体を痛めるからね。よし、これにしよう!」
「すみません、ありがとうございます」
おかねさんは最後に俺に羽織をいろいろと着せてみて、何度か眺めては「次はこれはどうかねえ」なんて、また新しい羽織を出してきてくれた。
俺は錆びた緑色のような落ち着いた羽織が気に入ったので、「これをお願いしてもいいですか?」と聞く。
「もちろん。ところで、他に何か欲しいものはないかい?」
そう聞かれた時、俺は今まで我慢していたものをついに言う気になり、勇気を出してこう言ってみた。
本当は自分で稼ぐようになってから買ったりしたかったけど…。
「えっと…、実は私は、煙草を吸うんです…だから、煙管と煙草の葉が欲しくて…お世話になっている身で、本当に申し訳ないんですが…」
俺がそう言うと、おかねさんはくすくすと笑った。俺はそれに戸惑い、顔を上げておかねさんを見つめる。
「…まったく、いつまでも遠慮しっぱなしなんだからさ、お前さんは。煙草飲みじゃないほうがめずらしいくらいなんだから、別にいいんだよ。よし、じゃあこのあと煙管屋も行こう」
俺はびっくりした。江戸時代って、そんなに喫煙率が高かったのか。
俺の生きていた現代じゃ、もう煙草を吸う人間なんて、毛嫌いされるくらいなものだったけど…。ずいぶんおおらかな時代だったんだな、江戸時代って。
「すみません。じゃあ、お願いします」
「じゃああたしは勘定を済ませてくるから、外で待っといで」
「え、は、はい。ありがとうございます、よろしくお願いします」
少し店の前で待っていると、おかねさんはすぐに大きな風呂敷包みを抱えて戻ってきた。
「秋兵衛さん、悪いんだけどね、これはお前さん背負っておくれ。お前さんの荷物だからね」
「はい!もちろんです!」
俺はそれから風呂敷包みを背負い、おかねさんのあとについて、今度は煙管屋を目指して歩いた。
「長さん。長さんはいるかい?」
俺たちは、大量の煙管やいろいろな物が置いてある店に着き、おかねさんは奥に向かって声を掛けた。すると奥から「へい、お待ちを」とのんびりした声がして、六十は過ぎてるんじゃないかというおじいさんが姿を現した。
「おお、おかねさんじゃねえかい。どうしたい。もう替え時かい?」
そのおじいさんの顔にはしかめっ面に近い眉間の皺があったけど、それはどこか職人らしい引き締まった顔つきに近くて、おかねさんに向けている笑顔は十分朗らかに見えた。恰好は甚兵衛に裸足と、これまた職人じみている。
「いやいや、そうじゃないんだよ。今度この人を下男として家にいれることにしてね、それで煙管がないってんで、ちょっと欲しいのさ」
「そうかいそうかい。それで?お連れさんはどんなものが好みだい?」
「まあこの人は大人しいんだから、短いのでけっこうさ」
「そうかい。じゃあちょっと待っておくんな。えーっと…じゃあ、こんなもんはどうだい?まあなんてこたない竹だが、十分すすめられるもんだよ」
するとおかねさんは顔の前で片手を振って笑う。
「いやいや、やっぱり延べ煙管がいいだろう。その方が味もいいよ。そうしとくれな」
“延べ煙管”ってなんだろう?俺がそう思う間もなく、煙管屋のおじいさんはそれに何度か頷きながら、近くにあった、細かな装飾の施された金属製らしい煙管を手に取って、おかねさんに渡してみせる。
「そいじゃあ、これぁどうだい」
「…うん、いいねえ」
おかねさんは俺を振り返って、嬉しそうにこう言う。
「ねえ秋兵衛さん。これでいいと思うんだけどねえ、どうだい?」
俺は鉄らしき胴体に綺麗な彫り模様のある煙管を見て、“どう見てもこっちの方が高そうだぞ”と思った。
でも俺には違いなんてわからないし、遠慮をしたところでおかねさんは聞かないだろうなと思って、「えっと、じゃあそれでお願いします、すみません」と言った。
そのあと家に帰って荷物をほどいてから、俺たち二人は一緒に煙管で煙草を吸った。もちろん俺は煙管の使い方も知らなかったけど、おかねさんがやるのを見て真似しようと思っていた。
おかねさんは煙管の先に刻んだ煙草の葉を詰め、おくれ毛が火鉢に垂れないように指で押さえながら、口にくわえた細長い煙管を、火鉢に近づける。少しそうしていると、ちりっと音がして、煙管の先にぽうっと灯りが点いた。それからおかねさんはゆっくりと煙を吸い込み、ふうっと吹く。
それはまるで、浮世絵の中で艶やかな女性がのびのびと煙管をくわえている場面そのままだった。
何をさせても様になる人だなあ。俺はそう思いながら、自分の煙管にも煙草の葉を詰めた。
第九話 大家さん
さて俺たちはやっと一服ついて、それからおかねさんはこんな話を始めた。
「それでねえ、あたしはこの長屋で一人住いってことになってるけどさ、「今度下男を」って話を一度大家さんに通しに行くから、お前さんも行ってよく挨拶するんだよ。うちの大家さんに限って「いけない」なんて言わないと思うけど、少し心配性でね、だから。さ、じゃあ行くよ」
「は、はい!」
俺はおかねさんの煙草盆に煙管を引っ掛け、戸を開けたおかねさんについていった。
コンコンと、おかねさんはある家の戸を叩く。すると中から「はいよ、どなたかな?」と、おじいさんの声がした。
「おかねです。開けてください大家さん」
おかねさんは少し緊張しているようだったけど、なごやかな声でそう言った。
「締まりはしてないからね、お入り」
家の奥からはそんなのんびりした声が聴こえた。
「はい。失礼します」
俺は戸を開ける前に目配せをされて、おかねさんは戸を開けると同時に頭を下げたので、俺もそれに倣った。
「おお、どうしたい。そちらは?どなたかな?」
頭を下げたまま少し考えていたようだったけど、おかねさんが顔を上げると、もうそれはいつも通りの顔だった。
「実は、今度うちに下男を置くことになりまして、それで、本人を連れてご挨拶に…」
「おお、そうかい、そうかい。そりゃどうもありがとう。ささ、そこじゃあ話がしづらいから、こっちへ来てあがんなさい。ばあさん!お客人が二人だよ!お茶をおくれな!」
大家さんが奥に向かって叫ぶと、奥からは大家さんよりもさらにのんびりとした「はあい」が聴こえてきた。
「ありがとうございます。さ、お前さんも上がらせてもらって」
「はい」
俺たちは草履を脱いで玄関に揃えると、大家さんが肘をついているちゃぶだいの前に立った。
「さ、ご挨拶おしよ」
俺はほとんどおかねさんがしゃべるんだろうと思っていた。でも、急にしゃべらなければいけなくなったので、俺はちょっと焦った。
それに、「江戸時代の大家さん」と言うとなんだか「ちょっとえらい人」のような気がしていたので、緊張で舌が突っ張って、しばらく何も出てこなかった。でもなんとか笑顔を作って、こう話し出す。
「あ、あの…わたくしは昨日、行き倒れていたところを、おかねさんに助けていただいた…秋兵衛という者です…それで…行くところがないとわたくしが申しますと、おかねさんが、下男として面倒を見てくださるとおっしゃってくださったので…お世話になることにしました。あの…」
そこで俺は、大家さんの顔を見た。すると大家さんはびっくりした顔をしていたので、“もしや気に障ったのでは”と思い、俺はこう言い直した。
「あの、もし大家さんの方で「いけない」ということであれば、もちろんわたくしは出ていきますが…なにぶん、行くところもございませんで、難儀をしておりまして…」
俺は無理に時代がかったしゃべり方をして頭の中がしっちゃかめっちゃかになって、だんだん自信がなくなってきた。そしてそのまま、うつむいてしまう。
どうしよう。「無作法者だ」なんて言われたりしたら。
しばらく場は沈黙していたが、急に大家さんは「はあ、こらぁ…」とため息を吐いた。
「なにかい、おかねさん。この人はどこで行き倒れてたんだい」
するとそこで、妙な内緒話のようなものが始まった。
「え、日本橋ですが…」
「それで?恰好は?」
「つぎはぎだらけで…それで、着物を神田に買いに行ったんです」
「へえ、そうなのかい。じゃあほんとの行き倒れだねえ…」
「え、ええ…でも…」
そこでおかねさんは横に居る俺をびっくりしたように見つめる。
「秋兵衛さん…お前さんそんなに上等の口が利けるなんて、ほんとにどこから来たんだい?」
「えっ…!?」
しまった!ちょっと丁寧過ぎたか!
俺はこの時代に言葉遣いを合わせようとしたもんだから、丁寧になり過ぎて町人には不自然なほどになってしまっていたみたいだ。でもそれだけのことだし、そんなに慌てはしなかった。
「いえ、違いますよ。でも、何もおぼえていなくて…」
そこへ、大家さんの奥さんなんだろうおばあさんが顔を出し、「あら、おかねさん」と言って、お茶を二杯差し出してくれた。
「まあまあ話をさえぎって悪いが、とにかく座りなさい」
それから大家さんの前で俺は、目が覚めたら日本橋に居たことを話し、「少しはものもわかるけど、わからないことが多い。それから、自分が「秋兵衛」という名前であることはわかるけど、生まれや育ちのことは覚えていない」というように話した。
俺のその話を聞くと、大家さんは俺が何度も見てきたあの同情をするような顔になって、何度か頷く。
「そうかい、そうかい。そりゃ困ることも多いだろう。でもおかねさん、心配しなくてもいい。この方はちゃんとした方だよ。じゃあ届け出はあたしが奉行所にしておく。何かあったら知らせるけど、多分大丈夫だろう。うちの町内の行き倒れということにしておくから、おかねさん、お前さん引き受けてくれるかい」
「はい。きっと」
俺が見た限り、その時そこでは、何か大切な取り決めがなされたように見えた。もしかして、この時代の大家さんというのは、奉行所に住民の身元を届け出たり、行き倒れの世話をしなければいけなかったのだろうか。だとすると、「何も覚えていない行き倒れ」で話が通るのか、俺は不安だった。
そこでよくお礼を言って、俺はおかねさんと一緒に頭を下げ、大家さんの家を出た。
帰る道々、おかねさんは心配事がなくなったように、晴れやかな顔をしていた。
「ああ。これでお前さんはやっとうちの下男として、長屋の住民になれるよ。じゃあそうだねえ、昼の前に湯屋でも行こう」
「え、もうお風呂に入るんですか?」
「なんだい、「お風呂」なんて田舎者みたいな言い方してさ。湯屋なんて一日になんべんも行くじゃないか」
えっ?そうなの?江戸時代の人ってそんなに何回もお風呂に入ったのか。意外と清潔好きなんだな。
「じゃあお前さんに湯銭を持たせておかないとね。ぬか袋も買うだろうから、少し多めに渡しておくよ」
そう言っておかねさんは懐から財布を取り出し、お金を数えていた。俺はその時、初めて間近で江戸時代のお金を見た。
うわあ、ほんとに穴が開いてて、文字が彫ってある…。
「うん。二十文もあればいいだろう。はい、じゃあこれだよ」
「はい、ありがとうございます」
俺が受け取った銅銭は、ちょっと確認してみたところ、二種類あったみたいだ。でも、どうも違いがわからない。
「あの、これは…」
俺がそう言って聞こうとすると、おかねさんはまたくすくすと笑った。
「なんだいお前さん。こりゃいよいよ御大尽だねえ。銭も見たことないのかい?これが四文。こっちが一文さ。ちょっと半端になっちまったけど、釣りはもらっておくれよ」
「あ、はい、ありがとうございます…」
俺がしげしげと銅銭を手に乗せて眺めていると、おかねさんは「こら、銭は早くしまうもんだよ。袂に入れちまいな」とちょっと俺を叱った。
第十話 湯屋と男とやせがまん
俺とおかねさんは湯屋、今で言う銭湯に向かって歩いていたけど、すぐ着いた。
「近くにあるならいいですね。覚えておきます」
「なに言ってんだい。湯屋なんて一町に一軒はあるもんだよ。じゃあ行くよ」
おかねさんがそう言って、俺たちはのれんをくぐる。その時、俺はびっくりして叫びそうになってしまった。
もちろん銭湯だから番台はある。でも、俺の居た時代には、番台の前を通り過ぎてのれんをくぐると、男女別の脱衣所があったはずだった。
でもそこは、番台の向こう側にある脱衣所と洗い場がまるっきり丸見えで、しかも脱衣所では、男女が入り乱れてみんな服を脱いでいた。
それに、男性も女性も全然恥ずかしがるふうでもなく、普通にさっさと服を脱いで洗い場に向かったり、さらにちょっとした喧嘩まで起きていたのだ。しかも、喧嘩をしているのは女性二人だ。
なんだこれ!混浴なんてレベルのものじゃないじゃないか!今からこの中で服を脱いで、お風呂に入れって言うのか!?
俺がパニックを起こしそうになりながらもなんとか番台の前に行くと、おかねさんは「はい十文。それからぬか袋を一つもらっていくから、あと六文だね」と、番台に座っているお姉さんにお金を渡していた。
俺はよっぽど帰りたかったけど、体を汚くしていてはおかねさんが嫌がるかもしれないし、仕方なく番台で同じように湯銭を払って「ぬか袋」というものをもらった。
ところで、この「ぬか袋」って何に使うんだ?
俺とおかねさんはもちろん同時に服を脱いだけど、俺は意地でも彼女の方は向かなかった。でも、男性はふんどしまでは脱がないみたいだし、女性も下半身は布を巻きつけている。俺はうつむいていることしかできなかった。
洗い場では、なぜか普通に着物を着て、裸の誰かの体をゴシゴシと洗ってあげている人が居た。あれも職業なのかな?なんか大変そうだ。
俺はとにかく緊張していたけど、途中であることに気づいた。湯舟が見当たらないのだ。
“もしかしてこの頃はまだ蒸し風呂なのかな?”と思っていたら、奥に向かってお客が入っていく、背の低い入口があるのを俺は見つけた。
綺麗な絵が描かれた壁があるなあと思っていたものの下を、全員がくぐって、薄暗い中へ入っていく。
もしかして、あの向こうに湯舟があるかも!
俺がそう思ってその中へ行ってみようと洗い場で立ち上がると、隣に居た男の人から声を掛けられた。
「おいおめえ、ぬか袋があるんなら、洗ってから湯へ入れよ」
「え、あ、ありがとうございます。忘れてました」
「へっ、粗忽な野郎だ」
こ、怖い…。なんか見たところ職人さんみたいな感じのする若い男の人だけど、怒ってるみたいだし、目なんかぎらぎらしてて、怖い…!
とにかく俺はぬか袋が体を洗うものだと知ったので、まずはそれを体にこすりつけてみた。するとまた隣の男の人が怒り出す。
「ええい、じれってえ奴だな!水で湿すんだよ!あっちにかけ湯がある!それぇ汲んで来い!」
「は、はい!すみません!」
俺は怒鳴りつけられたので、逃げるようにかけ湯を汲むらしき場所へ、手桶を持って急いだ。
親切で教えてくれるのはありがたいんだけど、いちいち怒らないでください!
そして俺はぬか袋を水に浸して、くしゅくしゅと揉んでみた。すると中から白い粉が溶け出してくるようだったので、それを十分に体へこすりつけて、かけ湯のお湯で体を流した。
へえ…なんか、皮膚がつるつるになった気がする…心なしか、色も白くなったような?ぬか袋ってすごいなあ。
隣に居て、何やら毛抜きのようなもので頭の手入れをしていたらしい男の人にお礼を言い、俺は奥に続く低い入口をくぐった。
どうでもいいけど、髪を洗っている人が一人も居なかったな。まあ、こんなふうに結い上げられた髪をほどいて洗うのも、もう一度結うのも面倒だもんなあ…。
奥に続く入口を抜けると、中は薄暗くて、人が居てもどんな人なのか見分けるのも難しかった。それに、すごく蒸し暑い。蒸気に取り巻かれているようだ。でも、そこにはやっぱり背の低い浴槽があって、みんながお風呂に浸かっている。
うんうん。やっぱり日本人はゆったりお風呂に浸からなくちゃなあ。
俺が入った時には浴槽はいくぶんすいていたみたいだったので、小声で「すみません、失礼します」と声を掛け、お風呂に足を入れる。
「いっ!?」
思わず俺は叫んで、湯に入れた足を慌ててひっこめた。
なにこれ!すんごい熱い!ありえない温度だ!こんなのお風呂じゃない!罰ゲームだぞ!?
でも、俺意外の人はみんな黙ってお湯に浸かっていたし、俺が熱くて入れなかったことがわかったんだろう、お風呂の中で誰か女の人が笑っていた。
俺はそこで、ここぞという負けん気を出した。笑われっぱなしでたまるか!
もう一度おそるおそる入ったお湯はやっぱりとてつもなく熱くて、ゆうに四十五度は超えているんじゃないかと思った。でもなんとかそこへ体を沈めて座ってみると、幸い、お湯の深さは膝のあたりまでしかなかった。
しばらくがまんをしてみたけど、やっぱり途中でたまらなくなって、俺はへろへろになりながら、なんとか湯から上がって、すぐに脱衣所に戻ろうとした。すると、また後ろから誰かが叫ぶ。
「おい!おめえさんよ!」
振り返ると、さっきの男の人だった。でも、さっきもちょっと思ったけど、この人どこかで見たことがあるな。その人は俺に近寄ってきて、肩に手を置くとにかっと笑った。
「おめえ、師匠のところにいた行き倒れだろう。秋兵衛さんって言ったかい。ところで、上がるんなら上がり湯を掛けてけよ」
「え、は、はい。すみません…」
俺は、熱すぎる湯からやっと解放されたばかりで頭がくらくらしていて、「ああ、この人は「栄さん」だったか」と思っても、まともに話もできなかった。
俺も栄さんも上がり湯を浴びて、それから脱衣所に戻ると、服を着る。おかねさんはまだ居なかったけど、他にもたくさん女性は居るので、その人たちを見ないようにするので俺は精一杯だった。
栄さんとちょっと目が合った時、栄さんは俺が女性たちを気にしているのをからかいたがるように、にやにやしていたように見えた。
「ああ~いいお湯だった。すっかり温まったよ」
俺が湯屋の表で待っていて、そろそろおなかがすいてきたなと思っていると、おかねさんがやっと湯屋ののれんから出てきた。そして俺を見ると、彼女は急に笑い出す。
「ど、どうしたんですか?」
「いやいや悪いね笑っちまって。でもさ、おっかしいねえ。あたしゃ思い出しちまったよ。お湯に足を入れた時のお前さんの声ったらさあ」
「えっ…!」
じゃああの時笑っていた女の人は、おかねさんだったのか!
俺は恥ずかしいから顔が熱くて、それからちょっと複雑な気分になった。
俺はすごく気にしていたのに、彼女にとって俺は、同じ風呂に入ろうが何をしようが、どうでもいいんだろうな、と思って。
「何も笑わなくてもいいじゃないですか…」
「いやあ、すまない、悪かったね。ま、でも江戸の男なら、「ちょっとぬるいんじゃねえのかい」くらいは言えるようになっておくれよ」
江戸の男は、大変だ。
第十一話 お寿司と裏長屋
湯屋から帰ると、おかねさんは「食事にしよう」と言って俺を連れ出した。
江戸時代の人ってお昼に何を食べたのかな。俺たちの時代の昼食と言えば、牛丼、天丼、ハンバーガーと様々だけど、この時代なら和食一色だろう。
俺がそう考えているうちに、歩いている表通りは屋台ばかりになってきた。そこら一帯が人で賑わい、それぞれの屋台の看板は、「煮売茶屋」、「うどん」、「一膳飯屋」、「団子」など、さまざまだ。
どれを食べるんだろうな。そういえば、鰻とか天ぷら、蕎麦屋なんかが見当たらないな。この辺りにはないのかな?
「ねえお前さん、寿司なんかいいんじゃないかね」
「え、お寿司ですか?」
確かに江戸時代は屋台のお寿司があったなんて聞いたことがある。一つ一つの握りがすごく大きくて、腹持ちがいいとか。
「おかねさんにお任せしますが、私はお寿司は好きですし、嬉しいです」
「そうかいそうかい。じゃあそうしよう」
ありがたいな。下男の身分で寿司を食べるなんて、なかなかあることじゃないぞ。
それにしても、俺は本当に下男なんだよな。まだあまり下男らしいこともせず、贅沢をさせてもらってばかりのような…。なんだか申し訳ないなあ。
そんなことを考えていると、おかねさんが「鮓・食すし」という看板を見つけ、俺たちはその屋台に引き寄せられていった。
「大将、やってるかい」
「あいよ、なんにします?」
「何があるんだい」
「そうねえ、鯵と鰯のほかは、貝でさぁ」
「じゃあ鯵と浅利を二人前ずついただきたいね。それから、一本だけぬる燗をつけておくれ」
「あい、ちょいとお待ちを」
おかねさんと店主がそんなやり取りをしてからすぐに「ぬる燗」なのだろう日本酒の徳利が出されて、俺たちはちょっとだけ屋台の椅子に腰かけて待っていた。でも、運ばれてきたのは、俺が思っていたような寿司ではなかった。
それはお皿の上に笹の葉が一枚あり、どうやらその笹の葉はお寿司にくっついていたものなのか、材料の野菜の欠片がくっついていた。そう、野菜。それも意外だった。
ちょっとつぶれたお米の上に、鯵の切り身が押し付けられていて、その上にいちょう切りにされたにんじんや大根が、これまた押し付けられている。浅利の方も同じだった。
そのお寿司は、もしかしたら、今で言う「押寿司」に近いものだったかもしれない。俺は驚いたままで、「大将」から丸箸を渡され、一口食べてみた。
なんだろう、ちょっと酸っぱいのはやっぱりお酢なんだろうけど、普通のお寿司にはない、旨味みたいな酸味があるな。くたっとしているけど、意外と美味しいかも。
「美味しいかい?」
「はい」
おかねさんも美味しそうにそのお寿司を食べて、食べ終わる頃にはお酒もなくなっていた。
「食べ終わったね。大将、いくらだい」
「四十文で」
「あいよ、じゃあこれでね」
「ありがとうぞんじます」
おなかも心地よく満たされ、俺たちは屋台を後にした。
「あー、家に帰ったらまたお稽古だよ。まったく若旦那だの芸狂いだのはさ、おだてておけばもちろん金になるんだろうけど、どうも気構えのなってない奴らが多くて困ってるのさ」
おかねさんはそう愚痴をこぼしている。それにしても、俺は少し気になっていることがあった。
お稽古事って娘さんがほとんどって思ってたけど、どうしてそんなに男の人が来るんだろう?
まあ、それは見てれば追々わかるかな。
「そうそう。うちに帰ったらあたしは稽古をつけるけど、その前にお前さんは長屋の皆さんに挨拶をして、すぐに掃除をしたら、明日の分のお米を研いで洗濯をしておくれな。あたしの稽古は夕には終わるから、それまでに頼むよ」
「は、はい!」
帰ったら俺はやることがたくさんだ。それに、長屋の住民の人に挨拶って、緊張するなあ。でも、昔は近所付き合いとかが重要だったみたいだし、頑張らないと!
って、俺…やっぱ元の時代には帰れないの…?
…そのうち考えよう。今は気にしても仕方ない。おかねさんに恥をかかせるわけにいかないし、きちんときちんと!
俺はなんとなくしゃっちょこばっていたような気もするけど、十分に気を引き締めて事に望んだ。
「おそのさん、おそのさん。おかねです」
長屋の挨拶回りには、おかねさんが戸を叩いて回って、俺は損料屋で借りた羽織を着て、後ろでちょっと前かがみに待っていた。
「はい!はいはい、今開けます!」
からりと戸が開いて現れたのは、もういくらか整えた髪もほつれて、忙しい中を慌てて出てきたといった感じの、おかみさんらしき人だった。
「忙しい中すみません。今度うちに下男を置くことにしたので、ご挨拶に伺いました」
「まあそれはどうもご丁寧に…そちらの方?」
「ええ、秋兵衛さん、この方はおそのさん。今月の月番で、ご亭主は大工さんなんだよ」
俺は「月番」というのがなんなのかよくわからなかったけど、とりあえず頭を下げ、「秋兵衛と申します。どうぞよろしくお願い致します」と言った。
「まあまあ、これまたご丁寧に、はい、どうぞよろしくお願いします。それで?どこの方なんです?」
俺は頭を下げたままで、ぎくっと固まってしまった。でもおかねさんがおそのさんに頭を下げて笑う。
「まあまあ、それはまた今度の時に話します。このあと長屋じゅうを回らないといけないので、すみませんが失礼します」
「あらそう、はい、じゃあ」
「トメさん、トメさん、いるかい?」
中からはしばらく返事はなかったけど、しばらくして「なんだえ?誰かいるのかい?」と、おばあさんの声が聴こえてきた。
「トメさん、おかねです。ご挨拶したい人が居るので、連れてきました」
「お待ち、今そこを開けるから。どっこいしょ…アイテテテ」
大工さんのおかみさんのおそのさん、海苔屋のトメさん、それから小間物屋の銀蔵さんは商売で出かけていて居なかったようだけど、残るのはご牢人が住んでいるという、一軒だけになった。
「ご牢人さま、開けてくださいまし。おかねです、ご牢人さま」
すると、いきなりガラッと戸が開いて、質素な着物を着て、俺たちを睨みつけるような目のお侍が出てきた。
「あまり、牢人、牢人と表で叫ばないでいただきたい」
“牢人”と何度も呼ばれたのが気にくわなかったらしいその人は、すでにへそを曲げている。どうしよう。うまくいくかな…。
「まあ、申し訳ございません。あの…うちに下男を置くんで、ご挨拶に参りました」
「お世話になります、秋兵衛です。よろしくお願い致します」
するとその“ご牢人”は俺をじっと見つめて、どうやら怪しい者でないかを確かめているようだった。
「…ふん。勝手にするがいい。拙者にさして関わりもあるまい。もうよいな」
そう言ったきり、お侍はぴしゃっと戸を閉めて奥へ引っ込んでしまった。
「あの…大丈夫なんでしょうか。あのお侍さん、怒ってたんじゃ…」
家に入ってからそう聞くと、おかねさんは顔の前で片手を振る。
「ああ、あの人はいつもそうなんだよ。自分がえらかった時のことばかり考え込んで、ひねくれちまったのさ。ああはなりたくないね」
「そうなんですか…」
「それから、おそのさんはいい人だけどね、ご亭主は怒ると手がつけられないから、お前さん、如才なくしてるんだよ」
「は、はい!」
江戸に住む人にも、十人十色の事情があるんだなあ。
その時なぜか俺は、少しずつこの土地が好きになれそうな気がしていた。
長屋人情編
第十二話 浮気男と間男疑惑
長屋の住民への挨拶が済んでから、俺はハタキや箒、チリトリを使ってなんとか掃除をして、それから洗濯物と盥、洗濯板を持って、井戸の前までよろよろと歩いて行った。
井戸から水を汲み、それを盥に入れると、その中で洗濯板を使って、ひたすらおかねさんの服や、俺の羽織や、ふんどしや腰巻も洗う。
公共の場所で服を洗うってなんか変な感じだ。でも、これが当たり前なんだろうし、さすがに恥ずかしいとまでは思わないかな。
ゴシゴシと洗濯板にこすりつけ、そしてまた水に浸して、何度かそれを繰り返す。おかねさんにやり方は聞かなかったけど、まあこんなもんでいいだろう。
洗濯物がほとんど済んで、あとは俺の羽織だけになった頃、長屋の細道を、誰かが歩いてきた。
顔を上げてみるとそれは「おそのさん」で、彼女はどこかへお使いに行くのか、お財布と風呂敷を懐にしまうのが見えた。
「まあ。えっと、秋兵衛さんて言いましたっけ」
「ええ」
「下男なんて大変ねえ。何をするんです?」
おそのさんは立ったまま話をしていたので、俺も立ち上がってそれに答える。
「おかねさんは、お米を炊くのと、掃除洗濯などができればいいと言ってくれました」
「まあ、そうなの。じゃああたしがやることと大して変わらないねえ。ところで、秋兵衛さんはどこの生まれなんです?」
俺は、咄嗟に答えに迷った。でも、隠した方が不審がられると思ったので、ありていに話すことにした。
「それが…気が付いたら日本橋で倒れていて、そこをおかねさんに助けてもらったんですが、自分のことは、名前以外何も覚えていないんです」
すると、おそのさんはちょっと悲しそうな顔をして、片手を傾けた首に当てる。
「まあ、大変じゃないの。大家さんのところへは行ったの?」
「ええ。なんとか、わかってくれたようで…」
「それじゃあよかったねえ。あ、あたしは先を急ぐから、じゃあまた」
「ええ、お気をつけて」
おそのさんはぱたぱたと急ぎ足で長屋の木戸を開けて大通りへと見えなくなってしまった。
はあ、緊張した…。何かまずいことを言いやしないか、ひやひやしながらしゃべると疲れるなあ。
すると今度は、井戸に一番近い海苔屋のトメさんの家の戸が開く。
「あら、お前さん、さっきのお人だね」
トメさんは俺を見つけて歩み寄ってきた。
「ええ。先ほどは、短い挨拶だけで失礼しました」
「いいや、かまわないですよ。これから付き合いもあることだし、新しく若い人が来るなんて、嬉しいことだからね」
「ありがとうございます」
そんなふうに通り過ぎていく人と少しずつ会話をして、ちょうどおかねさんの稽古の一人目が終わった頃に、洗濯は終わった。
おかねさんに聞いていたし俺もすでに見ていたけど、長屋では、共同スペースになっているベランダのようなところに、家々の洗濯物がめいめいに干してある。それで俺は空いている場所に自分たちの洗濯物も干し、家に戻った。
その晩、おかねさんは長屋の路地に入ってきたおかず売りから、煮た厚揚げと青菜を買って、俺たちはそれを食べた。
俺の分のお膳や食器はもうあったし、俺は下男なので入口近くの隅っこで、おかねさんは部屋の奥で食事をしていた。
洗い物はもちろん俺がやったし、おかねさんに習って初めて知ったけど、お米をあらかじめ一晩水に漬けておくと、ふっくらと炊けて美味しいんだそうだ。だからそれもやっておいた。
そんなことをしていると、もう外が暗くなってしまった。
俺は特にやることはなかったけど、おかねさんは行灯のそばで、針と糸を持ち、端切れの布らしきもので何かを繕っていた。
「おかねさん、何を繕っているんですか?」
俺がそう聞くと、おかねさんは嬉しそうに振り向く。その表情の素直さに、俺はちょっとドキッとした。
「これかい?これはお前さんの財布だよ。財布くらいは自分で繕えないとね。もちろんあたしは着物だって繕えるけど、なかなかそこまでの時間もなくて、悪いねえ」
おかねさんはそう言って、ちょっとすまなそうにまた笑った。俺もそれを聞いて思わず笑顔になる。
ああ、やっぱり彼女は優しい人だ。なんだか本当に…。
俺はその先を考えようとして頬が熱くなり、“いやいや”と気を逸らそうとして、こう言った。
「そんなことをしていただけるなんてありがたいです。すみません」
「いいんだよ。ちょっとお待ち。もう少しでできるから」
しばらくしておかねさんは歯で糸を嚙み切ると、それをほどけないように結んで、できあがった財布を俺に手渡してくれた。
それはちょっと幅が長い袋のようで、中に小銭を入れてからたたみ、紐でくるくるとしばりつける、おかねさんの財布と同じ作りだった。
「ありがとうございます。大事にします」
「いいえ。じゃあそろそろ寝よう。灯りももったいないからね」
「はい、おやすみなさい」
俺はその晩、おかねさんが用意してくれたやわらかい寝床に横になり、あたたかい布団を掛けてぐっすりと眠った。
そんな暮らしを毎日続けていると、俺はだんだんと仕事に慣れてきて、長屋の人とも少しずつ打ち解けるようになった。
おそのさんには「何も覚えていない」ことは話したし、それはそのうちにみんなに伝わったようで、海苔屋のおトメさんは、「困ったことがあったらお言いよ」と声を掛けてくれたりした。銀蔵さんは小間物を売り歩きに遠方に出たとかでずっと帰らないし、ご牢人さんはまだ名前も知らないけど。
それからさらに一カ月ほどが経ったある日、ちょうどおかねさんが「新しい撥を見てくる」と言って出かけていた時、おそのさんが家を訪ねてきた。
「こんにちは、どうしたんですか」
おそのさんはもじもじと言い淀んでいたようだったけど、「おかねさんはいないのかい」と言って、「ええ、出かけました」と俺が返すと、「上がってもいいかい…?」と、控えめに聞いてきた。どこか悩んでいるようなおそのさんの様子が気になったので、俺はすぐに中へ通した。
火鉢で湯を沸かしてお茶を入れ、俺はそれをおそのさんに差し出す。ちゃぶ台の前に正座をしたおそのさんは、どこか切羽詰まった表情をしていた。
でも、おそのさんはお茶を前に「ありがとう」と言った切り、なかなか話し出さなかった。そこで、俺の方から声を掛けてみる。
「あの…何かあったんですか?」
俺がそう聞くと、おそのさんは大きくため息を吐いて、それから両手でがばっと顔を覆い、そのまま泣き出した。
「どうしました。ただごとでないようですよ」
俺はさすがに心配になって、おそのさんの肩に手を置こうと思ったけど、「そういえばこの時代、あまり男女が親密なのは良くなかったはずだな」と思い出して、それはよしておいた。
しばらくおそのさんは涙を袖口で拭っていたけど、やがてぽつりぽつりとしゃべりだした。
「…亭主がね…五郎兵衛がさ、女狂いをするんだよ。それも、吉原へ行って何日も帰らないなんてこともざらなのさ。そんな時には稼いだ銭も全部使っちまうもんだから…。ここ数日帰りもしないし、明日のお米も買えないありさまで…稼ぎはあるっていうのに、そんなことがのべつで、あたしゃどうしたらいいのか…」
おそのさんが話す様子は、ずいぶん深刻だった。それに、確かにそれは捨て置ける問題じゃないと俺も思ったから、まずは落ち込んでしまっているおそのさんをなぐさめることにした。
「それは大変ですね。さぞご心配と思います。ご亭主は、説得してみたんですか…?」
するとおそのさんは首を振って、また涙を流す。
「あの人は、ちょっと口を出すだけでかんかんに怒り出しちまうし、それに、あたしをぶったりけったりするんだ…だからあたしも、時には我慢をするしかなくて…」
俺はそれを聞いて、本当に彼女に同情をした。俺の居た時代でも、「そういう男の人も居る」というような噂は聞いていたけど、こんなに悩んでいるおかみさんがやっぱり居たんだと思うと、胸が痛くなった。
俺が何を言えばいいのか迷ってしまっている時、不意に表から男の人の怒鳴り声が聴こえてきた。
「おその!おその!居ねえのか!」
それを聞いておそのさんはびくっと肩を震わせ、慌てて家に戻ろうとして「ごめんよ、戻らなくちゃ」と、席を立った。どうやら怒鳴っているのは五郎兵衛さんだったらしい。
でも、間の悪いことに、おそのさんがうちの戸を開けた時、目の前をその五郎兵衛さんがちょうど通ったのだ。
おそのさんは「あっ!」と叫び、その前に立っていた五郎兵衛さんは急に歯をむき出しにして、こう叫んだ。
「てめえ、なんでそんなとこに居るんでい!さては、間男してやがったな!?」
第十三話 長屋の騒動、江戸の音
俺はおかねさんの家の戸口で、混乱していた。
とにかく俺は誤解されている。五郎兵衛親方は、おそのさんと俺が不倫をしていると勘違いして、一気に怒り狂ってしまった。
「てめえは待ってろ!俺ぁこのアマ片付けてから、てめえもぶっ殺してやる!」
え、ええ~~っ!?勘違いでそこまでいくか!?
俺はこの時初めて、「江戸っ子の気の短さ」というものを思い知った。
親方は、この家からおそのさんが出てきたところを見た。そしてその時、俺は家の中に居た。
それにしたってちょっと早計過ぎやしませんか親方!
「ま、待ってください親方!誤解です!」
無駄かもしれないけど、俺は事情を説明したかった。だってそうしたら納得するんだし。
「誤解も何もあるかってんでぃ!クソでもくらえこんちきしょう!」
俺にそう叫びながら、親方はおそのさんの髷を引っ掴んで離さない。
「何さ!お前さんだって浮気ばっかりで女狂いをしてるじゃないのさ!そんなお前さんが言えた義理かい!」
おそのさんは髷を掴まれた手を引っかきながらそう叫んだ。
「なんだとぉ!?」
おそのさんはつい口からそう出てしまったんだと思うけど、それで誤解はさらに加速し、親方はとうとう腕を振り上げた。だから俺は止めるために滑り込もうとした。でも、間に入って親方を取り押さえたのは、俺ではなかった。
「邪魔すんじゃねえ!放しやがれってんだよ!」
「まあまあ、ちょっと落ち着きなさい」
五郎兵衛親方を止めたのは、大家さんだった。
「大家さんかい!悪ぃけどな、手を放してくれ!こいつぁな!」
いつの間にか現れた大家さんは、穏やかな表情を作りながらも、年老いた体でなんとか五郎兵衛親方を押さえようとして、力を込めた腕をぶるぶる震わせている。
「だから。はいはい、ちょっと落ち着きなさい」
それでしばらく大家さんと親方は力比べをしていたけど、怒りが収まってくると親方もふうっと息を吐いた。大家さんの後ろに海苔屋のトメさんが居たから、多分、騒動を聞きつけて急いで呼んでくれたんだと思う。
「それで、何があった」
俺たちはとりあえず、おかねさんの家に入って、大家さんと俺、それから五郎兵衛親方とおそのさんで、話をすることになった。トメさんは「とにかく喧嘩が収まってよかった」と、家に帰って行った。
「何がってねえ大家さん。この女、間男してたんでぃ」
「ここに居る、秋兵衛さんとかい」
「そうですぜ、まったく」
「そんなこたぁしやしないよ!お前さんが帰ってこないんで、心配をして相談に来ただけさ!」
「確かに、私はそのことで相談をされて、お茶を出しただけです」
それぞれの主張が出ると、どうやら親方にもはっきりと事情はわかったようだ。でも、さっきまであれほど怒って「ぶっ殺す」とまで言ってしまった手前、極まりが悪いのか、親方はぶすっとした顔をやめなかった。
「まあ、勘違いは誰にでもあれど、お前さんはもう少し考えてからにしなくちゃならない。とくに、おそのさんは良い女房で、お前さんだって惚れてるからあんなに怒るんだ。それならもっと大事にしておやんなさい。もう少し度量を広く持って、話を最後まで聞いてやるくらいはしなきゃならない。そうすれば今度みたいに、おそのさんに痛い思いをさせずに済むんだから。もう少し、話を聞いてやるんだよ」
「ああもう、わかりましたよ!大家さんは話がなげぇんだから」
五郎兵衛親方は恥ずかしくなってしまったのか、手を顔の前でぶんぶんと振った。それを大家さんは少し不満足そうに見ていたけど、それ以上深追いするとまた怒らせると思ったのか、俺を見る。
「秋兵衛さん、すまなかったね、うちを借りちまって」
「え、いえ…」
「すみませんでした、秋兵衛さん…」
おそのさんも涙ながらに俺に謝る。その態度があまりに丁寧だったので、俺はまた親方に誤解されやしないかとちょっとひやひやしたけど、大家さんと親方夫婦はそのまま帰って行った。
とりあえず、五郎兵衛親方には気を遣って、いつも手短に用件を済ませるようにしよう。二口以上しゃべったら怒られそうなくらい、気が短いみたいだ。
「うーん…」
俺は思わず唸った。
そのあとおかねさんが家に帰ってきたので、俺はお茶を入れたりしながら、「いいものはありましたか」と聞いた。
「ああ。なかなかちょっと手に入らないものがあったよ。お前さん、聴いてみるかい?」
「ええ。違いはわからないかもしれないですが、聴いてみたいです」
「じゃあちょっとやってみよう。お待ち、今、音締めを…」
「ありがとうございます」
俺は正座をして姿勢を正し、おかねさんはきりっと三味線の弦を引くと、新しい撥をちょっと手になじませるように何度か握り込む。そしてひたむきに目を伏せて、大きく息を吸った。
ちん、ちり、ちん…
三味線の音は、力強いのに、とても艶がある。俺はそう思う。
「あねぇ、え、さま、をぉ~」
何かの唄の一節だったのか、おかねさんは“春風師匠”になってそう語った。おなかから声を出すと、それは潤った喉を通って凛とした響きになる。
ろくに聴いたこともない歌い方なのに、昔懐かしい気がして、どこか憂いを帯びたような声は、俺の心に沁みたような気がした。
そのあとも唄は続き、音が途切れると、おかねさんは惚れ惚れとしたような顔で、三味線を撫でる。
ああ、ほんとに三味線が好きなんだろうなあ。
「綺麗な音ですね。お声も素敵です」
俺がそう言うと、おかねさんは上目がちに俺を見て、何も言わずにふふふと笑った。内緒ごとを一緒に楽しんでいるようなその空気に、俺の胸はどこか苦しくなった。
昼からお稽古に来るお弟子さんが何人か居て、夕飯を食べたあとはおかねさんは仕事は休み。そんな時は、二人で話をしたり、買い物に行ったりした。それに、たまにはお休みも欲しいと言って、まるで稽古のない日もあり、そんな時は、遊びに出るのにおかねさんは俺を連れて歩いたりした。
ある休みの日、おかねさんが念入りにお化粧をしているので、俺はそれに気づいて、「お出かけですか」と聞いた。
「ああ、これから弁天様へ行くのさ」
おかねさんは、小さな唇に紅差し指でちょいちょいと紅を乗せながら、そう答えた。
「弁天様?おかねさんは弁天様を信仰しているんですか?」
そう言うと、おかねさんは怪訝な顔をしてこちらを向いた。
「なんだい改まって。当たり前じゃないの。あたしは三味の師匠だよ。鳴り物を扱うのに、弁天様を拝まないでどうするのさ」
あ、そういえば、弁天様は音楽の神様だって聞いたことがあるような気がするな。へえ、やっぱり昔の人って信心深いんだなあ。
「そうでしたね。お気をつけて行ってきてください」
「はいはい。じゃあ不忍弁天だから帰りは夕になるよ。おかずを買って帰るからね」
「はい」
おかねさんが出かけて行ってしまってから、俺はお茶を入れ、静かに江戸の町の音を聴いていた。
表通りの雑踏、納豆売りの声、男同士の喧嘩、赤ん坊の泣き声。
なんとも騒がしくて、「はじめはこれに慣れるのに苦労したっけなあ」などと思い返す。
俺は、元居た時代に帰る方法を知らない。多分、探したところで見つからないだろう。そして、もう一度思い出す。
父さん、母さん、数人の友達、お世話になった人たち。その人たちを置き去って、俺はもう帰ることのできない場所へ、たった一人で連れてこられてしまったこと。
さびしくないわけじゃないし、今でも帰りたい。でも、そう思うたびに、おかねさんの言葉が耳によみがえるのだ。
俺が「何もおぼえていない」と言った時。
“それじゃあ心細いだろうに。安心おしよ、お前さんはちゃんとあたしが面倒見るからさ”
彼女は俺のことを本当に気の毒と思って、気をもんでいるような顔でそう言った。
俺は自分の湯飲みを傾けながら、お茶の温かさが手に伝わってくるのを感じて、ゆるく息を吐いた。
第十四話 彼女に知れた嘘
俺は悩みを抱えていた。もちろん、おかねさんのこともある。ただ、俺の母親は病気を抱えていた。だから、「もしかしたら小説家の道は諦めて、これから介護をしなくちゃいけないかな」と、考えていたところを、俺は江戸時代に飛ばされてしまったのだ。
それにしても、あのお香は一体何者、というか、どういったものだったんだろうか。
「母さん…」
俺はその時井戸で水を汲んだところで、井戸端に誰も居ないと思っていたから、そんなふうに独り言で母さんを呼んだ。
その日もおかねさんはお弟子に稽古をつけ、俺は次々訪れる彼らにお茶や干し芋を差し出したり、合間に米を研いだりした。
俺はおかねさんの言う通りに「如才なく」していたと思うので、なかなかお弟子さんたちからも評判は良かった。とりわけ栄さんからは、付き合いが一番古いと言われて可愛がられ、「秋兵衛さん、今度一緒に遊びへ行かねえかい。中へさ」なんてからかわれたりもした。
「「中」とはなんのことですか」と俺が聞いた時、栄さんは突然大笑いし始め、「師匠!こりゃあ確かに御大尽ですぜ!まいったなこりゃあ」と言っていた。
栄さんも、残りのお弟子さんもみんな稽古が済んでしまってから、おかねさんは俺を火鉢のそばへ呼んで、こう言った。
「なんでしょうか、おかねさん」
おかねさんはこめかみに手を当てて軽く首を振り、俺をちろっと横目で見た。それはなんだか呆れているように見えたので、俺は「何かまずいことをしたかな」と思って焦った。
「今日栄さんに、中へ誘われたね」
俺はそう言われて、“ああ、そういえば「中」とはなんだろうな”と、疑問を思い出したけど、その時のおかねさんがどうやら怒っているように見えたので、聞く気になれなかった。そして、その必要もなかった。
おかねさんは、俺と彼女の真ん中にある、何も乗っていないちゃぶ台を見つめて、大きくため息を吐く。そして、まるで汚らわしいものでも見るように、表の戸を見た。
「ああいう札付きとうちの下男が同じ場所で遊ぶなんざ、もってのほかさ。それになんだい?「中へ行こう」だなんて。フン!女が相手をしてくれる面でもないくせに気取ってさ。お前さん、吉原へなんか出入りしちゃならないよ。そんなことをしたら、うちへは置かないからね!」
おかねさんがそう言い切った時、俺は「中」とは「吉原の遊郭」を指すのだと知った。それから、おかねさんがそれほどまでに吉原を嫌っているらしいことから、女性の苦労というものを考え、最後に少しだけ、ほんの少しだけだけど、おかねさんが俺に「ダメだ」と言ってくれたのが嬉しかった。
もちろんそれは、自分の下男である俺に良くない遊びをさせるつもりはない、ということでしかないんだろうけど…。
俺の毎日は江戸の下町にある一角でひっそり過ぎていき、それでも俺は自分のことを、令和に生きる人間だとまだどこかで思っていた。だから、暇を見つけては考え込んで、だんだんと、戻れないことへの焦りが募っていった。
その日、おかねさんは稽古は休みで、「二人で観音様へでも行こうじゃないかね」なんて言って、俺はただ、「そうしましょう」と言った。
俺はおかねさんの荷物にきんちゃく袋を持ち、おかねさんは財布の中を見てお化粧をしてから、家を出た。
裏長屋の木戸を開けて表通りへ出ると、職人たちが大わらわをしている通りが続き、そこを過ぎると筋違橋が現れる。それを渡らず右へ行き、柳原通り土手の景色を楽しみながら、突き当たった浅草橋を渡って、俺たちは道を左へ折れた。
そこから先は浅草寺観音堂までは一本道だが、これがなかなか長い道。道の両側はだんだんと参拝客目当ての屋台が多くなり、当たりは寺院だらけになっていた。そして、江戸中から人が集まっているんじゃないかと思うくらいの人ごみにもまれながら仁王門をくぐってとうとう参道に入ると、にぎやかに茶屋や土産物屋で客を呼び込む声が四方八方から飛んできて、行く手に立派な本堂が見えてくる。御本尊を拝んで俺たちはお賽銭を投げ込んだ。
あとで屋台で夕食にしようと話しながら、俺たちは参道を後に戻ろうとした。でも、言葉が途切れた時、おかねさんがこう言った。
「おっかさんのことでもお願いしたんだろ?」
俺はびっくりして一瞬立ち止まりそうになったけど、そのままおかねさんの後をついて土産物屋に入って行きながら、彼女の後ろで、“どうしてわかったんだろう”と、もう思い悩み始めていた。
「お前さん、おとつい井戸端でおっかさんを呼んでたじゃないか」
夕暮れ時に家に帰ってから、気まずいながらも俺が「どうしてわかったのか」聞くと、おかねさんはそう言って、どこかうつむいてがっかりしたような顔で笑った。
それから行灯に火を入れて羽織を脱ぐと、それをそこらへほっぽって俺が拾うのを待ち、おかねさんは行灯のそばへ正座をする。俺は、“この場をどうやって切り抜けよう”と考えながらも、衝立にでも掛けておこうと羽織に手をかけた。その時だった。
「どうして嘘なんかついたんだい。お前さん、何者なんだい?」
冷たい、侮蔑を孕んだ声音が、びしゃっと冷たい水を掛けられるように、俺の頭に降ってきた。険しく尖った声だった。
「そ、そんなこと…」
俺は迷った。本当のことを話したって狂人扱いされるだけだ。この時代に、“未来”なんて概念はない。それに、もう「何も覚えてない」では押し通せない。でも、嘘に嘘を重ねるなんて嫌だ。でも、でも…。
俺は、ここを追い出されるなんて嫌だ。どうしても嫌だ。
薄暗い中に行灯のほのかな灯りでおかねさんの姿が浮かび上がり、俺を咎めるような表情は、その乏しい光が顔の下から差す様子で一層厳しく見えた。
どうしよう。どうしたらいいんだろう。なんとかごまかさなくちゃ。でも、その方法がない。
それでも、「行くところがない」なんて理由ではなく、俺にはもう、はっきりと“ここに居たい”と思う理由があったんだ。
俺は、“おかねさんが納得できる理由を言わなければ追い出される”と思うと、両手の先がぶるぶると震えて止まらず、とにかくごまかすために笑顔を作ろうとしているのに、自分の顔がどんどん泣き顔になっていくのを感じていた。おかねさんの羽織を握りしめたままでがっくりと畳に手をついて、俺は必死に涙をこらえ、おそろしさに耐え切れずおかねさんを見上げた。
おかねさんは俺がそんなふうに精一杯怖がっているのを見て、悪いことをした気になったのか、急に怯えて眉を寄せた。俺はそれを見逃さず、とにかくその場で額を畳にぶっつけた。
「お願いします!ここに置いてください!ご迷惑はお掛け致しません!お願いします!お願いします…!」
そうして俺は何度も頭を床に叩きつけ、いつのまにか畳を濡らしてじりじりと額を擦りつけていると、おかねさんは俺の肩を引っ張って起き上がらせてから、手ぬぐいで涙を拭ってくれた。
「わかったよ。…なあに、何も追い出そうって話じゃないんだからさ。お前さんは大事な下男だし、もしわけを話して頼りたくなったりしたら、その時にそうしとくれな」
俺はその言葉を聞いて気が緩み、一気に目の前が歪んで、またぼろぼろと涙をこぼした。
「泣くんじゃないよ。わかった、わかったからさ」
「ありがとうございます…」
「ほら、じゃあ今日はもう寝よう」
「はい…」
第十五話 江戸懐都合
長屋の住人で、「小間物屋」を営んでいる銀蔵さんという人が居るのは、もう話したと思う。銀蔵さんの商いは「背負い小間物」というもので、各地で婦人向けの品物を仕入れてきては、それを背中に背負ってお得意の家に売り歩くんだそうだ。その銀蔵さんが、久しぶりに帰ってきたらしい。
「ねえ秋兵衛さん。銀さんが帰ってきたっていうからさ、あたしゃちょっと商いの中から品を見てみたいんだけどねえ。お前さんもよく挨拶をしなくちゃならないし、ついてきておくれな」
「は、はい。わかりました」
おかねさんは活き活きと喜んでいて、俺はまたちょっと緊張していた。土台、俺はあまり人付き合いが得意な方ではないから、初対面の人を前にするとどうしても緊張してしまう。
銀蔵さんの家は長屋の一番端にある。おかねさんが控えめに戸を叩くとすぐに「どなたですか」と愛想の良さそうな明るい声で返事があり、おかねさんが声を掛けると、俺たちはすぐに家の中に通された。
「ご無沙汰しちゃってすみません、おかねさん。でも、おかげさまでいい品が揃いましたよ」
銀蔵さんはしゃっきりと背筋の伸びた背の低い方の人で、商売柄か、あたりの良い声と笑顔にこちらも楽しくなってくるような、そんな人だった。
「そうかい、そりゃあいいねえ。どうだい、ちょっと見せておくれな」
おかねさんも楽しそうに笑っていた。
「ええ、すぐに。ところで…そちらはどなたで?」
俺は挨拶の文句をまだ考えていて、銀蔵さんのご商売のことから話を広げようかとも思ったけど、「それでまた怪しまれることになってもいけないしなあ」と、悩んでいた。すると、俺が困っているのを見たおかねさんが、また助け舟を出してくれた。
「この人はね、行き倒れからあたしの下男になったんだよ。働き者で、人間はいい方さ。あがってもかまわないかい?」
「そうなんですかあ。そりゃあ大変でしたねえ。ええ、どうぞどうぞ。今ちょっくらめぼしい品を出しますんで」
俺たちは銀蔵さんの家に上がってお茶を出され、銀蔵さんは商売道具から品物を出そうと後ろを向いた。その合間に、おかねさんは俺に耳打ちをする。それは本当に小さな声で、俺たちにしか聴こえなかった。
「“しょい小間物”はね、ああやって小さい引き出しの並んだものを背負って、お得意を回って、女物を売り歩くのさ。「今度は上方へ行く」って銀さんは言ってたから、きっといい物があるよ」
俺に内緒話を囁いてから、おかねさんは嬉しそうにくくくと笑った。
ああ、そういえば、「下らない」の語源は、大阪や京都、つまり「上方」から、江戸に「下る」ものがあって、そうじゃない半端物を「下らない」と表現するんだったっけ。と、俺は思い出した。
やっぱり江戸の人も、京都や大阪からの品物っていうと、有難がるものなのかな?
そこへ、畳の上にいくつかの売り物を出し終わった「銀さん」が振り向く。
「どうだい、なんだか良さそうなものがあるじゃないかね」
おかねさんはそう言うと、品物を見定めようと少し瞼を下げて、それぞれをじいっと見つめた。
「ええ、ええ。この櫛なんか、ちょっとしたもんですよ。おかねさんならお代はちいっとばかし負けますよ」
「ちょっと見せておくれな」
銀さんから鼈甲でできたらしい|琥珀色の櫛を受け取ると、おかねさんはそれをためつすがめつ眺めて、一つ頷く。
「いくらだい?」
おかねさんが櫛を握ったままそう聞くと、銀さんは首をひねり、「うーん」と考え込んだ。
「そうですねえ…それなら…」
結局おかねさんは、新しい櫛と、笄、それから京都で流行りの紅を買い、銀さんに「二百文になります」と言われるままに、財布からそれを出して支払っていた。俺はこの頃にはもうお金の数え方には少し慣れていたので、「二百文」というのはちょっとした大金だということくらいはわかっていた。
おかねさんは、やっぱり江戸っ子だった。
時分時になると来る「振売り」のおかず売りで一番美味しい物を選ぼうとするのも、着物を買うにしても一等良い物を選ぶのも、はっきり言って明日の生活などほとんど考えないようなお金の遣い方だった。
“江戸っ子は宵越しの銭を持たない”。そういう面もあるのかもしれないけど、それともう一つ、“あとのために蓄財をするより、衣食にうんと金を掛け、「粋」と呼ばれる刹那を生きる”。そんな江戸っ子の気質を、俺は日々感じている。
俺が魚屋の金兵衛さんを家に迎えて話をしていた時にも、金兵衛さんは、「おかねさんは通だからねえ、口に合わないものは勧められても食べないけど、いいものをちゃーんと知っていて、必ずそれを頼んでくれる」と言っていたものだ。
それにしても、聞いてないから知らないし、じろじろ見るのも悪いと思うから覗き見もしないけど、おかねさんの稽古の謝礼って、いくらなんだろう…。
それから、おかねさんは江戸っ子の中でも、面倒見の良い江戸っ子だ。
俺は下男だけど、それでも俺が身の回りに困ることのないようにと、おかねさんは、あれが要る、これもあった方がいいと、いろいろと心配をしてくれていた。
おかねさんは、俺が下男だからといって邪見に扱ったりすることはせず、俺がわからないことがあった時にも、必ず優しく教えてくれる。そして彼女は、それをむしろ「良い主人としての誇り」と心得ているのではないかと、俺は思っている。
良い人だなあ。この時代の言葉でおかねさんのような女性を表現するなら、「気立てがいい」と言えるだろう。でも、だとすると…。
「おかねさん、あの、聞いてみたいことがあるんですけど…」
「なんだい」
ある晩、おかねさんが床をのべた後、ずっと不思議に思っていたことを聞いてみることにした。
今までは「下男のくせに生意気な口を」と言われるんじゃないかと聞けなかったけど、おかねさんがそんなことを言わない人なのは、もう承知だ。
おかねさんの向こうには行灯があり、高枕に乗った彼女の横顔の輪郭は、ぼうっと薄く照らされていた。長いまつ毛や心持ち高めの鼻の先、それから大きな瞳が優しく光り、どこか憂いがかったように見える影も美しい。やっぱり、文句無しの美人だ。だから余計に不思議だったんだ。
でも、何かおかねさんが傷つくことになったらどうしようか。そう思うと、なかなかすぐには口を開けなかった。
「どうしたい。聞くなら早くお聞きよ。あたしゃそろそろ眠たくって…」
おかねさんはあくびをして目を閉じる。
「あの…どうして、お嫁に行かなかったんですか…?」
言ってしまってから、俺はちょっと後悔した。
こういうのって、俺が居た現代で聞いても、セクハラに近い発言だよな。あーやっぱり聞かなきゃよかった。
俺は目を伏せて、そんなことを考えていた。でも、いつまで経ってもおかねさんから返事がないので、彼女を見ようとして俺は驚いた。
おかねさんは、目を閉じてゆったりと息をしている。それはもう、眠ってしまったようにしか見えなかった。いくらなんでも早過ぎないか?
「おかねさん…?」
俺が小さく声を掛けても、おかねさんは翌朝まで起き上がらなかった。
第十六話 冬の晩
「秋兵衛さん!お前さんとこでおまんまが焦げてるよ!」
「ええっ!?あ、ありがとうございますおそのさん!」
「早くしな!お師匠に怒られちまうよ!」
「はい!」
俺は桶を井戸端に放って家へと駆け戻り、慌てて薪に灰を掛けて消した。そしてお釜を開けてみると、中身はほぼ丸焦げだった。俺は、はあっと息を吐く。
おかねさんは、食べる物にうるさい。もしお米が丸焦げで朝ごはんが台無しになったなんて言ったら、癇癪持ちの彼女のことだからカンカンに怒って、俺は朝から飯抜きを言い渡されかねない。それに、残りのお米だって少ないし、そっちは水に浸したりなんかしてないんだ。
「どうしよう…」
「何をだい?」
玄関口から飛び込んできたおかねさんのさり気ない一言に、俺の背筋は跳ねて、つい「なんでもないです!」と言ってしまった。でも、部屋の中は焦げ臭いし、おかねさんはすぐに気づいたのか、彼女の眼は一気に俺を射抜くように鋭くなる。
「…焦がしたのかい」
仕方ない。これはもう謝るよりほかない。俺は怯えながらゆっくりと振り返り、そのまま竈の前で床に手をついて頭を下げた。
「すみません!お米をだめにしてしまいました!」
すると、聴こえてきたのは怒鳴り声ではなく、実に楽しそうな笑い声だった。俺は呆気に取られ、畳に手を置いたまま顔を上げる。おかねさんはお腹を抱えて、あははと笑っていた。
「おかねさん…?怒ってないんですか?」
俺がそう聞くとおかねさんはようやく笑うのをやめ、部屋の中に上がってきて、着物の裾を手で足の下に滑り込ませて正座をした。
「なあに。あたしは怒ったりしないよ。釜を洗って、新しいのを早く炊き直しておくれな。それと、今晩は久しぶりに「元徳」に出かけよう」
おかねさんはそう言って笑い、俺とは少し斜交いに座った格好のまま、優しく微笑んだ。
江戸の季節は、俺が飛ばされてきた秋から、いつの間にか冬になっていた。俺たちはぴゅうぴゅうと北風の吹く表通りを、着物の前を両手で合わせて、なんとか歩いていた。
うう、寒い。なんだか、令和の東京よりよっぽど寒い気がする…毎晩気温が下がっていくにつれて、眠りづらいほど寒くなっていってるしなあ…。
「もうそろそろ雪でも降りそうじゃないかね。お前さん、雪見は好きかい?」
「え、ええ…」
俺は「雪見」なんてほとんどしたことがなかった。江戸の人は雪見をするのが通例なんだろうか?
「そうかい、じゃあ一緒に雪だるまも作れるねえ」
「そ、そうですね」
へえ。雪だるまって、こんな古い時代からやっぱりあったのか。でも、もしかしたら昭和以降とは違う形かもしれない。これはちょっと楽しみかも。
「ふう、着いた着いた。早くあったかいもんをやりたいねえ」
俺たちは「元徳」に入ると、どうやらおかねさんのお気に入りらしい座敷にまた通された。いつものようにおかねさんは「熱燗を」とお酒を頼み、それからその日は、「鍋がいいねえ、食べ応えのあるものがいいからねえ、“ねぎま”を頼むよ。あとはおにぎりをね」と言った。
え?ねぎま?ねぎまって、あの焼き鳥の?
俺は「ねぎま鍋」がどんなものか想像しながら、少しだけお酒を付き合い、女将さんが「お仕度のできますまでは」と置いていった、ぬか漬けと味噌汁、それからお刺身を食べていた。
どんなものだろうな?やっぱり鶏肉とねぎの鍋かな?まあ美味しいけど、料亭でもそんなものを出すなんて意外だな。この時代、鶏肉は「柏」と言ったんだったっけ?
俺はそのくらいに考えていたが、実際に出てきた鍋は、もっともっと驚く物だった。
おかねさんが蓋を取ると、目の前には、ぶつ切りにした魚の切り身らしい物と、切った葱の入った鍋があった。
え?魚?“ねぎま”なのに?俺はそう不思議に思ったので、ちょっと鍋を覗き込む。
「なんだい、お前さんねぎま鍋は初めてかい?」
「え、ええ…このお魚は、なんの魚ですか?」
浅い鉄鍋の中の魚にはどこかで見覚えがあった気がするけど、ちょっと思い出せなかった。
「鮪さ。鮪と言っても、トロだけどね」
「えっ!トロ!?」
そんな贅沢な鍋を江戸っ子は食べていたのか!つまり、「ネギトロ鍋」ってことじゃないか!しかもトロがこんなにたくさん!
俺はそう思ったのに、おかねさんは「おあがりな」といつものように言い、ぱくぱくと鮪の切り身を食べ始める。
ああっ!もったいない!お寿司で食べたかった!
「どうしたんだい?ああ、お前さん、やっぱりトロは嫌いかい?」
「いえ!そんなことはありません!好きです!」
日本人の誰が鮪のトロが嫌いだって言うんだ!俺はそう断言する!
俺は“こればっかりは譲ってばかりではいられない!”と思ったので、鮪の切り身と葱を焦って箸で掴んで、口に入れた。
ああ、ほろりととろけるトロのうま味…葱の甘み…これ、発明した人を胴上げしたくなる!うまい!
「美味しいですね!」
「そうだろう?普段は捨てるようなところだけど、こうして食べれば、うまいもんさね」
あっ!そうか!
おかねさんの言ったことで、俺はようやく思い出した。そういえば江戸時代にはトロはあまり好まれていなくて、ほとんどの店で捨てていたのだと。
トロよ…よかったなあお前。こんなふうに食べてもらえる場面もあったんだな。
俺はなんとなく鮪のトロに同情しながら、美味しい鍋を噛み締めて温まり、梅干しのおにぎりもおなかに入れて、満腹になった。
食後、おかねさんはなぜか長いこと黙っていて、なかなか最後のお銚子を飲み終わらなかった。それに彼女は、顔色も気鬱そうに見えたので、俺は心配をした。
「あの…おかねさん、具合でも悪いんですか…?女将さんを呼びましょうか?」
「いいや、そんなんじゃないんだよ」
ぼーっとしながらも、悲しんでいるように、おかねさんは空になって脇へ押しやられた鍋の中を見て、それだけ返事をした。
そしてまた奇妙なほど長い沈黙があり、合間に彼女は徳利の中のお酒を飲んだ。でもその飲みようはまるでやけ酒を煽っているようで、食べている間の楽しそうな様子とは全然違った。
「お前さん、この間、「どうして嫁に行かない」って、聞いたね」
そう話しだしてからも、おかねさんは鍋に目を落としたまま、何か別のことを考えているように上の空だった。
「あたしにはね…言い交わした相手がいたのさ。「二世も三世も」と…芝居がかったちょっと気障な男だったけど…誰よりあたしに優しかったのさ…」
俺には、彼女が悲しいことを話しているのだとすぐにわかった。その相手とは結局別れ別れになったことも。
そして、この前の晩、俺が気軽に聞いた一言を寝たふりでやり過ごさなければ、彼女は傷ついて取り乱しそうになるほどに、まだ悲しみが癒えていないのだろうことも…。
俺はうつむいて、“余計なことを言いやがって”と、自分を責めた。
「死んじまったよ。こんな、冬の晩にね…」
それ以上、おかねさんは何も言わなかった。俺も、何も聞かなかった。
「食べ終わった。さあ、帰ろう」。そう言った時にはおかねさんはいくらかいつものように笑っていたけど、それは痛々しく悲しげな微笑みだった。
第十七話 祈り
冬の真っただ中だった。その朝はやけに寒く、「もしや」と思って、俺は朝の用事をあらかた片付けてから、おかねさんに「本郷の富士見坂まではどのくらいかかりますか?」と聞いてみた。
ところがおかねさんは、「なんだいそりゃ。本郷にそんな坂があるのかい?」と言ったのだ。俺はそれでちょっと驚いた。
おかしいな。本郷の富士見坂と言えば、歌川広重だって浮世絵に描いているくらいに、江戸の名所のはずなのに。あれ?でも確か…。
そうだ!広重は確かに江戸時代の浮世絵師だけど、江戸後期の人じゃないか!この時代には、生まれてすらいないかもしれない!
ってことは…富士見坂もまだ名前が付いていないかもしれないぞ?えっと、なんとかごまかさなくちゃ…。
「あ、いえ、この間栄さんから、「よく富士山の見える坂がある」と聞きまして、こんなに空気の澄んだ朝でしたら、とくによく見えるかと…」
俺がそう言うと、おかねさんは自分で結い直していた長い髪をちょっと持ち上げて、俺を振り向いた。
その時、彼女の白いうなじの横には長い黒髪が気だるげに垂れ下がり、なんとも艶っぽかった。振り向いた肩から腰までの曲線は、彼女の細い体をいっそう頼りなく見せていて、少し後ろに抜いた衿から白い素肌がちらと見え、美しかった。それは、華やかさを演出したものでないからこそ、彼女が元々持っている美をさり気なく教えているようだった。
浮世絵にして「見返り髪結い」とか名前を付けたくなりそうだ。
「ああ、それなら確か、こっちから芋洗橋を渡るとすぐに見えるよ」
「い、芋洗い橋?」
「ああ、芋洗稲荷があるからねえ」
「はあ、そうなんですねえ」
俺は本郷まで行こうとしていたのに、そんなに近くで見られるとのことで、ちょっと拍子抜けした。もしかして、この頃ってほとんどどこでも見えたようなもんなのか?得な時代かもなぁ…。
まあ、じゃあ言う通りにしてみよう。
「ありがとうございます。では、半刻ほど、富士を見に行ってもいいですか…?」
すると、おかねさんはくるくるっと丸めて輪のようにした細い後ろ髪を束ねて元結で留め、そこへいつか買った鼈甲の簪を何気なく刺した。
「あたしも行くよ」
そう言って振り向いた彼女に、俺は笑顔で「ありがとうございます」と返してみせようとした。でも、どうしてもうつむいてしまって、頭を下げるつもりだった振りをした。
東京には、今でも「富士見坂」という名前がいくつも残っている。それは、過去に本当にそこから富士山がよく見えたからなのだ。
俺が平成を生きていた頃、ちょっと史跡巡りに凝っていた時があった。その時に「富士見坂」も調べて歩いたけど、本郷の富士見坂からは、乱立した建物に埋め尽くされた景色しか見えず、少し落胆したのを覚えている。
もちろん、今向かっているのは本郷ではないし、正直、ちゃんとした富士山が見えるのかは不安だ。遠くに霞んでぽっつり見えるだけ、かもな…。
でも…とにかく見えるは見えるはずだ!
俺たちがむかっているのは、俺の感覚だと、どうも秋葉原の端っこにある万世橋なんじゃないかと思っていた。いや、違うかもしれないけど。
でもなんだか、平成や令和にはないはずの場所に橋が架かっていたり、逆のこともあったりして、俺はたまに困ったりする。まあでも、二百年以上経っていたんだから、そうなるのは仕方ないか。
「うわあ、本当によく見える…」
人々が忙しなく往来する坂を登り切る前から、それは顔を出していた。
俺は、雪の絶えない頂きに白帽子をかぶり、青い山肌を堂々と広げている富士山が遠くに見える様子に、“本当に同じ国にある、日本一の山なんだな”と実感した。
江戸時代の富士山は、実際に行くことが難しいほど「遠い」のだ。それなのに、こんなによく見える。途中にはもちろん間を遮る山脈はあるけど、むしろそれを頭二つ飛び越えて軽々とこちらに向いている富士の大きさは、遠くから見るほど尊いものかもしれない。
江戸の浮世絵師がこぞって富士山を描きたくなるわけもわかる気がした。
「ああ、ありがたいねえ、ほんとにさ。ほら、手を合わせてごらんよ」
「あ、ああ、はい」
おかねさんは富士山に向かって手を合わせて拝みだす。
そういえば、富士山は日本一の霊山でもあったっけ。そりゃ、こんなに大きくちゃそうなるよな。
俺は、“あんまり知らなくてスミマセン”と心の中で唱えて富士山をちらっと盗み見てから、手を合わせて目を閉じ、顔を伏せた。
俺は、だんだんと神田の町に慣れていった。いつも忙しそうに職人たちが怒鳴りあっている鍛冶町あたりはあまり行き来しないにしても、おかねさんの気に入っているおかずを売っている煮売屋、立ち飲みもできるから一緒に出かけたりする酒屋、茶店や荒物屋などでも、ご店主と親しくしてもらっていた。そんなある日、あの囁きを聴いたのだ。
「ねえねえ、あの人。おかねさんとこの下男だろう?」
俺が煮売屋台で焼き豆腐を受け取ってから来た道を戻りかけると、屋台からそんな囁きが聴こえてきた。俺はそれを聞いて、“腕の良い師匠を持つと、下男まで噂をされるのかな”と、ちょっと得意に思っていた。てっきりそうだとばかり思っていたんだ。
「ああそうだよ。「中」へいた時分に身に着けた芸しか頼るもんもない、かわいそうな人さね」
その女の人は、気の毒そうに、おかねさんを軽蔑した。
俺は、家に帰るまでに「考え」をまとめ終わって、またなんともない顔でおかねさんに「ただいま帰りました」と言いたかった。彼女を、今までと同じように見るために。
でもそれはできそうになくて、噂話なんかしていた女の人に対する怒りなのか、おかねさんを見る俺の悲しみなのかわからない思いで、彼女のことを考えた。
そうか。おかねさんがあんなにきつく俺が吉原に行くのを止めたのは。
「二世も三世も」と言い交わして別れ別れになってしまった男性と出会ったのも、おそらく。
そして、彼女が三味線のこと以外は疎いようで、派手を好むように見えたのも。
そこまで考えて、俺は自分を平手で張り飛ばしたくなった。そんなふうに彼女を自分勝手に判断したくなかったから。
でも俺はもう一度、彼女の身になって考えようとした。
彼女が…彼女がそんなふうに苦労をしたからなんだ。
おそらくは「十五で親が死んでから」、生きていくために仕方なく入った街で愛しい人に出会い、そして別れることになって。
やっと外へ出られたからといって、もう恋は叶わず、それでも彼女は自分の力で生きていこうとしているんだ。
俺はもう、裏長屋の木戸の前に着いていた。そしてそこで一旦立ち止まる。
どうして俺はすべて憶測で考えているんだ?なんでそれで彼女を見る目を変えなきゃいけないと感じているんだ?
そうだ、彼女が傷ついていると思っているからだ。でもそれは果たして本当だろうか?
いいや、でもおかねさんだって、あんなふうに噂されていることは承知で、歯を食いしばっているかもしれないんだ。
そうだ!俺はおかねさんの下男じゃないか!主人の生きる支えになるんだ!それでいい!それでいいんだ!
「どうしたいお前さん、幽霊でも見たような顔して」
俺が帰った時、おかねさんは寒そうにねんねこを重ねて、小さな炬燵に足を入れ、手あぶり火鉢に両手をかざしていた。
さっきまで俺は必死に彼女が耐えてきたことを考えていたから、彼女が今凍えているのが、まるでその苦労からのような気になって、泣きそうになってしまった。だからつい、“俺は安っぽい同情などで彼女の必死の一生を見ようとしているのか”と、自分を軽蔑しかけた。
俺は何も言わず、家の中に入ってぴたりと戸を閉めると、炬燵に近寄って彼女の手を握る。
俺は違う。
俺はあんなことを言ったりしないし、彼女の過去を吐き捨てたりしない。俺はそんなふうに気持ちが逸るまま、驚いているおかねさんの手を、ちょっと自分の方に引いた。
「おかねさん、わたくしは、何があろうとあなたの下男です。助けて頂いたご恩返しになるのでしたら、なんでもいたします」
「なんだい急に。何かあったのかい?」
「い、いえ、ただちょっと、その…」
俺は先を言い淀んだ。そしてそれは、「口では言えないことを外で聞いてきた」と彼女に向かって言ったのと、同じことだったのだろう。
彼女は即座に俺の手を振り払い、一瞬俺を睨みつけかけたが、くるりと俺に背を向けると、長いことずっとこちらを向かなかった。
俺は、「黙って彼女のそばに居れば良かっただけなのだ」と、自分を責めて下を向いていた。
馬鹿野郎。そう自分に言い続けた。
第十八話 二両のお金
近ごろ、困ったことがある。
俺はだんだんと家事仕事に慣れてきたので、前におかねさんが言い出した「写し物」という、本を書き写す仕事を始めた。それはそれで初めは草書の読み書きに手こずったりもしたものだけど、「そこでほんの少しばかりお小遣いを稼いだ」という話を、あるお弟子さんにしてしまったのである。
その人のことはおかねさんもあまりよく思っていなくて、それこそ来るたんびに家の様子に文句を言ったりして、俺も「嫌な人だな」と思っていた。そのくせ、「謝礼がよぉ、今ぁ払えねえんで、すみませんが…」と、その時だけかしこまった様子になるのだ。
おかねさんいわく、彼は「いろいろと芸を学んで身を肥やす人たち」、つまり「芸狂い」の口で、名前を「甚吉」さんと言った。
歳は二十歳を超えたばかりくらいに見え、いつも粗末な着物を着ていたけど、なかなか三味の腕はよく声もいい方だったので、稽古の時にはおかねさんも機嫌がいい。でも、甚吉さんが「またまた」謝礼を出し渋ったり、なんでもないことでおかねさんの振る舞いなどに文句を言ったりすると、二人はたまに言い合いになるのだった。
俺も影で甚吉さんには少し厄介なからかわれ方をしたり、たまに金の無心をされたりと、困っていた。
ある時、お稽古の最中に俺が井戸端で洗濯をしていると、今日は何事もなく終わって出てきたらしい甚吉さんが、俺の抱える盥に近寄ってきた。
「よぉ、秋兵衛さんよ」
「甚吉さん」
俺は前にも、「師匠と妙な仲なんじゃねえのかい」としつこく言われたりしていたので、その日も警戒して、あまり愛想よくしないようにしようと思っていた。
「それにしてもよぉ、おめえさんはいいぜ。稼ぎは全部小遣ぇになるし、暮らしはお師匠が持ってくれると来たもんだ」
甚吉さんは、袷に綿を入れるお金もなかったのかもしれない。寒そうに木綿もの一枚で擦り切れた帯を締め、しゃがみ込んだ足の上に組んだ足を乗せた。そうして俺を覗き込む。
「は、はあ…有難いです」
俺は、もっともらしく下を向き、洗濯物を擦り続けるしかできることがなかった。
「そうだそうだ。それでよぉ、ここへ来たのはほかでもねぇ、そのおめえさんの小遣いから、いくらか融通しちゃあくれねえか、とな…へへっ」
俺が受けていたのは、「ゆすりたかり」だったのだろう。どちらかというと、「たかり」の方だったかもしれない。
甚吉さんは巧みに俺の立場を弱くさせ、そして自分の苦労を長々と語った。
“店賃が払えなくて家を追い出されかけた時に、師匠が助けてくれたのを、感謝している”
“今は真面目に働いているけど、駕籠舁きは水商売だから、儲からなければ終いだ”
大体そんなような内容だった。
でも俺は知っている。甚吉さんは近所では怠け者という評判で、芸達者ではあるが、働きに出るのは週に三度あるかないからしい。
それも、その日いるだけのお金を稼いだら店じまいにして、悪くすればみんなお酒に変えてしまうのだ。
そんなことを、おかねさんがこぼした愚痴や、町内の違う長屋の奥さんたちなどの噂話から聴いた。
ある意味で、そんな暮らしが「江戸っ子」としての到達地点かもしれない。その日暮らしに怠けた仕事、芸も女も好き放題。この上なく刹那的だ。
「で、でも…私が稼いでいるのはほんの少しで…それでお師匠にご恩返しをと、思っておりますので…」
そう言えば引き下がるだろう、とは思わなかった。こういう人はいくらかあげるまで付きまとうし、よっぽどのことをしなければ離れてくれないのが普通だというのは、俺が居た現代でも変わらない。
「そこを曲げて!なんとか頼むよ!これじゃあ俺ぁ、また追い出されっちまう!」
甚吉さんは手を合わせて俺を拝み、ぺこぺこと頭を下げた。
“仕方ないなあ…まあ、いくらかあげて、「次からはいけませんよ」と言うしかないか…”と、俺がそう思っていた時だ。
「甚吉っつぁん。お前さん、何してんだい?」
気が付くと、俺たちのそばにおかねさんが立っていた。俺の洗濯の帰りが遅かったからか、稽古のあとのお茶を煎れに戻らないからだったのか。でもそれより何より、おかねさんは口を一文字に引き結び、眉を吊り上げて、じっと甚吉さんを睨んでいた。それは、俺のことも見えていないような様子だった。
「あ…し、師匠…なんでもねえでげす。今、秋兵衛さんにご相談をですね…へへっ」
“都合が悪い時に笑ってごまかそうとしても、相手がこれだけ怒っていたらもう無駄なのだな”と、俺はその日知った。
おかねさんは「銭のことかい」と言い、まだ甚吉さんを睨む。甚吉さんが極まりが悪そうに「ま、まあ…」と言うと、おかねさんは何も言わずに家の中に引き返し、すぐに戻ってきた。
そして俺たちのところに戻ってきた彼女は紙包みを握っていた。でもそれが見えたのはたった一瞬で、おかねさんはそれをいきなり、甚吉さんの顔めがけて思い切りぶっつけたのだ。
「イテッ!!何すんでぃ!」
甚吉さんはあまりのことに叫ぶ。俺が慌てながらも地面を見ると、ぶつけられて破けた紙包みの中身は、なんと金のお金だった。
「そら!持っておいき!お前さんはそれで破門だよ!」
甚吉さんはしばらくお金を拾おうかどうしようか迷っていたようだったけど、舌打ちをすると立ち上がって、猛然とおかねさんに怒鳴りつける。そこから、長屋じゅうが揺れるような喧嘩が始まった。
「何すんでぃ!渡すならもう少しやさっしく渡したらいいじゃねえか!」
「ぜいたく言うんじゃないよ!も少し稼いでからお言い!」
「女のくせに生意気言いやがって!」
「生意気!?生意気だって!?そんならお前さん、師匠の下男から銭をゆすり取ろうとするお前さんはなんだい!?それを拾ったらとっとと出ておいき!影覗きもしたら承知しないよ!」
そこまで言われて甚吉さんは何も言えなくなり、投げつけられた一分金などをさっさとかき集めると、「二度と来るか!性悪め!」と捨て台詞を吐き、木戸を蹴破っていってしまった。
俺は江戸っ子の気性の激しさに驚いていたが、でも、心配もしていた。だってあのお金は。
「おかねさん…あのお金は、もしもの時のためにって…」
前におかねさんが、「雨降り風間と言うからね、何かの時のためにこうして二両は取ってあるのさ。人に言っちゃならないよ」と言って、小さな金貨がまとめて包んである紙包みの中を見せてくれたことがある。彼女はそのあとすぐにお金を包みなおして、仏壇の奥に隠していた。多分、甚吉さんに投げつけたのはそのお金だったんだろう。
おかねさんは俺を見ずに、つまらなそうに「フン」と鼻を鳴らすと、さっさと家の中へ戻ろうと踝を返した。
「いいんだよ。これで追っ払えたんだ。もう日も暮れる。早く終わらしな」
俺はそれを聞いて、もうほとんど終わりかけていた洗濯を済ませ、おかねさんの家に戻った。
火鉢の脇へ俺たちは座り、おかねさんは寒そうに手をあぶって、俺はお茶を煎れる準備をしていた。鉄瓶が震えて、湯がたぎる音がしている。
薄くて青白い湯のみにお茶が注がれると彼女はそれを受け取り、ひと口ふた口飲んでから、ちゃぶ台へ放ってしまった。そこから彼女の、長い、長い、身の上話が始まる。
第十九話 二分と正直
火鉢の中の炭が、時折ぽっと火の粉を飛ばす。行灯は目に優しい。でもその日は、灯りのとぼしさがなんだかもの悲しかった。
「あたしはね…十五で親が死んで、嫁に行く縁もなかったのさ。そこへ女衒が寄ってきてね、自棄っぱち半分に、吉原に行ったのさ。女郎になったんだよ」
俺はもう大体の江戸の事情を知っていたので、「女郎」というのがどういう人たちなのかは、話に聞いていくらかは知っていた。
女衒に声を掛けられて花街に入る女性や、借金の形に売られてくる人は、実は少ない。大半が、何か罪を犯してその穴埋めのように身を沈める女性たち、または、「口減し」のために地方から出てくる子供たちなのだ。
遊女たちは日々の暮らしに飽き飽きして、嫌々ながらも男の機嫌を取り、「早く年が明けないか」と待ちながら、起請文を交わした相手と手紙をやり取りしたりする。耐えきれずに逃亡を決意する女性も居るけど、妓楼を取り仕切る“忘八”の手下たちが常に見張っている廓を抜けるなど、到底無理な話だった。捕まえて連れ戻されれば、働く年を増やされて、そのうちに病気で亡くなったり首をくくったり。
よし出てこられたとしても、それが子供の頃から吉原に居た女性だとしたら、外での暮らし方がわからず、結局私娼として生き、短い生涯を閉じる。そんなことさえある。
おかねさんはそれを嫌と言うほど見て知っていたから、俺に「吉原へ行ったら承知しない」と言ったのだ。
「あたしはもちろん太夫なんて呼ばれず、“散茶”として大して銭もないお客を取って、なんとか年が明けるまでは勤めるはずだったんだよ…それがねえ…」
そこでおかねさんは遠い昔を思い出しているのか、くすっと笑ってから、火鉢の端に肘をつき、炭を火箸でちょいちょいとつついていた。
「ある晩に出たお客がね、わりに正直なほうで、下手な洒落も言えたもんで、あたしも気に入ってさ」
おかねさんはずっと俺のほうを見ず、まるで火鉢の中に恋人の顔を見ているように、赤々と燃える炭を覗き込んでいた。
「やさしいひとだったんだよ。しばらく来ないと思ってたら、あたしの店にそのひとの仲間が来たから、廊下でとっ捕まえて聞いたらさ…」
そこで彼女の顔はくしゃっと歪み、彼女は慌てて右手の袖を目頭に当て、涙を拭った。そしてしばらく袖口を目に押し当てていたけど、腕を下した時には、眉を寄せたまま笑っていた。
「二分さ…」
おかねさんは、「二分」と言ったまま続きを話さなかった。そこで俺は慎重に構えながら、「二分とは…なんですか?」と、できるだけ丁寧に聞いた。
“聞いてもよかったのだろうか。いや、よくない。彼女は話すことさえ辛いのだ”と俺は考えていた。
涙を堪え、歯を食いしばっておかねさんは、その歯の隙間から声を出す。
「たった二分の…出入り先への借りが返せないってんで…首をくくったのさ…そのお店と、あたしへの遺書を残してね…」
それは悲しみであり、恨みでもあり、あまりに正直過ぎた恋人に対する哀れみであったのだろう。
それからおかねさんは額に手を当ててため息を吐くと、またちょっと笑った。そして、そこで初めて俺を見る。
「たった二分さ。それでときに死んじまうんだよ。人ってもんはさ」
俺は、おかねさんがこれを無理に笑いたがっていることを、止めたかった。泣いてわめいてでもいいから、どうにか彼女の悲しみをほかへやって欲しかった。
でも、彼女のような人には、それはできないだろう。
おかねさんはお師匠としての誇りはあるが、同時に、下男の俺にさえあれこれと世話を焼いて、いい主人であろうとする。そんな彼女に、その下男の前で泣いてみせろなんて、無理な話だ。
「だからさっきね…」
俺は、つい先ほどにおかねさんが甚吉さんにお金をぶつけたことを思い出す。
「銭なんてのぁ、あたしゃきらいなんだよ。欲しい奴がいたら、全部やっちまいたいくらいさ。あたしの銭に、もう用はないんだ…」
おかねさんの言ったことの意味は、俺にはこう聴こえた。
“あの時に恋人を救えもしなかった自分が持っているお金になんて、もう用はない”
俺は、自分にできることを数え上げ、その少なさに嘆息して、何を言うこともできなかった。
第二十話 煤払い、豆まき節分、大晦日
江戸の大晦日はもちろん“年越し蕎麦”。そう思っている人は多いんじゃないだろうか。
ここでもう一度、このころのことについて注釈を入れたいと思う。皆さん歴史で習ったと思うが、江戸時代は暦の進み方が違う。
このころの暦が月の満ち欠けに応じて進んでいたのはご存じと思うが、それは「太陰太陽暦」というものだ。それが現代で使われている太陽暦、つまり「グレゴリオ暦」とは何が違うのか。俺が一番驚いた違いをここに書いておく。
俺たちが暮らしていた現代においては、四年に一度、二月の最後に一日足して暦を合わせていた。それは「閏年」というものだ。でも、江戸時代ではそれを「閏月」と呼び、一カ月も増やすのだ。初めて聞いた時には本当に驚いたし、正直に言うと信じ難かった。
いわく、太陰太陽暦の数え方では、一年に十一日も暦がずれてしまうため、三年に一度、「閏月」を入れて、十三カ月で過ごすんだそうだ。
俺もまだよくわからないけど、なんでも日本の太陰太陽暦は何度もころころと数え方が変わっているという。元禄で使っている暦の数え方は、前の元号である「貞享」の時に決められた「貞享暦」というものらしい。長屋の近所に住んでいる「指南所」の先生から、よもやま話のついでに聞いた。
そうなると、ついこの間おかねさんが、「もう十一月だし、新年になれば少しあったかくなるんだからさ。辛抱おしよ」と俺をなぐさめていた理由もわかる。暦が遅れていて、季節が進んでいるのだ。
つまり、元禄の十一月は現代の一月目前くらいで、そろそろ春という二月ころに新年が明ける計算になる。
どうりで、現代でも年賀状に“迎春”と書いてあるわけだ。俺はそう納得しつつ、寒い井戸端で洗濯をしながら、二つ三つ、くしゃみをした。
話を戻そう。“年越し蕎麦”だ。
江戸時代と言えば「二八蕎麦」というくらいに、落語などが好きな方もご承知おきと思う。
冬の真夜中に布団に包まっていると、厳しい北風の音にまぎれて表通りから聴こえてくる、「そば~ぁ~」と尾を長くした売り声。それは、ただ寒くて眠れやしないだけの冬の中、「ああ、蕎麦屋だな」と思うだけで、どこかあたたかい気持ちになるものなのだ。と、そんな話を俺は聞いた。
しかし残念ながら、元禄時代に「蕎麦屋」なるものは存在しない。それに代わるのは、意外にも「うどん屋」なのだ。
どうやらこのころには蕎麦屋はまだ一般的ではなかったようで、反対に、うどん屋は江戸市中にいくらでもある。
江戸時代の蕎麦は食べられなかったけど、俺はおかねさんのお気に入りのうどん屋さんにたまに供に連れられて行って、もちろん「製麺所」なんてなかった時代の、美味しい手打ちうどんをよく食べている。
では、蕎麦がないなら大晦日には江戸の人はどうしていたのか。
豆まきである。
お聞き違いかと思われた方にもう一度言う。「豆まき」だ。
これははっきりとはしないけど、「どうやらそろそろ新暦の大晦日に近いんじゃないか?」と、俺が思っていたころの話だ。
その日、俺はいつも通り洗濯をして、お稽古が終わったおかねさんが買い物に行くのを見送った。
帰ってくるとおかねさんはおかずの荷物のほかに、紙包みなどを風呂敷の中から出して、こう言ったのだ。
「ほら、秋兵衛さん。お前さんの分。お前さんもやりたいだろう?」
俺が“何をやるのかな”と包みをとくと、そこには少しの炒り豆が入っていた。
「え、これ、食べるんですか?」
すると、おかねさんがぷっと噴き出す。
「何言ってんだい、まくんだよ。年神様をお迎えする前に、鬼をはらっておかないとね。あたしは柊鰯を飾るから、ちょっと待っといで。一緒にまこう」
おかねさんはそう言って、戸口に鰯の頭を刺した柊を飾る。俺は慌てて目の前にある豆を見つめた。
“えっ…つまりこれ…「節分」!?”
俺はなんとか内心の動揺を隠したけど、“これが本当に本来の意味で行われる豆まきなんだ”と思うと、感動すらおぼえた。
あとでわかったことだが、「節分」はもともとは一年に季節の数だけ四回あり、正月前の節分がやっぱり一番重視される、とのことだ。
少しだけあった豆はすぐになくなってしまったけど、俺とおかねさんは豆まきをして、おかねさんは「福茶」というお茶を煎れてくれた。
それには、豆や梅干しなどが入っていたらしい。甘酸っぱくて、ちょっと慣れない味だった。
でも、おかねさんが福茶を飲みながらほっと一息吐くのを見ていた俺は、なんだか切ないような、嬉しいような気がして、少しだけ、「今はこのままがいいな」と思った。
それから、日にちがもっと前になるけど、「大掃除」にも俺はびっくりした。
俺は、「大掃除」は大晦日近くの空いた日に、適当にやるものだと思っていた。でも、江戸時代にはきっちり日にちも決められていて、使う道具についてもそうだった。
十二月の十三日に、まだ葉が残っている竹か、竹竿の先に藁などを括り付けたものなどで、家じゅうの埃を、神棚まではらう。だから、「煤払い」と言われるらしい。
とかく江戸時代には、みんながきちんと行事の意味をわかっていて、まだまだちゃんと効力を発揮しているような気がする。
何も本当に神様が現れたり鬼が消えたりするわけじゃないけど、そうやって人々の心が季節の節目を越えていくのが、俺には見える。この時代のそういうところが、俺は好きかもしれない。
そして「煤払い」と「節分」が済んで、「歳の市」で買った門松を家の前に飾ったら、いよいよ「大晦日」がやってくる。
十二月三十一日、隣の家ではおそのさんが、「亭主が戻りましたら必ず…」と何度も繰り返して、商人への支払いをごまかしているようだった。
“五郎兵衛さんはどこに隠れているのかな”と他人事のように考えながらも、俺たちも一人一人「掛け」を取りに来る人たちを迎えて、支払いをした。
驚くべきことに、おかねさんは贅沢をたまにしながらも、きっちりと年末の支払いができる分のお金を取っておいたのだ。
やっぱり女性はすごい。俺はなんとなく、そう思った。
そして掛け取りが皆帰ってしまうと、俺たちは「年取り膳」を食べた。
鮭の塩焼き、紅白なます、煮た昆布と豆。
おかねさんは、「こんな日にしか出さないけどさ」と言い、棚の奥から赤い漆塗りの小さな椀をいくつも出してきた。そしてそれに一人分ずつの料理を盛り付けて、それぞれの膳に置く。
神棚にも料理を少しずつお供えして、おかねさんは手を合わせた。俺もそれに倣い手を合わせて、心の中で“どうぞよろしくお願いします”と唱えていた。
その晩おかねさんと俺は、眠る前に一服しようと、煙草に火をつけていた。
部屋の隅にある行灯の灯りは薄赤く畳と壁を這い、反対の壁には行き着かずに薄れる。それでも俺たちの手元には火鉢があり、その中で真っ赤に焼けた炭は、手をかざせば温めてくれた。
「いい年になるといいねえ、ほんとにさ。明日の朝は初詣に行こう」
「ええ、そうですね」
俺はおかねさんの横顔を盗み見ながら、考えていることがあった。
“新しい年でも、あなたは、「あの人」のことを忘れないんですか”
当たり前かもしれない。愛しい人のあえない最期なんて、越えられるものじゃない。
だから、俺がどんなにおかねさんのことを夢に見ていても、彼女が抱く「哀しく美しい思い出」と、「下男である俺」なんて、比べるべくもないだろう。
俺が果敢に名乗りを上げたところで、ぎこちなく白けた返事が返ってくるだけかもしれない。
それでも俺は、あなたの美しい時がこのまま哀しみのために流れ去ってしまうなんて、いやなのに。
「おかねさん」
俺は考えているうちにたまらなくなってしまって、思わず彼女に声を掛けた。するとすぐにおかねさんは煙管の口元から振り向いて、静かに笑った。
「なんだい?」
その時のおかねさんは、とても親しい男性に向かうように、俺に微笑みかけていた。俺はそれを見て胸が高鳴ったし、それで何も言えなくなってしまった。
「いえ、なんでもありません…私は、もう眠いので…」
「そうかい、じゃあ休みな」
「はい、おやすみなさい」
もしかしたら、彼女は俺のことをそう悪くも思っていないかもしれない。そう思ってしまうのも無理はなかった。でも結局、そうじゃなかったんだ。
恋物語編
第二十一話 面影
新年が明けて、みんな浮かれ騒いでいる。俺とおかねさんの初詣は、神田明神になった。
元旦早くの参道は物凄い人出で、大賑わいだった。「芋を洗う」とはまさにあのことで、はばかりへ行きたかろうが、もう帰りたがろうが、真ん中に近いところに居た俺たちが出ていくなんて、絶対に無理だっただろう。
押されて揉まれてようやくたどり着いた本堂で、俺たちは賽銭を箱の中へ落としてちょっと手を合わせた。そしてまた帰りの参道で人込みに潰されそうになって、まだ昼にもならないというのに、もうへとへとだった。
「明神さまは毎年大流行りだねえ。とは言っても、元旦じゃどこも似たようなものだけどさ」
「そうですね」
俺はその日、初めてこう願った。
“ずっとここに居させてください”
それはもちろん、美しいあなたのそばに居たいから。あなただって、下男としてなら俺を有難がってくれる。それなら、ずっとこのままがいい。
ふと、“神様を伝ってなら、届くかもしれない”と俺は思った。だから俺は、敷居をまたぐ時を選び心の中で「元気で」と唱えて、初めて家族に別れを告げた。
お正月は、うちでご馳走を食べ、そして酒を飲み、おかねさんは唄を唄って三味を弾いた。そんなことは初めてだったけど、彼女が俺の前でくつろいで過ごしているんだなとわかり、“正月はいいなあ”と思った。俺はお酒は少ししか飲めないけど、おかねさんは、酒屋で買ってきておいた一升瓶二本を、三が日が終わる前に空にしてしまった。
おかねさんが弾き語ってみせたのは、いつもお稽古の時に聴いている常磐津ではなくて、栄さんがたまに俺に聴かせる「都都逸」などのようだった。
その中で一つだけ、“これはおかねさんの元の恋人との話では”と思う唄があった。それは、三が日最後の日の朝に唄ったものだった。
お前見たさに
遠眼鏡掛け
会えたと思えば
案山子の手
それは、「洒落がきいてるね」と言いたくなるような、陽気な文句ではなかった。それに、おかねさんもそれを唄った切り、「もうごはんの時間だよ」と三味線を置いて、へっついの火を見に行ってしまったのだ。
多分あれが、恋人と会えなかった頃のおかねさんの唄なのだろう。俺は、“今でも彼女は恋人が恋しいのだ”ということが気に掛かり、その日の午後、散歩に出掛けた。
歩いて体を動かしていれば、気持ちもどこかへ逃げていくだろうと思っていた。でも、一人きりで黙って歩いていたって、どこかへ迷い込んで行くだけなのだ。
俺は“帰ろうか”とも思ったけど、帰っておかねさんの顔を見ながら、それでも想いを伝えずにいられる自信がなくて、なかなか帰れなかった。
「少し散歩に出ます」と行った切り俺は暮れ六つまで戻らず、日の暮れ方にやっと長屋の木戸まで来た。
すると、木戸をくぐる前からおかねさんが家の前をうろうろしている姿が見えた。それはとても不安そうな様子だったので、悪いとは思いながら、彼女に心配をしてもらえたことが、俺は嬉しかった。
うつむいたままでおかねさんは表店近くの井戸まで歩き、今度は奥側へと引き返していく。俺はそんなおかねさんに追いつくと、後ろから声を掛けた。
「すみません、ただいま…」
“帰りました”と続けようとして、俺は何も言えなくなってしまった。振り向いたおかねさんは始め驚いたようだったけど、次の瞬間には、まるで俺に恋しているような顔をしたのだ。
彼女の目は大きく見開かれて涙が潤み、あまりの喜びに切なさまで感じているように眉はきゅっと寄っていて、彼女は俺を見て、ため息を漏らすように一瞬笑った。でもそれは、すぐに脇へよけられてしまう。
おかねさんは、その一瞬あとになぜかちょっと悲しそうな顔をしてから、ぷいと横を向く。そして俺に向き直ると、今度は怒った。
「こんな時間まで、どこぉほっつき歩いてたんだい!お前さんがいなきゃ誰が洗濯をするんだ!誰が飯の支度をするのさ!早く仕事に掛かりな!」
「すみません!ごめんなさい!」
俺はその時、一瞬だけとはいえ、なぜおかねさんが俺を見てあんなに喜んだのかがわかってしまったような気がした。だから、その話をいつ彼女に切り出そうか、または黙っているべきなのか考えながら、洗濯ものを盥の中で洗い、おはちからお米を盛った。
いつも通り、俺は土間に近い畳にお膳を置き、おかねさんとは離れて晩ごはんを食べた。彼女の様子を窺うと、仏頂面で次々お米を口に運んで下を向いていたけど、彼女は一度も俺を見なかった。
夕食のあとでおかねさんは湯屋に行ったし、俺もついていった。そして家まで帰ってきて俺は後ろ手に扉を閉め、まだ迷いながらも、おかねさんに声を掛ける。
「おかねさん」
「なんだい」
おかねさんは煙草盆から煙管を取り上げ、刻みの葉を取り出して詰めようとしていたところだった。俺は急に唇の渇きが気になって、舌でいくらか湿す。そして、喉が震えそうになるほどの緊張を抱えながらも、彼女が振り返らないうちにこう言った。
「私はそんなに、“あの方”に似ているのですか」
その途端、おかねさんの頭から首筋、爪先に至るまでが、ぴたっと止まった。俺の背中には、ざばっと水を浴びせたような震えが走る。
俺は、胸を苛み始めた後悔の間で返事を待った。今におかねさんが怒鳴り散らして、煙管を俺にぶっつけるんじゃないかとまで思った。
そして、煙管を持ったまま宙に浮いていた腕をおかねさんがようやく動かすと、彼女は火鉢の前にかがみ込んで煙草に火をつけ、煙を向こう側へと吐く。
俺は、おかねさんの亡くした恋人に、似ているのだ。だから彼女はあの時、俺をその人と見間違えて大喜びしてしまい、そして、やっぱり俺だったことに失望させられたから、悲しんだような顔をしたのだろう。
「教えてください」
“俺は、亡くなった恋人の代わりにされているのですか”
しばらくおかねさんはぼんやりとうつむくように煙草を吸っていたけど、やがてこう言った。
「そうさ。あんまりそっくりだよ」
第二十二話 恋敵
俺とおかねさんは黙って布団を敷き、そしておかねさんはいつものように行灯の火を吹き消して、俺たちはそのまま眠った。
俺は、何かを言えば、たちまちそれは彼女への想いにまで行き着いてしまうと知っていた。
おかねさんはおそらく、俺に黙って隠していたことをこれ以上聞き出されたくないから黙っていた。
次に目を開けると、あっという間に朝になっていた。
“あんまり寝た感じがしないな。それにしても、おかねさんとどんな顔をして朝の挨拶をすればいいんだ…”
俺が起き上がると、おかねさんの布団はもう畳まれていて、彼女は居なかった。それで俺は何を考えたわけでもないのに、慌てて戸口から出る。その時右に三歩の井戸端から水音がしたので、急いで振り向いた。
そこではおかねさんが盥に水を汲み、顔を洗っていた。彼女は手拭いで水気を払って振り向く。それは昨日の朝と同じ笑い顔だった。
「おはよう。お前さんも使うかい?」
俺は一瞬、時が逆戻りしたのではないかと感じた。でもすぐに、“彼女は昨日知れたことにもう触れてほしくなくて、普段を装ったのか”とわかった。
「はい、そうします」
その時、俺の耳元で誰かがこう囁いた。
“これじゃあ、そっくりさんの立場を利用して想いを打ち明けるわけにもいかないな?”
うるさい。
俺はその囁きを押しのけ、彼女と井戸端ですれ違った。盥の中に満ちた水には、とても彼女に似合うとは思えないような、うすぼやけた顔の男が映った。
裏長屋はいくつかの棟に分けられていて、俺たちは表店に一番近い場所を陣取る一棟の、真ん中あたりの部屋に住んでいる。
五つほどある棟の住人はみんな俺たちの家の前を通り、表通りと自分の家を行き来するのだ。
「はいはいわかったよ。独楽は買うけどお前さん、先年みたいにお武家様にぶつけたりするんじゃないよ」
「ありがと、おっかちゃん!」
「ねえ銀さん、探してるものがあるんですよ。どこに行ってもないもんだからね、あなたならご存じでないかと…」
「へいへい、どういったものでしょう?」
「花魁と似た簪が欲しくてね。でも高くちゃあいけませんよ」
「まあまあ、じゃあ探してみます。どの花魁でしょう?錦絵なんか見なすったんで?」
「ええ、これなんですよ、ほら…」
「なあ新よ、昨日の客ぁどこで下したっけなぁ」
「千住だったんじゃねえか」
「するってえと千住におめえの財布もあるかもしれねえぜ」
「バカ言え、てめえの懐探りゃすぐ出てくるんだよ。早く出しゃあがれってんでい」
「おいお前さんたち、喧嘩かい」
「大家さん!」
まあなんとも騒々しいことだ。独楽を欲しがる子供と母親、簪の相談を小間物屋にするおかみさん、篭屋の無駄話…。
大家さんが来てくれてよかった。奥の棟の篭屋さんは、二人していつも喧嘩ばかりなんだ。なんで一緒に商売をしてるのか不思議なくらいに。まあたまに居るよな。そういう二人組って。
俺はそれらを背中越しに聴きながら、俺とおかねさんの、綿を抜いた袷の布を洗っていた。
今日は衣替えの日だ。ところで皆さん、「四月一日」という苗字はなぜそう読むのか、ご存じだろうか。
知っている人も多いかもしれないが、四月一日は古くは春の衣替えの日で、冬から着ていた綿入りの袷から中の綿を抜き、暖かい季節に備えるのだ。それで、「四月一日」を「わたぬき」と読むようになった。
でも、この時代でも実際に「四月一日さん」に会うことはない。「苗字としては、もう少し先に増えるのかな?」などと俺は思っている。
というわけで、布一枚になってしまった着物は、これから干して、おかねさんの手でもう一度縫い合わされる。おかねさんは清潔好きなので、「一度洗ったほうがいいよ。お前さんそうしとくれ」と言い、夏用の浴衣を着て家にこもってしまった。
俺は夏物は持っていなかったので、ふんどし一枚の姿で、ほかの洗濯物と一緒に自分の着物を洗っている。これぞ「江戸の長屋住い」という、なんとも言えない感覚だ。
「ふーっ。できた」
物干しは今日は混んでいたけど、今日干さなくちゃおかねさんが明日着るものがないし、俺は場所を探していた。
その時、後ろから「秋兵衛さん、秋兵衛さんよ」と、誰かが小さく俺を呼ぶ声がしたので、俺は振り向く。
見てみると、物干しの真ん前にある長屋の影に、栄さんがかがんでいて、俺を手招きしていた。
「どうしました栄さん、今日はお稽古はお休みですよ?」
そう言いながら俺が近づいていくと、栄さんは「しーっ!」と歯の間から息を吹き、人差し指を立てた。俺はとりあえず、干そうと思っていた洗濯物を盥に戻し、彼の前に自分もかがみ込んでみる。
「なんです。何かご相談ですか?」
そう言ってみると、栄さんは途端に顔を赤くして、緊張したように目を見開いたまま、ちょっとうつむく。
「どうしたんです、何かあったんですか?」
ざりっと裸足で地面をこすり、栄さんは後ろに隠していたのだろうものを、俺にいきなり突きつけた。
それは紙に書いた書きつけのようなもので、始めはよく読めなかったけど、読んでみると酒屋の「切手」だった。切手には、代金の支払いが済んだことと、「酒二升」と書いてある。
「二升の切手ですね。もしや、お師匠にですか?」
「ほかに誰がいるんでい」
栄さんはなぜか、怒っているような顔をして、顔を真っ赤にしていた。
「いえいえ、では、有難くちょうだいをいたします。お師匠にお会いにならなくてよろしいんですか?」
真っ赤な仏頂面のままで栄さんは立ち上がると、「稽古の日に会うだろ。別にいらねえやな」と言いながら、さっさと振り向いて歩いていってしまった。
「まあ!二升の切手!そうかいそうかい、あとでお礼をしなくちゃならないねえ!」
おかねさんは大喜びでお酒の切手を受け取り、うきうきとしばらく栄さんの話をしていた。
「顔を見せてくださいとは言ったんですが…」
俺がそう言いかけると、彼女はふふふと笑う。
「あの人はそういう人なんだよ。人になんかやるってえと恥ずかしくなってさ。そのくせ「いらない」なんて言っても、もう自分じゃ受け取りやしないのさ。そういうところが好きでねえ」
話が済んだらすぐに酒屋に向かおうとでも思っているのか、おかねさんは膝の上に切手を置いたままだった。
「江戸っ子はやっぱりああじゃなくちゃならないよ。唄は得意じゃないかもしれないけど、気の利いたことが言えるときもあるんだよ。この間なんか、あたしが切れた弦の張り直しをしてやったときにねえ、「按摩の療治かいお師匠」なあんて言うんだよ。「貼り直す」と「針、なおす」を引っ掛けたのさ。まあまあってとこじゃないかねえ…」
俺はしゃべり続けるおかねさんに相槌を返しながらも、心の中で危機感を感じていた。
多分、栄さんはこれを機におかねさんを口説こうという算段なのだろう。
もちろん贈り物なんかで言い寄られてもおかねさんがなびくとは思えないけど、万一に彼女が、「江戸っ子同士で気が合うじゃないか」なんて言い出したりしたら。
俺には高い贈り物なんてできないし、それに多分、今彼女は、俺と距離を置きたいと思っているだろう。
俺たちのここ数カ月の会話と言えば、「あったかくなったねえ」、「まだ寒いねえ」、「うまいね」くらいのもので、以前からの焼き直しだ。
さあどうしよう。俺はびくびくしながら見守っていることしかできないらしいぞ。
そしていよいよ栄さんが稽古に出てきた。でも、まず現れたのは栄さんではなかった。
第二十三話 彼女の真実
”いよいよ今度は栄さんのお稽古の番だ”という頃合いだった。いつもなら、前に稽古をしているお弟子さんの後ろで栄さんは一服吸っているところだったのに、彼はまだ来ていない。
「遅いねえ栄さん」
「はい…」
俺は、正直に言えばこう思っていた。
“どうか栄さんが気持ちを打ち明けることに恐れをなして、もう金輪際ここに来ませんように”
もちろん、栄さんがそんな内気なはずはない。それじゃあまるで、恋の病に罹った深窓の令嬢だろう。
そう考えていると早速表の戸が叩かれて、こんな声が聴こえてきた。
「おかねさんや、いるかい」
それはよく俺が店賃を持っていく、大家さんの声に間違いはなかった。だから俺たち二人は動揺したのだ。
「はい!今開けます!」
“大家さんが向こうからやって来るなんてよっぽどのことだ。自分たちは何かしてしまったのか”。そう考えても無理はないだろう。
でもおかねさんが戸を開けると、確かに大家さんは居たけど、その後ろに栄さんも居た。
「今はこの栄吉さんのお稽古の時間だというじゃないか。上がってもかまわないかな?」
「え、ええ…」
おかねさんは戸惑いながらも俺にお茶の支度を言いつけ、訪ねてきた二人を不思議そうに振り返っていた。
でも俺にはわかったのだ。栄さんが、“外堀から埋めようとしている”のが。
俺は三人分のお茶をちゃぶ台に出して、自分の分は煎れずに、じっと栄さんを見張っていた。栄さんは大家さんの隣で、一歩後ろに座っている。すると大家さんが、「お茶をありがとう」と言って用件を話し出した。
「あたしも驚いたんだがね、おかねさん、お前さんの亭主になりたいから、話を通してくれと言って、この若者が聞かなかったんだよ」
“やっぱりそんなことか”。俺はそう心の内でため息を吐く。そして、おかねさんが簡単には断れない方法を選んだ栄さんを、大家さんの後ろから睨んだ。もちろん彼はこちらを向かない。
「ま、まあ…。でも、あたしが亭主を持つ気はないって、大家さんもご存じじゃありませんか」
「そう言ったんだがね。この人はお前さん以外に考えられないと思い詰めて、あたしの前で泣きながら頭を下げたんだよ。だから一応、あたしの方からも少し意見をさせてもらうがね…」
大家さんはそこでずずっとお茶を啜り、それからちょっと言いにくそうな顔をしてはいたけど、すぐにこう切り出した。
「もちろん、お前さんがかたいのは、みんな知っている。ここにいる秋兵衛さんとも、お前さんなら間違いの起きようがないことも。でもね、おかねさん。外から見たらそんなことは初めはわからない。知らない人がここに初めてお稽古に来て、どうやら下男が一つ屋根の下に寝泊まりしているようだとわかれば、人聞きの悪い噂が立つことだってある。だからここは一つ、本物の亭主を持ってみてもいいんじゃあないかい。そうすればお前さんだって、あたしに泣いて頼んでくるような人と一緒になれるし…」
大家さんは、終いまで「意見」を言うことはできなかった。おかねさんはその時、決然と自分の気持ちを言って、話を終わらせてしまったのだ。
「それなら言います。あたしにはもう亭主があるんです。大家さんもご存じの、昔言い交わしたひとです。今はあの世とこの世に別れてはいますが、末には逢えるんですから、心配いりません。世間様から何か言われても、そう言えば済む話です。それに、秋兵衛さんとどうこうなんて、考えられもしません」
大家さんは慌てておかねさんを慰めようとしたが、おかねさんは聞かなかった。
「今は…一人にしておいてください」
「そうかい…すまなかった。じゃあもう私たちは帰るよ。栄さん、今日は帰ろう」
大家さんは謝って、二人はそのまま帰って行った。栄さんはぼーっとあっけにとられたような風でふらふらと出て行き、大家さんは戸を閉める前にもう一度、「すまないね」と言った。
「いいえ」
おかねさんは大家さんをじっと睨んでいたけど、ぴたりと扉が閉まると、ちゃぶ台に顔を伏せて泣き出した。
「うっ…うう…」
「おかねさん…」
彼女は今、面倒な客を追い払うためだけに一番深い傷をえぐられ、悲しみに震えている。俺だってもちろん悲しい気持ちはあったけど、そんなの、おかねさんの心に比べればなんでもないようなものだ。
俺は彼女の肩に触れることもできず、じっとそばについていた。
ずっと泣き続けていたおかねさんだったけど、ふと彼女は伏せた腕から目だけを覗かせ、俺を見る。それは、悔しい思いをしたあとだからなのか、厳しくとがめるような目だった。
そして体を持ち上げ前を睨むと、おかねさんはふうっと鼻息を吹く。
「馬鹿にしてるじゃないかさ…」
「え?」
馬鹿にしてる?どうしてだ?大家さんが?
「あたしがお前さんと「間違いを起こす」なんて言ってちょっと脅せば、慌てて自分の意見を聞くんじゃないかと思ったんだよ…」
“あれは親切で言ったことじゃなかったのか”
俺はそこで初めて意味がわかり、恨めしさが湧いてきた。おかねさんは俺を見て、泣きながらわめき散らす。
「あたしがそんなにふしだらに見えるって、平気で言ったようなもんさね!ふざけるんじゃないよ!ああもう!こんなところ、今すぐにでも出てってやりたいね!」
「お、落ち着いてくださいおかねさん…!」
「じゃあ聞くけどね!お前さんだってそんなことを言われて、悔しくないのかい!あたしとお前さんは疑られてるんだよ!」
俺はその時、長屋の住人からそんな目で見られているのかもしれないと思うと、悔しい気持ちもほんの少しはあったけど、やっぱりこう思った。
“どうかそれが真実ならば…”
そう思って俺は下を向いて、「いいや、やめておこう」と心で首を振るまでに、時間が掛かった。
「なんとかお言いよ、どうしたんだいお前さん」
「い、いえ…確かに、悔しいと思いまして…」
「そうだろう?まったく、大家だからってこっちを甘く見てるのさ。おまけにあんな半端者をあたしの亭主にだなんて、冗談じゃないっていうのに!」
そのあともおかねさんはぷりぷり怒り続けていてちょっと大変だったけど、俺はなんとか彼女の気持ちを鎮めるためにお茶を煎れたり話をしたりした。
二升の切手をあげて大家さんに口利きをしてもらっても栄さんには無理だったのはよかったけど、俺はその代わり、「彼女は死ぬまで恋人と離れはしない」という事実を知り、大きなショックを受けた。
俺は眠る前、おかねさんの深い寝息を確かめてから、ちょっとだけ泣いた。
第二十四話 恋の終わり
俺は、おかねさんに恋をし続けている。
日本橋で倒れていた俺を助けてくれて、それから「行くところがない」と言っただけで、「じゃあうちの下男になっておくれ」と、住むところまで与えてくれた。
それに、日々俺のためにも買い物をしてくれたり、美味しいものを食べようと思った時には、俺のことも忘れないでいてくれる。
まったくの江戸っ子かと思いきやけっこうなしっかり者で、誇り高く気丈夫な彼女。
そんな彼女にも、悲しみがある。それは、過去に亡くした想い人との、幸せな記憶を忘れられないこと。
でも、それすら彼女は平気な振りをして振舞う。
俺が、“そんな彼女の支えになりたい”と思うのは、そんなにおかしな話だろうか。
江戸の季節は騒がしく流れ、やがて夏のやってくる匂いがし始めていた。俺は袷の布から裏地を外し、一重の帷子にして着たし、おかねさんは夏物の浴衣に着替えて、「秋兵衛さん、お前さんにも夏物を買おうか。もう少し涼やかな色がいいねえ」なんて言っていた。
俺は今、「写し物」の仕事を終わらせて一息つき、「おかずを見てくるよ」と言ったおかねさんを家で待っている。
“洗濯物をもう取り込まないとな”。そう考えているうちに、おかねさんは帰ってきた。
「おかえりなさい。暑かったでしょう。お水を汲みますよ」
おかねさんは胸の上でおかずの包みを抱えて、袖口で汗を拭き拭き土間から上がった。
「ああ。そうしとくれな。もう暑くってたまらないよ。今日は夕の前に湯屋に行ってくるから、お前さんおなかがすいてたら先に食べておくれ」
「いえ、私はおなかはまだすきませんから。それと、今日は湯屋には行かないので、お待ちします」
「そうかい、すまないねえ」
そう言って俺に微笑み、手拭いと湯銭を持って後ろを向いて出て行く彼女の背中が、悲しいのだ。
日に日に、彼女の笑顔は俺に悲しみを与えて、胸が痛む。時間が癒した傷を差し引いても、「この世の末まで、亭主と決めた人と逢える日を待ち続けよう」。その決意は、彼女の身を引き裂くのに十分ではないのだろうか。
俺が救うことなどできないというのはわかっている。でも、言葉にしなければ、彼女の辛さを知っている人が居ることなど、彼女は知りもせず、耐えなければいけないのだ。
“今日こそ言おう。拒否されるのはわかっている。でも、もう黙って見ていては、俺も耐えられないんだ…”
「ああ、いいお湯だった。お前さんどうしたんだい。風邪でも引いちまったんじゃないだろうね」
「ええ、大丈夫です。それと、おかねさん、ごはんを頂いたら、お話があるので、お願いできませんか」
「なんだい急に。まあいいけどさ」
「はい」
俺は、その時すでに心は決まっていた。たとえここを追い出されることになっても、彼女に伝えると。
だから、お米はお茶碗に綺麗に盛り付けて、おかねさんが買ってきたおかずも美味しそうにと気にしてお皿に移し、“彼女との最後の食事になるかもしれない”と考えていた。
「奴も暑くなればごちそうだね。お前さんどうしたんだい、もっとお食べな」
「はい」
俺は、豆腐屋さんの美味しい豆腐を前にして、やっぱり食が進まなかった。だってこのあとは一世一代の台詞を言おうとしているのだから。
「はあ、食った食った。じゃあ洗い物は頼むよ。話があるならお茶はあたしが煎れるからさ」
「はい。ありがとうございます」
“断られるだろうな。おかねさんの気性なら、俺はほっぺたをぴしゃりとやられてもおかしくない”
俺はいつもの通りに食器をたわしでこすり、使い終わった水を流しにあけて、食器を伏せた。おかねさんは湯飲みにお茶を注いで、食事に満足した様子で和やかな横顔を見せていた。
俺はそれを見ていて、自分のしようとしていることをもう一度思いとどまるべきなんじゃないかと思った。
“本当に言うのか?それで、この幸せが一瞬で崩れ去るかもしれないのに?”
そんなふうに俺が立ち尽くして黙っていたので、おかねさんは俺を気遣うように微笑む。
「どうしたのさ。早くお座りよ」
彼女の顔は、まるでなんの悩みもないように、優しい微笑みに彩られ、いつか見せた涙が嘘のようだった。
その裏で彼女は傷ついているかもしれない。亡き恋人によく似た俺にも平気な顔をしていることで、悲しみが深まっていても、そうしているかもしれないんだ。
“言うんだ。もう終わりにしよう”
俺は立ったまま彼女を見つめ、そしてちゃぶ台の前には行かずに、彼女の前で床に手をつき頭を下げた。
俺が顔を上げた時、おかねさんはあまりに俺がかしこまっていたからちょっと気が引けたのか、おくれ毛を耳に掛けて、着物の裾を直していた。
なんと言おうか、ずっと考えていた。でも、今言いたいのはこれだけだ。小さく息を吸って、俺は二度とこんなふうにはなれやしないだろうと、心の澄んだ流れのまま、口を開いた。
「私を、あなたのことをいつも支えられる者にしてください」
もう一度、俺は頭を下げる。そして、おかねさんが何かを言うまでは、彼女の顔を見まいとした。
何度か衣擦れの音がして、俺の耳元ではかすかに自分の鼓動の音がしていた。でもそれも、諦めの混じった控えめな響きだった。
「それは、あたしの亭主にしてほしいってことかい」
俺は静かに「はい」とだけ答える。そのあと、俺はこう言い渡された。
「あきれたね。師匠相手にそんなはしたないことを言う下男なんて、うちにはいらないよ。どこへなりと出ておゆき。あたしはもうお前さんなんて知らないから。着てるものだけは置いていかなくてもいいよ。それは返す必要もないからね」
“ああ、やっぱりそうだよな”
おかねさんらしいなと、なんとなく思った。だから俺は顔を上げ、おかねさんの顔を目に焼きつけようとしながらも、こう返事をした。
「わかりました。望むような下男になれなくて、申し訳ございませんでした。手内職で貯めた銭は、棚の中にあります。新しくそこに書きあがったものは、すみませんがおかねさんが代金を受け取りに行ってください。私は…そのお金を持ったままでは、新しい暮らしなんかできませんから…」
おかねさんはもう何も言わなかった。
「それでは、失礼致します。今まで大変お世話になりまして、有難うございました。お役に立てず、申し訳ございませんでした。どうぞお元気で」
俺は自分の草履を履き、振り向きたいのを、彼女に泣いて縋りたいのを我慢して我慢して、暗くなった外に出た。
“どこへ行こう”
身元のはっきりしない俺なんか、誰も雇い入れてくれるはずもないし、居候ができるような身分でも、家に置いてくれる知り合いも居なかった。
「明神様の軒下に…」
無意識にそう口にして、俺はそのまま歩き出した。
第二十五話 病
おかねさんの家を出てから、俺の乞食人生が始まった。
俺は初めの晩は神田明神に勝手に宿を取らせてもらったけど、やっぱり神田には居づらかったので、浅草に居を移した。
とは言っても、やっぱり神社の境内や橋の下で寝起きをし、やっと見つけたお茶碗を一つ持って、家々を回り、食べられるものや、お金を少しずつもらったりしていた。
勤め先を紹介してくれるという「口入屋」にも行ってみたけど、「素性の知れない者を人に勧めることはできないんでねえ、悪いが帰ってくれ」と、冷たくあしらわれてしまった。
おなか、すいたな。昨日はどこに行っても何ももらえなかったから、おからにもありついてない。
お米なんか食べられなくてもいい。おからでも、粟でもいい。とにかく何かが食べたい。
おなかがすいた…。
俺はそんなことを考えながら、その日も浅草寺の裏手にごろりと横になって、もうだいぶ暑くなってきた町の隅っこで眠った。
江戸の町が真夏になる頃、俺は少し風邪を引いたようだった。
それはそうかもしれない。ろくに食べずに毎日何十軒もの家を歩き回って、一日中暑さに体を晒しているのだから。
でも、そんなことには構っていられず、俺はその日も食べるものを得るために、人々の軒先を目指した。
「何もないよ」
「お願いします。大根ひとかけでもよろしいのです…」
この上なくみじめな気分だった。物乞いとはこんなに辛いのか。
「そんなところに立ってたら邪魔ですよ。早くどっかへ行っとくれ!」
俺が訪ねた家のおかみさんは、そう言って戸を閉めた。
わかっている。江戸時代のほとんどの人々には、施しをしてやる余裕などない。
足が重い。体の具合が悪い。もうずいぶんお風呂に入っていないし、自分の体が臭うのもはっきりわかった。
“ああ、情けないな。でも俺が未来から来た以上、どこかに奉公するわけにもいかないし、俺はこの時代の仕事のやり方なんか一つもわからない。写し物の仕事だって、おかねさんがもらってきてくれたもので、俺一人じゃどこからも仕事なんかもらえない…”
でも、俺にもう少し勇気があれば、そこらで働いている人にやり方を聞いて仕事をし、それを勝手に売り歩くかなんかして、自分で働いて得たお金で生活することもできただろう。もちろん、そうした方がよかったに違いない。
でも俺には、その勇気を出すための希望がなかった。自分が未来から来たからではない。
おかねさんに、とうとう受け入れてはもらえなかった。
彼女と別れてひと月ほど経った今でも、いいや、今の方がむしろ俺は気持ちが落ち込んで、とてもじゃないけど、前に進むために仕事をするなんてできなかった。
“このまま俺は、一人で死ぬかもしれない。もしまた行き倒れて、今度は死んでいる俺を見つけたら、彼女は少しでも悲しんでくれるだろうか…”
俺は、“生きていきたい”なんてもう思っていなかったのかもしれない。
真夏のある夜、俺はかっぱらってきたむしろの上に横になり、橋の下で唸っていた。その頃の俺は品川に生活する場所を移していて、知っている人など誰も居なかった。
知り合いも居ないのは心細かったけど、それ以上に、原因不明の病が俺を追い詰めていた。
息が苦しい。咳が出る。高熱も出ていた。それに、全身に蕁麻疹のようなものができていて、かゆくてしかたない。
結局俺は眠られないままで夜を明かし、朝になっても唸り続けていた。
朝の日差しが橋桁の下に居る俺の横っ面を照らして、眩しくて仕方なかったけど、もう首をひねる余裕もなかった。俺が吐く息はどんどん熱くなっていく。
“これはもういけないだろうな。俺もここまでか”
自分が死のうとしているのだと感じ始めた頃、俺の目にはひとりでに涙があふれた。
“もう一度彼女に会いたい。ひとめでいい。そして、死んでいく俺を彼女に見守っていてもらいたい”
そう思っていると、川辺の葦を踏んで誰かがこちらに近づいてくる足音がした。でも、俺はもう目を開けられなかった。
咳は出るのに、ぐったりと力が抜けて重たくなった俺の体は、自分で火傷をしそうなくらいに熱くて、俺は夢の中に居るように、目の前に彼女の顔を見ていた。
夢の彼女は、俺のことを覗き込んで心配をしているように悲しそうな顔をして、俺は“もう一度、おかねさんの笑い顔が見たかったな”と思っていた。
その夢で彼女は俺をゆすぶってから何かを叫び、俺は誰かに優しく抱きかかえられるような心地がした。
“ああ、仏様が迎えに来たのかな。天国と地獄なら、どっちがいいんだろう”
俺はそんなことを考えながら、自分を手放した。
目が覚めた時、俺は布団の上に横になり、薄い上掛けまで掛けてもらっていた。
“死んだにしちゃおかしいな”
そう思って起き上がろうとすると、誰かが俺の肩を布団に押し付けて止めた。
「目が覚めたんだね。でもまだ動いちゃならないよ。もう少しでお医者が来るから」
その声で俺はびっくりして、半開きほどに寝ぼけていた目を見開き、目の前に居た“彼女”の顔を、かすむ目でなんとか見ようとした。
声ですぐにわかったけど、それはやっぱりおかねさんだった。
“嘘だろ。こんなことってあるのか…?”
俺はすぐに両目に涙があふれ、嬉しさで一気に有頂天になりそうだった。
「おかねさん…?なぜ…」
そう聞くと、おかねさんは悲しそうに横を向き、浴衣の袖で目を押さえて、しばらく何も言わなかった。でも彼女はしばらくして気持ちの昂ぶりがおさまったらしく、涙の染みた袖口を隠して、俺に笑う。
「おかねさん、私を探して下さったんですか?それに、お医者様を呼んだなんて、それは申し訳が…」
俺がもう一度起き上がろうとすると、おかねさんは今度もやんわりと俺を引き止め、床の上に戻してくれた。
「起き上がっちゃならないっていうのに。お前さん、病の中なんだから、じっと寝てなくちゃならないよ。ああ、本当に見つかってよかった…」
それで俺は、“おかねさんは俺を追い出しはしたものの、やっぱり心配になって、探してくれていたんだ”と知って、また泣きそうになった。
“これは夢じゃないんだろうか。俺に都合がいい白日夢じゃないんだろうか?”
「お前さんを追い出したなんて、今になってみればあたしはどうかしていたんだよ。許しとくれ、堪忍しておくれ…お医者が来るまでの辛抱だよ。まあお前さん、あたしのせいでこんなになっちまって…!」
おかねさんは袂でまた涙を拭い、「手拭いを替えるからね、ちょっと我慢しておくれな」と言って、俺の額の上ですでにぬるくなっていた水布巾を取り換え、「何か欲しいものはあるかい?」と優しく聞いてくれた。
俺は勇気を出してどうにか心を打ち破り、こう言った。
「なんにもいりません。私はここに戻ることができるなら、他にいるものなんかないんです」
「もちろん、帰っておいでな。あたしはあの時正気じゃなかったんだよ。お前さんを追い出すなんてさ…ごめんよ、許しておくれね」
おかねさんは泣きながら笑って、そう言ってくれた。
それから夕刻になって一人、お爺さんのお医者さんが来たけど、お医者さんは、「流行り病だから、本人の体に任せることしかできないだろう。よく食べさせてやりなさい」と言うだけで帰って行ってしまった。
俺は全部で四人の医者に診てもらったけど、結局どれも同じ、「流行り病は本人が耐えて過ぎるのを待つしかない」と、皆同じ答えを返すばかりだった。
医者がみんな帰って行ってから、おかねさんは悔しそうに泣いて、俺の額をさすった。
「医者なんてみんな不人情なもんだねえ。「流行り病だから仕方ない」なんて言ってさ…。安心しなよ、よくなるまでは、あたしが面倒をすっかり見るから…」
「ありがとうございます、すみません」
「いいんだよ謝らなくて。それをするのはあたしの方さね…」
それから数日して俺は熱が下がり、でも右目の上に大きな痘痕が残ったようだった。それがどんな病気かは知らなかったけど、どこかで聞いた症状だなとは思っていた。
でも、俺がなっただけなら、よかった。おかねさんにうつしたりしたら大変だ。
それなのに、俺はある朝、何か大きな物音で目が覚めた。しばらくそれと気づかなかったけど、だんだんと意識がはっきりしてくると、それは誰かが咳をしている声だったとわかった。
ゴホッ、ゲホッ、ゲホッ!
俺がびっくりして隣を見ると、横になっているおかねさんの顔も首も赤い発疹で覆われ、彼女は激しい咳で息も継げずにいた。
「おかねさん!」
第二十六話 命
俺はおかねさんが咳をしているのを見て慌てて起き上がり、とにかく水を汲みに井戸へと駆けて行った。
そして彼女に水を飲ませてから、「何か欲しいものはないですか」と聞く。すると彼女はこう言った。
「いいよ、なんにもしなくて」
「なんにもって…」
俺はその時、頭を過った想念をかき消した。でも、彼女は水の残った湯飲みを押し返して、苦しそうに寝返りを打ち、こう言った。
「これできっと…さ…」
そう言っておかねさんは無理に笑い、また咳をし始めた。
高熱と、発疹。そして、皮膚に後遺症として残る痘痕。これらは、俺が居た現代ではもう根絶された、「天然痘」によるものだ。多分俺たちが罹ったのは、それだったんだろうと思う。
俺はもちろんワクチン接種など受けていないし、この江戸時代にワクチンなんてものがあるはずもなく、ウイルスに対抗するための抗生物質もない。
“どうしよう。おかねさんが死んじゃったら。俺が持ち込んだせいだ”
俺はそう思って昼夜悩みながら、必死に彼女に頼んでなんとか食事を食べさせ、水を飲ませた。
“まともな免疫力があれば、おそらく致死率はぐんと下がる。彼女を死なせはしない!”
そう思うのに、おかねさんはやっぱり食事をしようとはしてくれなかった。ある時彼女は、俺が食べやすいだろうと思って用意したおかゆの椀を手で突っ返し、こう叫んだ。
「いいんだよ!あたしゃもう死ぬんだから、ほっといとくれ!」
彼女の涙声は、喉の炎症によってしゃがれてしまっていた。
彼女はこう言いたかったのだ。
“これでついに恋人に会えるんだから、邪魔をしないでほしい”
それはなんと悲しい希望だろう。
俺は床にこぼれたおかゆが冷めてしまうまで、こちらに背を向けて咳をする彼女を見ていることもできず、ただ涙を流した。そして泣き終わった俺は、彼女の背中を睨む。
“もういい。たとえ憎まれてでも、食べさせて、生き残らせてやる!”
そう思ったことで、俺はもう一度泣いていた。それは悲しみに打たれる中で、それを突き抜けようとする、ある種怒りにも似た、希望への執念だった。
「おかねさん、おかゆと、葱を刻んで、それからお豆腐を崩してみましたから。おかねさんの好きな、かつおぶしのたっぷりかかったものですよ」
おかねさんはある晩も、俺の持ってきた膳をちろりと見ただけで、ぷいと横を向いた。
「少しでも、食べて元気をつけてください」
すると彼女は布団を頭からかぶり、こう言った。
「お前さんのその文句には飽きたよ。馬鹿の一つおぼえみたいに「元気」、「元気」ってさ。そんなものいらないよ」
俺はそれを聞き、“だったらもう、こう言おう”と思った。
なるべく優しい口調になるように俺は喉の調子を整えて、少しだけおかねさんの枕元にすり寄る。
「師匠を飢えさせたり、死なせたりしては、主人思いどころの話ではありませんから」
俺がそう言えば、もしかしたらおかねさんは、「春風師匠」として、「下男」が出した物を食べてくれるんじゃないか。そんな望みを託して、俺はそう言ったのだ。
思った通り、おかねさんは大儀そうにこちらを振り向くと、少しだけ膳の中身に興味があるような顔をして中を覗いてから、起き上がってくれた。すかさず俺は、彼女のすぐそばに膳を持っていく。
「起き上がれましたね。さあ、少しでいいので、食べてください」
「お前さんもしつこいね…」
そう言った時のおかねさんは少し残念そうな、あきれたような顔をしていたけど、三口ほどおかゆを食べ、刻み葱を掛けた豆腐も、好物だったからか、半分食べてくれた。俺はその残りを食べながら、久しぶりによく眠り込んでいる彼女を見ていた。
それから彼女は、「申し訳に仕方なく食べるのだ」という顔をしながらでも、食事をしてくれるようになった。
俺は、おかねさんがいつの間にかまた貯めていたへそくりで、お米やおかず、氷砂糖なども買いに行った。彼女は氷砂糖まではいらないと言ったけど、日持ちするものだし、何より素早いエネルギー補給になる。かなり高価ではあったけど、命には代えられないだろう。
一度おかねさんの熱は下がったけど、またある晩、それは酷い高熱になった。
俺は「天然痘」という病気をよく知っているわけではなかったし、本当にそれだったのかもわからない。でも、俺が一度インターネットで調べた時には、確かウェブの記事で、「再度高熱になり、下がれば治るが、そのまま脳炎などを合併する危険も高い」と読んだ。
だからとにかく、俺はその晩眠ることなどできるはずもなく、自分まで逃げ場のない場所でずっといたぶられ続けているような思いで、苦しみ続けるおかねさんの看病をした。
おかねさんは、熱でもうろうとしながらずっと誰かを呼んでいた。
「善さん…善さん…」
それは恋人の名前だったんだろう。俺は、それを聴いていると胸が痛くてたまらなかった。
「おかねさん、しっかりしてください、おかねさん…」
俺は彼女の呼ぶ人ではない。でも、それでも誰かが呼ばなかったら、彼女はそのまま逝ってしまうのではないかと思って、怖くて堪らなかった。
俺は一晩中彼女を呼び、彼女の体の汗を拭き、苦しみながら時折涙を流す彼女に、水を飲ませた。
夜明けには、家は静かになった。そしてその代わりに近所から、雨戸を開ける音や、挨拶を交わす声、商売に出て行くために家族に声を掛けている、人々の生活が聴こえてきた。
気が付くとおかねさんの呼吸はなだらかになっていたので、俺はようやく胸をなでおろし、自分も水を飲んでごはんを食べた。
その日の昼に彼女は起き上がって自分ではばかりへ行き、帰ってくると布団に包まって、夜更けまで眠り込んでいた。
これでおかねさんは病を抜けたかもしれないと思った俺は、朝ではなかったけどお米を四合ほど炊いて、彼女の好きな葱を添えた冷奴と、あとは日本橋の漬物屋で、たくあんを買ってきた。
そして俺が戻るとおかねさんは床の上で起き上がっていて、なんと彼女は煙管をくわえてくつろいでいたのだ。
「おかねさん!いけませんよ!」
俺は思わず戸口でそう叫び、下駄を脱ぎ捨て慌てて中へ入る。
「何がいけないのさ」
彼女はけろりとしてそう言ったけど、俺は膝立ちで彼女に近寄り、彼女の手から煙管をそっと取り上げた。
「今はがまんしてください。毒ですから」
おかねさんが怒りやしないか心配だったけど、彼女は「そうかねえ」なんて言って俺を見て、にんまりと笑った。
「しょうがない人だねえ。じゃあお前さんもがまんしとくれ」
「わかっています。それから、お食事の支度がもうできますが、食べられそうですか?」
そんな会話をしている間、彼女はずっと、噴き出しそうなのを堪えているような顔をしていた。
「もちろんさ。時分どきだからね」
俺は、自分がいつも置く土間近くに膳を並べようとしたけど、おかねさんは「前にお置きな。そこだと話も遠いじゃないの」と言った。
俺は初めて、彼女と膳を突き合わせて、目の前で食事をしている。彼女は好物を喜んで、旺盛な食欲も出たと見えて、食事を楽しんでいた。
でも、その途中に彼女は箸を置く。俺が「もういいのですか」と聞く前に、彼女の方が口を開いた。
「お前さんは、命の恩人だよ…」
その先を彼女は続けたそうに唇を薄く開けて、前のめりに首を振るような仕草をしたけど、ためらったままだった。
よくなったばかりの彼女を悩ませたくなどなかったし、俺も傷つきたくなかったのかもしれない。
「わかっています」
おかねさんは俺の顔を見ようとしたけど、俺は目を上げなかった。
俺は何をわかっていたと言うのだろう。彼女がその時考えていることなど、何一つ知らなかったのに。
第二十七話 傷痕
おかねさんの顔には、幸いにも痘痕は残らなかった。でも、耳の後ろと、それから額の横のこめかみに、少しだけ残ってしまった。
「命をもうけたんだ。仕方ないさね」
そう言って淋しそうに笑う彼女に、俺は何も言えなかった。
それから、元通りの毎日が少しだけ帰ってきた。でもそれもすぐに消えてしまったのだ。
おかねさんは病が治ってから数日は、のびのびと色々な物を食べたし、お稽古も元のようにしていた。
でも、その後彼女は、だんだんと塞いでいるように見えることが増えて、黙って煙草を吸っていることが多かった。
俺は、“まだ具合が良くない日もあるのかもしれない”と思って、「どうしました」と声を掛けたこともあった。でもおかねさんは、「なんでもないよ。煙草を吸ってるのさ」と言うばかりだったし、俺は日々の家事や買い物で忙しくて、あまりそばについていてあげられない時もあった。
そんな日々のある朝、おかねさんは起き上がって井戸端で洗面と歯磨きを済ませてくると、唐突にこう言った。
「今から出てくるよ。帰りは夕になるから、あとを頼んだよ」
「え、急じゃありませんか。確かに今日はお休みですが…朝ごはんも食べずに…どちらへお出かけですか?」
俺が火を起こしたへっついのそばからは離れられずにそう聞くと、おかねさんは財布だけを懐にしまい、化粧もせずにそのまま戸口へ向かう。
「お前さんに話すことじゃないよ。必ず帰ってくるから、「よしかわ」の豆腐を買って待っておいで」
「よしかわ」は、おかねさんが気に入って二町先まで買いに行っている豆腐屋だ。俺は出かける事情がわからなくて不安だったけど、おかねさんがそうまで言うなら、本当に大したことじゃないのかもしれないと思った。
「ええ、わかりました。では、お気をつけて行ってください」
俺がうつむけていた顔を上げながらそう言った時、彼女はもう玄関口から居なくなっていた。
その晩、おかねさんは遅かった。そして、ずいぶんとお酒を飲んで帰ってきた。
「おかねさん!どうしたんですこんなに酔っぱらって!」
土間から上がる時に彼女は上がり框に足を突っかけ、その場にどたーっと倒れてしまった。俺が慌てて駆け寄ると、彼女からは深酒をしたらしい匂いがしていたのだ。
俺は、顔をべたっと畳に引っ付けていたおかねさんの体を起こして、手を引いて肩にかつぐと、とにかく壁に彼女の背中をもたせて座らせ、急いで布団を敷いた。
「…布団はまだいいよ」
「何を言ってるんです!早く休まないといけませんよ!」
するとおかねさんは息を吐くだけのようにふっと笑い、座ったままで下を向いた。
「いいから。話をしよう…」
俺は、彼女がどこか自暴自棄になっているような気がして不安になって、下を向いたままの彼女が話し始めるのを、じっと待っていた。
こんなに飲んで遅くに帰るほどのことが、今日、あったのだろうか。何かあったのなら、俺はまず彼女を慰めないと。
そう思っていたのに、おかねさんがいつまで経ってもしゃべり始めなかったので、俺はおそるおそる下から覗き込んで様子を窺った。
彼女は、やっぱり眠ってしまっていた。それに、すごく疲れたように、眉間にしわを作ったまま。
俺は、理由はわからないけどすごく疲れて、それからここ数日何かに悩んでいたのだろうおかねさんを布団にそっと横たえさせ、少しため息を吐いた。
彼女のこめかみには、熱病の傷跡が残ってしまっている。
女性である彼女にとっては、顔に傷が残るなんて、やっぱり耐えられないものなのかもしれない。その辛い気持ちが、日々を過ごすことで収まってくれるといいけど…。
俺は、彼女のために取っておいた豆腐をとりあえず棚にしまい、自分は遅い晩ごはんを食べて、くうくうと寝息を立てる彼女の姿を確かめてから眠った。
翌朝、おかねさんはまたも急なことを言い出した。
「今日の稽古はあたしは休むから、お前さんはこの文をお弟子の家まで届けておくれ。道は人に聞けばすぐにわかるから」
「えっ…!」
今まで、おかねさんが当日になってから、しかもなんの理由もなしに稽古を休むなんてことはなかった。だから俺は“やっぱり昨日何かあったんだ”と思い、彼女のそばに寄って詳しくいきさつを聞こうとした。
でもおかねさんは三通の手紙を俺の鼻先に突きつけると、「早くしとくれ!一番目のお弟子はあと一刻で来ちまうんだよ!」と急かした。仕方なく、俺は「わかりました!」と言って家を飛び出す。
最後に回った家はかなりの大店で、“そういえばここは綺麗な娘さんが来ていたな”と、俺は店先で人を待っていた。すると、なんと誰も居ない店の奥から、年始の挨拶をしに来てくれた時に会った、その家のおかみさんが出てきたのだ。
「はいはい、すみませんね、今、奉公人が出払っていまして。私で伺えれば、ご用件をお聞きして…あら!あなた、お師匠様のお宅の…」
「秋兵衛です。実は今日…お師匠は稽古をつけられないので、おことわりの文をお届けにあがりました」
おかみさんは、ちりめんの着物の衿を合わせ直しながら心配そうな顔をした。
「まあ…お師匠は、またご病気ですか?大丈夫なんですか?」
「そんなに悪くはないんですが、ふせっておりまして…お師匠の元に戻らなければいけませんし、申し訳ございませんが、これで失礼いたします」
「いいえ、「お大事にしてください」とお伝えしてくださいね、くれぐれも…」
「ありがとうございます、では」
俺は、道々考えていた。
“おかねさんは、俺に何かを隠している。何か、とてもとても大事なことを。家に帰ったら必ず聞き出そう”
でも、帰宅した俺がまさかあんなことを言われるとは、俺は全然考えていなかった。
「おかえり。ごはんはお前さん一人で食べておくれ。あたしはちょっと寝るからさ」
「おかねさん」
「なんだい」
おかねさんはその時、床をのべて布団に包まっていて、また俺に背を向けて、壁に向いて横になっていた。
「何か、私に話すことがあるんじゃないですか」
そう言うと、おかねさんの肩はぴたっと上下するのをやめ、ずいぶん経ってから彼女は長いため息を吐き出した。それから起き上がって、「煙草盆を」と言った。
俺は反対の壁に寄せてあったそれを取り、おかねさんの布団の横に据えた。
「お前さんは…善さん…つまりあたしの言い交わした相手に、よく似ているんだよ。もちろん、顔や背格好だけだけどね…」
おかねさんがしゃべっている間、俺は決して口をはさまなかった。彼女はもう煙草を吸い終わり、煙管は元の場所に戻っていた。
「今まで、いけないことだと知りながらもお前さんを手元に置いたのは…恋しい気持ちをまぎらすためだったのさ…許しておくれ。でもね…」
俺は彼女がだんだんと目に涙を溜めて語る様子を見守っていて、“彼女が俺を気にして話をやめることだけはないように”と、強く祈っていた。
そこで彼女は目頭を押さえて涙を流し、目の前に何かを放り投げるように、腕を投げ出した。
「今はもう…違うんだよ!あたしは…秋兵衛さん、お前さんがしゃにむにあたしにかじりついて看病してくれて、命が助かってから…この、残った痘痕をね…お前さんに嫌がられたらどうしようと思って、つらくてしょうがないんだよ…!」
彼女は引きちぎるような悲痛な叫びを上げた。俺はそれに体を貫かれたかのように胸が痛み、嬉しいのか悲しいのかもさっぱりわからなかった。
「だから今日、善さんの墓参りをして、謝ったのさ…あたしは、あたしはどうしたらいいんだい、秋兵衛さん…」
第二十八話 説得
俺は、おかねさんの必死の叫びに呑まれてしまいそうになった。浴衣の袂を両手で揉んで涙を流している彼女を見て、“早く言わなければ”と心が急いたけど、今は俺が何を言っても彼女を傷つけて混乱させるだけなのはわかっていた。
“でも、言わなければ”
俺は喉が震えて熱く、両手の指先もぶるぶると震えて、今は待ち焦がれていた時なのに、彼女を痛めつけることしかできない自分が不甲斐なかった。悔しくて仕方なかった。
「わたくしは…私が、あなたを嫌がるはずがないじゃありませんか…それに、私の姿だって、病のせいで、「あの方」とはもう違うのです…!」
“なぜこんなまずい文句しか選べないんだ!”
俺の声はやっぱり震えていて、でもそれに負けて嘘に聴こえるなど嫌だったから、ほとんど叫び声のようになった。俺だって泣いていた。
「でも、だめなんだよ…お前さん、だめなんだ…」
おかねさんはそこから「だめだ」、「だめだ」とうわごとのように繰り返してから、座り込んでいた布団にわっと泣き伏すと、そのまま泣き疲れて眠ってしまった。
俺は、おかねさんがよく眠っていて、しばらくは起きないだろうことを確かめてから、大家さんの家を目指して歩いた。
何をしようというわけでもなかった。でも、“自分たちよりかなり年上で、世間をずっと渡り歩いてきた大家さんなら、おかねさんを説得できるんじゃないか”と、考えていた。
「おや、めずらしいね、秋兵衛さん。主人は今、奉行所に呼ばれているんだよ」
大家さんのおかみさんは、にこにことして俺を迎えた。でもその時の俺は、世間そのものがなんだか不人情なような、この世は悲しいだけのような、そんな気でいた。
「どうしたえ。なんかあったんかい」
そう言われて顔を上げると、おかみさんは俺の顔を見て笑った。
「いい羊かんがあるよ。急いでないなら、待つかえ?」
「ありがとうございます、そうさせて下さい…。お邪魔します」
大家さんはやっぱりすごく忙しいみたいだったけど、俺が小半刻も待っていると、帰ってきた。
「ふいーっ。あちいなあ。ばあさん、冷たい茶漬けを…おや、どうしたね秋兵衛さん」
首元の手拭いで汗を拭いて、大家さんが現れた。俺はその時までじっと待ち続けていたものだから、その瞬間に、後ろから突き飛ばされたようにその場に土下座をしたのだ。
「お、お願いします…!おかねさんが、おかねさんが…!」
何を言うこともできない。できるはずがない。こんな話を他人にしていいはずがない。だから俺は、そんなことを言いながら顔を上げて、大家さんを見つめた。
「どうした、何があった」
大家さんは、俺があんまりに必死な調子で叫ぶものだから、おおごとだと思ったのか、あたりを見回しおかみさんを見た。おかみさんももちろん話を聞いていないんだから、“わけがわからない”と首を振るばかりだ。
「まあまあ、落ち着きなさい。なんだい、おかねさんがどうした?わけを話してみなさい」
「はい、実は…」
そこで俺は、ちょっと大家さんのおかみさんの方を、やっぱり見てしまった。彼女の名誉のためなら、なるべく話の内容を知っている人は少ない方がいいからだ。
「あら、あたしゃお茶をいれないと。冷や茶漬けはまだいいんだね?」
「そうしておくれ」
おかみさんは何気なく席を立ち、俺はその背中にちょっと会釈をしてから、今回起こったことをすべて話した。
「そうか…事情はわかったが、秋兵衛さん、お前さんにできることは少ないだろう…」
大家さんは俺の話を聞き、大きく深いため息を吐いて額に手を当て、そう言った。
「やっぱり…」
「ややもすれば、お前さんたちは少しの間離した方がいいくらいだが、それではおかねさんが心配だ」
ちゃぶ台の上のお茶を啜り、大家さんは俺にもそれを身振りで勧めた。
「ええ。ですから、どうすればいいかと思いまして…」
俺はそう返事をしてから、お茶を飲む。そして、はっと思い出したように顔を上げた。
そうだ。俺はこんな最中に、おかねさんを一人にしてきてしまった!
「おかねさんのとこに今は戻ろう。あたしもついていって、話をするから」
もう立ち上がりかけていた俺に、大家さんは慌ててそう言って、奥に居るおかみさんにも、「ちょっとまた出かけるよ!」と声を掛けた。そして、素早く土間へと降りた大家さんに、俺も急いでついていく。
俺は、迷わず進む大家さんの背中を見ながら、どこか温い風が吹く江戸の町を、つっころびそうに歩いた。
俺は、おかねさんが目を覚まして家を飛び出してしまったんじゃないかと思って、不安だった。でも、大家さんが黙って戸を開けた時、おかねさんはまだ眠っていた。
「…いたか。よかった」
「ええ…」
「しばらく待って起きないようならあたしは帰るが、今はお前さんは外に出ない方がいい」
それから大家さんも家に上がって、おかねさんの起きるのを待ってくれていたけど、不意におかねさんはごろりと寝返りを打つと、苦しそうにうめき始めた。
「う…うう…」
それを見てすかさず大家さんは「起こしてやりなさい」と言ったので、俺は慌てて布団の上にかがみ込んで、おかねさんの肩をつかむ。
その時、おかねさんの唇が開き、閉じた瞼の隙間から涙がこぼれた。
「善さん…許し…」
はっとして、俺は動けずにいた。でも、彼女があんまり苦しそうに「善さん」に許しを乞うのを見て、辛くてたまらなくなり、思わず思い切り揺さぶってしまった。
「おかねさん!私です!起きてください!」
「きゃあっ!」
いきなり強く揺らしてしまったので、おかねさんはびっくりして起き上がる。
「ごめんなさい…あまり苦しそうに、うなされていて…」
俺はそう言った切り、顔を上げられなかった。おかねさんはまだ苦しそうな息が治まらず、部屋の中を見渡しているようだった。そして、俺の後ろから大家さんが現れる。
「横になったままでいい。お前さんは弱ってしまっているみたいだから。でも、秋兵衛さんはそれがとても心配なようだ。だから、あたしにできることがあれば、話をしておくれ」
見ると大家さんは、呆然と悲しそうな顔をしているおかねさんの肩をさすっていた。おかねさんは、黙って横になってまた泣き出す。
「これこれ、そんなに泣くんじゃない。体に毒だよ」
「いいえ、いいえ…いいんです、もう…」
両腕を目に押し付け、おかねさんは泣き続けている。俺は、大家さんがおかねさんと無理に話をしたがるんじゃないかと思って、心配でちょっと大家さんの横顔を見た。でも、大家さんはちょっとため息を吐いて、ちゃぶ台の方へ戻っていく。
ほっとしたけど、俺は布団のそばを離れていいものかどうか迷っていた。すると、おかねさんががばと腕を下げて、俺を睨む。
「お前さん…しゃべったんだね、大家さんに」
ずきんと胸が痛くなり、彼女が深く傷ついて俺を恨んでいると思って、“もうダメだ”と思いかけた。
“でも…でも、誰かが取り去らなかったら、彼女の傷は消えることはないんだもの…!”
「すみません…でも…」
「いいよ」
俺が涙をこらえて必死の声を出すと、おかねさんはすぐに許してくれた。でも、それはなんだか疲れ切った声のような気がして、俺は怖くなった。
「それで、大家さん」
「なんだい」
「あたしは、どうしたらいいんです」
おかねさんはその時、天井を見ているようなふうだったけど、その目は焦点が合わないように虚ろだった。俺は怖くて、不安で、大家さんを見つめる。
大家さんは俺が出したお茶を飲み干すと、おかねさんににっこり微笑み、こう言った。
「好きなようにしたらいいんだ。お前さんの人生じゃないか。そうしないと、善さんだって安心して成仏もできないだろう」
「そうですか…」
そう返事をしたあとで、おかねさんはすぐに目を閉じ、すうっとまた眠ってしまった。俺はあっけにとられていて、大家さんの言った言葉はまるで魔法か何かのように感じられた。
「お茶をありがとう。それじゃ、あたしは失礼するがね、お前さん、よく気を付けておくんだよ」
「は、はい、ありがとうございました…」
俺は戸口まで大家さんを送り、静かに静かに、それでもガタピシいう扉を閉めた。
第二十九話 期待
翌朝目が覚めた時、俺はまず、“どうしたらいいんだろう”と考えた。
おかねさんは昨日、大家さんから「好きに生きなさい」と言われ、ただ、「そうですか」と返事をしただけだ。
彼女はまだ、俺を恋人にするとも、亭主に持つとも言っていないし、そもそも俺は、「惚れた」だの「好いた」だのと言われたわけでもない。
だとするなら、俺はまだ彼女から何も告げられていないことになる。
でもやっぱり、おかねさんが言った、「お前さんにこの傷を嫌がられやしないかと思って」というのは、恋心のようなものには違いないんだろう。
俺がそう考えている時、衣擦れの音がして、俺の横でおかねさんがむくりと起き上がった。
「あっ…!」
俺は、“おかねさんが俺に恋しているかもしれない”なんていうことを考えていたので、慌てて声をあげてしまった。それに、なんだか恥ずかしくて顔を上げられない。
「お、おはようございます…」
俺は、彼女がこの朝に何を言うのかを考えていた。“まさか「おはようございます旦那様」なんて言いやしないだろうけど、何がしか俺への優しい言葉があったりはしないか”と、やっぱり期待していた。
「おはよう。水を汲んで、お米を炊いておくれな」
はっとして顔を上げると、おかねさんはどこか怒っているような顔をしていた。でもそれも一瞬見せただけで、彼女はさっさと起き上がって布団を畳み、井戸へ行くために家から出て行ってしまったのだ。
「…あれ…?」
言われた通りに俺は桶を持ってあとからついていって、井戸で洗面と歯磨きを済ませたら水を汲み、お米を炊くために竈に火を入れた。
その後ろでおかねさんは、今日稽古に来るお弟子のおさらいは何なのか、書きつけた帳面をめくり直したり、お米が炊ける頃合いになると、棚の中からお気に入りのたくあんを出したりしていた。
「いつもの通りに切っとくれ」
竈の様子を見ている横からたくあんを差し出され、「はい、わかりました」と受け取る。うちはいつも朝はおかずはたくあんで、俺が二切れ、おかねさんは三切れだ。
そして俺はたくあんを包丁で切って小皿に盛り付けると、そのあとでごはんを茶碗によそった。
“そうだ。そういえば今朝は、お膳はどこに…?”
俺はちょっとおかねさんを振り向く。おかねさんは俺を見ていなかったけど、ごはんができあがるのを待ち切れないで、いらいらしている様子だった。
「あの、おかねさん…お膳はどこに置きましょう…」
すると彼女は、こちらを振り向き、俺を睨む。
「何言ってんだい、いちいち聞くんじゃないよ。お前さんはそこ、あたしはここだろう!」
おかねさんが「そこ」と指さしたのは、俺が元々膳を据えていた、土間からすぐの畳だった。
ええ~っ!?昨日のあれ、なんだったの!?
でも、動揺を見せるわけにはいかないしと思って、俺は「はい、すみません」と返し、膳を元の通りに据え、皿と茶碗を置いた。そして俺たちは「食べよう」、「そうしましょう」と言って食べ始めた。
ここで一つおことわりだが、江戸中期には「いただきます」と「ごちそうさま」は、まだ一般的ではなかったようだ。
俺が前に一度だけ「いただきます」を言った時、「なんだいそりゃあ」とおかねさんにいぶかしがられたので、あわてて「なんでもありません、ひとりごとですよ」と訂正したことがあった。
そして俺が膳を片付けるころになると、おかねさんはまた帳面をめくって、今日の稽古のための準備をしているらしかった。
「ここがね…ここも、もっと…もう少しきつく言ってやらなけりゃだめかね…」
おかねさんはぶつぶつと言いながら、きりりと眉を吊り上げている。俺はそれを後目に、井戸まで食器を運んで洗った。
お稽古はいつも通りに済んだ。と言いたいところだが、そうはいかなかった。
「何やってんだよ!そこはそうじゃないと言っただろう!」
「へいっ!すみません!」
おかねさんはその日に、とうとうお弟子に向かって撥を投げつけてしまったのだ。
投げつけるだけで、撥で殴ったりはしていないものの、俺はそのお弟子の帰り際に、表で問いただされた。
俺はその時、井戸端まで洗濯物を運ぼうとしていたところだった。そこへガラガラと戸が開いて、俺の後から出てきたお弟子の「助三郎さん」は、俺を捕まえ、こう言ったのだ。
「師匠は何があったんでい。あれじゃあまるで気でもちがったみてえだ。あの剣幕ぁおめえさんも見たろう」
「は、はい…特に今日は、ご気分がすぐれないようでして…本当にどうも、すみません…」
「いや、おめえが謝ることでもねえけどよ、おれぁこの分じゃ、ここへの出入りを考ぇるぜ…じゃあよ」
「はい、お気をつけて…」
俺は助三郎さんが気の毒だと思っていたし、肩を縮めて見送るしかなかった。
助三郎さんは、確かに腕がまずい。それはそうだけど、その日のおかねさんはお世辞も出ないどころか、最低限の礼すら欠いていた。
俺は洗濯が済んで家へ帰ると、出かけようとして少し化粧をしていたおかねさんの前に進み出る。
「お師匠。あれではあまりに、助三郎さんがかわいそうです」
俺は下男だ。多分まだ、そうなんだろうと思う。でも彼女は、俺の言うことには耳を貸してくれるかもしれない。そのくらいの信頼関係なら、作ってきたつもりだ。
そう思って畳に手をついて、背中をかがめた格好ではあったが、俺はしっかりと顔を上げておかねさんを見つめた。
するとおかねさんは、ぷいと横を向いて唇を突き出す。
「うるさいね。お前さんが教えてるわけでもないだろ」
「ですが…」
「いいんだよ!あたしはお菜を見に出かけるから、お前さんも飯の支度をしな!」
「はい…」
俺たちはその晩、狭い四畳半に布団を並べ、それぞれ横になって薄掛けにくるまった。行灯の火は消え、部屋の中は真っ暗だ。
おかねさんは壁に向かって寝転び、こちらに背を向けている。彼女が寝転んだ時、そんな気配がした。
“彼女のあの言葉は、もしかしたらただの気まぐれだったのだろうか…”
“そうだとするなら、俺が「恋が叶った」と思っていたのも、ただのぬか喜びかもしれない…”
“でも、これで元に戻ったとするなら、彼女はまだ苦しみを手放していないことになる…”
俺は、仰向けになって見えない天井を見上げ、そうやって考え事をしていた。しかし、その時おかねさんは急にぐるりとこちらを向いたようで、耳元で「お前さん」と聴こえたのだ。
「わっ!」
俺は考えていたことを見透かされたように驚き、叫んでしまった。でも彼女は気にしていないふうだ。
闇の中、彼女が楽しそうに笑う声がする。
「お前さん、明日あたしが弁天様に行くときに、ついておいでな。こづかいもやるから、少しはいい思いができるよ」
「えっ…よろしいんですか?」
俺は、“なんだか唐突だな”と思った。布団を敷く前は、彼女はとても不機嫌そうに見えたのに。
「ああ、いいよ。じゃあおやすみな」
「は、はい、おやすみなさい…」
“こ、これは…もしかして、デートのお誘い…?いや、でも俺の扱いは、下男のままだし…”
不可思議な彼女の振舞いに戸惑いながらも、俺は胸をときめかせ、“もしかして、もしかしないかな…”とまた期待をしながら、ゆったりと目を閉じた。
第三十話 翻弄
俺たちは翌日、不忍弁天に行く支度をしていた。少し涼しい風も吹く日だったので俺は久しぶりに羽織を出し、おかねさんは念入りにお化粧をした。
「はい。これはお前さんのだよ」
そう言っておかねさんは、いつか繕ってくれた俺の財布を、渡してくれた。でも、それにはたんまり銭が入っていたのだ。
「えっ!こんなに…!?」
俺がずっしりと重い財布を上げ下げしていると、おかねさんはくすくすと笑った。
その時の彼女は、いつもより一層綺麗だった。
白粉を塗った肌は眩しいほど白く、吊り上がり気味の両目が細められた様子はまるでお狐様の目のようで、彼女は唇の端を弓なりに持ち上げ、その真ん中は、真っ赤な紅に艶やかに彩られていた。
「あたしが足した分もあるけど、ほとんどがお前さんの写し物の分さ。そういや出してなかったと思ってね」
「あっ!そうか!」
そういえば俺は、「写し物」で少しお小遣いを稼いだのだ。彼女と病の床から抜け出したあとは、俺はそのことをすっかり忘れていた。
「自分で稼いだ銭を忘れる人があるかね。ああ、おもしろい。さ、行こう」
「は、はい!」
俺は思うのだが、江戸時代の人は「信心深い」のもあるけど、今で言う「パワースポット巡り」のような感覚で、好き放題に寺社参詣を楽しんでいたようなところもあるのではないだろうか?
だって、どこの神社にもわらわらと人が居るし、人々は立派な建築を仰いで感心したり、まるで行楽気分でいるように、茶屋の団子を食べ歩いたりしている。
参道を歩いている時、俺はふと、そばに居たお職人らしき三人組が噂話をしているのを、小耳にはさんだ。
「よお。あれぁいい女だな」
「だな。ここぁ弁天様だ。似合いだぜ」
「小股の切れ上がった、涼やかな…うちのカカアとぁ偉え違えだ」
「いるだけいいじゃねえか、カミさんもよ」
「あんなガミガミうるせえカミさんいらねえよ、あれじゃあガミさんだ」
「にしても、隣にいるのぁ、ずいぶん若えなぁ」
「だなぁ。弟じゃねえか?」
「ああ、きっとそうだな。あんまり似ちゃあいねえが」
「男女違えば、姉弟なんてのぁそんなもんだ」
「かもな」
家族に聞かれたら雷が落っこちるようなことを言っているのも居るし、俺は勝手におかねさんの弟にされるし、噂話なんてのは、面白いんだか腹が立つんだか。
おかねさんに聴こえていないだろうかと心配して彼女の方を見ると、彼女は真っすぐ本堂へさして歩いていて、気にも留めていないふうだった。
ところが、帰りの参道を抜けて俺たちが弁天様を出た時、おかねさんはやっぱり大笑いし出したのだ。
「ど、どうしたんです?」
「アハハハ…ああ、おっかしい」
「何がです?」
お化粧が崩れそうなくらいにおかねさんが思い切り笑ったので、俺は周りの目も気になった。でも、誰も気にしていないようだったので、おかねさんに目を戻す。彼女はもう笑っていなくて、でもまだニヤニヤとしながら俺を見ていた。その目は、どこか惹きつけられる目だった。
おかねさんは上目がちにこちらを見ていて、睨むように瞼を寝かせているのに、薄く微笑んでいる。「色目」とも言ってしまえるような、そんな目だった。
「だって、行きに後ろにいた三人組ときたら、お前さんのことをあたしの「弟だ」なんてさあ。おかしいじゃないかね」
「えっ…!」
“これはもしかして!世間で言う「口説き文句」の始まりではないか!?”
俺は急に顔が熱くなり、慌てておかねさんから目を逸らす。するとおかねさんは立ち止まった俺を置いていき、元の道をそのまま戻って行ってしまった。
おかねさんは何か言うかと思いきや、それっきり黙っていて、鼻歌など歌っている。
「ま、待ってくださいおかねさん。あの…さっきの話は…」
「さっき?さっきってなんだい」
彼女がいたずらっぽくしらばっくれるので、俺は“照れているのかな”と思った。俺は、はしはしと歩く彼女についていく。
「あの、私が…弟ではないと…」
俺は思った台詞をやっぱり言い切れず、恥ずかしくてうつむいてしまった。そんな俺に、おかねさんはこう言ってのけたのだ。
「ああ、そりゃそうさ。お前さんは下男じゃないか」
その言葉は、俺の心にぐっさりと突き刺さったあと、氷のように溶けて消えて行った。
“えっ、なにそれ…。あまりに冷たくないですか、おかねさん…”
俺は帰り道に、綺麗に結い上げられた彼女の後ろ髪を見つめながら、心の中でこう叫んだ。
“江戸の乙女心がわからない!俺にはわからない!”
俺はなんだか、おかねさんにもてあそばれているような気がしないでもなかった。
弁天様から帰って長屋の木戸をくぐる時、俺の隣を誰かが通り過ぎようとしたので、俺は道を譲ろうとした。ところがその人が立ち止まったので、俺は足元を見ていた顔を上げる。
顔を見てみると、名前は覚えていなかったけど、この長屋の端っこに住んでいる娘さんのようだった。
俺が「なんでしょう」と言いかける前に、その娘さんは急に俺の手を掴んで、手のひらに紙切れを押し付けた。
そのまま彼女は両手で俺の手を包んで紙を握らせると、「読んでよ」と言っただけで長屋の奥へ引き返して行く。
その姿を目で追いかけると、おかねさんがこちらを振り向いて、「何してんのさ、早く帰るよ」と言っていた。娘さんはおかねさんの方は見ずに、横を素通りして行った。
「あ、はい、ただいま!」
俺は夕食のあとで皿を洗う時、袂にしまっておいた手紙をこっそり開いてみて、おかねさんの方を窺って、彼女が本を読んでいるのを確認してから、読んでみた。
“見せたいものがあるので、あすのひる、うちに来てください お糸”
そこには、それだけが書いてあった。俺は一人で首を傾げる。
“見せたいものってなんだろう?あの娘さんとは話もほとんどしたことはないし、思い当たることはないけど…”
“でも、もしかすると内緒の頼みごとでもあるのかもしれない”
俺は翌日、おかねさんのお稽古の合間に訪ねてみることにした。
「た、たすけてえ!」
俺はそんな悲鳴を上げ、慌ててその家を飛び出し、必死で自分の家に駆け戻った。すると、俺があんまり大きな音で戸を開け閉めしたものだから、お弟子もおかねさんもびっくりして、お稽古をしていた三味の音が途切れる。
「なんだい騒々しいね!稽古の最中だよ!」
「は、はい…すみません…」
俺は心臓がドクドクと強く脈打って体中を揺らしているところで、とてもおかねさんの顔を見られる状態じゃなかった。背中は、冷や汗でびっしょりで、心の内はぐらんぐらんと揺れていた。
怒ったおかねさんに追い出されて洗濯をしていた井戸端に戻ってからも、俺は気が気じゃなくて、絶えず長屋の奥を振り向いていた。
そしてその晩、俺はいつもの通りに畳のへりのすれすれで膳に向いながら、まだ悶々と悩み、ごはんを食べていた。その日のお菜は、がんもどきときんぴらごぼうだった。
「お前さん、昼間、血相変えてうちに飛び込んできたね」
顔を上げておかねさんを見ると、彼女はしかめっ面でお米を口に運んでいた。
「え、ええ…」
俺は、“どうしよう”と迷った。
“あれは間違いなく、誰かに話していいことじゃない”
「何があったんだい。お言いな」
そう言っておかねさんはパチンと箸置きに箸を置いて、俺を一睨みした。
「言うまい」と思っていた。
なのに、彼女の眼光のあまりの鋭さと、今にも茶碗を投げてきそうに肩を怒らせた様子に、俺はいっぺんですくみ上ってしまった。
「じ、実はその…お糸さんといいましたか、長屋の娘さんに、家まで呼ばれまして…」
おかねさんはそこで、ぴくりと眉を動かした。それも怖くて、俺はうつむいてなんとか先を続ける。
「“見せたいものがある”と呼ばれたはずだったんですが、戸を閉めた途端、娘さんが…」
俺の言葉を聞き終わらないうちにおかねさんは立ち上がると、ほとんど駆け出すように家を飛び出し、あとをも閉めずに家を出て行ってしまった。
そしてしばらくすると、外が騒がしくなり、長屋の男連中が「喧嘩だ!喧嘩だ!」、「それっ!やっちまえ!」とはやし立てるような声が聴こえてきたのだ。
俺は“もしや”と思い、急いで外に飛び出した。
第三十一話 喧嘩
俺は、声が聴こえている長屋の路地奥に向かって走った。わんわんと重なり合って聴こえてくる男たちの声の間から、甲高い女の叫び声が突き抜ける。俺がその場にたどりつくと、辺りは人だかりができていたが、間から喧嘩の様子を見ることができた。
そこでもみ合っているのは二人の女性だった。片方がやっぱりおかねさん、そしてもう一人の方も着物から見るに、やはりお糸さんのようだった。
「おかねさん!」
俺は彼女に向かって叫びながら、とにかく止めようと思って人の間を抜けていく。そして人垣の一番前に来ると、俺はその喧嘩の信じがたい様子にたじろいで、後ろへ一歩引いてしまった。
「邪魔ぁするんじゃない!今、形ぁつける!」
おかねさんはそう叫んだ。
なんと、二人は互いの髷を両手で掴み、なんとかグイグイ引っ張って、相手を引き倒そうとしているようだった。
その凄まじい力の入れようで二人の結び髪はぐしゃぐしゃになり、お糸さんの方は髪の毛がすべてバラバラになってしまっていた。
お糸さんは引っ張られることで首が大きく傾き、地面を見るような形になりながらも、なんとかおかねさんの髪を引っ張っている。そして彼女自身も、ぎゅっとつかんだおかねさんの髪をグイグイ揺らして、遠慮などまったくなかった。
「放せったら!なんだい色事師匠!」
お糸さんはそう叫んでおかねさんの髷をバラバラにしようと爪を食い込ませる。俺はとにかくやめさせるために何か言おうと口を開いた。でもそこでおかねさんがまた叫ぶ。
「なんだって!てめえに言えたことじゃあない!うちの下男はてめえみたいな“はすっぱ”にゃやらねえやい!」
“ええっ!?やっぱりこの喧嘩の発端俺ですか!?”
俺は一気に頬に向かって血液が集まるのを感じて、片手で顔を隠した。
「馬鹿にすんない!やっぱり秋兵衛さんに気があるんだ!」
“ちょっとお糸さん!そんなことを公衆の面前で叫ばないでください!”
俺は、周りに居る男たち全員が自分を指さしてニタニタと笑っているような気がして、とても顔を上げることなどできなかった。
「そんなこたぁてめえの世話にゃならねえ!とりゃっ!」
「あいたっ!」
はっとして顔を上げると、お糸さんがついに地面に叩きつけられてしまったところだった。
「これに懲りたら、もううちの下男に手ぇ出すんじゃねえ!」
おかねさんはそう叫んで力強く鼻息を吹き、こちらにずんずん向かってきた。
「あっ!お、おかねさん…!」
俺は、自分まで殴られたり蹴られたりするのではと思って、あわてて両手を前に出し、さらに後ずさるが、背中が誰かにぶつかる。
でも、おかねさんはそのまま俺の横を通り過ぎ、家に帰って行ってしまった。
地べたに引き倒されたままの恰好で悔しそうに泣いているお糸さんをちらりと見たけど、彼女は俺のことなど見ていないようだったので、気の毒ではあったけど、そのまま俺も家に帰った。
俺が家の戸を開けて中を窺うと、おかねさんは髪の毛をまた綺麗に結い直しているところだった。
俺は何も言えず、なるべく音を立てないように静かに畳に上がって、外ももう真っ暗なので、行灯に注ぎ足す油が足りているかの確認をしていた。何かしていないと落ち着かなかった。
「お前さん、あの子に襲われたんだってね」
そう言われた途端、俺の体は動かなくなった。そして、蘇る光景に、背中がぴりぴりと震えだす。
どうやったのかはわからないけど、おかねさんは、お糸さんから俺たちの事情を聞き出してしまったらしい。俺はどう説明しようかと思うと、嫌々ながらも、昼間のことを思い出さずにはいられなかった。
俺は確かに、今日の昼に、父親の源さんが居ない、お糸さんの家を訪れた。
「お招きに上がりまして…見せたいものとはなんでしょう?」
源さんの家の戸を閉めてそう聞いた途端、なんと、お糸さんは黙ったままでやにわに服を脱ぎだして、急いで脇を向いた俺の襟をつかみ、引き寄せたのだ。
もちろんお糸さんの手からはすぐに逃げられたけど、正直に言うと俺は恐ろしくてたまらず、二、三発引っぱたかれた方がまだマシだと思った。
現代人である俺にとってみれば、恋人同士でもないのに会っていきなり服を脱ぎだす女性なんて、恐怖でしかない。皆さまもそれはわかってくれると思う。
「あ、あの…でも、何もありませんでしたし…」
なぜ俺がお糸さんのしたことをわざと小さく言わなければいけないのか。俺だって怖かったのに。
でもなんとなく、“おかねさんがこれ以上嫉妬に狂ったら大変なことになる”と思っていた。事実、すでに大変なことが起きているのだし。
するとおかねさんは髪を結い終わって振り向き、俺にびしっと指をさした。
「何考えてんだいお前さんは!娘が一人きりの家を男がたずねるなんて!正気かい!ちったぁわきまえな!」
「は、はい!すみませんでした!」
反射的に頭を下げてしまったけど、これは俺が悪いのだろうか。俺は江戸の娘がどんなふうに恋をするのかなんて知らなかったし、お糸さんは俺に騙し討ちを食わせたのだから。
いや、でもやはり、男たるもの男女の距離に自ら節度を…うーん。わからない。
「ああもう!飯が冷めちまったじゃないか!何してんだい!食うんだよ!」
「はい!」
“外面如菩薩内心如夜叉”
これはお釈迦様がおっしゃられた、“女性とはこういうものである”という説明だ。“姿は菩薩のようだが、心に夜叉が巣食う”
いや、俺がそう思っているということではない。
お糸さんの髪を引っ張っているおかねさんは、頭に角が生えていてもおかしくない顔をしていた。
“「江戸っ子」を張る女性は、そうそう夜叉をしまってはおけない、ということなのだろうか”
俺は、冷めて固くなったがんもどきをもそもそと食べながら、ずっとおかねさんの様子を窺っていた。
第三十二話 お説教
翌朝、俺たちが食事が済んだ頃合いで、トントンと戸を叩く人があった。
「はい、どなたでしょう」
返事をすると、「あたしだよ、秋兵衛さん」と、どこかため息交じりの大家さんの声が聴こえてきたのだ。
「はい!今開けます!少々お待ちください!」
俺はばっちりと心当たりがあったので急いで返事をしたけど、おかねさんはふてくされたように横を向いていた。
目の前には、しかめっ面をした大家さんが居て、おかねさんはそれを真っ向から受け止め、さっきからもう五分ほども二人は睨み合っていた。
俺は“この長屋から追い出されるんじゃないか”とか、“またおかねさんが喧嘩を始めたらどうしよう”などと悩んでいて、時折二人の様子を窺っては、その険しい表情にすぐ目を逸らした。
しばらくすると大家さんがだあーっと息を吐き、そうするとおかねさんはつんと横を向く。そしてついに、「お説教」が始まった。
「あたしがなんでここに来たのかはわかるだろう」
横を向いたまま、おかねさんは「いいえ」と答える。
「これ、しらばっくれても無駄だ。源さんから今朝、これこれこうとみんな聞いたんだから」
大家さんがそう言ったので、おかねさんは目だけを大家さんの顔に戻す。
「そうですか」
「そうですかじゃあない。若い娘さんの髪を引っ張り回して引きずり倒しちまうなんてのは、もってのほかだよ。どうしてそんなことをしたんだい」
おかねさんはちょっとためらったのか黙っていたけど、顎をくいっと持ち上げると、大胆にもこう言った。
「うちの下男に手を出そうとして、襲いかかったからですよ」
その時俺はどんな顔をしていればいいのかわからなくて、うつむいて息を止め、肩を縮めていた。
「そうかい…」
大家さんは少し驚きを収めようとしていたようだったけど、すぐにまた口を開いた。
「でもね、おかねさん。そうは言ってもね、それは本当なら本人同士で済ませる話だ。なにもお前さんが出て行かなくたって…まったく、お前さんの癇癪にも困ったよ」
大家さんは、呆れてししまいそうになりながらも、おかねさんに噛んで含めるように言い聞かす。
俺は必死で二人を見守っていたので、手元にあったお茶を飲むことすらできなかった。
「大家さんは、ご存じのはずじゃございませんか」
その言葉にドキッとして、俺はおかねさんを見たけど、彼女は向こうを向いていて、顔を見せてはくれなかった。
「お前さんと、秋兵衛さんのことをかい」
大家さんはちゃぶ台に肘をつき、おかねさんの方へと身を乗り出した。
「じゃあ言うがね、亭主とも色とも言っていない男のことで、ほかの女と喧嘩になるなんて、こんなおかしな話はないんだ。これほどのことを起こすんなら、なんとか心を決めたらどうなんだい」
そう言われておかねさんは下を向き、膝のところで浴衣をぎゅっと握った。
どうでもいいけど、俺はこの話を聞いていて大丈夫なんだろうか。
「だって、そんなこと言ったって…」
「まだ善さんのことが気になるのかい」
「いいえ…大家さんがああ言って下さって、それからあたしもさほどまでは…」
「じゃあなぜ」
おかねさんはそこで浴衣の袖を自分で引き寄せ、がばっと顔を覆った。俺と大家さんは、息を詰めてそれを見つめる。
おかねさんはいつの間にか小さな肩を縮めて背中を丸め、すっかり落ち込んでしまっていたようだった。俺は思わず、彼女に声を掛けようと口を開く。その時だった。
「だって…あたしはもう、三十五じゃないですか…」
“えっ?おかねさん、三十代だったの!?そうは見えねえよ~!!”
俺がそう驚く顔を隠そうとして下を向いていると、大家さんがまたため息を吐くのが聞こえた。
「まさかお前さん、自分の年を気にしてたのかい」
俺が顔を上げると、おかねさんは袂の布地を両目に代わる代わる押し当てて、ちょっと涙を拭っているようだった。
「そりゃあそうじゃないですか…だから、お糸さんのことだって、よけいにカーッとなってしまって…あたしはもう、若くはないんですから…」
おかねさんは苦しそうに泣いている。俺は今度こそおかねさんを慰めようと、身を乗り出した。でもなんとそこで、大家さんが思いっ切り笑い出したのだ。
「アーッハッハッハ!」
俺とおかねさんは驚いて大家さんを見たけど、大家さんは体を引いてちゃぶ台を叩き、とても愉快そうに笑っている。
「わ、笑うことないじゃありませんか!何がおかしいんです!」
おかねさんは涙声でそう叫んだ。しばらくの間、大家さんは笑いを収めようとして苦労していたみたいだけど、目尻の涙を拭うと、おかねさんに頭を下げて手を合わせる。
「いやいやごめんよ、笑っちまって。でもお前さん、色事は年でするものじゃない。それに、お前さんたちはもう想い合っているんだしね。あとはなんてったって、お前さんはまだそんなに綺麗なんだ。だから、悩むこともないと思って、つい笑っちまったんだよ。悪かったね」
大家さんがそれを言い終わった時、おかねさんは今度は恥ずかしくて顔が上げられなかったようで、それに、俺にも顔を向けてはくれなかった。
頬を染めて顔を逸らす彼女は、やっぱりとても綺麗だった。
“知らなかった…そういえば俺、おかねさんの歳は聞いてなかったな…”
第三十三話 婚礼
大家さんのお説教があらかた済んでおかねさんも泣き止むと、大家さんはこう言った。
「実は今、源さんを私の家に呼びにやっていたんだ。だからお前さんたちも来なさい。しっかり詫びをするんだよ」
おかねさんはもうすっかり素直になっていたので、少し怖がっていたが、俺が「私も一緒に謝りますから」と言うと、「すまないね」と言って、俺たち三人は大家さんの家に向かった。
着いてみると、源さんは大家さんのおかみさんとお茶を飲みながら笑い話をしているようだった。そして、俺たち二人が立っているのを見ると、少し不服そうではあったけど、あちらも申し訳なさそうに、少し頭を下げて迎えてくれた。
源さんはもう長いこと左官の職人として生きてきた人で、やもめだった。でも昔のように喧嘩はせずに、年相応の落ち着きがあり、かなり小柄ではあったけど、笑顔の優しい人だった。
おかねさんは、「このたびは本当に申し訳ないことをしました」と言って深く頭を下げたし、俺は何も言わなかったけど、それに倣った。
そして、話の要点は隠しながらも、大家さんが、なぜおかねさんがあれほどに怒ったのかの説明を源さんにした。すると途端に源さんは申し訳なさそうに俺たちに頭を下げて、擦り切れた甚平姿で何度も俺たちに謝った。
「すみません…そうでしたか…それは本当にすみませんでした。あたくしも帰ってお糸を叱らなければいけないところですが、実はこれから仕事がありまして、もうだいぶ待ってもらっているので、行かなければいけないのです…重ね重ね、失礼を致しまして、申し訳ない…」
そう言って今にも泣きそうな顔をしている源さんに、俺たちは「もう大丈夫です」と何度も声を掛けた。
「さあ、じゃあ源さんも仕事の相手に待ってもらっていることだし、これでこの件はもう恨みっこなしでお願いするよ。あたしも誰かをここから追い出すなんて嫌だからね」
大家さんがそう言うと、全員それに頷き、源さんはまた頭を下げてから、仕事へ出かけて行った。
俺たちはそのあとも大家さんに引き止められて、おかねさんの稽古が始まる少し前まで、三人で話をしていた。そして、やっぱり大家さんはこう言った。
「それで、お前さんたちのことだけどね。やっぱりもう早くに祝言をあげた方がいいんじゃないのかい。これ以上ことがややこしくなる前にやっておけば、お互いに気持ちのけじめもついていいだろう」
するとおかねさんは急に不安そうな顔になって、おろおろとし始める。
「でも、でも大家さん…あたしはあんなことをしてしまったんですから、今すぐにはそんなことはできません。それに、祝言を上げることだけで、周りからなんと言われるか…」
彼女はもう突っ張って意固地になることもなかったので、今度は“そんなことを今すぐにすれば、他人様からどう言われるか”が気になって仕方ないようだった。それは俺も同じだ。
「大家さん、もう少し時を待ってからではいけないのですか。このままそんなことをすれば、私たちは長屋に居場所がなくなってしまいます」
俺がそう言うと、大家さんは「フーム」とうつむいて、考え込んでいるようだった。
「では、もう少し経ってほとぼりが冷めたら、あたしが間に立つから、お前さんたちはそのつもりでいなさい」
「え、ええ、それなら…」
おかねさんはまだ不安なようだったけど、俺たちは話もそこそこに、お稽古に間に合わせるため、家に帰った。
ところで、ここで「栄さん」と「六助さん」の話をしておかなければいけない。
俺たちが祝言をあげるまでの少しの間、その二人が働きかけてきたことがあった。
栄さんは俺に文句を言いながらも「うまくやりゃあがって。たわけものぉ」と笑いながら俺の頭を小突き、六助さんの方は話を聞くとすっかり意気消沈してしまった。
「俺がいちゃあ、お前さんたちはやりづらいだろい」
「あたくしは、もうお師匠の元へ通うことはできません。申し訳ございません」
そう言って二人とも、おかねさんのお教室をやめてしまった。
ほかにも幾人か男のお弟子が下がり、通ってきていた娘さんの母親たちも、「下男とそんなことになっていたなんて」と呆れてしまい、娘さんも何人かは下がっていってしまった。
ただ、ここで良かったことも一つある。
それは、おかねさんの腕を見込んで本気で通っていたお弟子ばかりが残ったことで、“春風師匠”は稽古に手加減やお世辞を使う必要もなくなって、お弟子はみんなぐんぐん腕が上がった。
そうすると、今度はその評判を聞きつけて、師匠の暮らしなどはどうでもよい、三味線が好きでたまらないお弟子が、何人か新しく入るようになったのだ。
俺の「写し物」の稼ぎは相変わらず少なかったけど、ある時、俺に一件の仕事が舞い込んだ。
「おめえさんは、どうも話をよく理解できるようで、写したものの感想を聞いてもなかなかだ。それに、元々は書き物の練習もしていたって言うじゃないか。一つ、青本でも書く気はねえかい」
そのころはもう俺が仕事を受け取りに行っていた本屋で、そんな話が出て、俺はもう長いこと江戸に居て、様々な文化に通じていたので、その話を受けることにした。
まずは思いついたままに書き始めることから始め、そしてその中の一本を、ご店主が気に入ってくれたのだ。
そして俺は、「空風秋兵衛」という名で、一冊の青色の草双紙を出した。
「まあまあお前さん!すごいじゃないかねえ!売れるといいねえ!」
おかねさんは出来上がって挿絵もたっぷり入った俺の本をすっかり気に入り、何度も読み返しては、「お前さんは才があるよ」と褒めてくれた。もちろんそれは初めて出した本だから売れ行きも何もあったものではなかったけど、俺はいつか遠い時代に描いていた、「小説家になる」という夢が叶ったような気がして、心底嬉しかった。
そして、冬のある日、俺たちは大家さんに仲人をしてもらい、自宅で婚礼の儀を執り行った。
もちろん俺たちには身内もあるはずがなく、「持参金」や「道具入れ」も必要なかったので、俺は大家さんから袴を借り、おかねさんも白無垢を着て、綿帽子をかぶった。
その日は、冷たい北風が吹くすっきりとした青い空が広がり、俺たちの長屋は隙間風が吹き込んだけど、俺はそれでかえって気が引き締まり、神聖な儀式にはうってつけの日と思えた。
おかねさんは、冬の寒い中で何枚も着物を重ね着して、胸元まで白粉を塗り重ね、真っ白な帽子で目元までを隠している。
その下に覗いている鼻と、紅を乗せた唇は、一目で彼女とわかるように少しだけ尖っているのに、本当にあのおかねさんなのか、どうしても俺は確かめたくなってしまったのだった。
そして、長屋の人たちが俺たちの家に来て挨拶をしていき、俺たちは祝儀を受け取ったりお酒をもらったりして、二人で並んで、その人たち一人一人に頭を下げた。
やがて三々九度のお盃を交わすと「じゃあ、あたしはこれで。仲良くやるんだよ」と言い残し、大家さんは席を立つ。
「このたびはお世話になりまして、誠に有難うございました」
「有難うございました」
「いやいや、じゃあ失礼するよ」
もちろん、祝言をあげた晩は、いわゆる「お床入り」となる。でも、俺たちの場合、そうはいかなかった。
俺は元々おかねさんの元で下男として一年も働いてきたのだし、おかねさんだってまだまだ俺に甘えたりするような気になれるはずもない。
俺たちは夜遅くまで行灯の火を消さずに、出会った日のこと、今まで一緒に乗り越えてきたことを、一つ一つ拾い集めて眺めるように、語り明かした。
幸せだった。何にも代えがたいものを手にした俺たちは、静かに微笑みながら、時を噛みしめるように夜を過ごしたのだ。
暗闇に浮かび上がる彼女の白い肌は行灯のあたたかい光で玉子色になり、彼女がうつむき加減になるたびに、まつ毛の影が頬に落ちた。光の曖昧な彼女の眼差しは、俺を優しく見つめていた。
翌朝俺が目を覚ますと、かなり夜更かしをしてしまったからか、木戸の隙間から漏れてくる灯りはもうかなり柔らかい昼間のものとなっていて、それに、頭上からも光が降り注いでいた。
見てみると、へっついの上の天窓が開いていて、部屋の中にはお米が炊けるいい匂いがしていた。それがわかると俺は慌てて起き上がり、ついいつもの癖で「すみません!おはようございます!」と叫ぶ。
すると、へっついの前で竈の火を見ていたおかねさんが振り返った。
「起きたかい、お前さん」
「すみません、すっかり眠ってしまって…私がやりますから、おかねさんはお稽古の準備を…」
へっついのそばに俺も座ると、おかねさんはくすくすと笑って、こう言った。
「いやだねえお前さん。今日から亭主だって言うのに、「おかねさん」だなんて。よしとくれな。」
そう言われて俺は思わず顔が熱くなり、“そうか、自分たちは昨晩夫婦になったのだ”と、改めて自覚をした。
「じゃあ…」
俺はドキドキとして、一晩のうちに恋が叶って夫婦となったことがまだ信じられず、舌がひきつりそうになった。
「お、おかね…」
呼び捨てにしてしまうと、今まで下男として生きてきたものだから、気恥ずかしさより、申し訳ない気持ちが勝ってしまったけど、彼女の名前を改めて口にした時、俺は体がかっと熱くなり、どこか頭がぼーっとするような高揚感に包まれた。
「あいよ、あんた」
江戸夫婦編
第三十四話 亭主とカカア
「カカア天下」。こんな言葉を聞いたことのある人も居るだろう。もちろん、怒った女性というのは物凄く強い。それに、女性に怒られると、男性の方もそれ以上厳しい言い方を続ける気はなくなってしまう。でも、どうやら「カカア天下」の意味は、それだけではないらしいのだ。
これは、俺がおかねさんと祝言をあげて、少ししてからのことだ。
俺はその朝、おかねさんのあとで井戸の水を使って顔を洗い、歯を磨いた。
前から思っていたんだけど、江戸の人はすごく綺麗好きだ。朝はまず掃除をするし、歯磨きもするし、お風呂も頻繁に入る。まあ、湯屋に行くのは半分遊びみたいなものだし、特に江戸っ子と呼ばれる人たちは、主義のために入っているような部分もあるけど。
俺はほとんど歯ブラシと変わりのない見た目の「房楊枝」に、「磨き砂」を付けて歯をこすり、ハッカのスッとした香りで口をすすぐ感覚を楽しんでいた。そして、流しに用済みの水を流す。
“次のどぶさらいはいつだったかな、俺もちゃんと働かないと…”
などと考えていると、いつかのように後ろから誰かがこっそり俺を呼んだ。
「秋兵衛さん、秋兵衛さん」
振り向いた時に木戸の手前で俺を呼んでいたのは、大家さんだった。
「おはようございます。どうかしましたか」
俺は急いで手拭いで顔と手を拭い、大家さんのところへ走り寄った。
「おはよう、いや、おかねさんに見つからないうちに手短に用件だけ済ませるがね…」
「はあ…」
「お前さん、この間から晴れて亭主となったんだから、心得なくちゃならないよ」
「は、はい」
俺は、「亭主として頑張れ」と言われるのだとばかり思っていた。それにしても、こんなふうにこっそり言われるなんて変だなとは思っていたけど。
「おかねさんは自分でだいぶの稼ぎを持っている。そして、お前さんは元は文無しだったわけだ。失礼なことを言ってしまってすまないが、これは本当のことだ」
「はい…」
なんだか俺は、嫌な予感がした。ここから先、俺が勇気づけられるような話なんかなさそうな気がして。
「だから、おかねさんはお前さんと別れても、暮らしていくのに困ったりなんてしない。つまりお前さんは、いつ別れても困らない、そんな亭主なんだ」
“大家さん…それ、わざわざ言います…?”
俺はいきなり目の前を真っ黒いペンキでベタッと塗りつぶされたような気になった。そして思わずうつむいてしまった。
「だから、いつもよく気をつけてあげて、いきなり三行半を書かされることのないようにしなさい。お前さんはそれをもし書いたら、次の縁もなくなってしまうし、また文無しで放り出されるかもしれないんだから」
大家さんは俺に追い打ちを掛け、そのあとで「じゃあ、早く家に戻りなさい」と言った。
「はい、ありがとうございました」
俺はそう返事をしておじぎをし、家に戻った。
家に戻るとおかねさんは見台に置いた譜面を険しい顔つきでめくってお稽古のことに集中しているらしかったけど、俺の気配に顔を上げて、「どうしたい」と声を掛けてくれた。
「い、いえ、なんでもないよ。お米を炊くから…」
「そうかい。お願いするよ、すまないね」
いつの間にか、朝の炊飯はまた俺の役目に戻っていた。それにも気づき、正直に言うと泣きそうだった。
ある夕焼けの江戸を、俺は心細い気分で歩いていた。それは漬物屋と豆腐屋からの帰りだった。帰ってからは、夕食だ。
でも、俺の頭には、その数日前に大家さんから言われた、「いきなり三行半を書かされる」という言葉が渦巻いていて、とても前から歩いてくる人を気にしている余裕がなかった。
「イテッ!」
不意に俺は誰か背の高い男の人にぶつかってしまい、少し後ろによろめく。
「す、すみません!」
怖かったので顔も見ないですぐに頭を下げたけど、ぶつかった相手はなんと、栄さんだった。
「おろぉ?こんなとこで何してんでい、秋兵衛さんよ」
栄さんは俺を見て怪訝そうな顔をしていたが、俺はよっぽど元気がないように見えたのか、こう言った。
「なんでぃ、もう捨てられたかぁ、旦那」
俺はそれを聞き、一気に不安になって栄さんの袖に両手でしがみついた。
「めったなことを言わないでください!」
急に叫んだので栄さんは驚いたが、すぐに俺のところまで頭を下げる。
「おい、落ち着けって。往来でそんな声出すもんじゃねえ、人が見るじゃねえかよ」
栄さんはうっとうしそうに俺の手をどけながら辺りを見回し、そしてまた姿勢を起こした。
俺はその場で、一瞬だけ考える。
“そうだ、この人なら、生粋の江戸っ子のようだし、おかねさんがどう考えるか…わかるんじゃ…”
そう思った時、俺はもう一度叫んでいた。
「栄さん!少し聞いて頂きたいお話があります!」
「ああわかった、わかったよ!おめえは叫ばなくちゃ話ができねえのか!」
「三行半ん~?」
「はい…」
栄さんは、俺とぶつかったすぐそばにあった屋台見世の天ぷらにかぶりつきながら、素っ頓狂な声で叫んだ。「どうせのろけみてえなもんなんだろうから、なんかおごれや」と言われたので、俺が海老天を買ってあげたのだ。
俺が出し抜けに「三行半のことで…」と話し始めたので、彼は驚いて喉を詰まらせた。俺はちょっとその背中を叩いてやる。
「なんでぃ、本当にもう捨てられっちまったのかおめえさん」
「いえ、そういうわけではないんですが、大家さんが、「すぐに書かれないように気をつけなさい」と言って…私が…稼ぎがないものですから…」
その時いきなり、俺は栄さんにぐいっと肩を引かれた。驚いて振り向くと、栄さんは苛立たし気にこちらを睨んでいる。
「おめえよ、もすこし亭主らしくしゃべんな。それじゃあ丸っきり前とおんなじ下男じゃねえか」
「と言われましても…もう癖で…」
俺は言い訳をしたけど、栄さんは、初めて会った日に俺が「何も覚えていない」と言っていたことを覚えてくれていたのか、ため息を吐いただけだった。
「で?大家に言われたことに怖気づいてるってなわけか」
「はい…まさか、おかねさんがすぐにそんなことをするはずがないと思うんですが…」
「まあお前さんは好い奴だからな。あんまりいい男とは言えねえが」
「そうですか…」
そこからしばらく、俺たちは無言で歩いていた。栄さんは海老のしっぽを噛み砕くのに苦労しているようだった。
“ああ、もうすぐでお店が見えてしまう”
通りには、家路を急ぐ人々がしゃかしゃかと歩いているばかりで、どんどん日は落ちて、俺はさびしい気分がつのった。
“でも、栄さんなら何か明るいことを言って吹き飛ばしてくれるだろう。彼ならそうしてくれるはずだ”
そう信じて俺は彼を見たのに、栄さんは、にんまりと人をからかうような笑い顔をしていた。
夕焼けがだんだんと暗い闇に閉じられる中、栄さんはくいっと首をひねって俺の顔を覗き込む。
「まあ、ねえ話じゃねえ。いいや、気にくわなかったらすぐに離縁できるのが、江戸の女だ。次の相手ならいくらでもいるからなぁ」
“やっぱりそうなのか。そういえば江戸の男女比はおそろしく差があったはずだ…”
俺がそう思って呆然と立ち尽くしていると、栄さんは突然ふき出して、笑い出した。
「な、何を笑うんです!」
俺が責めても彼は背を逸らせて笑い続け、しばらくおなかを抱えて体をよじらせていた。でもやがて栄さんは俺の方を向き、「すまねえ、すまなかったよ」と言ってくれた。
「おめえはからかいがいがなくって困るぜ。お師匠がおめえを放すわけがねえやな、おめえほど甲斐甲斐しい亭主もねえからよ」
「えっ…」
俺はそれまで栄さんをちょっと睨んでいたけど、彼がやっぱり俺を応援しようとしてくれたことがわかって、すぐにお礼を言おうと思った。でも、その間がなかった。
「じゃあよ。またな」
そう言って栄さんは、すぐに薄暗がりの人ごみにまぎれて、歩いて行ってしまった。
「あっ、栄さん…」
そこで俺は、家に帰るのがずいぶん遅くなってしまったことにも気づいたので、あわてて長屋の木戸まで駆けて行き、夕闇に背を押されて家へ入った。
「ただいま。遅くなって悪かったね」
俺は漬物屋と豆腐屋の包みを畳へ置いておいて、上がる前に畳の端に腰かけて、足を拭く。
栄さんには「癖でこのしゃべり方しかできない」と言ったけど、おかねさんの前では少しずつ言葉遣いを崩して様子を見ながら、俺は敬語以外でもしゃべるようになっていた。
「ずいぶん遅かったじゃないのさ。どこで油売ってたんだい」
俺は確かにちょっと遅くなったけど、おかねさんはなかなかこちらを向かずに、ちょっと言葉を尖らせていた。
「ちょっと栄さんに会って、話をしてたんだよ」
「栄さん、ねえ。ほんとかねえ」
おかねさんは鏡台の前であちらを向いて、そんなことを言った。それは呆れているようにも取れたけど、口をすぼめて言ったような声音だった。
彼女の背中は丸まっていて、肩は前に垂れ下がり、首は心持ち斜め下に向いている。
“もしかして…帰りが遅かったから、ちょっとすねてる…?”
俺はそれがわかってくるとおかねさんが可愛くて仕方なくなって、さっきまで考えていた心配事なんて、消し飛んでしまった。そして、胸がふくらむように、俺は嬉しい気持ちが湧いてきた。
“彼女にどんなことを言おうかな。あんまり恥ずかしがらせたら怒られそうだけど…、でもやっぱり…”
「本当だよ。おかね、こっちを向いて」
仕方なくといったようにおずおずと振り向くと、おかねさんは俺を切なそうに睨み、「なんだい」と言った。
「うん、すごく綺麗だ」
すると彼女はあっという間に真っ赤になってしまい、また前を向いた。
「ごまかしたりなんかして」とか、「油断のならない人だね」なんておかねさんは言っていたけど、その間で俺はおはちから茶碗にごはんをよそって、お漬物と、買ってきたお豆腐を皿に盛り付けた。
第三十五話 夫婦の理
俺たちは、夫婦だ。この時代では、「めおと」と言う。そして、男女の付き合いにつきものの現象が、夫婦生活にはある。
夜、ごはんを食べたあとで布団を敷き、二人でそこに横になって灯りを消し…。
これはちょっと子供にはあまり聞かせられない話なので、詳細は省く。立ってお聞きになりたいという方がいらっしゃれば、後から楽屋の方へ…いやいや、落語家の三笑亭可楽の真似をしている場合ではない。
大変だ。大変なことになった。俺は、彼女と婚礼の儀を上げてからちょうど丸五カ月経った頃、大変なことを告げられたのだ。
最近、彼女の様子がちょっと変だな、とは思っていた。
時々、一人で首を傾げては少しおなかをさすったり、時には「いらない」と言ってごはんを食べなかったり。
「大丈夫なのかい。食べないと、おなかがすいちまう」
俺がそう声を掛けると、彼女は首を振って「なんともないよ」と言ったけど、その表情は不安げで、俺は彼女をよく見ていて、何かの病だとしたらすぐに医者に見せないと、と考えていた。
そして、その日がやってきた。
その晩、俺たちはいつもの通りに冷や飯を食べて布団に包まり、新しく損料屋で借り直した大きな布団の中で、手を握り合っていた。
おかねは…ここで一つまたことわっておこう。
俺は最近、彼女に対してあんまり照れなくなった。
結婚する前までは、「おかねさん」と口にするだけでも顔が熱くなったものだけど、婚礼の次の晩に、また詳細は省くが、彼女が意地を張る分、照れ屋だと知って少し安心したのだ。
“どうしたんだい、早くおいでな”
そう言いながらも、決して顔を上げずに俺の腕を引く、真っ赤な頬を、ちょっと思い出した。
俺ばかり彼女を想っているわけではない。それに彼女は、年下娘を引き倒してしまうくらいのやきもちやきだし。このへんは今のところ気を付けているし、大家さんのお説教も効いたのか、何も起きていない。
だから俺はいつでも彼女のことを「おかね」と呼んで愛しみ、彼女は今まで通りに、「あんた」とか、「お前さん」と呼んでくれた。「秋兵衛」と呼ぶときは、大抵おかねは、怒っている。
「おかね」
俺は彼女の手を布団の中で握って、体を引き寄せようとした。すると、今晩に限っておかねはそっぽを向きながら、俺の胸を押し返したのだ。
「どうしたんだい。体の具合でもよくないのかい」
俺がそう心配すると、彼女はちょっと言い淀んで、きっと睨むほど俺を見つめる。そしてそのあとで、ほろりと涙を流した。
「なんだい、どうしたんだい」
本当に心配になったけど、どうやら彼女は悲しくて泣いているのではないらしく、小さな手で涙を拭いながら、微笑んでいた。
「お前さん…しばらくね…お客が来ないんだよ。もう一月になる…」
「えっ…!」
“お客”。それは女性の月に一度の生理現象を言う。この時代はそう呼ぶものなのだ。
それが、来ない。
俺はもちろん成人男性だから、そのことがどういう意味を持つのかは、もうわかっていた。
「ってことは…おかね、もしかして…!」
「そうさ!授かりものだよ!うちに、赤ん坊が生まれるんだ!」
その時の俺の喜びようたるや、大したものだった。
俺は布団から飛び上がって戸を開け、外に駆け出し木戸にぶつかって、あっという間に表通りへと走り出た。
嬉しくて嬉しくて、「やったー!」と何度も叫び、呆れながらあとをついてきていたおかねに抱き着いて、「ありがとう!ありがとう!」と彼女を抱きしめた。
「ちょっと、苦しいじゃないかさ。それに、ご近所が起きちまうよ。まったく、まだ産まれてもいないのに…」
「そうだね、でも…本当にうれしいなあ。明日は何かご馳走を買ってくるよ。俺は大家さんのおかみさんにでも、話を聞きに行こう。お産は大変と聞くし」
「はいはい、わかったから。もう寝るよ」
「うん」
俺はその晩、やっぱり眠れなかったので、ずっと赤ん坊の名前を考えていた。
第三十六話 お産
俺は、おかねがどうやって赤ん坊を産んだのかについては、話せる事が少なすぎる。
何せ、大家さんに相談したら、「男は関わりあいは無用のことだ。うちのカミさんをやるから、お前さんは、時が来たら天井から掴まる縄を付けなさい」なんて言って、俺を家に帰してしまったからだ。
家に帰っておかねに聞いても、「お前さんの心配する事じゃないよ。大丈夫さ」と言った切りだった。
曰く、江戸時代には、男はほとんど「お産」に関わらなかった。
以下は、長屋の男連中が夕涼みに出ていた時に、「五郎兵衛親方」から聴いた話だ。
五郎兵衛親方は、こう話した。
「味の強ぇもん、体の悪くなるもんはなるべく食わせねぇで、坊さんの書いたもんでも読ましてよぉ、お産の済んだ女なんか連れてきたり、家の婆様かなんかでやっちまうらしいぜ」と。
俺がすかさず「医者は!?」と叫ぶと、「けっ、大家のカミさんならまだしもよぉ」と言われてしまった。
それを聴いた俺の考えるところは、こうだ。
妊婦には刺激物を与えず、有難い読み物など読ませ、出産には近所の経産婦が立ち会ったり、家ならば祖母がついたり。でも、そんなのは不十分極まりない。最低限命を守るためにだって届かない。まず、滅多に医者を呼ばないらしいなんて、いくら江戸時代だって言っても、あまりに危険だ!
「俺の婆ぁ、そこまで言って、「終い」だって言いやがったな」
「そうか…俺には、何も出来る事がねえのか…」
「へん。えれぇ血の出るもんだってぇ聞くじゃあねえか。女は女でやってくれりゃ、助かるわな」
「そんな!」
「なんでぃ」
俺がその時、「出産というのは危険なんだ。命を落とさないためにする工夫なら、俺だって少しは分かってる!お前と同じにするな!」と、言い返す事は出来なかった。
もしそんな事をしたら、その場で駄弁ってた男達は、五郎兵衛親方を筆頭に、俺をいくつかぶつし、お終いにこう言うだろう。
「お医者さまがいらぁ。おめえのお袋を見てもらえよ」
江戸っ子は、二つ三つ引っぱたいてから、そのくらい言いかねない。
なんとか黙ってその場をやり過ごし、仲間からやっぱり無駄に引っぱたかれて、家に着く頃には、俺は心を決めていた。
“せめて栄養を付けなければ、おかねの命が危険だ!お腹の子も助からない!”
そう一念発起した俺は、次の日から、おかねの好物ばかり家に買って帰った。
「なんだいお前さん。こんなものあたしは食べられやしないよ」と言われたら、「でも俺ぁ好きじゃねえから」と、横へ流した。
おかねは、不服そうではあったけど、どうやらそんな俺を「よほどに甘い亭主」と思ったらしい。
彼女はにまにま笑いながら、葱と生姜のたっぷり掛かった豆腐や、脂の乗り切った秋の鰹、それから普段には、振り売り屋の持ってくる煮しめなんかを食べた。
野菜のおかずがやたらに増えてから、おかねは時折首を傾げたけど、お腹いっぱい食べられるのは有難いのか、黙って栄養たっぷりの食事を食べていた。
おぎゃあと生まれた場所が神田。父親は生まれは分からないけど日本橋に倒れていた者で、母は何代も神田で暮らした家の生まれ。そして産湯に水道の水を使った男の子。
名は、おかねが考えて、「秋夫」に決まった。
「あんたの名から一つもらってね。それでいいさね」
おかねは赤ん坊を産んで、息も絶え絶えのぐったりした中で、本当に嬉しそうに笑った。
「ありがとう。おかね。ありがとう」
嬉しかったけど、彼女の様子は、まるで病に臥せって長い時のように力無く、風に吹かれたら飛んで行ってしまいそうに見えて、俺はおかねの肩に手を当て、さすっていた。
彼女は、力の入らないんだろう腕を持ち上げ、ゆっくりと俺の手を包んでくれた。
「何言ってんだい。大変なのはこれからさ」
第三十七話 江戸の子育て
さあ、赤ん坊の産まれてからというもの、俺達夫婦はほとんど夜っぴて赤ん坊に付きっ切りとなり、おかねは、お稽古の合間にも赤ん坊にお乳をあげた。
中には、赤ん坊にと、おもちゃなどを土産に持ってきてくれるお弟子も居たけど、それより親切だったのは、長屋の住人だ。
俺が洗濯に出ている間、秋夫が急に泣き出した時があり、それはもちろん、長屋中に聴こえる大声だった。赤ん坊は遠慮などしない。
俺が洗濯物をほっぽって家に戻ろうとすると、近くで水を汲んでいた海苔屋のトメさんが、俺を呼び止めた。
「これ、赤ん坊は私が見てやるよ。お前さんは早く仕事を済ませなね」
「えっ、よろしいんですか?」
俺はびっくりした。長屋はみんな助け合って暮らしていたけど、そんな事まで手助けしてくれるとは思わなかったからだ。
「大丈夫さ。ありゃあね、あの声は多分、おしめが濡れてるんだよ。それならこの婆でも役に立つさね」
「そ、それは…では、お願いします、トメさん」
「あいよ」
俺が洗濯を終わらせる前に、トメさんは本当に秋夫のおしめを持ってきて、「洗っておやり」と差し出した。俺が礼を言って、「すみません」と謝ると、「なあに、この長屋に生まれたあかんぼなんだ。こんなのは当たり前だよ」と言われたのだ。
トメさんは、「この長屋に生まれた赤ん坊」と言った。もしかしたら、長屋の住人は、みんな同じように思っていたかもしれない。
長屋の付き合いそっちのけで遊び惚けている、奥の駕籠舁き二人でさえも、秋夫を抱いて揺らしたり、「ほれ、食ってみな」と、おやつを口に入れたりしてくれた。
「ほーれほれ」
駕籠屋の新吉は、秋夫の前で銀色に光る小さな粒をくるくる回して、秋夫がそれを顔ごと追いかけて首を回しているうちに、ぽいっと口の中に放り込んだ。
秋夫はしばらくもぐもぐとそれを味わっていたけど、突然びっくりしたように、まん丸の目をぴかっと見開く。
「あーい!」
ぷくぷくした小っちゃな両手を振り回して、秋夫は俺の腕の中でぱたぱた足を掻いた。嬉しくて仕方ないらしい我が子を見ていて、俺も嬉しかった。
「おおそうかそうか、うめえか」
新吉は嬉しそうにそう言って、秋夫の前で片手を振っていた。駕籠屋のもう一人、三太郎も笑い転げている。
「赤ん坊が初めて氷砂糖なんてものぉ食ったんだ。こらぁえれぇこった」
そう言いながら、三太郎も紙袋の中から、氷砂糖を取り出し口に放り込んでいた。
「すまないね、二人とも」
「いいんだよ。今日の客は羽振りが良かったからな。これから二人で久しぶりに遊びに出るんだ」
「行ってらっしゃい。気を付けて」
「よせやいくすぐってぇ」
俺の挨拶に照れ笑いをしながら、新吉と三太郎は木戸をくぐって行ってしまった。
そんな風に、俺達は長屋のみんなに育児を手伝われて、俺が「空風秋兵衛」としての書き物をしている間も、おかねがちょっと昼寝をすると言った時も、手の空いてそうな住人に頼めば、赤ん坊を見てくれていた。
だから俺達は、育児疲れでへとへとになってしまう事もなく、仕事も続けられた。俺は長屋の全員に感謝していたし、すまない気持ちもあったけど、みんなが秋夫の成長を楽しみにしてくれているのが分かって、嬉しかった。
俺が江戸に来て、一体どのくらい経っただろう。気が付けばおかねと夫婦になり、秋夫という愛しい子を成していた。あっという間だった。
当たり前のように裏長屋で暮らしていながらも、俺は今でも、元居た時代との違いを比べている時がある。
それはもちろん、江戸の方が不便が多いという比べ方もあったけど、人々が助け合って暮らそうと心掛けている所では、江戸に敵う時代はないのではと思うくらい、俺達夫婦は人に助けられて暮らしている。
「ふあ…うああ…!」
「おっと、どうしたどうした」
考え事をする暇もなく秋夫がまた泣き出し、人差し指を差し出すとそれに吸い付いてきたので、俺は、井戸端でおそのさんと喋っているはずのおかねを呼びに行った。
第三十八話 手習指南所
秋夫は、もう六つになった。
江戸には、「手習指南所」がある。「手跡指南所」とも言うけど、神田の町内、俺達の長屋に一番近かったのは、「手習指南所」だ。
「寺子屋?それは京での名前でしょうかね」
俺にそう言ったのは、銀蔵さんだった。俺がその場で「寺子屋」の名称の違いを調べようとしたって、インターネットも何も無い。銀蔵さんは更に、「読み書きを教えるのに、売り物を売るのと同じ“屋”が付くのはよろしくない。との、お武家の言い分だそうですよ」と言った。
「秋夫もそろそろ、指南所に行く時分だから」と言ったのは大家さんで、もちろんおかねはそれを心得ていたらしく、「謝礼はあたしが持つから、お前さんは心配しなくていいよ」と、彼女から言われた。
「えっ!?お前が!?いや、それは悪ぃ。俺が持つさ!」
「何言ってんだいお前さん。江戸の女はみんなそうするのさ。心配要らないよ」
「そんなこと言ったって…」
その時にはそう押し切られてしまったけど、後々になって、大家さんからきちんと聞けた。それは、秋夫が指南所に通うようになって、三月ほど経った頃だった。
俺はその日、晦日の家賃を入れに大家さんの家を訪れ、大家さんから秋夫の様子を聞かれたので、「おかねが謝礼を支払っているんですが…」と切り出した。
「そりゃあそうさお前さん」
「えっ!?」
その後に大家さんが言ったのは、こんなような事だった。
江戸の亭主が稼ぐのは、おまんまの銭だけ。子供の指南所の謝礼はカミさんが用意して、カミさんの贅沢も、自分の払い。
俺の稼ぎはもう大分増えた。だから、二人を食わせていく位ならなんとかなる。でも、そこから先はおかねの「カカア」としての領分だ、と言うのだ。
確かにおかねは、自分の持ち物などはすべて彼女の稼ぎで買っていたけど、まさか、子供の教育費まで母親持ちだったなんて、俺は信じられなかった。女性の社会進出の進んだ現代でさえ、常識とはなり得ない。
俺はここでも、「カカア天下」の片鱗を見た。だって、それらをおカミさんが持てるなら、亭主なんか、それこそ機嫌次第で叩き出せる存在だろう。
「まあお前さんは心配しなくていい。おかねさんはしっかりしてるんだから。それより、いたずらっ子の秋夫が面倒を起こしたら、よく言って聞かせておやり」
大家さんから驚かされたたまま、俺は家に帰った。でも、家に帰ってから、また驚く事になる。
家に帰ってみると、秋夫が家の隅でちっちゃくなって膝を抱え、向こうを向いていた。
秋夫は、大したいたずらっ子だ。だから俺は、また何かしくじってごまかしに黙っているつもりだろうと思って、秋夫の前に回り込んだ。
でも、秋夫の頬には、なんと、大きく腫れた痣があった。
「秋夫!こりゃどうしたんだ!」
俺は慌てて秋夫のちっちゃな肩を包み、都合の悪い時には決して口を開かない秋夫を、少し強く揺すった。
秋夫はやっぱり黙っていて、何も言わなかった。その間に、買い物に出ていたおかねが帰ってきたので、俺はおかねにも相談した。
「何さ、誰にやられたんだい?」
おかねは、秋夫の肩に手を掛けて振り向かせ、真ん前に正座をして、じっと秋夫の目を覗き込んでいた。秋夫は俯いている。
「誰それに殴られたなんて、隠しといても何の得にもなりゃあしないよ。それとも、お前さんからふっかけたのかい?」
俺は、おかねと秋夫が睨み合い始めた横っちょで、二人を交互に見つめていた。
そこで、初めて秋夫がこう言う。
「俺から始めちゃ、いけねえってのか」
秋夫は、まだ幼いながらも江戸弁を喋るようになってきた。指南所に通うようになって、年長の子供の言葉遣いを真似ているらしい。
俺も江戸の言葉遣いには慣れて、少々江戸弁のように聴こえる喋り方をするけど、生まれた時から神田に住んでいた秋夫には敵わない。
「初めから「いけない」なんて言わないけどね。訳を話しな」
「いやでぃ」
そこで、おかねは思い切り眉間に皺を寄せた。それでも秋夫は辛抱強く黙り込んでいる。これはもはや、おかねと秋夫の喧嘩になり掛けていた。
「二人とも、そんな睨み合ってねえで、秋夫も素直に話せば、俺達だって怒ったりしねえよ」
俺がそう言った時、なぜか秋夫は俺を見上げてぎろりと強く俺を睨み、大きく口を開けた。
「「てめえの親父は江戸っ子じゃねえ」って、勝公が俺の握り飯ぃ、井戸に捨てやがったんでぃ!あいつが悪ぃに決まってらぁ!」
俺はその時、大きなショックを受けた。
“俺はその事については黙っているしかないのに、それが秋夫を襲うなんて!”
おろおろしたまま、俺は正座をした膝に両手をもたせかけ、俯きかけた。でも、ここで逃げていたら秋夫がいじめられてしまうのだ。それなのに、俺には、言える言葉がなかなか見つからない。その時、おかねが大きく溜息を吐いた。
「そりゃあ確かに、勝ちゃんのしたことがまず悪かったかもね」
俺は思い出した。この辺りの子供が通ってくる「手習指南所」には、その中の子供をまとめて引っ張っている、「勝ちゃん」という子が居た。
秋夫は怒り顔のまま、おかねを睨み続けていた。次は自分が責められると分かっていたんだろう。おかねはこう続ける。
「でもね、握り飯なんざまた作りゃいいんだ。それをなんだい、友だちと喧嘩なんかして」
「あんな奴友だちなんかじゃねえ!」
「そうかい。でもな、明日謝りな。友だちじゃないなら、なおさら喧嘩なんかしちゃならないよ!」
「いやでぃ!あっちが謝ってこなけりゃ、俺ぁなんにも言わねぇ!」
俺は、ちっちゃな体で思い切り強がり、頬を腫らしたままで怒鳴る秋夫に、堪らずこう言った。
「なあ、秋夫、お父ちゃんも連れてってくれな。一緒に謝ってやるから…」
そうすると、俺はまた睨みつけられ、おかねも一緒に俺に突っかかってきた。
「お前さんは少し黙ってな!」
「お父ちゃんがそんなだから言われるんでぃ!勝ちゃんに会った時だって、「どうぞこの子をよろしくね」なんて、そんなことぉ言う江戸っ子いねぇ!」
「う、は、はい…」
結局その晩は、おかねが長い事掛かって秋夫を説得して、その翌日、秋夫は勝ちゃんに謝ったと言っていた。
そんな風に、秋夫の友だち付き合いはいつも不器用だったように思う。俺は親として、そんな秋夫を、小さい頃から心配していた。
第三十九話 初午
俺達家族は、秋夫が指南所に通い始めて一年経った初午の日に、王子稲荷を詣でた。
江戸に多い物として、「伊勢屋、稲荷に、犬の糞」という言い方がある。江戸っ子が喧嘩腰にこれを語っていると、なんだかスカッとする。
もちろん、江戸は野良犬が多く、それで通りにはいつも犬のフンが落ちているし、「伊勢屋」さんはどれがどれやら分からないほどある。そして、「王子の稲荷」と言えば、初午の日は大賑わいだ。
江戸では、子供が寺子屋、つまり指南所に通い始めるのは初午の日で、その日に稲荷神社に子供の学業について願う人々が多い。俺達も先年に王子の稲荷神社に来た。今年はお礼参り旁、縁日など、物見に行くという事だ。
「やあ着いた着いた。それにしても、本当にまた道に迷わず済んだなぁ」
俺がそう言うと、秋夫の手を引いていたおかねは笑う。辺りはすごい人込みで、みんな同じ方向へ向かって歩いている。もしくは、同じ方向から引き返してくる。
「何言ってるのさお前さん。今日この日にここらを歩いてるんだ。みんなここへ来ようってもんだよ」
“王子の狐”という落語が現代まで残っているが、本当に江戸時代は稲荷神社が大流行だったんだなぁ、と、俺は思った。
「秋夫、疲れてないか?」
まだ七つの秋夫に声を掛けると、思った通りに疲れていたのか、「別に」と言って、ぷいと顔を背けた。
「そうかそうか、じゃあほれ」
俺は秋夫の前で後ろを向いて前屈みになり、両手を後ろに回して、ちょっと振った。
「いやだい!もう子供じゃねえ!」
負けず嫌いな秋夫は嫌がっていたけど、いつまでも俺がやめないので、突き当たってくるように、やけっぱちに俺の背に乗った。
「この方が楽だろ。肩車の方がよかったかい?」
「これでいい。あとで凧を買う時に下ろしてくれな」
「なんだこいつ。もう凧を買った気になってやがる」
俺は、子供らしい拗ね方で凧をねだる秋夫を、ちょっと揺らす。
「アハハハ。凧くらい買ってやるよ。それからお前さん、絵馬も買わなくちゃね」
おかねは笑い、俺の背中に居る秋夫の頭を撫でた。そのまま俺達は、王子稲荷の本殿さして歩いた。
王子稲荷は、それはもう大層な騒ぎっぷりで、みんな踊ったり歌ったりして、奉納神楽のきらびやかさに見惚れたり、派手に絵の描かれた灯篭飾りや行灯で目を楽しませたりした。神社の参道にはずらりと行灯が並び、様々な色に染められた幟が、風にはためいていた。
お参りとお賽銭をして、馬の絵が描かれた絵馬額を奉納し、俺達は願い事をする。
それから、秋夫によく稲荷の事を聞かせてから、俺達は帰り道に凧を買った。秋夫は、どうやって上げるのかずっと聞いてきたが、「ここじゃダメだ。帰ってから、土手に出て上げよう。人に絡まっちまうぞ」と俺は返した。
ところで、俺は書き物をするので、貸本屋で借りた本も、この時代の書物の勉強に読んでいた。
初午の日という事で思い出したので、家に帰ってから俺は、井原西鶴の「日本永代蔵」を紐解いていた。
もはや新刊として井原西鶴の著書を読めるだけで有難いのだが、書いてある事がまた有難い。
内容は大体こんなものだ。
“ある年の初午に、大阪の水間寺という寺へ、二十三、四の逞しい男が訪ね、「金一貫文貸してほしい」と頼んだ”
水間寺という寺では、皆、自分の立身出世と金持ちになる事を願い、お金を借りて、翌年には倍にして返すのが風習だったらしい。ちなみに一貫文とは、およそ千文である。
お断りを入れさせて頂くけど、これは「初午」に関する事で、稲荷神社ではなく、観音様を祀っているお寺の話だ。
“男の要求があまりに多額だったので寺の主は驚いたが、とりあえずは貸し付けて、「きっとこのお金は戻ってくることはないから、これからは多額に貸し付けるのはやめよう」と、寺方では話し合いがされた”
ところが、結末は全く違ったものになった。
“水間寺に現れた男の正体は、現代の日本橋にあった、江戸の小網町で船問屋をしている者だった。彼は、お得意の漁師たちに「観音様からの有難い銭だ」と言ってその金を貸し付け、もちろん貸し付けられた人はきちんと倍返しをした”
“やがて、「観音様から銭をお借りして、幸運に恵まれた」と言った噂も聴こえるようになり、貸付先はどんどん増えた”
この辺で俺は、信心深いこの頃の人々を敬う気持ちになった。
“とうとう十三年目に、水間寺にお金を返しに行く時には、金一貫文は八千百九十二貫文にまで増え、船問屋は通し馬でそれを返済しに行った。その話は広く伝わり、男の営む小網町の「網屋」は、大層繁盛して、関八州で有数の物持ちになれたそうである”
“しかしその繁盛も、そう長い事は続かず、いつか「網屋」の噂も絶えてしまった…。”
金持ちになりたいとはみんな考えるが、命ある限りでしか活かせない。身に余るほどの物ばかり望むのはいかがなものか、というメッセージが、物語の大きな盛り上がりと、呆気ない終わり方で、そのまま伝わってくるような気がした。
俺がそんな事を考えていると、耳元で、低い声がした。
「父ちゃん」
俺が本から顔を上げると、秋夫が俺を睨みつけているのが見えたが、それをどうと思う暇もなく、秋夫は、俺の顔目がけて凧を押し付けた。
「な、なんだ秋夫!こら!押し付けないでくれよ!」
どうやら秋夫は、俺が本に熱中していて構ってくれなかったのが嫌だったらしく、しばらく俺の顔に、紙で出来た凧をぐいぐい押し付け続けた。
「わ、わかった、凧を上げに行こう!」
堪らなくなって俺がそう言うと、秋夫はこくっと頷き、「よし」と言った。
秋夫にもそんな可愛い時があり、その可愛さは、なんとも言えない形でずっと続いていた。いくつになっても自分の子は自分の子。どこか可愛いものである。
第四十話 初めの過ち
秋夫が八つになる頃、おかねはもう一人子を産んだ。女の子だった。
俺達はその子に、「おりん」と名前を付け、育てた。
おりんは、おかねに似て大層美人なのが、赤ん坊の頃からよく分かった。
丸い頭を薄く覆う、茶色っぽく細い髪の毛、長いまつ毛、くりくりの大きな目は少し吊り上がり気味だけど、赤ん坊だからか、まだ柔らかい印象だった。つまんだらなくなってしまいそうな小さな鼻、それから、唇も桃色で小さい。
おかねが三味を引くと、おりんは体をパタパタと動かして、喜んでいた。
秋夫ももう八つだし、おりんの世話をよく手伝ってくれたが、いつも渋々とおりんを抱き、あまりおりんを可愛がっているようには見えなかった。
おりんは赤ん坊だから仕方ないのだが、秋夫からしてみれば、両親が急に赤ん坊にばかり構うようになったのが、寂しかったのかもしれない。
だから俺は、おかねがおりんを抱いてあやしていたり、お乳をあげたりしている時に、秋夫に本を読み聞かせたり、おやつをやったりしていた。
でも、秋夫はおやつをあまり食べたがらず、本を読んでやっても、退屈そうに、疑わし気な顔をしていた。
そして、俺達がおりんに掛かり切りになって少ししてから、秋夫がとんでもない事をしでかした。
秋夫は、指南所をとっくにやめていた。
手習指南所は、就学期間などは定められておらず、本人が通いたがれば、十年だってそこに居られる。逆に言えば、十日でだってやめられる。秋夫は読み書きを学び終わるくらいの一年半で、「飽きたからもう行かない」と言い、それっきり行かなくなってしまった。
秋夫は、小遣いをもらうと家を出て行き、日の暮れ方には家に帰る。だから、外で何をしているのかは、俺達夫婦はそんなに詮索はしなかった。おりんの世話もあり、俺達は忙しかった。
でも、ある晩におかねがはばかりへ行きたくて目が覚めた時、秋夫が布団から居なくなっていた事に気づいて、俺を起こした。
「どうしたんだ、いつ居なくなった?」
「わからないのさ。あたしが起きたのはついさっきだから、はばかりへ行ってるのかと思って、待ってたんだ。でも、それからもう小半刻は経つからねえ…」
「じゃあ俺が探しに行って来よう。お前はおりんを見ててくれ」
そう言って俺が戸を開けた時、ぴゅうと北風が吹いた。
「ううっ、さみいなぁ…」
「気ぃつけなお前さん。ほら、羽織を着て」
おかねが後ろから羽織を着せてくれて、俺はそのまま、どこへ行ったかも分からない秋夫を探しに、外へ出て行った。
結局朝になるまで秋夫は見つからず、俺は追い詰められていく気持ちで、家に帰った。でも、家には秋夫が帰って来ていたのだ。
「秋夫!帰ったのか!」
でも、俺は、秋夫の様子がおかしい事に気づいた。秋夫と向かい合って座っているおかねも、様子がおかしい。
「ど、どうしたんだ、二人とも…」
俺は、朝日が眩しく照り付ける戸口を閉めて、足を拭いてから畳へ上がる。その間も、おかねと秋夫は黙りこくって睨み合っていた。
俺が二人の傍へ行ってみると、おかしな事に気づいた。秋夫から、酒の臭いがする。
そんなまさかと思って秋夫の顔を見てみると、頬を真っ赤にして、目が据わってしまっていた。明らかに酒を飲んでいる。
「秋夫。お前、どこに行っていたんだ」
俺はそう言い、秋夫の肩を揺らした。そこで、おかねが「フン」と鼻から息を吐く。そして、秋夫の着物を掴んで、袂を揺すぶった。なんとそこからは、ジャラジャラと銭の音がしたのだ。
俺は訳が分からなかったけど、おかねがこう言った。
「賭けだろ」
おかねのその言葉を聞き、俺はショックで何も言えず、体も動かせなくなってしまった。でもすぐに、ある事に気づく。
「そんな…こんな子供が賭け事なんか…親分達だって、許すはずがねえだろ?」
俺達は小声でそう話し合い、秋夫は黙って酔っぱらっていた。
「近頃は悪いのがいくらでも居るんだよ。親分達が取り仕切ってる場じゃない。それなら確かに、子供なんか入れやしないよ。多分、素人が勝手にこさえてる所だろ」
俺はそう言われて、秋夫を見た。秋夫は、面倒そうに呆れたような顔をしていた。おかねは秋夫の袂に手を入れ、銭を全部出させた。でも、それは「銭」ではなかった。
ほとんどが一分金で、二分銀も混じっていたけど、それは大層な金額の、「お金」だった。俺はびっくりして、ちょっと後ずさる。
「お前さん、何度目だい」
おかねがそう聞くと、秋夫はここでだけ答えた。
「初めてでぃ」
おかねはそれを聞くと、合点がいったように頷き、いきなり片手を大きく振り上げて、秋夫の頬を打ち、張り倒した。後にも先にも、おかねが秋夫をぶったのは、この時だけだった。
「…次は行くんじゃない。賭場はね、最初に儲けさせておいて、通ってくる奴を身ぐるみ剝ぐんだ。そういうもんだよ」
秋夫は叩かれて転がったまま、ごろりごろりと布団へ転がり、掛布団に包まると、そのまま昼までふて寝をしていた。
秋夫とおりん編
第四十一話 秋夫
俺達夫婦は、江戸に住む者としての子育てをした。
秋夫とおりんは、長屋じゅうから可愛がられて育ち、外へ出れば往来の大人から挨拶やらお叱りやらを頂戴して、おりんの躾はいつもおかねが、秋夫に言い聞かせるのはいつしか俺の役目になっていた。
でも、秋夫は大した奴だった。
ここからの話は、子供達について語る事にする。
「秋夫!お前、二日もどこに行ってたんだ!」
二日ぶりに、秋夫が家に戻ってきた。二日前、おかねは「羽織がない、羽織がない」と探していた。
秋夫は、俺が叱ろうとしているのを大して気にしている風でもなく、何気なくこう言った。
「ちょっと買い物さぁ」
「買い物?どこまで買い物に行ったってんだ!」
俺が真面目にそう聞くのがおかしかったらしく、秋夫は大人のように呆れ笑いをする。まだ十七なのに。
「嫌だぜ親父は。冗談が通じやしねぇ」
「何を買ったんだ!言え!」
「ヘッ。自分の親父に惚気を聞かせるほど野暮なこともねぇ」
俺はそれでやっと、秋夫が女郎買いに行ったのが分かり、また家を出て行こうとした秋夫の腕を掴んだ。そして、こう問いただす。
「お前…母ちゃんの羽織をどうした」
そう聞いたのに、秋夫は悪い事をしたなんて、毛ほども思っていない顔で、俺の腕を振りほどいた。
「今度倍にして返ぇしてやるよ」
そのまま秋夫は戸口から消えてしまい、家の中には、おりんと俺だけが残った。
おりんはすべてを聞いていたけど、決して口を出さず、心配そうに俺を見ていた。だから俺は、「お前は心配するな」と言った。それでもおりんはもじもじと両手を揉んで、何かに急き立てられているような顔をしていた。
おかねも俺も稼ぎは変わらないのに、前より暮らしが悪くなった。
鰯が食べられれば大変なご馳走で、普段にはたくあんと米だけを食べた。味噌にも手が届かない。そんな生活だった。
それと言うのも、俺達が貯めた銭はみんな秋夫が遊びに使ってしまい、咎めても秋夫は反発して家を出て行ってしまって、何日も帰らなかった。
おりんは五つ六つの頃だったけど、満足に食べられない事で病気がちになり、俺達はおりんに着物を買ってやることも出来なかった。いつもおりんは、すってんてんの古い着物に包まっていた。
おりんは、家の心配ばかりして、自分の欲しい物を我慢していた。
お菓子も、着物も、風車だって欲しがらなかった。
秋夫はほとんど家に居ないので、家族で寺社参詣に行く時は、おりんと俺とおかねだけだった。そういう時、おりんはいつも賽銭箱の前からなかなか離れず、熱心に何かを祈っていた。
俺達夫婦はもちろんおりんを大事に思ったけど、それは秋夫にだって同じだった。
まだ小さいというのに、すっかり江戸の男の遊びに慣れた秋夫が、まともに暮らしていけるのか、それをいつも二人で話し合っていた。
本当に小さい頃なら、秋夫は俺達夫婦に叱られて渋々いたずらをやめてくれたけど、もうそんなのは通じなくなっていた。賭け事だの女郎買いだのに夢中になって、秋夫は家に寄り付かない。
秋のある夕暮れ、俺は大家さんに相談をしに行った。
「申し訳ございません、お忙しい中で…」
大家さんのおかみさんに、「子供の事で相談があって」と言って、俺は家に上がらせてもらって、大家さんを待っていた。
「いや、いいのさ。そろそろ帰ってくる時分だよ。おかわりは?」
おかみさんは鉄瓶を持ってお茶のおかわりを勧めてくれたけど、俺はそれを断った。しばらくして、大家さんが戻ってくる。
表の戸を開けると、外の夕闇が見えて、大家さんは疲れた様子で家に入ってきた。もう大家さんもずいぶん年を取って、最近は仕事が辛そうだ。
「おや、秋兵衛さん。どうしたい」
「あ、それよりも、楽にしてください、大家さん…」
「いやいや、まあそうさせてもらうけどね。ちょっと一服してもいいかい」
「ええ、もちろん」
「お前さんは?煙草飲みじゃなかったかな?」
大家さんはそう言って、おかみさんから受け取った煙草盆を、俺達の間に置いてくれた。
「あ、いえ、そ、それでは…有難うございます…すみません」
俺は会釈をして、帯に突っ込んでいた煙管を取り出す。大家さんも俺も、火鉢から火をもらった。
俺は、憂鬱な気分で煙草を吸う。「子供が遊びに夢中になっていて、家が火の車だ」なんて、大家さんにも解決出来るのか分からない。
「それで?なんの相談かな?」
三口ほど吸ってから、大家さんは煙を吐きながらそう言った。俺は火玉を落として煙管をしまってから、秋夫について話をした。
「そらぁ、どうしてそんな事になったかねぇ…お前さんもおかねさんも、真面目だったろうに…」
片手で顎をゆったりとこすり、大家さんは首を傾げていた。
「分かりません…だから困っていて、おりんは病気がちですし、もしや大きな病に罹りでもしても、医者に見せる銭だってないし、食うのにも困る始末で…」
「まあでも、方法がないわけでもない」
大家さんのその言葉に、俺ははっと顔を上げる。大家さんは難しい顔で俺の目を見つめ返し、こう言った。
「職人の所へ奉公に出しちまえば、家の銭を食い荒らされる事もないさ。そうだろ?」
「奉公に…?」
俺はその時、不安になった。奉公の辛さなんて、江戸に住んで長い俺は、もう知っていたからだ。
「勘当して、銚子にやっちまうのは、まだ後でもいいだろう」
“息子を勘当して、銚子の漁師たちの中に放り込む”
そんな話も聞いた事がある。確かに、それよりは奉公の方がまだマシだろう。
でも、ぞんざいに扱われて、満足に食べさせられる事もなく、自分の子供が働きづめだなんて、そんな目に遭うなんて、俺には耐えられない。
俺が俯いて不安そうにしていたのを見て、大家さんはこう言ってくれた。
「心配なのは分かるが、このままじゃ、お前さんたちの暮らしが立ち往かなくなるんだろう。奉公に出せば、不自由のない暮らしの有難みだって、分かってくれるかもしれない。どちらにしろ、家に置いておいちゃ、ためにならないよ」
「はい…」
俺は、目の前が暗くなるような気がして、「帰っておかねに相談しよう、もっといい方法だってあるかもしれない」と、決断から逃げていた。
第四十二話 出ていけ!
“秋夫を奉公へ…”
俺の目の先には、行きつ戻りつしているような自分の足が見えた。
“秋夫に耐えられるはずがない…”
秋夫は、働いた事もないし、家の仕事だって大して手伝わず、いつもぶうぶうと文句を言っていた。その上、母親の羽織を質に置いて女を買い、博打で取られてきては、俺やおかねに小遣いの催促をする。それも、十文二十文の湯銭程度じゃない。
そんな秋夫でも可愛いのが、俺達親だ。なろうことなら、苦労はさせたくない。どうにかして分かってくれて真面目になってくれるなら、その方が良いに決まってる。
俺は、“おかねに相談しよう”と思っていた所から道を改め、“秋夫が戻ったら説得をしよう”と腹を決めて、そこからは家路を急いだ。
うちの表店が見えてきて、木戸に手を掛ける前に、長屋の中が少し騒々しいようだなと思っていた。
女と男の言い争う声が聴こえてきていて、泣いている子供の声もする。そこまで分かった時に、泣いているのはおりんで、言い争っているのはおかねと秋夫だと、俺はすぐに気づいた。なので、慌てて木戸をくぐり、うちへと急ぐ。
「ちょっと借りるだけさ!二三日貸してくれりゃすぐに返ぇすよ!」
「何言ってんだい!てめえが物を返したことなんかいっぺんたりともないね!こっちへ返しな!」
「兄ちゃん!ダメ!」
俺が家の戸を開けたのはその時だ。おりんは秋夫の着物の裾にしがみついて、俺の居る戸の方へ引きずられる格好だった。おかねは、秋夫が持っている三味線に掴まって、ぐいぐいと引っ張っている。
秋夫が“借りる”とか“返す”とか言うのは、大抵質屋におかねの着物などを勝手に持って行った時だ。
いつかまだ、俺が下男だった時、おかねは三味をうっとりと眺めて、幸福そうにしていた。そんな場面を思い出し、それがまるで今泥で塗り潰されてしまったような気持ちになり、俺はとうとう我慢が出来なくなった。
「秋夫!てめえ何してんだ!」
俺は、話を聞かないであろう秋夫からおりんを引き離し、その後で、おかねの三味を奪って、あらん限りの力で秋夫を突き飛ばした。秋夫は家の奥の壁まで吹っ飛び、首を強かに打ち付ける。
「なんでぃ親父!何も突き飛ばすこたぁねえだろ!」
秋夫がそう言う様子は、いつもの言い争いと何の違いもなかった。
“これからもこれまで通りにこの家に居られて、家の金を食い潰しても、おかねやおりんに迷惑を掛けても、平気でここに居られる”
そう思っているんだろう秋夫を、俺は本当に殴り掛けた。
俺が振り上げ掛けた拳をまだ抑えながら息を切らしているのを見て、秋夫がからかうように笑う。俺の怒りはどんどん増していく。
「いいや!突き飛ばす!諦めないなら、二三発ぶん殴る!ついでに言ってやる!お前はもう出て行け!どこへなりと出て行け!」
俺がそう叫んでしまうと、秋夫はやっと俺を睨み返した。秋夫の目はいっぺんで暗くなり、じめじめと陰湿で、恨みがましかった。俺はそれを真向から突き刺すように睨む。
俺達は睨み合っていて何も言わず、おかねは俺の言った事に驚いてしまったようで、口を開けて悲しそうな顔で、俺を見ていた。おりんは家族の顔を代わる代わる見ていたけど、やがて小さな体をぷるぷると震わせてから、我慢出来なかったように、俺の着物の袖口へ、はっしとしがみつく。
「とうちゃん!」
おりんは俺を呼んで俺の着物に掴まり、こう言った。
「どうか、兄ちゃんを追い出さないで!兄ちゃんは銭がないんだ!おまんまが食えなくて、死んじまうよ!兄ちゃんを追い出さないで!」
おりんがそう言う様子は本当に必死だった。それに一番驚いていたのは、俺ではなく、秋夫だった。
自分をかばって、病がちな妹が父親に歯向かっている。それに秋夫は動揺していたようだったけど、秋夫が口を出せる事じゃなかっただろう。ここで秋夫が遠慮して、“いや、俺ぁやっぱり出て行くから”とは言えない。
でも、年端もゆかない妹が、「お願い!とうちゃん!」と言い続けているので、秋夫は自分のした事の恥ずかしさが身に染みたのか、頬を真っ赤にして俯いていた。俺はそれを見て、やっといくらか怒りが鎮まった。
おりんが一生懸命に頼むので、俺は「少し言い過ぎた」と秋夫に謝り、秋夫は何も言わないまま、家を出ようとした。その時もおりんは不安そうに秋夫に聞いた。
「兄ちゃん、帰ってくる?」
秋夫は、おりんをちろりと見ただけですぐに表の方へ体を向け、出て行くついでに、「さあな」と言った。
「きっと帰って来な!」
おりんは表の戸から少し体をはみ出させて、秋夫にそう叫んでいた。
第四十三話 おりん
おりんが六つになった頃、おりんも手習指南所に通い始めたけど、その前からおりんは読み書きを知っていた。
俺は、「空風秋兵衛」として、書き物をしている。出来上がった本を受け取ってくると、おりんはそれを読んでもらいたがり、俺の膝によく乗ってきた。
中には子供に向かない読み物もあったけど、大体は、なんてことのない日々が過ぎて行くだけの戯作だ。
俺がゆっくりと読んでやると、おりんは面白がって、口元を両手で押さえながら、くすくす笑っていた。それからおりんは、いつも決まって、「もういっぺん読んで」とねだるのだった。
指南所でどうしているかとおかねが聞くと、おりんは、「先生にほめられた」と言う事が多かった。七つの時におりんが書いた物を持ち帰って来た時、いつの間にか楷書を書けるようになっていて、俺達はびっくりしてしまった。
楷書は、武士階級が読み書きに使うものだ。だから庶民は普通は習わない。でも、おりんは先生に「やってみたい」と願い出て、教わったのだと言った。
俺達はおりんの頭を撫でて、「すごいじゃねえか」、「えらいねえお前さんは」と、ほめた。するとおりんは、「来週から、そろばんもやるんだ」と言ったので、ますます驚いた。
だけど、おりんも結局、指南所は二年でやめてしまった。原因に心当たりはある。
ある日、おりんが持ち帰ってきた宿題を終わらせ、俺が見てやっていた時、俺の後ろには、まだ十四だった秋夫が、煙管をプカプカやっていた。
「おりん、こりゃあ綺麗な字だな。難しいのも書けるようになってきたなぁ」
俺がそう言うと、おりんはにこにこして俺を見上げた。その時、後ろからおりんの宿題に影が差して、振り向くと秋夫も宿題の紙を覗き込んでおり、ぽつっととこう言った。
「はん、俺にゃさっぱり読めねえ」
「そりゃおめえは習ってねえからさ。習えば読める」
俺がそう言っても、秋夫は、「めんどくせぇよ」と言って唇をすぼめ、ふーっと細長く煙を吐いた。
俺がおりんの方に顔を戻すと、おりんはなぜかがっくりと俯いており、顔を真っ赤にしていた。
「どうした、おりん」
そう聞いても、おりんは黙って首を振るだけで、そこから二三日してから、急に「もうやめる」と言ったのだ。
「やめる?どうしてさ。そろばんがわかんなくなっちまったのかい?」
夕食の席に、秋夫は居なかった。でも、おりんは指南所に行きたくない理由は言わずに、最後に膳を重ねて食器を洗いに立った時にも、一言だけ「やめる」と言った。
俺達夫婦は、おりんに強く言い聞かせて、これ以上何かを望む気持ちにはなれなかった。
相変わらず着た切りの、紺が褪せた丈の短い着物からは細い素足がにゅうっと出て、おりんは洗い場に向かい少し咳をしながら、三つ重ねた膳を持って立っていた。その痛々しい姿を見ていると、無理に何かを言う事は出来なかった。
俺は、「そうか。でも行きたくなったら、またいつでも行けるからな」とだけ言い、おりんはそれに、「うん」と返した。
しばらく俺は、おりんが指南所をやめたがった理由が分からなかった。でも、ある時、珍しく家で秋夫と向かい合って煙草を吸っていて、理由を思い出したのだ。
その日の昼、秋夫は家に帰って来て、まずは一服煙草を吸った。刻みを長い喧嘩煙管にちょいちょいと詰めて、火鉢へ近づけ、はあっと煙を吐く。そして、表の戸をちょっと振り返った。
「なぁ。なんであいつぁ出かけてねえんだ?」
おりんは、その時井戸端に洗濯をしに行っていた。それを、帰ってきた時に秋夫は見たんだろう。不思議そうに聞いてきた秋夫に、俺はこう答えた。
「わからねえ。急に指南所を「やめる」って言ってな、それきり行かねえよ」
「もったいねえなぁ。俺よか出来がいいんだからよ」
そう言って秋夫は笑った。その時の秋夫の、「俺よか出来がいい」という言葉を聴いて、俺は初めて、“もしや”と思った。
“おりんは秋夫に気を遣ったのか…?いや、まさか…”
そして、おりんの宿題を俺がほめていた時、おりんが顔を真っ赤にして俯いていたのを思い出した。あの時、おりんはもしかしたら、“兄に恥をかかせた”と思い込んだのかもしれない。そうだ。ほかに考えようがない。
おりんは、優しい。優しすぎるほどだ。だから多分、兄より優秀にはなりたくなかった。
でも、それはおりんにとって良い事ではないし、秋夫に何か良い事が起こるわけでもない。
俺は、目の前でのんびりと煙草をふかす秋夫にそんな事は言えなかった。かと言って、おりんに問い質した所で訳は話してもらえないだろう。俺はどうしたらいいのか分からないまま、時折ぽっと灰の舞い上がる長火鉢を覗き込んでいた。
第四十四話 次郎
俺の名前は秋夫。親父から一文字もらったらしい。とはいえ、それも本当の名かはわからねぇそうだ。お袋はそう言って、さみしそうな顔をしていた。
“お前のおとっつぁんはね、日本橋で倒れてるとこをあたしが助けたんだけど…どこから来たのやら、何年経っても言わねぇのさ。本当に分からないわけはないんだけどね…自分のおっかさんを心配するような独り言を聞いた事もある。でもね、言わないんだよ…”
そう言っているお袋は、本当にさみしそうだった。俺がその話を聞いたのは、十の時だ。七つ八つ九つと俺は歳を重ね、十になって“つ離れ”をしたから、もう話そうとでも思ったんだろう。
親父が出所が確かじゃねぇってのは、誰も不満に思っちゃいないみたいだった。何せ親父は気が利いて、お袋にもいつもヘコヘコして愛想笑いばっかりしてやがった。稼ぎはお袋の方が良いに決まってるし、だから親父はお袋の機嫌を取りにさっさか働いて、掃除に洗濯肩揉み買い物、小間物屋の相手までしてやがる。
そんなに甲斐甲斐しい、見てて情けなくなってくるような親父の姿を見て、息子の俺はいつも馬鹿馬鹿しかった。
江戸市中は、いつも強盗だの土蔵破りだのが横行して、しょっちゅう火事があったし、茶々を入れる話に事欠かない。俺は、退屈がてら行った知り合いの家で、ちょうどやってた博奕に嵌った。
金がなくても場が立つ日には、家の物を借りなきゃいけない事もあった。
悪い事とは知りながらも、お袋の羽織も、手あぶり火鉢も、親父の煙管も。でも、それにしたってまだまだ小さい悪事だ。
俺は、悪党になるつもりだった。本当に小さな頃、親父に連れられて見に行った芝居で見た山賊は、自由だった。
金が無くなったら、追い剥ぎだのゆすりだのでうんと儲けて、食い物屋で銭なんか払わないで、博奕と女、それから着る物に金を賭けた生き方がしたい。いつの日か、そう夢見るようになった。
そんな風に思いながら暮らしていたある日、一人の男に会った。
俺はその年、十八だった。“そろそろ俺も悪党になろうかね”なんて思い回していた頃で、その日、俺はツイていた。
俺達は、町内の札付きが集まって銭の取りっこをしているだけで、いつも決まって、一番大きな家を持ってる悪旦那の家でやっていた。
その日は、俺が初めてやる“手本引き”だった。
仲間内で一番年下の俺は、仲間にやり方を教わり、おっかなびっくり手を出すと、繰り札を三度も当てた。俺は、あと一度当てられれば一両を手にするってところだ。
一枚目はピン。つまり、一だ。どういう訳か、手本引きでは「一」を「いち」とは言わないらしい。
二枚目は六。三枚目は五だった。みんな当たった。
でも、胴元だった仲間が次の札を出し、横に居た“合力”役が盛り立てようとして、「さあ!張った張った!」と叫んだ時だ。
「おい!お上だ!逃げろ!」
それは、襖の向こうから聴こえてきた、ほんの囁くような声だった。でも、その一声でその場は一気に修羅場と化した。
部屋の中にはその時、五人の男達が居た。胴元役は善治。合力役だった次郎は、自分も賭けると言って、開けるまで札を見なかった。あとは張子の成介、悪旦那の与一に、俺だ。
そいつら全員が一瞬浮足立ったかと思うと、裏口目がけて我先にと逃げ出した。もちろん俺もそうした。
でも、不安で後ろを振り返った時、振り上げられた十手の影を、もう一つの影が受け止めて突っ返すのが見えた。
怖くて怖くて、それからはずっと駆けて家へ戻ったが、“あいつらはどうなったか”よりも、“自分の顔を見られたのでは”という気持ちの方が勝った。
それから後日、いつものように俺の仲間が家の戸を叩いた。その日、家には俺以外居なかった。「不忍弁天へ行くんだ」なんて事言われたって、三味も弾かない俺には用がない。
トトトントンと小気味よい音がして、癖のある速い叩き方に、あの晩、合力役をしていた次郎だとすぐに分かった。俺は慎重に戸を開ける。
「よお」
顔を出したのは確かに次郎で、次郎の後ろには誰も居なかった。俺はほっとした。それから「上がるぜ」と言って次郎は俺の脇をすり抜け、土間から上がって煙草盆を引っ掴んだ。
くすんだ藍色の着流し姿の次郎は、当たり前のように、腰から抜いた煙管にうちの葉を詰める。奴の指は太く、煙管を持ち上げた腕は肉が盛り上がって力強い。
大して慌てている風にも見えなかった次郎は、大きな体でゆったりと胡坐をかいていた。煙管を持っていない方の腕は、膝を押さえるように肘をいからせている。
次郎はもう二十二なので、四つも年上だ。でも俺達は同じ穴のむじなとして話していた。
「こないだ、どうしたよ」
俺がおそるおそるそう聞くと、次郎はしばらく黙っていたけど、急に鉄瓶がたぎるように笑い出した。
「カカカカ…そりゃあよ、俺が十手を食い止めてからの芝居を見せてやりてえよ」
「芝居って」
次郎はニヤニヤ笑いながら、俺に傍に来るように手招きする。
「つまりよ、盆茣蓙代わりに敷いてた布団が二枚あったろ。それを指さして、こう言ってやったのさ」
俺は「ふん」と相槌を打つ。そこから次郎は、もっといやらしい笑い方になった。
「“自分の自由で仲間と集まって、人に聞かせられねぇ事をしていたのは確かでございます。”そう言うと向こうは何かを言いかけた。だから、こう、な。“好き好きでしていた事ですから、見逃して下さい”ってな」
「なんでぇそれ。そんなんで帰るわけがねぇだろ」
俺がそう言うと、次郎はまた面白そうに笑い転げる。なんだか訳が分からなかった。
笑うのがやまってから、なんと次郎はこう言ってみせたのだ。
「つまり、さ。俺達が集まってやってたのは…番うためだ、なーんてな」
俺はその時、思わず、ぞぞぞと寒気がした。男五人でくんづほぐれづなんて、想像もしたくない。それから、次郎の肩を引っぱたく。
「何してくれてんだてめぇは!」
「良かったじゃねぇかよ!上手い事いって!」
「それにしたってそいつぁねぇだろ!」
俺達はそんな事を言って、笑い合った。
第四十五話 真面目
俺は、仕事らしい仕事はない。でも、拾ってきた物を売っぱらったり、町内の隅っこでうじうじしてる奴を、仲間と一緒にちょいと脅かして、銭を融通してもらったりはしていた。でも、仲間内で、次郎だけはそうしなかった。
次郎は俸手振りの八百屋をしていて、時々に売る物は変わるらしいが、この間すれ違った時には、大根を目いっぱい積んでいた。
「よお、重くねえかい」
そう言うと次郎は、こう言った。
「おう、軽くしてくれんのかい」
そう言われちゃ仕方ねえなと俺が四文で一本買ってやると、また向こう角へ折れて、「だいこ、だいこ」と叫んでいた。
何か商売でもやるかな、と思う事もないではなかったけど、重い荷を担ぐのも、親方へ奉公するのも、面倒だった。
お袋みたいに三味が弾けりゃお師匠が出来るし、親父みてえに物を書くのもいいかもしれない。でも、始終そうやって追い立てられてるよりは、たまに銭を儲けて遊びに使う方が、俺の性に合っていた。
でも、俺ももういい年なんだから、家を出て一人で暮らしたかった。親子四人では狭すぎるんだから、新しい店で自分の構えがあって、そこでぼけっと一日中寝てもみたい。
「家を出る…?」
俺の言った事に、お袋は悲しそうな顔で振り返る。
「なあに、奉公だのするんじゃねえ。俺も自分で暮らしていかなきゃならねぇだろ」
そう言うと、お袋は鏡台の前から体ごと振り返って、きりりと目を吊り上げる。
「お前さんね、そういうのはまともに働いてから言いな!働きもない奴がどうやって晦日の払いが出来るのさ!」
その時、家に親父は居なくて、隅の方でおりんが自分の着物を繕っていた。
「大丈夫だ、新しい店に移ったら、仲間を誘って駕籠屋でもやるさ」
そう言うとお袋はもっと怒って説教を始めたけど、俺は「いつでもまた会えるんだ、説教はその時に改めて聴くからよ」と言い残し、一杯飲み屋へ行きに、家を出た。
外に出てしばらく歩き、この角を曲がれば決めた店の提灯が見えるという時、俺はまた次郎に会った。
「よお」
「おう」
次郎は立ち止まったし、仕事も終わったんだろうから、俺は奴を飲みに誘って、いつもの店へと入っていった。
俺も次郎も床几に座り込んで、安いにごり酒をがんがら煽り、間に置いた皿の芋をつついていた。
馬鹿話が途切れた時、俺は家を出る話をしたが、次郎はそこでやけに真面目くさった顔になり、しばらく考え込んでいたようだった。俺はその間で、もう一杯酒を頼む。
「おお、ありがとよ。うおっと、こりゃあちぃな」
ちろりの底を思わず触ってしまって、俺が指先をさすっていると、次郎はこちらを見た。それは、俺の心配をしているような目だったが、どこか変だった。
「なんだよ」
「いや…」
そう言って次郎は前を向く。
「はっきり言えや、ぼーっと考え込んでねえでよ」
俺はまた芋を口に放り込み、酒を飲む。熱い燗酒が体に染みわたるのが、なんとも言えず愉快だった。
次郎は黙り込んでいたが、後ろ頭をばりばり掻くと、俺へ向き直った。
「おめえよ、そのまんまじゃいけねえぜ」
「何が」
次郎はあくまで真面目な顔で俺をじいっと覗き込む。
「おめえの行く先は“ならず者”の道だ。でもな、ならず者にもなれやしねえよ。ならず者にぁならず者の厳しい掟がある。おめえにそれは守れねえ。チンケな事でお上にとっつかまって、お陀仏だ。だから、秋夫、真面目になれ。今みてえなこたぁやめるんだ」
いきなりそんな事を言われたもんだから、俺は酒を噴き出しそうになった。
「なぁに言ってんだよ。俺みてえな小物、お上が気にするわけもねぇだろ」
そう返すと、次郎はゆっくりと首を振った。
「いいや、今のままじゃ、必ずそうなる。その時、おめえの親父もお袋も、おりんも泣くぞ」
そう言われた時、俺がまず思い出したのは、親父でもお袋でもなく、おりんの顔だった。
いつもこっちを遠慮がちに窺っていて、うちを出る時にたまに「いつ帰るんだい」と聞いた、おりんの顔だった。でも、俺はそれを振り払いたかった。
「馬鹿言え。今さらどう真面目になるってんだよ。俺ぁ生まれた時からこうだぜ」
そうだ。俺は元々のらくらしてて、どう真面目になるのかなんて一つも知らない。それに、お上から縛り首を頂戴するなんて事になるのも、ちょっと思いつかなかった。
「きっとなれる。お袋さんや、おりんを悲しませるんじゃねえ」
「調子がいいぜ、おめえだって俺と一緒になってやってるじゃねえか」
俺がそう言うと、次郎は俯いて、ため息を吐いた。
「俺ぁゆすりたかりもしてねえ。それに、今度っから真面目に働いて、お袋の薬代を稼がなきゃなんねえ」
それを聞き、俺は次郎の顔を思わず見た。
「どうした、おめえのお袋」
次郎は思い詰めたような眉をして、目の前に病気の母親を見るように、悲しそうに目を見開いていた。
「もう…長くねえと言われた。でも、医者が言うには、薬を飲ませられりゃよくなるかもしれねえってんだ。でも、それにゃ五両って金が要る。俺ぁこれからそれを稼ぐ」
「五両!そんな…」
俺は仰天して言葉が続かなかった。五両なんて、稼ごうとしたって稼げるものじゃない。一両だって俺達は見ないんだ。
俺はそこで、次郎の家に行った時、次郎の母親が手内職から振り向いて、俺に茶を出してくれた事を思い出した。次郎のお袋は、次郎が帰ってくるまで、ずっと俺の話に付き合ってくれながら、次郎の事ばかり話していた。
次郎の親父は家にいつも居なくて、一度その事を次郎に聞いたら、「鳶だったけど、屋根から落ちて死んだ」と聞かされた。
次郎は、お袋さんが死んじまったら一人になってしまう。
思い出している内になんだか俺も思い詰めていって、俺は思わずこう言った。
「なあ…俺も、手伝っちゃダメかよ」
脅かされたみたいにこっちを振り向いた次郎。その目を思い切って見つめて、俺はもう一度こう言った。
「真面目んなれってんなら、働けばいいんだろ。そんならもののついでだ。五両なんて一人じゃ稼げねぇし…」
俺は、急にそんな事が出来るのか分からなくて怖い気持ちはあった。だから必死にそれを押さえつけた。
「秋夫…」
自分の好きに生きるとは決めていたけど、仲間の事なら話は別だと思えたし、一度だけ真面目とやらをやってみてもいい。
でも、俺だけじゃ手伝いが足りないだろうというのも分かっていた。
「みんなに声ぇ掛けるんだ。おめえのお袋さん、助けるんだよ」
俺はその後、めそめそ泣く次郎をなだめながら、心の中では、尻込みしそうになるのを堪えていた。
第四十六話 義理と小紋
俺はそれから、次郎に商売の口利きをしてもらい、次郎と同じように、野菜を売り歩いた。
仕入れる野菜は朝早くに次郎が運んできてくれる。それで荷を分けたら、二人で反対に別れて、とにかく声を張り上げ、なるたけ多くの家で売れるようにと、俺は肩に食い込む天秤棒を我慢した。
他の仲間も「そうと聞いたら黙っちゃいられねぇよ」とめいめいに仕事を探し、俺達は必死になって銭を稼いでいた。
十日、二十日、一月と過ぎると、段々銭は貯まっていき、仲間みんなで集まった時には、「おめえ、今いくらだ」と、江戸っ子らしくもない話で、互いを元気づけた。次郎はみんなに「すまねえ」と言ったが、俺達は「そんな事より、お袋の加減はどうだよ」と聞いた。
「はあ、今はどうにか、まだいい塩梅だが、飯もほとんど食わねぇ…このままじゃ…」
心細そうにしている次郎を、俺達はいつも「大丈夫だ、もうすぐ貯まる。必ずよくなる」と励ました。
それから俺は、途中から女郎屋通いや酒もすっぱりやめて、着物や煙管なんかを売っぱらった。俺に残ったのは、一張羅にしていた小紋が一枚切りだった。
俺の家では、俺が真面目になって、仲間のおっかさんのために働くなんてと、親父もお袋も喜んでくれた。でも、まだまだ俺が苦労を掛けた借金を返す為、二人とも働き詰めだった。
俺は、毎日銭が貯まっていくのが嬉しかったし、“こうやって貯めりゃあ、高い薬だって買えるんだ”と思えば、“働くのも悪くねぇ”と思えた。それに、今さらになって親父とお袋の苦労が分かった。
二人は家の為に必死に働いていたのに、俺はそれを横からぶん取っていったんだ。
“俺ぁ一体今まで何をしてたんだ。なんてぇ事をしてたんだ”
そう思うと親父やお袋に会わせる顔もなかったが、二人は俺に何も言わなかったし、今の俺を喜んでくれていた。俺は自分が堪らなく恥ずかしかった。
“次郎のおっかさんをよくしたら、俺ぁ二人に孝行するんだ、それでいいんだ”
俺はそう思って、次郎が教えてくれる仕事の話を真剣に聞いて、そのまま八百屋になるつもりだった。
そんなある晩、おりんが熱を出した。
おりんは、時々熱を出す。元から体が強くないのかもしれないし、俺が苦労を掛けたからかもしれない。
おりんの熱は五日も下がらず、お袋は半狂乱で、おりんを世話してやった後で、泣きそうな顔を必死に隠していた。
六日目の晩に、親父はおりんの額に手を当て、首を振った。
「ダメだ。先生を呼ぼう。深川まで、俺が呼びに行く」
親父はそう言って立ち上がったけど、お袋が引き止める。
「薬礼はどうすんだい、お前さん」
親父はしばらく黙っていたが、やっぱり俺を見た。
「すまない、秋夫…お前の銭を、少し融通しちゃくれないか。おりんのためだ」
俺だってそんな事は分かっていた。今よくしなきゃ、おりんの方が死んじまうかもしれない。
“でも、これは約束した金なんだ”
俺は、約束を破るのだけは大嫌いだった。そんな事をする奴は江戸っ子の風上にも置けねえと思っていた。
「ダメだ…」
俺は自分が何をしようとしているのか知っていたのに、“ダメだ”と言った。親父はそれで、「頼むから」と頭を下げてきた。俺はもう一度首を横に振る。お袋が悲しそうな顔をしているのが見える。
「男が一度「助ける」と言ったんだ!この銭は使えねえ!」
そこで、俺と親父は喧嘩になり掛けた。
「なんて事言うんだ!お前はおりんが可愛くないのか!」
「そういうんじゃねえ!元の約束の方が先だ!」
俺達が怒鳴りあっていた時、おりんが寝ていた布団が、もぞもぞと動いた。
「兄ちゃん…」
見ると、おりんは頑張って首を持ち上げ、震えながら俺を見ている。
「おりん!目が覚めたのか!」
「水を飲んだ方がいい、おりん」
親父とお袋は、湯呑みに水を汲んで、おりんに飲ませた。水を飲み終わると、おりんはまた俺を見て、本当は出来ないんだろうに、無理に笑って見せた。
「兄ちゃん…あたしの事はいいよ、その銭は、大事だから…」
「おりん…」
俺には、おりんの名前を呼ぶ事しか出来なかった。有難いのか申し訳ないのか、分からなかった。
「友だちのおっかさんが、死んじまうんだろ…」
そう言っておりんは片肘を布団につき、起き上がろうとする。
「おりん、寝てな!起き上がるんじゃない!」
お袋が慌てて止めても、おりんは布団に起き直り、ずっと俺に笑っていた。そしてこう言った。
「兄ちゃんの、義理のある銭だ…あたしに使う訳に、いかねえよ…」
「おりん…」
お袋は、まだ幼いのに、苦しい中で“義理のある銭”なんて言ってみせたおりんを見て、泣いてしまっていた。
“外は寒いだろう。でも俺は、風邪なんか引いた事もねえ”
俺はそう思って、踵を返して家の締まりを開け、外へ一歩踏み出した。
「ちょっと出てくらぁ」
「秋夫!どこに行くんだ!まだおりんが…!」
「うるせえな!すぐ戻るよ!」
親父の言う事を聞いている暇なんかなかった。
戻ってきた時、俺は褌一丁の姿だった。もちろん寒いは寒いが、叩き起して散々脅かした質屋は、それ相応の銭を出してくれた。
「秋夫、どこに行ってたんだ」
俺は親父の前に、金の包みをぼんと置いた。
「ほらよ、ここに銀三十匁ある。足りなきゃ俺が都合する。医者ぁ呼んでこいよ」
俺がそう言うと、親父は芯から嬉しがって、「すまねえ、ありがとう秋夫」と言ってくれた。
医者は「薬を飲めば熱は下がる」と言い、三日分の薬礼もなんとか払えたので、一日半でおりんの熱も下がった。
「兄ちゃん、ありがとな」
俺が仕事が終わって帰ってきた時、おりんが傍に寄ってきて、顔中笑い顔にしてそう言った。
「いいってことよ」
俺は、お袋の入れた茶を飲みながら、褌だけで火鉢にあたっていた。
第四十七話 遊び
「みんなで金を貯めよう」と決めてからひと月半して、俺達はとうとう六両の金を貯めた。
次郎にみんなの銭を渡すと、次郎は大きな体を一生懸命縮めておいおいと泣き、喜んでくれた。
「一両余計にあるんだから、おめえは働きに出ねえで、うちでお袋の看病をしろよ」
俺達がそう言うと、次郎はまたあっという間に涙をこぼし、慌ててそれを拭う。
「すまねえ!すまねえ、みんな…!俺、こんなに有難い事なんか、他にねえよ…!」
「いいから、おめえはうち帰ぇってお袋さんの様子見たら、早く薬を買いに行きな」
「ありがとう…!」
顔を擦り回して次郎は立ち上がり、「必ずこの恩は返ぇすから」と言い、うちへと帰って行った。
次郎のお袋さんはすぐに良くなったわけじゃなかったが、効くのに時間が掛かる薬だという事だった。ふた月程は次郎はつきっきりでお袋さんの看病をしていて、俺達はたまにそれを手伝いに行った。次郎のお袋さんはだんだん良くなっているのが分かり、俺達はそれを喜んでいた。
お袋さんは床に起き直って自分で粥をすすっていたりも出来るようになったが、ある時は茶を入れに火鉢の鉄瓶に手を伸ばそうとしたので、俺はそれを慌てて止めた。
三月経って、俺達は次郎を飯屋に呼んで酒を飲ませていた。
「あんなに元気をなくしちまってたお袋が…すっかり良くなって、おめえらのお陰で…!俺…!」
次郎は泣いて泣いて口も利けなくなり、太い腕で四角張った顔をまた擦っていた。俺達は「とにかくよかった」と胸を撫で下ろしたんだ。
俺は、働き始めてちょっとしてから、吉原へも辰巳へも行っていなかった。だから、「久しぶりに」と浅草へえっちらおっちら歩き、見返り柳からすぐの小店へ、前と同じように入って行った。
「おや、旦那、これはお久しぶりのお越しで。花魁がお待ちかねですよ。もう酷いありさまでして」
「へえ、そいつぁいい」
俺は、若い者の言う事なんか真に受けていなかった。でも、遊びは楽しまなきゃ損だ。
いつも名指す女は、愛嬌があって、嬉しい事を言ってくれる。「年が開けたら主のところへ参りんすから、わちき以外を名指したりしないでおくんなまし」と言う時に、本当に嬉しそうに笑う。俺はいつも「しつこいな、わかったよ」と返したけど、とにかくいい気分になれるのはいいもんだ。でも、その日は違った。
俺が女の寝間へ呼ばれて行くと、襖を開けた瞬間から、もう何かが違うのが分かった。
いつもなら、俺を見てにこにこっと笑うはずの女が、こちらを見ない。店の者が後を閉めてくれて俺が一歩踏み出した途端、鏡台の前に居た女は、わっと泣き出した。
「おい、どうしたよ」
俺は、“さては金でも要るのかな”なんて考えていた。いつもなら白粉を叩き直して上機嫌に振り向く女が、化粧の崩れるのも構わず、泣きっぱなしなのだ。
俺は傍へ屈んで女の肩を引いたが、そうすると女は俺の胸へ顔をうずめ、俺にしがみついて泣いた。
「何かあったのか」
俺がそう聞くと、体を震わせ泣いたまま、女は顔を上げる。そして口を大きく開け、こう叫んだ。
「どうしてこんなに来てくれなかったんでありんすか!おかげでわちきは…わちきは…!」
女があんまり泣くもんだから、俺はしばらく何も聞けなかった。でも、その内に女は、次から次へと溢れてくる涙を拭いながら、話をした。
女の話によると、大層気に入って女をいつも名指していた男が、「商売で大きく儲けたから」と、強引に身請けの話を決めてしまい、迎えの籠屋が来るのは明日だと言う。
「金子を叩きつけられては、わちきは嫌だなんて言えない身です、もう主の所へは行けんせん。せめて今晩…今晩、わちきを最後に可愛がっておくんなまし…!」
そう言って俺を見つめた女の目は、本当だった。
それから数日してその店にまた行くと、話の通りに女は居ず、店の者に聞くと、やっぱり「花魁は身請けをされました」とだけ返ってきた。
俺は、「せめて最後に」と言い、俺の胸の中で幸せそうに、悲しそうに笑っていた女の顔がちらついて、その後、吉原へ行かなくなってしまった。
第四十八話 利助
おりんは今年で、十六になった。
秋夫も真面目に働いてくれるようになって、次郎と八百屋をしている。仲間内みんなが真面目になったわけじゃなくて、何人かとは袂を別ったと言っていたけど、とにかくうちの暮らしはやっと元に戻った。
おりんは今、美しさの最中だというのに、繕い物をしたり、手内職をしたりと、うちに籠ってばかりだ。
もちろん父親の俺としては、変な虫がついて、そっちに掛かり切りになられるよりはいい。でも、あんまり家の中で閉じこもっていては、病気になりやしないかと、不安だった。だからたまにおりんを、煙草屋や豆腐屋へ使いにやる事があった。
「あ、煙草が切れちまった。おりん。お前、刻みの葉を買ってきて、それから羅宇屋がどっかに居るだろうから、とっつかまえて煙管の掃除を頼んでくれないか」
「あいよ、おとっつぁん」
おりんは綿を詰めた袷を縫い合わせていた所から、顔を上げる。
俺を見るのに見開いた目がぴかっときらめいた。それは、初めて見たら驚くくらい、大きな目だろう。
鼻の頭も、頬の膨らみも、男ならみんながむしゃぶりつきたくなるくらい、透き通るように光っている。鼻や唇は少し尖っていたけど、それが「おやっ?」と印象に残るのだ。
「んじゃ、行ってくるよ」
そう言って俺に笑い、目を細めた所は、おかねに似てお狐様のようだった。
おりんはおかねによく似て美しく育ってくれたけど、いつも恥ずかしがって顔を伏せてばかりだ。それに、おかねは念入りにお化粧をしたり、綺麗な着物で自分を引き立てるのを嬉しがるけど、おりんはうちの仕事に夢中になって、自分がどんなに美しいかなんて、てんで気にしない。
何も艶やかな着物なんて着なくたって、おりんは誰がどう見ても美しい少女に育った。大家さんはこの間、「おりんは綺麗になったなぁ、出世が出来るくらいだよ」なんて、冗談めかして言っていた。
「出世」というのは、江戸城奥の“大奥”の話だろうけど、俺達夫婦はそんなの堪ったもんじゃない。
なろうことなら、真面目で優しく、おりんをいつも可愛がってくれる亭主と、思い合った上で一緒にさせてやりたい。それは俺もおかねも同意見だった。
この時代なら、“なるべく裕福な家へ”とか、そういった見方もあっただろう。でも、自分達夫婦が“くっつきあい”だったし、それで幸せになった。
俺達は、「好きな奴と一緒にさせたいさね、木偶の坊じゃ話にならないけど」、「そうだなぁ、真面目ならなぁ」と言い合っていた。
「ただいま」
「おうお帰り。掃除はしてもらえたか?ありがとう」
俺はおりんから煙管を受け取って、前に置いてもらった刻みの包みから、一口分を摘まんで煙管に詰めた。火鉢へ屈もうとすると、おりんはこんな事を言った。
「掃除、してもらえたよ。それと、煙草屋の人とね、世間話して…」
俺はびっくりして顔を上げた。おりんが外で人と話したなんて、自分から言ったのは初めてだったからだ。
「そうか、何を話したんだ?」
「何も…昨日、雨だったから、店の前で、犬の糞の掃除大変だった、って言ってただけさ…」
そう言っておりんは、何も無かったようにまた元の所に座り、綿を押し込みながら袷を繕っていた。
それからふた月ほどして、俺達両親は、大家さんから家に呼ばれた。
どうしたんだろう、どうしたんだろうねと言い合いながら大家さんの家に着いてみると、一人、若い男の人が、おかみさんとお茶を飲んでいた。
俺達が何か聞く前に、その若いのはハッとした顔になって、立ち上がって俺達に深々と頭を下げる。
「まあ、あの…」
おかねが困ってしまって頭を下げると、大家さんが「あがって。ばあさん、羊羹を」と言った。
俺達は若いのと向かい合って、大家さんはその若いのの隣に座っていた。
誰もなかなか喋らなかったけど、大家さんが「ほれ」と若いのの肩をつつくと、その人は座布団を降りて、俺達にまた頭を下げ、こう言った。
「自分は、しがない煙草屋です。名は利助と言います。父から、代替わりをする時に嫁をもらえもらえと言われて…でも、他はみんな嫌です…もし、もしお嫌でなければ…お宅様にいらっしゃいます、おりんさんを…!」
“おりんさんを”と口に出した途端、利助と言った人は顔を真っ赤にして、それきり俯いたまま、茫然と放心してしまったように見えた。
俺達は呼ばれた訳も分かり、大家さんの顔を見る。
「…というわけなんだ。どうだい、おりんの意見を聞いてみては。よく店先で顔を合わせて、何度か話をしたみたいだから」
そこで俺は、煙草屋から帰って来たおりんを思い出し、“ああ、あの時のが利助さんか”と思った。
利助はそのままほとんど何も言えなくなって、顔を赤くして俯いてばかりだったけど、「とにかく今夜聞いてみるから」と話した。利助は、「どうぞよろしくお願い致します。申し訳ございません」と、心配になるくらい声を震わせ、相変わらずまっかっかだった。
その晩、秋夫とおりんが花札をしているところに、おかねが話し掛けた。おかねからの方が、おりんも遠慮をせずに本当の事が言えるだろうと、俺達は話し合っていたのだ。
「ねえおりん。お前、ちょっと話があるから。秋夫、花札を片付けな」
「なんでぇ」
返事をしたのは秋夫で、花札を片付けたのはおりんだった。
それからおりんは正座をして、鏡台の前に居たおかねに向かい合う。
俺達は軽く目くばせをして、おかねはなるべくゆっくりこう言った。
「今日ね、大家さんへ呼ばれて行ったら、煙草屋の利助さんというお人が来ていてね」
おかねがそう言った時、おりんは急に脇を見て、俺達は顔が見えなくなった。秋夫はおりんの顔が見える壁際にもたれていたけど、おりんを見てびっくりしているようだった。
「それで、利助さんの言うには、お前を家に迎えたいって言うんだ。お嫁にだよ」
そこでおかねは少し黙っていた。おりんに考えさせるために、「どうだい?」と聞くのはずっと後にしようと決めていたのだ。おりんは人一倍遠慮をするから、すぐに聞いたら、「ええ、いいです」と無条件に答えかねない。
おりんは何も言わないし、俺達の顔も見なかった。おかねは次に話そうと決めていた事を喋り出す。
「あちらはね、お前と二、三、話をしただけだし、お前はそんな事考えてなかっただろうから、断ろうと思えば断れるんだ。だからお前、心配おしでないよ」
そこでおりんは顔を上げ、おかねを見つめた。俺はその横顔を見て、はっきりと分かったのだ。おかねにも分かっただろう。
おかねの言った事に反論しようとしたんだろう。おりんは頬を真っ赤にして弱弱しく眉根を寄せているのに、大きく開いた目はとても悲しそうだった。「断れる」ことを喜んでいるような顔じゃなかった。俺とおかねはもう一度、緊張気味に目くばせをする。秋夫は脇を見て仏頂面をしていた。
「おりん、お前、嫌じゃないのかい?」
そう聞かれて、おりんはみるみるうちにもっともっと赤くなっていったけど、俯いて、首を横に振った。
「でも、なんとも思ってないんじゃないのかい?」
もはや「なんとも思っていない」娘の取る仕草ではないけど、あえておかねは念を押したんだろう。
その後おりんが言った事は、俺達家族にはすぐに合点がいった。おりんはまた秋夫の方へ向いて俯き、口元をで指で隠し、もごもごと喋った。
「そんな事…あたしからなんて言えやしない…」
そう言って、困らせられているようにずっと真っ赤なまま、畳に目を落としているおりんを見て、俺達はほっとした。
第四十九話 盃
秋夫がふらふら遊び歩いていて、おりんもまだ小さかった時の話を、今日は振り返る。
元禄時代と言えば。と言ってすぐに思い出せる人も多いだろう事件が、元禄十五年に終結する。
その前から、江戸では、それぞれどれもまことしやかに、色々な噂が立っては消え立っては消えしていた。
“赤穂事件”
俺の居た現代ではそう呼ばれ、「仮名手本忠臣蔵」にも描かれた事件だ。
説明するまでもないが、公家からの客人が将軍家へ招かれていた日、その城内で|浅野内匠頭が吉良上野介へ切り掛かって、捕らえられる。将軍徳川綱吉は浅野へ切腹を申し渡し、浅野はこの世を去った。後に残された四十七人の赤穂義士は江戸の吉良邸へ討ち入りをし、吉良の首を浅野の墓へ供えて四十七士も全員切腹となる。そこで終わりだ。
江戸城から罪人が出てきた!
その触れが伝わったのは早かった。「不浄門」と呼ばれる、“平川門”から、どうやら人が乗せられた駕籠が出てきたらしいというのは、市民にも分かる事で、そこからあらゆる憶測が飛び交い、果ては「明日は上様のお葬式が執り行われる」なんて事を言い出した者も居た。
浅野の切腹は簡素な形式で粗雑に行われ、彼は罪人として、葬儀もせずに泉岳寺に葬られた。俺はその位の事なら知っていたから慌てなかったけど、江戸市中の人達ははっきりした事をまだ知らず、がやがやと騒がしく噂をしていた。
その後大分して、市民にも事が知れてからは、今度は、“浅野か吉良か”の論議が、酔っ払いの間で盛んに行われるようになった。
俺はある晩、珍しく一人で酒屋へ行った。そこには、既に出来上がってしまった中年が二人、それから若い町人と思しき四人連れが居た。
酒を頼みもしない内に、隣の床几に掛けていた酔っ払いの一人が、こう叫ぶ。
「吉良が悪いに決まってらぁ!お侍が城内で抜刀するなんてなぁ、よっぽどだよ!」
その声はあまりに大きく、俺の向こうの壁まで飛んで返ってきた。
「でも浅野様だって、訳はとうとう話さず終いだってぇじゃねぇか」
「口憚る程の事ぉする奴ぁいくらだっていらぁ!だから言えなかったんだよ!」
「そうじゃなくてよぉ、勝手な理由かもしれねぇだろうが!現に吉良様はお咎め無しだぜ!」
「勝手な理由でお侍が刀を使うかよ!」
「それぇ言うならよ!吉良様が勝手な真似ぇするか?あの日ぁ、お公家さんがおいでになったってぇじゃねぇか!」
いつまで経っても平行線らしいのに、酔っ払い二人は酒を飲み続け、喧嘩腰に喋っていた。俺はそれを聴きながら、考えるともなしにこの先に起こるべき事を考え、二杯程酒を飲むと、家に帰った。
“城代家老の大石を筆頭に、赤穂義士はもう江戸入りして、そこら中に身を隠している”
“赤穂義士は吉良邸までの地下通路を掘っている”
“吉良邸には赤穂の隠密が入っていて、討ち入りはもう間もなくだ”
こんな噂が、並べ切れない程囁かれ、遂に討ち入りの日はやってきた。
元禄十五年の暮れ、十二月十四日。俺は日付を勘定していて、今何が起こっているのか知りながら、その晩家で、考え事をしていた。
暗い中、屋敷の扉を打ち破り、慌てて起き出してきた屋敷の者達を次々に切り捨てる四十七士へ、近くの大名屋敷からは提灯が差し出されて、吉良の首は討ち取られる。
俺は、江戸時代に生きてはいるが、価値観はまだまだ現代人かもしれない。彼らのする事を美しい話だと叫ぶのは気が咎めるし、浅野がやった事が「無責任だった」と言いたい気持ちも無い訳じゃない。
もしかしたら、俺はこれを物語に書けたかもしれないし、もっと言えば、変えられたかもしれない。元から全てを知っているのだから。
でも、悲しい結末だからと書き換えて良いのは、本当に物語だけだ。それに、なぜだろう、俺は彼らが死ぬと分かっていながら、「止めなければいけない」と感じなかった。
もちろん彼等の命が必ずなくなるだろうと大いに悔やんでいるが、討ち入りを止めるのは、もしかしたら、命を奪うよりも無礼な事なのではないかと思ったのだ。
なんとも悲しい運命だが、出来てしまった物は仕方が無い。
彼らはもしかしたら、単純な運命に絡め取られただけかもしれないし、変えた先にもっと彼等が納得する運命もあったかもしれない。でも、そこに俺は関わるべきではない。
「秋夫」
俺の後ろで、小さなおりんとおかねが寝ていて、秋夫が寝る前の一服をやっていた。行灯の光は乏しく、俺が振り返ると、秋夫はこちらを見て、うるさそうな顔をしていた。
「なんだよ」
俺は、父親だ。これはきっと、秋夫に教えておかなきゃいけないだろう。
「義理の為なら、やるしかない事もあるだろう」
「はあ、まぁ…」
秋夫は、何の話なのか分かっていないようだった。それはそうだろう。みんなに知れるのは明日の朝だ。
「どれか一つしか選べない事だってある」
俺がそう言うと、秋夫は煙管を唇から離し、俺をじっと見た。
「必ずいつか、そういう時が来る」
「…おう」
秋夫は戸惑っていたけど、そう見せないようにと煙草を吸って、ふーっと煙を吐いた。
俺は目の前にあった酒を一気に飲み干し、湯呑の底を卓へ半ば叩きつけると、布団へ入った。
第五十話 晴れの日
俺達夫婦は、前々から呼ばれていた日に、利助の家を訪れた。
おりんは、俺達が出る前に、必死に怯えながら、「父ちゃん、母ちゃん、どうかよろしく言ってくれな、どうか頼むな」と泣いて頼んだ。昔から自信がなかったおりんだから、“相手方によく思われないのでは”と不安だったんだろう。
「大丈夫だ。うちで待ってな」
俺はそう言って慰めた。
「ゆっくり休んでおくんだよ。秋夫、お前、おりんを頼むよ」
秋夫は、「わかったよ」と背中で返事をした。
俺達は利助の煙草屋を訪ね、表から声を掛ける前に、利助に迎えられた。
「ああ!これは…どうも、お越し下さいまして、申し訳のない…!」
また口が利けなくなってしまったらしい利助に、おかねは優しく笑って「いいえ、お招きにあずかりまして」と返した。
「今日はよろしくお願いします」
俺がそう言って頭を下げると、利助は「こちらこそ…」と三度ほどぺこぺこお辞儀をした。
この間はどうとも気にしなかったけれど、利助は十分にいい男だった。
眉目秀麗とまではいかないけど、濃く太い眉に、切れ長の目、それから、薄い唇。でも、それらはすっかり気弱に垂れ下げられているので、“気が弱そうだな”という印象の方が強く残ってしまう。ちょっと惜しいところがあって、憎めない男だなと思った。
俺が俯いている利助を観察している間で、利助の父親らしい人が店の奥の間から出てきた。
襖ががらりと開くと、煙草の葉を刻んでいるらしかった仕事場が見えて、俺達が立っている土間に、背の高い、白髪の老人が現れた。
老人は快活そうな微笑みを浮かべて俺達を見ていて、二度ほど頭を下げながらこちらへ来る。
「いやいや、わざわざのお越しですまなんだ、利助の父で、利吉と言います」
「楽しみにしておりました」
おかねはにこにこ笑って利吉さんに挨拶をして、俺達は奥の間を通って、住まいに通された。
「それにしても、まさかうちの利助がおりんどんを仕留めるとは、思いもしませんでしたよ」
「そういう言い方はよしとくれ、親父」
「うふふふ、二人とも照れ屋なのが、合ったんでしょう」
おかねはこういう時に頼りになる。四人で話をしていたけど、うちの側はほとんどおかねが喋っていて、利助と利吉さんの話に上手く調子を合わせて、華を添えてくれていた。
“おりんは、あなたとの縁を喜んでいます”
その台詞だけは俺が言ったけど、その時の利助の表情と言ったら。
よくもあれだけ大きく開けるものだなといったように驚愕に見開かれた両目に、俺達も一瞬驚いた。
それから、「ありがとうございます」とか、「こんなに嬉しい事はありません」なんて事をありったけ言ってしまって、しまいにはおいおい泣き出したのだ。
俺達は少し酒を振舞われて、式の日取りについて話し合い、「おりんさんにどうぞよろしく」という利助の言葉をしっかり受け取って帰った。
婚礼の支度は、なかなか大変だ。
おかねはおりんに着物や櫛などを渡してやって、後々、利助方からも婚礼の衣装を調えるだけの代金が贈られてきた。
「どうだいお前、これは気に入りそうかい?」
おかねが新しい櫛や着物を着せてやっても、おりんはどれも「綺麗だなぁ」と感心してばかりで、結局おかねがどれがいいのか決めてから、おりんは「うん」とそれを了承した。
「まったく、お前ねえ、嫁入りなんだからもうちょっとしっかりしな」
「うん…」
おかねが言って聞かせてやっても、おりんは綺麗な打掛を身にまとった自分の姿に見惚れていて、聴いているのかいないのか分からなかった。
俺達は慌ただしく嫁入りの準備をしていたけど、俺は気になっていた事があった。俺達の様子を横目に見ながら、秋夫が面白くなさそうな顔をしていて、おりんの婚礼について、喜んでいなさそうだったのだ。
おりんの嫁入りの二日前、俺は秋夫を飲み屋へ誘っていった。
「なあ、男同士の話があるから、飲み屋へ行こう」
おかねがはばかりに、おりんが納豆屋の相手をしに出ている時、俺は秋夫にそう声を掛けた。秋夫は嫌そうな顔をしていたけど、俺が「なあ」と繰り返すと、渋々立ち上がった。
「俺達はちょいと出かけてくる。すぐに戻るから、先に夕飯を食べててくれ」
「あらそうかい」
長屋から出る前に、はばかりから出てきたおかねへそう声を掛けた。おりんは、長屋の奥へ入って行った納豆屋を追いかけて行ったようだった。
近辺にある飲み屋はどれも騒がしくてせせこましい。どこを選んでも大して変わりはないので、俺達は一番近い店へちょっと歩いた。
「おう秋夫ぉ。おとっつぁんも一緒かい」
「おう、にごりを三合くれやぁ」
店の親父に迎えられ、俺は一礼して、近在の飲み屋をいつも渡り歩いている秋夫に注文を任せた。
「今日は蛸があるぜ」
「じゃあそいつを。煮つけか?」
「おうよ、待ってな」
すぐに温められた蛸の煮つけが出され、俺達は湯呑へ酒を注いだ。それから俺は秋夫へこう聞く。秋夫は店に吊るされた魚を気にしている振りをしていた。
「なあ、お前、なんだってそんなに気に入らなさそうなんだ?」
俺が聞いた事の意味は、秋夫にも分かったらしい。でも、秋夫はしばらく俺を見つめてから下を向いた。そして、こんな事を言ったのだ。
「…昔、利助を脅した事がある」
「脅したって」
俺は長い事秋夫の父親をやっていたので、大して驚かなかった。でも、秋夫は片手を顔に押し当てて悔しそうな顔になり、それからその手を前に放り出した。
「ちょっと金に困ったって時に、脅かして、金を巻き上げたんだ…それを奴が覚えてたら…」
俺は“そういう事なら”と合点がいき、秋夫にこう言った。
「覚えてる」
俺が言った事に、秋夫は驚いて顔を上げた。その時初めて秋夫は、怯えた顔をしていた。
「そういうのは人間は忘れねえもんだ。お前、今から行って謝ってきな」
秋夫はバツが悪そうに横を向いていたが、持っていた湯呑を置いて「ちょっと行ってくる」と言い席を立った。俺はしばらく一人で酒を飲んでいた。
“俺が江戸時代に来た時は、何も持ってなかった。それが、子供を持ち、娘を嫁に出す事になるとはな…息子に説教も…”
しみじみと色々な事を思い出しながら、俺は酒を飲み、すぐに酔いが回ってきたので、蛸の煮つけを味わって食べた。
小半刻もすると秋夫は戻ってきた。
黙って座敷に戻ってきた秋夫は、まずは湯呑から酒をぐぐっと煽って、ぷはあと息を吐く。
「ふいーっ。堪ったもんじゃねえ。あんなに極まりの悪ぃもんはねえぜ」
俺は笑って、秋夫の湯呑に酒を注いでやる。
「まあ、謝るってのはそういうもんだ。でも、すっきりしただろ?」
そう言うと秋夫は顔を赤くして、「まあな」と小さく息を吐いた。
「“自分は気にしてない、謝ってもらえたらいいだけで、おりんに何を言うつもりもない”、とよ。まったく、良い奴なんだか頼りにならないんだか」
自分が悪い事をしたというのに、それを騒ぎ立てない利助の事が気に入らないらしい秋夫に、俺は思わず笑ってしまった。
元禄より宝永を挟んだ正徳三年の冬の日に、おりんは十六歳で、利助の元へ花嫁となって旅立った。
まずは昼に婿の利助が家に来て、おりんはそれを迎えて、頭を下げた。
家の戸口をおかねが開けて、「どうぞようこそ」と中へ迎えると、俺の隣に座っていたおりんは真っ赤になって俯き、居た堪れなかったのか、座ったままで利助へ深く頭を下げたのだ。
利助もどうしたらいいのかわからないのか、ぐるぐる目を回しながら戸口に突っ立ってばかりいた。だから俺は、おかねに「利助の足を拭いてやんな」と言った。
「そんな!自分で出来ます!こちらの手ぬぐいでよろしいので?」
そう言って利助が手に取ったのは、おかねの羽織だった。
「お前さん、あたしの羽織を泥だらけにしちゃいやだよ。ほら、足をお出しな」
「は、すみません…」
利助が家に上がると、おりんはますます俯いてばかりになり、“これで披露の席に立つなんて大丈夫なのか”と少し心配になった。
でも、おりんの前に利助が来ると二人は見つめ合って、おりんは、今まさに来た幸福の絶頂へと押し出され、泣き出しそうに笑った。
利助も泣きそうに笑い、俺達は二人に酒を注いでやって、二人も俺達の盃に酒を差してくれた。
花嫁衣装の披露は、利助の家で着替えてやる事になっていたので、おりんは、新しく買った小紋縮緬と桃色の羽織を着ていた。
それから少し食事をしていたけど、利助とおりんはたまに互いをちらっと見ては、俯いてから幸せそうに笑うばかりで、何も話そうとしなかった。
祝いの膳には、田作りや数の子が並んでいた。誰もが踊り出したいほどこの場に感謝をしているはずなのに、その分精一杯口を引き結んで、粛々とご馳走を胃袋に収めた。
おりんと利助は早く二人きりになりたいんだろうに、俺達は何という事もない互いの家の話などを出して、その場を次いでから、昼過ぎにおりんと利助を送り出した。秋夫は「おりんの荷物を持っていく」と言ってついていったが、すぐに帰ってきた。
「上手くやってるかねえ、おりんはさ」
すっかり緊張が解けてぐったりと壁にもたれたおかねがそう言う。
「あいつぁ結構抜け目がねぇんだ。心配ねぇよ」
秋夫は、さっきまではちびちびと控えめに飲んでいた酒を、がらっと煽る。
「きっと上手くいくさ。利助がいるんだ」
俺は、“なかなか上手い事が言えたな”と思った。
利助は頼りにならなそうに見えるけど、俺はずっと利助の隣に座って、彼の様子を見ていた。彼がおりんを、大事そうに大事そうに見つめているのを。
別れ編
第五十一話 死と香
「親父、帰ったぜ」
「おう」
その日、俺と秋夫は二人で酒を飲んだ。秋夫が家に居る、最後の日だったからだ。
秋夫はあれから、次郎と組んでの八百屋から成長して、一人でやっちゃ場から家までを渡り歩くようになり、少々信頼もついたらしい。そこで、一人で居を構えて仕事に集中した方がよかろうとの話になったのだ。
「相変わらずおめぇはすぐに真っ赤になるぜ、親父さんよ」
秋夫はヒヒヒと笑ってそう言う。
「生意気な口利くな」
大して威勢もない俺がそう言うと、秋夫はもう一度ニヒヒと笑った。
「秋夫、煮しめを食べるかい」
おかねがそう言うので秋夫は機嫌よく振り向き、「おうよ」と言って返した。すると、おかねが日の暮れ方に買った煮しめが膳に出される。椎茸と蓮根だけだったが、甘辛く味付けのされた、大層美味しいものだった。
「おっ、こいつぁいい。なかなか腕のあるやつのもんだな」
えらそうにそんな事を言ってみせる秋夫。俺はそれを、「もっと有難く頂きな」と窘める。それももう、今日で終わりになる。
「はーうめえ」
蓮を食べては酒を飲み、飲んだら椎茸を口に放り込む。すっかり大人の酒飲みだ。でも、そんな秋夫を見つめていても、「俺の子なんだ」と胸に迫る気持ちがあった。
「なあ、秋夫…」
「なんでぃ」
俺は、べらべらと喋るわけにはいかなかった。恰好をつけたいわけじゃない。とても単純な事を話すからだ。
じわりじわりと俺の下瞼に涙が溜まる。秋夫は俺の様子を見詰めていた。
「達者で暮らせよ」
俺がそう言うと、またニヒヒと笑い、秋夫は「そっちこそだ」と言ってくれた。
それから、俺達家族は散り散りになってしまい、もちろん嫁に行ったおりんの元を訪ねるなんてほとんど出来ないし、独り立ちした秋夫の邪魔も出来ないと、俺達は子供達にほとんど会えなくなった。
「さみしくなったねえ…」
おかねがそう言いながら、お茶を飲む。俺は、「ああ」とだけ返す。
それから一年ほどが経ってからだ。おかねが時々咳をするようになったのは。
「ごほん!ごほん!いえ、すまないね…ちょっとお待ち、おさめるから…ごほん!ごほん!」
稽古の合間に喉を使うと、おかねの咳が始まるようになり、それはだんだんとのべつの事になっていった。
「おかね、医者に診てもらおう」
俺がそう言っても、やっぱりおかねは初めは聞かなかった。
「いいよこのくらい。風邪なんだから、すぐになおるさ」
俺は彼女の両肩をがっしと掴み、「だめだ」と言った。俺が急にそんな事をしたもんだから、おかねは驚いてしまって一瞬体を固くしたが、力を抜いた時には、「わかったよ」と小さく言ってくれた。
おかねは、多分結核に罹っている。
“どうしてこんなに病ばかり…”
俺は、自分達が天然痘に罹った時の事を思い出していた。それから、昨日おかねが咳をした後で、胸元にするりとしまった、赤い手ぬぐいも。
咳に、血痰。間違いない。
おかねは、そろそろ五十八になる。俺はまだ四十八だ。正確な勘定が難しいけど、俺は元禄元年に二十三歳で江戸へ来て、その時おかねは多分数えで三十四だったから、俺達は十歳の差がある。
いくら力をつけようとも、結核を治すのが大変だというのは、何も知らない俺だって解る。俺の居た現代でも、抗生物質無しには撃退出来ない病だ。
俺達はある日に、医者を家に呼び寄せた。おかねは咳ばかりしていて辛そうだったから、「家に呼ぼう」と俺は言ったのだ。
お医者は歳のいったお爺さんで、一通りおかねの診察をしてくれたが、最後に首を振って、「胸の病だ。なるべく力をつけなさい」と言っただけだった。
俺はしばらく、泣き暮らした。もちろんおかねの見えない時に。
“この時代に、結核に有効な治療は何もない…彼女が…彼女がもし死んでしまったら…!”
そう思って、心細くて堪らなかった。
おかねは、「おりんや秋夫には言わないでくれ」と頼んだ。「心配をさせちゃならない」と気丈夫に振舞っていた。でも、血を吐くのがしょっちゅうになってくると、「おりんはどうしてるかねえ」なんて口から漏れるようになり、俺はますます泣いてばかりになっていった。
“どうしたらいいんだ”
どうしようもないのだなんて、絶対に思いたくないのに、多分そうなのだ。
おかねの体は瘦せ細り、見る影もない。俺は、彼女がゆっくりと休めるようにもしてやれない。夜中もおかねは咳をし続けて、寝る間もなかった。
“ああ…”
俺はある晩、秋夫を家に呼んだ。戸口に立った秋夫はしばらく絶句してから、おかね目がけて、「お袋!」と叫び、抱き着いた。
「なんてこった…!なんてこった…!」
おかねの病気がなんなのかは秋夫に話してあったし、今の様子がどんなものかも聞かせた。それでも受け入れ難い、げっそりとやつれたおかねの姿。それを見てしまった秋夫は、この先が分かってしまって、わんわんと泣いた。
「なにさ、秋夫、泣くんじゃない」
風がさざめくような微かな声で、おかねはそう言って笑った。
おかねは、その年の暮れ、逝ってしまった。五十九歳だった。そして正徳が終わった。
彼女が最後に吐いた血が、まだ手にこびりついている。俺はそのままの姿で放心していてしばらく気づかなかったが、不意にどやどやと足音がして、振り返ると、おかねの両手両足を二人の男が抱えて、樽に詰めようとしていたのだ。
「何を…何をする!」
俺ががむしゃらに彼らにつかみかかろうとしても、脇から誰かが出てきて、俺を押さえつけた。
「嫌だ…!嫌だ…!連れて行くな!連れて行くな!」
おかねを樽に押し込め、蓋をした連中が、まるで死神のように見えた。でも、誰も俺を叱らなかった。
秋夫やおりんが駆けつけてから、俺はやっと正気を取り戻したが、泣いて泣いて話をするどころではなく、おりんや秋夫も同じだった。
近くの寺で経を上げ、縁のある人達とのお別れが済むと、彼女の体は土の下に埋められた。
俺は、誰の悔やみを聴く余裕もなく、ぼーっとしていて、秋夫の方がしゃっきりしていたくらいだ。
葬儀が終わって家へ帰る時、おりんや秋夫とも別れてから、ぽつりとこんな言葉が降ってきた。
“俺が江戸時代に来たのは、彼女のためだったのに”
俺はぴたりと立ち止まる。口から小さく、「そうだ」と声に出た。
そうだ。俺が江戸時代に来たのは、彼女のためだった。子供達はもう独り立ちしたんだ。あとは彼女の微笑みを見詰めて、また彼女に尽くせる日々がやってくるはずだった。
顔を上げると、遠くにぼーっと富士が見え、頭の上には太陽があった。俺はびしっと空を指さし、太陽を睨みつけてこう叫ぶ。
「やい!もう俺を戻せ!俺はこんな所にいたくなんかないんだ!」
“おかねの居ないところになんて…!”
俺はそう思っていたはずが、どこからか懐かしい香りが漂ってくると、強い恐怖が湧き上がった。
俺はその時、寺からの小さな道を歩いている所で、辺りには誰も居なかった。そこへ、あのお香の香りと、眠気がやってくる。もう何十年も前なのに、俺はなぜかその香りをはっきり覚えていた。
「いやだ…」
不意に口からついて出た泣き声さえ、どろっとした眠気に食い潰されていく。
“嫌だ、彼女と別れてしまうなんて嫌だ!”
俺はそう念じて、泣きながら目を閉じた。
第五十二話 二十五年
俺は、目眩の中をたゆたいながら、段々と大勢の人が歩く音へと近づいていくような気がした。
香の香りは途中で途切れ、目を覚ました時には、背中に石のような硬い感触を感じ、目を開けると、ビルの窓ガラスがそびえ立つ、東京に戻っていた。
視界に飛び込んできていたビルは、どこの物か分からない。でも、足早な雑踏は誰も俺に構わず、なんとなく東京だろうと思えた。
俺は思い出を引きずる暇もなく、自分の居場所を探さなければならなくなった。
「すみません、聞きたい事があるのですが…」
俺がまず向かったのは、付近にある交番だった。それは道行く人に場所を聞いたのだが、俺が道を聞こうとすると、その人は酷く怯えて、おどおどとしていた。
途中で気づいて元結をやぶり、俺は元の“山賊”の髪型へと戻る。頭頂部を剃り落とすのはお武家だけだから、町人はほどけばいいだけだ。
交番に着くと、下駄履きに古い着物姿の俺を見た警察官さん達はどよめき、俺は訝しがられながらも、暖かく迎えられた。
「それで、お帰りになるお金がないと」
「え、ええ…財布を失くしてしまいまして」
俺は、江戸時代にタイムスリップした時と同じように、事情を伏せて、警察の人からお金を借りようとした。
しかし、「一応、住所氏名を控えさせて下さい」と言われた時、はたと困ったのだ。
“俺の住所、まだあるかな?”
そこで、確かめようと思って、俺は、目の前に居る警察官さんにこう聞いた。
「あの…今は何年でしょう?」
「はあ、令和の二十七年ですが」
“なんだって!?”
俺はもちろん、“元居た時間にきっちり戻って来れるだろう”なんて自信があった訳じゃない。でも、自分が江戸で過ごした二十五年程の年月が現世でも流れ去っていたなんて、予想をしていなかった。
俺は驚いて叫ばないようにぐっと堪えたが、警察の人は、俺が酷く驚いている事に気づいたようだった。
「どうしました」
「あ、いえ…その、もう一つ、相談したい事があるのですが…」
俺の頭の中は混乱でいっぱいだったが、必死に今やるべき事にたどり着くまで、考えた。
多分、俺が住んでいたアパートには、既に俺の居場所は無いだろう。
家族は捜索願を出してくれたかもしれないが、二十五年が経ってもまだ探しているなんて事はあるだろうか?しかし、確かめない事には分からない…
そこで俺は、警察官さんにこう言った。
「あの…実は、現住所がないんです…」
「はあ」
警察官さんは、ますますこちらを疑うような目で、軽くため息を吐く。でも、俺にとっては大きな問題だ。だって、もし居場所が全く残されていないとしたら、俺はホームレスにならなきゃいけなくなるかもしれない。
「長いこと、家出をしていたもので…それで、捜索願が出されているのか、確認したいのですが…」
「家出?ご家族の方に報せないでですか?」
「え、ええ…」
あまり納得していないようだったが、俺の言い出した事は人を騙すために使われる手口でもないし、警察官さんはもう一度俺に当時住んでいた住所を書き出すように言った。
「ええ…矢島昭さんです。はい、そうです…」
俺は、当時の現住所と氏名、年齢を書き出し、同じ人物の捜索願が出されていないか、調べてもらっていた。その間に俺は、別の警察官さんから、コーヒーを出してもらった。
“コーヒー、久しぶりだな…”
江戸時代には手の届かなかった、現代文化。それを目前にすると、自分が本当に現代に帰ってきたのだと分かり、どこか詫びしく思った。
俺が二口ほどコーヒーに口を付けた時、電話をしていた警察官さんがこう叫んだ。
「えっ!ある!?あったんですか!?本当に!?」
“やっぱり…”
多分、俺の親か誰かが、俺の捜索願は出していたのだろう。
“でも、途中で諦めてしまって、俺は死んだ事にされてやしないか…”
やがて電話が終わり、俺を調べていた警察官さんは戻ってくる。
「出ていたそうですよ。捜索願。それで、あなたは二十五年前に家出を?」
「は、はい」
「そうですか…でもねえ、捜索願というのは、三ヶ月で期限切れになるもので、事件性が無い場合は更新はされないんです」
「そうなんですか…あの、家族と連絡を取りたいのですが、私は、スマホも持っていなくて…電話を貸して頂けないでしょうか?」
「ええ、どうぞ」
俺は、半分ほど諦めながら、実家の固定電話に電話を掛けた。それは俺が小さい頃から変わっていない番号だったし、よく覚えていた。
“まだ繋がればいいけど…もしかしたら…”
その先の事を考えまいとしながら、俺はコール音が鳴るのを待った。
ル…ルルルルル…
“鳴った!番号はあった!”
電話番号はまだ存在していると分かり、俺は少し気持ちが上向いた。しかし、ここで全く違う、移住してきた住民が出たりしたらと思うと、まだ安心できなかった。
三回、四回と繰り返す内に緊張が高まったが、やがてガチャッと音がする。
“……はい?”
やや遠慮がちに、警戒しているようなその声は、間違いなく俺の父親だった。もうほとんど覚えていないと思ったし、歳も取っているはずなのに、“ああ、父さんだ”と分かった。
でも、俺は何から言えばいいのか一瞬迷い、やっぱりこう言った。
「…父さん、久しぶり。昭だよ」
すると、電話の向こうからは息を飲む気配が流れ、ややあってからして、また父が話し始めた。
“昭…?本当に昭なのか?”
「うん、そうだよ。帰ってきたよ」
そう返すと、やっぱり父は怒った。
“…お前、こんなに長く、一体どこに居たんだ!”
「訳は今は話せない。実は、交番で電話を借りてるんだ」
その後、なかなか電話を切りたがらなかった父だけど、お金も身分証も無いと話すと、「迎えに行くから」と言われ、父の車で俺は帰る事になった。
俺は、交番の警察官とはほとんど話さずに、ある事を考えていた。
“俺は、もう“秋兵衛”じゃないのかもしれない”
“これからは、矢島昭として、生きていかなくちゃいけない…”
この現代では、俺を“秋兵衛”と呼ぶ人は一人も居ないだろう。でもそれでは、俺が江戸時代に居た頃の子供達や、おかね、大家さんに籠屋の二人…それらの人達が、まるで元から居なかったかのようで、寂しかった。
再会した父はすっかり白髪になっていたけど、まだ元気そうで、日焼けした顔で、しゃっきりしていた。そして、俺に突然こう言った。
「家に帰ったら、話したい事が二つある」
第五十三話 故郷
東京都心から道を外れる前、俺は、色々な事を考えながら、景色を見ていた。
“ああ、越後谷屋服店はここから二本道を逸れてからだったな”
“ここのお稲荷さんはまだ続いていたのか”
“ああ、あそこにあった橋はもうないのか…”
でもそれも、ビル建築に置き換わった現代では上手く照らし合わせられなかったし、道路も大分変わっていたので、全部が全部分かるわけじゃなかった。
川を越えて進むと、だんだんと道は広くなり、時折緑が見えるようになってくる。やがて田畑が両側を挟む郊外へ出ると、もうすぐ俺の実家だ。
“江戸時代に居た頃は、江戸から出なかった。でも、ここらの景色は、あまり変わっていないんだろう…”
俺はいつまでも忘れられない時代を追いかけていたけど、家が近づいてくるとある一つの事を考え始め、やがて車は実家の駐車場へと滑り込んだ。
俺の実家は、少し荒れていた。障子は破れ、雑誌が床に積み上げられて、埃にまみれていた。
“母さんは掃除をいつもしていたけど”と思い出し、俺は先読みして嘆息するのを堪えた。
「まずは、母さんに挨拶しなさい」
俺はそう言われて、家の奥にある仏間に通された。
小さな位牌と、笑顔の遺影。父が仏壇を開けると、それが現れた。予測していたはずなのに、俺は目の前の事が上手く理解出来なかった。
「母さんは…」
俺がそう言いかけると、父は一度首を振り、こう言った。
「闘病は、長かった…でも、決してくじけずに居たよ。もう、十年も前の事だ…」
「十年…」
俺は思わず口に出し、十年前に自分が何をしていたかを思い出した。
“ああ、そうか…おりんがまだ幼くて、秋夫が商売を始める前…”
そこで俺は、自分が生きた時とこの現代に流れる時間が全く重ならない事に、少し混乱しかけた。なので、母の遺影に目を戻す。思い出される昔の面影をはっきり残す、溌剌とした母の笑顔。
母の笑顔は、いつも誰かを救った。母に声を掛けられた人は、みんな同じ笑顔で喜んでいた。優しく、細やかな気遣いが出来る母は、誰からも愛された。母も皆を愛していた。
何か困る事が起きた時も、母は相手を慮って、「そうねえ、きっとあの人も大変なのよ」なんて言っていた。
だけど俺は、母さんが旅立っていく所を見たわけじゃない。母さんが苦しんでいる姿だって、ほとんど見ていない。
“本当に?本当に死んでしまったのだろうか?”
でも、そんな事は父に改めて聞けるはずもなかった。でも、俺がすぐには受け入れられなくて戸惑っていても、父はそれについては何も言わず、「腹が減ったな、食事にしよう」と言った。
父がガスレンジのツマミを捻ると、炎がすぐに灯る。鍋の中には豚肉と玉ねぎが投げ込まれ、少し炒めてから、濃縮つゆと水、砂糖を入れて煮込めば、母がいつも作ってくれた料理の完成だ。
“母さんは、手の込んだ料理はあまりしなかったけど、いつもごはんは美味しかった”
そう思う裏で、俺はやはりまだ、あの時代の事を考えていた。
“江戸の裏長屋では、おかずの調理なんて出来なかったな…竈は一口だけだった…”
「さ、食べよう」
「うん、いただきます」
俺と父は、揃って母が生前作っていた料理を食べた。でも、同じように作ったはずなのに、味が違っていて、その時初めて、俺の心に母の死が迫ってきた。
もうあの味は食べられないし、この家をいつも綺麗に掃除をしていた母さんは帰ってこない。
“俺はもう永遠に母さんには会えないんだ!”
その思いに胸を責められ、堪えているのに、涙が溢れてくる。止まらない。食べている物が口に入っているのに、俺の口からは泣き声が漏れた。
「うう…うう…」
父は黙々と食事をしていて、俺は食事の間、泣き通した。
その晩俺は、実家に置いて行ったままだった学生時代の普段着に袖を通し、着物は洗濯へ出した。
洗濯機を見ても、電子レンジを見ても、俺はなぜかあまり喜びを感じられなかった。
母の死について考え続けるので精一杯だったのかもしれないし、江戸時代を離れた証拠として、それらが在ったからかもしれない。
交番での電話では、父は「今までどこに行ってたんだ」と怒ったのに、実家に帰ってからの父は、それを聞いてこなかった。もしかしたら、俺が母の事で混乱していると思っていたのかもしれない。だから俺には、本当の事を話すべきか、考える時間があった。
実家に居た頃に自室として使っていた部屋も、埃が積もっていたけど、父が出してくれたのは客用布団だったから、眠る気分はいくらか清々しかった。でも、俺は考え事に追いかけられ、あまりその快さは感じられなかった。
“本当の事を話したとして、信じてもらえるのだろうか?”
“いいや、その前に、あれは本当の事だったんだろうか?”
現代に戻って、現代人の生活にまた慣れ親しむようになった俺には、だんだんと「自分は江戸時代から帰ってきたのだ」とは思えなくなってきていた。
“話さないでおこう。でも、それなら代わりにどう言えばいいんだ…”
俺は考え事もそのままに、疲労に押されて眠ってしまった。
夢の中で、俺はおかねの死にざまを見ていた。
「ごほん!ごほん!」
おかねは盛んに咳をし続け、彼女の表情は苦悶に歪んで、息も出来ない苦しみに喘いでいる。
「おかね、しっかりしておくれ…おかね…!」
もう何をする体力もない彼女の体は、それでも吐き出させよう吐き出させようと彼女を苛む。俺はそれを見せつけられていて、“もう苦しめないで”と強く願うのに、彼女は血を吐いた。
「おかね!」
「げほっ…ごほ…」
喉に血痰が詰まっては大変だと、俺は彼女の背中を叩こうと、腕を引っ張って体を持ち上げようとした。でも、おかねは全く力を抜いて、べたっと布団に寝たままだった。
「おかね、痰が詰まっちゃ大変だから…」
そう言い聞かせても、彼女は何も言わないし、動かない。痰が詰まって苦しげにもがく事もなかった。
「おかね…?」
俺が彼女の顔を見ると、僅かに眉間に皺を寄せ、口元を血で濡らしたまま、彼女は目を閉じていた。
その様子を少し見て、俺にはすっかり分かってしまった。
理由もないし、何を知っていたわけでもないのに、彼女がもう動かないのを俺は分かってしまった。
俺はしばらく絶句して、動かない彼女の体を見詰めた。まるで時が止まったようだった。
俺は恐ろしかった。彼女の体が意思を失くした抜け殻となってしまった事などもう分かっているのに、それを理解するのが怖かった。そして理解した時、悲しみがわっと溢れた。
「や…いやだ…おかね…」
俺は泣きながらおかねの着物の襟首を掴み、彼女の体を揺らして名前を呼ぶ。おかねの首はガクガクと揺れ、枕から頭が落ちても、彼女は起き上がらなかった。
「おかね…まだダメだ!ダメだ、おかね!」
もう届かないのを知りながら、俺はいつまでもそう叫んでいる。その内に長屋の住人が俺の叫びを聞きつけ飛んでくるまで、俺は彼女にしがみついて泣いていた。
はっと気が付いた時にはもう朝だった。俺は少し息切れをしていて、汗をかいていた。
「おかね…」
夢の光景を思い返し、彼女の名前を呼んだけど、俺は今ある生活のため、布団を手で擦り、感触を確かめていた。
二階にある自室から階下に降りていくと、父が朝食を作っていた。
「おはよう」
父は振り向かず、鍋の中を見つめている。
「おはよう」
食事をする気にはなれなかったけど、俺はなんとか食べ物を口へ運ぶ。その日の朝はカレーだったのに、嬉しい気持ちは湧いてこなかった。
食後、父は「出かけてくる」と言って居なくなり、俺はぼけっとキッチンで煙草を吸っていた。
“江戸では刻みを煙管で吸うから、手数がかかったよなあ…”
そう考えていると、おかねが煙管をくわえ、火鉢へ屈み込む様が目の前に浮かんでくる。でも、彼女はもう居ない。よしや生きていたとしても、絶対に会えない。
俺は母も妻も亡くし、子供達にも会えなくなってしまった。
“みんな…あのお香のせいだ…”
俺はすべての始まりを思い起こし、良い香りがしたはずの粉の香が憎らしくて堪らなくなった。それから俺は、思い出の中を旅した。
おかねに拾われ、「善さん」に似ていた俺は気に入られて下男として働き、一緒に病を乗り越え…おかねが吹っ切れてからは恋仲となり、夫婦となって…とそこまで考えた時、俺は忘れていた事を思い出したのに気づいた。
“そういえば、「善さん」とは、何者だったのだろう?俺にそっくりとおかねは言っていたけど…”
もう何を考えても何もこの手には還らないのに、もしや思い出を確かに出来やしないかと、俺は帰ってきた父にこう言った。
「ねえ、うちって家系図とかなかったっけ」
第五十四話 古い日記
「うちって家系図とかあったっけ?」
俺がそう聞くと、父は「いいや」と言った。それから、出かけていた荷物をほどいて財布や煙草を取り出しながら、こう言う。
「それは知らないが、土蔵の中にあ箪笥には、先祖代々の品がいくらかあるはずだ」
土蔵の門を開けてもらう時、俺はずいぶん面倒がられた。「なんでそんな事をするんだ」と何度も聞かれたけど、「とにかく、お願いだよ」と言う他なかった。
父は土蔵の鍵を探すのに二十分掛け、錆びついて上手く動かない鍵を開けるのには二分を要した。
土蔵の中に踏み入った時、梅雨どきの蒸し暑い日だったのに、中は冴え冴えと冷えているのが分かった。でも、澱んだ空気は埃の匂いがした。
暗くてよく見えなかったが、土蔵の中には様々な物があった。うちは曽爺さんの代まではまだ農家をしていたから、それらの道具、それから、甲冑や刀が大した気遣いもされずに放っておかれていて、土蔵の隅に、すのこの上に置かれた箪笥があった。
俺が箪笥を開けてみようと懐中電灯に火を灯す前に父は引き返していき、俺は一人で口に懐中電灯をくわえて、一段目の引き出しを開けた。
一段目には着物が詰まっていて、どれも取るに足らない普段着のようだった。俺はちらっと江戸時代の事を思い出しかけたが、気を取り直して二段目を開ける。
二段目は、どうやら子供のおもちゃが入っていたようで、けん玉やら凧やらが雑多に詰め込まれていた。それもすぐに閉じて、今度は三段目を開けた。すると、どうやら目当てだった、書物の引き出しに当たった。
“家系図だったらやっぱり巻物かな。でも、父さんも見た事ないと言っていたし…”
俺は、懐中電灯を引き出しの中に置いて中を照らせるようにして、両手で様々な書物の表紙を確かめた。
“日本料理絵図”…違うだろう。
“農民心得触書”…ちょっと興味はあるけど、これは後だ。
何冊か確かめても、うちの家系を話題にした本はなさそうで、俺は諦めかけた。でも、隅にぐちゃっと寄せられていた小さな冊子を手にした途端、俺は驚いた。
そこには二冊の、同じような糸閉じの本があった。片方の表紙には「おやえ」とあり、もう片方は「善助」。どちらも筆文字だった。
普通なら読みづらい草書も、俺はすらすらと読める。だからまずは、「おやえ」の方から開いてみた。
紙魚が這う本はどうやら日記だったようで、粗末な紙には、手書きの筆文字が並んでいた。
“七月二十日
いっかうにくらしが良くならず、納豆屋も相手にできない。
善助と三郎太はどうしてゐるか。
質におくものとてあらず”
“八月二日
手内職はこれがよいあれもよいと言われたが、それにくわえ袖乞いに出ねば、生きてゆかれぬ”
その日記はやけに日にちが飛び飛びだったが、どうやら「おやえ」は「善助」の母で、父はもう居なくて、善助の兄か弟が「三郎太」だろうという事が分かった。それで俺は、おやえの方は後にして、「善助」と書かれた日記を開いてみた。
善助の日記はやけに字が汚く、それに、書き間違えも多かったので、読むのが大変だった。でも、あるところで俺は内容に釘付けになった。
“一月二日
三が日までのやすみで皆飲んでさはがうと云い、仲間と遊びに出た時、よしはらへ連れられた。
こんなところへ囲われているような女だらうかといううつくしい娘ばかりで、己はたいそうおどろいた。”
“一月三日
こんどは一人でさかだいへおとずれ、昨日と同じ春風をなざした。
春風は己をみてうれしそうなかおになり、またなざしておくんなまし、と笑ってくれた。”
「春風」という字を見た時、俺は狂いそうなほど驚いて、「あっ」と声を上げた。
“四月八日
銭がなくてしばらく行けなかったさかだいへまいると、春風はよろこんで寝間にいれてくれて、己はいくらか身上話をした。春風は己のくらしに同情してくれて、己たちはたゝ゛ねむった。うれしかった。”
“ 二月に一度ほどしか春風にはあえないが、店に行って己がことわられたことはない。
春風はある晩、外へ出たらぬしにひもじい思いはさせんせん、わちきを女房はんにもらってはくれんせんかと云った。”
俺は、熱してくる頭を気にする事も出来ず、わやくちゃの文字を読み続けていた。
“春風は、きっぷのよい、つつぱつた女にみえるが、根はとてもやさしく、きつちり己のめんどうは己でみる、いい女だ。いや、とても好い方だ。己はあの方といつしょになりたい、めおとになりたい、あの方が毎晩すこしでも己のことをあはれんで下さるなら、己はなにもかもを投げ出すだらう”
「おかね…」
俺はすべてをすっかり見通し、そこにまた彼女の姿を見つけて、名前を呼んだ。でも、最後のページは、読むのが憂鬱だった。
“おかね、すまない”
そこにはそれだけが書かれていて、俺は、寒い冬の日に逝ってしまった「善さん」の姿を思い浮かべた。その後は、いくらめくっても何も書かれていなかった。俺は、歴史の符合を目撃した大きな衝撃を受けていたが、「おやえ」の日記を手に取ろうとしていた。その時、後ろから突然こう聴こえてきた。
「昭、昼飯だぞ」
それが父の声だと分かるまで、俺は辺りを少し見回した。俺が想像していた、おかねと善さんが話し込んでいた廓の景色や、善さんの裏長屋などの光景は消え去って、土蔵の中が蒸し暑くなっていた事に気づいた。
「あ、ああ、うん!」
昼食の菜は、鯖の味噌煮だった。俺は仏間で母に挨拶をしてから、食卓に就いた。
味噌汁を吸い、鯖の味噌煮を口に運ぶ。
“ああ、鯖の味噌煮なんて食べたのはいつぶりだろう…美味しいな…”
その気持ちを口に出したところで、父には理解が出来ない。だから俺は黙っていた。でも、父はふっと味噌汁椀から顔を上げ、話を始めた。
「お前に話したい内、一つはもう言ったが…」
“母さんの事…”俺はそう思って、下を向いた。
「もう一つは、俺の事だ」
その声に顔を上げると、父は俯いていて顔色がよく分からず、でもとても深刻そうな眉間の皺だけが見て取れた。俺は「うん」と相槌を打つ。
「来月、手術なんだ」
「えっ…」
驚いた俺は声を詰まらせ、その時なぜか、仏壇にある母の遺影を思い浮かべた。父は少し黙っていたけど、もう一度顔を上げて俺を見ると、こう言った。
「胃がんと言われてる」
まさかそんな話だったなんて思わなかった。父は、思っていたよりも元気そうなほどに見えたから。俺は、襲い来る混乱を口に出さないようにするため、黙っていなければいけなかった。
「手術ですっかり良くなるもんかは、あまり分からないらしい」
「そう、なのか…」
父は一つ頷くと、元のように汁椀を口元に引き寄せる間で、「だから、俺の事も覚悟しておけ」と言った。俺は、何も言えなかった。
第五十五話 夢うつつ
「それで、お前、二十五年もどこに行ってたんだ」
俺は、父親にそう聞かれた時何も言えなかった。おかねに事情を話せなかったのと同じ理屈で。
もし「江戸時代に居ました」なんて言ったら、病院に連れていかれてしまう。それに、誰に言ったって確かめようもない事なんだ。俺も、戻れない時代なんだ。話すだけで悲しくなってしまう。
「ごめん…父さん…」
父に謝りながら、俺は元居た時代の事を思い浮かべていた。
“子供達はあれからどうなっただろう。秋夫は縁づいただろうか。おりんは幸せに暮らしただろうか。おかねの墓参りをしてくれる人は居るのか…でもこれは、誰にも話せない事なんだ。そうだ、なかったも同じ事だ…そんな!俺の幸せは、すべて奪われてしまったというのか!”
自分が子を持つ父親になっていた事も、優しい妻を持っていた事も、娘が嫁に行き、息子は真面目な商売人となった事も、みんなみんな、この現代に持ち込める話ではない。俺は心細くて、悲しくて、涙が出た。だって、あの時代のように、「心配おしでないよ、お前さんはあたしがすっかり面倒を見るからさ」と言ってくれたおかねは、ここには居ないんだ!
「…まあいい。でも、なるべく早めに仕事を探してくれ。俺は今、年金暮らしだからな」
父は何か言いたげだったけど、俺がいつまでも泣き止まなかったからか、そう言った。
俺はなんとか仕事を探し当てた。それは地元にある大きな工場での、ライン作業だった。特に特殊な技能を必要としないので、給料は安い。仕事は単調だが、重い物を扱うため、体は大層疲れた。歳をとっていたので、腰も心配だった。
日がな一日、意思を持たないロボットの仕事に手を加える。それだけだ。俺は単調な作業に白昼夢のような感覚をよく覚え、そうするといつも、“鍋町”や“紺屋町”の景色を思い浮かべた。
荒っぽい職人連中が、半ば怒鳴り合うかのように喋っていて、手元でずっと仕事をしている。
別に、どちらがいいとか、悪いと言うつもりもない。でも俺は、もう帰れない時が心の中で輝くのが、切なくて仕方なかった。
父は今、病院に入院し、毎日モルヒネを投与されている。俺はそこに見舞って、父の頼みをよく聞いている。
父のがんは、末期の物だった。発見は遅れ、体調を崩し掛けてからようやく分かり、手術をしようとした時に初めて、全身に転移しているだろう事を医師は見たのだった。
「父さん、おはよう」
その日は日曜で、工場が休みなので、いつも通りに父を見舞った。
「おお…」
やや寝ぼけたような様子の父に乞われて、俺は足のマッサージをした。父の肌は黄疸が進み、足は酷く浮腫んで辛いらしい。
「何か食べたい物とか、ある?」マッサージの合間に、父にそう聞いた。
父はぼんやりとしたままで、譫言のように、「羊羹が食べたいな」と言った。
俺は、病院からさほど離れていない和菓子店で羊羹を一本丸々買い、父の病室に戻ろうとしていた。その時、滅多に動かない俺のスマートフォンがコール音を鳴らす。
画面を見てみると、知らない番号からだったが、市外局番は俺が居住している地域の物だった。市役所かなんかかなと、俺は「通話」をタップする。
「…はい、もしもし」
俺が用件を訊ねる間もなく、神妙に喋っているらしい女性がこう言う。
「矢島さん、お父さんのご容態が急変しました。すぐにお越し出来ますか?」
俺はその時、ピインと耳鳴りがして、一瞬だけ、自分が居る世界が絵空事のように感ぜられた。でも、気を取り直して、なんとか返事をする。
「すぐ、行きます」
病室に入った時、父は様々な計測器類に取り囲まれ、俺が近づいていっても、もう意識もないようだった。
でも、父は必死に息をしようと喘いでいて、ぼんやりと開けた目は、涙に潤んでいる。それはもしかしたら、苦しみのためだったかもしれない。俺は父に声を掛けた。
「父さん、羊羹買ってきたよ、父さん…」
父は返事をせず、何も見えていないのか、俺の方も向かない。もうすべてが知れているのに、俺達生きている人間には、引き留めるしか道がない。
“いくら引き留めたってもう無駄なんだ…父さんは死んでしまうんだ…”
「父さん…」
俺は最後に一度「父さん」と呼んでから、ただ父の傍で、父を見守っていた。父が苦しむ様子は胸に堪えたけど、それでもずっと父を見詰めていた。父が安心して旅立てるように。
ピー、という音がたくさんの計器類から鳴った時、俺はベッドにばたりと顔を伏せ、その場で少し泣いた。
俺は父の葬儀で喪主を務めたけど、親戚縁者からは白い目で見られ、でも誰も真相を聴こうとはしなかった。みんな、そんな余裕はなかったのだ。
母も優しい人だったけど、父も、寡黙ながらに実直で、努力家で、みんなから慕われていた。
そんな父の死を皆悼み、涙を流して別れを惜しんだ。
そうして俺は父の骨を拾い、家に帰ったのだ。
俺は、父の死に寄り添う事で、少しの間は“自分は現代に生きているんだ”と思えた。
“俺が現代を離れなければ、父や母をもっと支えられたかもしれない。俺は何をしていたんだ!”
“それでも、彼女にまた会えるなら、俺はなんだってするだろう…”
矛盾した時の整理を付けられないまま、俺は、なんとか頭だけは現代にかじりつこうとした。でも、そんな無理はさして続けられなかった。
父についての事、母との思い出、おかねと寄り添った日々…それらが頭の中で交差する時、俺はどうしても、それらの時間が重なってくれない事に苦しめられ、仕事に行くのも苦痛だった。
四十九日の法要も過ぎてしまうと、頭の中にだけ持っていた現実感さえ薄れていき、俺はだんだん、時の流れも曖昧に感じるようになった。
俺はある日、現代に帰ってきた翌朝のように、土蔵の戸を開けた。そして、何枚かの着物と帯、それから下駄、あとは「おやえ」と「善助」の日記、さらに、その時偶然見つけた古い煙管を持ち出して、自室に帰った。
広い家には、もう俺以外は誰も住んでいない。だから、江戸のように振舞っていても、誰も何も言わない。
俺は毎日、着物を端折って帯を締め、煙管に刻み煙草を詰めて、煙を吐いた。
俺には、“これからどうしよう”と決める前に、考える時間が必要で、でもその考えからは何も答えが返ってこないだろうと知っていた。だから、ついでのように頭の隅でこう思った。
“金がなくなったら、どっかにぶる下がるかな。そうすればおかねとも会えるし、そこには父さん母さんも居るんだろう。みんなそこに居るんだろう”
俺は少しずつ、移ろいを続ける現世から離れ、毎晩夢で逢うおかねを、本物と思い込むようになっていった。
第五十六話 夢と猫
俺は、せっかく見つけた勤め先を勝手に辞めて、家で酒ばかり飲むようになった。
酒を飲む前は、自分が置かれた境遇を恨むしかない。でもなぜか、酔っ払うと、幸せだった頃が少し近づいてくる気がする。おかねも秋夫もおりんも、まだ会える所に居て、彼らは俺を待ってくれている気がしてくる。
スマートフォンは、初めは鳴りっぱなしだったが、近頃では大人しいもんだ。
でも、酔いが覚めると俺はいつも絶望に追い立てられ、“自分は今どこに居るのか”と問い続けてくたびれ果て、また酒に手を伸ばすのだった。
秋夫が、下戸の俺をからかうのを思い出す。おかねがグイグイと日本酒を一気飲みしていたのを思い出す。おりんが婚礼の時、お酒を俺に注いでくれたのを思い出す。
俺は歌も歌わずただ酔っ払って、目の上を過ぎ去る思い出に涙した。たまにそういう時、「善助」の日記を読む事もあった。
少しずつ酔いが覚めてくると、現実に引き戻される恐怖と不安に押し潰されそうになり、俺は布団にくるまる。
「ああ、もう嫌だ」
誰も聞かない俺の独り言は、天国にも届かないのだろうか。
少し前に決めた、“金がなくなったら首をくくる”というのがだんだんと近づいているのが、俺には分かる。そして、それを止められる何者も、もう俺の周りには居ないのも。
俺は毎晩、夢でおかねと生活している。時には若い頃のおかねで、ある時には子供達も一緒に居て、おかねが四十を過ぎた頃でもあった。
ある晩、俺が眠りに就くと、俺はまた江戸の裏長屋に逆戻りしていた。不思議と、夢の中の俺はそれを当たり前に受け入れている。
ふるふると首を回すと、鏡台の前でおかねが紅差し指で紅を引いているのが見えた。
「どこか出かけるのか」
俺がそう聞くと、おかねは笑って言う。
「嫌だよお前さん。あんたも行くの。年始回りなんだからね」
「ああ、そうだったっけ」
俺は、いきなり正月の年始回りになっていた事も、まだ秋夫もおりんも居ないのを不審がる事もなく、羽織を引っかけてお供えを持ち、家を出た。
江戸の町は正月にはいつもより少し静かだったけど、お店や裏長屋で人々が笑い合う声が聴こえてくる。子供が凧を上げに行くのに親が付き添っている姿なんかは、ちらっと見かけた。
俺達は、お弟子の家の中から何軒か大店を回って、それから大家さんの所へ挨拶に行った。そして帰ってからは、裏長屋のそれぞれに、「明けましておめでとう」を言いに行くはずだった。
俺達が木戸をくぐってすぐに、おかねはこう言った。
「トメさんは先年亡くなったからねえ、さみしいねえ…」
「そうだな」俺はこれにも、動じずに返した。
でも俺はその時、自分の背中に向かって、大きな手が伸びてくるかのような感覚があった。まるで、後ろから誰かが俺を捕まえて、おかねから引き離そうとしているような。これは、おかねとの夢を見ると、必ず最後に現れる物だった。
夢の中で、俺はいつも恐ろしくて振り向けない。目が覚めてから、その事について思う事は色々あった。
“あの気配に振り向いたら、江戸時代の夢をもう見られなくなる”
“もし振り向いたら、その正体が恐ろしいあまりに、起きた途端俺は死に走る”
様々に思いつく事はあったけど、良い予感は一つもなかった。でも、一つだけこう思う事があった。
“もしかしたら、あの気配に振り向けば、俺は永遠に夢の中から出る事はなく、おかねとずっと一緒に居られるのではないだろうか”
そんな気持ちはあったけど、やっぱり怖過ぎて出来なかった。
家の中は荒れ放題で、俺は父親が残してくれた少々の貯金を、ほとんど切り崩していた。でも、食べる物は納豆や豆腐、煮染め、鰯や握り飯が多かった。時には、おかねとの思い出に思い切り贅沢をして、ねぎま鍋を作って食べたりした。
「なあお前、覚えてるか?また会ったな」
俺は、どんどん増えていく独り言で、ねぎま鍋にそう話し掛けてみたけど、あの時と同じ魚が入っている訳でも、煮えた具材が喋るはずもなかった。俺はその時も酒を飲んで、酔っ払っていた。
“さあさ、お前さんもおあがりよ”
おかねが優しく俺にそう言ってくれたのを思い出す。俺は酔いの中で、どうして彼女がここに居ないのかが不思議な気持ちがした。だから、また独り言を言った。
「なあ、おかね…お前、俺を迎えに来てはくれないのか?」
広いキッチンには誰も居ない。だから返事も無い。俺は酷い孤独を感じ、ねぎま鍋が涙でぼやけた。
「おかね…!」
俺が呼ぼうと、彼女は居ない。
鍋の中には、俺一人では食べ切れない量の具材が詰まっていて、おかねの分と思って、俺はねぎま鍋を半分残した。
翌朝俺は、残りの鍋の蓋を開け、それを食べるのを躊躇した。
その時後ろに人の気配を感じて、キッチンの隣りにある和室を覗くと、おかねの姿があった。でもそれは幻覚だと、俺にははっきり分かった。
絞りの浴衣で洗い髪をきゅっとまとめ、彼女は威勢よくお弟子のおさらいをしていた。お弟子は向こうを向いていて顔は見えないし、見た事がない、へんてこな着物の着方をした人だった。
三味線の音は聴こえなかったけど、おかねの姿は透けてもいないし、俺に気付いたように自然と顔を上げ、俺に笑いかけてくれた。俺は、自分の頭が見せているただの幻覚だと思って恐ろしさも大して感じなかったけど、おかねに近寄る事は出来ず、ただ俺に微笑んでいるだけのおかねを置いて、寝間へと上がって行った。
そんなある晩、夢を見た。それはいつもと違っていた。
俺が夢の中で目を開けると、そこは自室の布団で、布団の足元におかねが座っていた。だから俺は、ただ目が覚めただけで、おかねがやっと迎えに来てくれたのかと思った。でも、おかねが胸に抱いている者に、少し驚いた。
黒い猫がおかねの膝の上に座り、じっとこちらを見詰めている。真っ黒な体に薄金色の目が浮いて、瞳がきらきら光る猫だった。
おかねは目を伏せ、躊躇いがちにこんな話をする。その声は、暑い膜の外から聴こえるようだった。
“お前さん…どうか達者で暮らしておくれ”
それは、いつもの夢で見る、俺の都合で作り出される“おかね”ではない気がした。彼女は自分の意思でここに来てくれたような気がした。
おかねは横を向いて畳に目を落とす。
“あたしもさみしいけど…無茶をしないでおくれ”
そう言っておかねはこちらを振り向き、俺の目をじっと見る。唇は涙にわななき、彼女は必死に泣くのを堪えていた。
“さあ。この子を私と思って可愛がって、もう一度生きとくれ…”
おかねがそう言って、猫を二度三度撫でてから両腕を広げると、黒猫はぴょんと飛び降り、俺の布団へちょこちょこと寄ってくる。
俺は一瞬猫に気を取られ、手を伸ばしかけたが、もう一度顔を上げて布団の足元を見ると、そこにはもう誰も居なくなっていた。
俺は、息苦しさから目を覚ました。息が切れていた。
“悪夢ではないのに…それにしても、なんて夢だ。おかねの代わりに、俺は猫が欲しかったんだろうか?そんな事はないはずだ…”
俺は、また自分でこさえた幻の夢で、今度はおかねの身代りを誰にするのかを探し始めたのかもしれないと考えていた。
“猫を女房の代わりになんて出来るはずもないし、猫なんて、簡単に捕まえられるものでもないだろう…”
でも、俺が起きて布団に入ったままで考え回している内に、目の前に細長い黒い何かが伸びてきて、俺の顔にふにふにした何かを押し付け始めた。
「な、何…」
それは少々鉤爪のような物を持ち、柔らかい孫の手のような感じだった。そこで俺は、何かが胸の上に乗っているから息苦しかったのだと、やっと分かった。
俺は慌てて起き上がり、その正体を確かめた。そして驚愕する。
「えっ…!?」俺はびっくりして声を上げた。
そこには、さっきまでの夢でおかねが抱いていた姿そのままの、猫がいた。黒い猫だ。
薄金色の目がこちらを向いているのだけがかろうじて分かる、漆黒の体毛と、ちょこなんと座る猫らしい振る舞い。猫は、「なーお」と鳴いてみせた。そして、僅かに笑ったかのように見えた。
玄関は閉め切ってある。窓も開いているはずがない。だから、ここに猫が迷い込む訳もない。俺はそう考えて不気味に思っていたし、“あの夢は本当だったんだ”と思うと、突然に自分が怪談の中に放り込まれたように、薄気味悪かった。
「なーお、なーお」
猫は、初めて目にしたはずの俺にすり寄り、俺が布団についた腕に体をこすり付ける。それから、俺が着ていた甚平に爪を引っ掛け、俺を布団から引っ張り出そうとした。
“食事でもしたいのかな。確か鯖が一切れまだあったはずだけど…”
俺はそう考えて立ち上がる。すると、猫はとととっと部屋を飛び出し、俺がキッチンまで降りて行くと、もう冷蔵庫の前に陣取っていた。
“猫は食事の隠し場所を知ると開けるようになると言うけど…賢い奴だなぁ。それとももしかして、本当におかねの生まれ変わりだったり…?”
俺は無言で冷蔵庫の冷蔵室を開け、薄明るいチルド室から、鯖の切り身の残りを取り出した。
「なーお」
猫は鳴いて急かしたけど、もしかしたら寄生虫などが鯖の中に居るかもしれないし、俺は一応、魚焼きグリルで火を通してみた。
猫は、魚焼きグリルから、ぷち、ぷち、と鯖の脂が跳ねる音を聴いているように時折耳をぴくっと動かし、ずっとグリルの下から離れようとしなかった。
「焼けたら食べられるからな。ほぐして冷ましてやるよ」
俺は、そう言った後で、よっぽど「おかね」と呼びたかったけど、その場ではやめた。
最終話 幸せ
鯖のほぐし身を、せっせと食べる猫。彼女は本当に、あの“おかね”なんだろうか。俺はどうしてもそれを確かめたかった。
食事が終わって、満足そうに皿の前を離れようとした猫は、どうやらまた二階に向かうようだった。俺はそれを見ていて、どんどん気が張り詰めていくのを感じていた。
“猫が階段へ差し掛かるまでに、俺は声を掛けなきゃいけない”
俺はそう感じていた。
“もし、本当に生まれ変わりなら…!”
俺は勇気を出して、とことこと歩いて行ってしまう猫の背中に、こう言った。
「…おかね」
俺の声は震えていたけど、猫はその場に座り込むと、俺を振り向き、「なーお」と鳴いてみせた。
俺はそれから、“おかね”のために色々と調べ、やっとこ今日になって、“おかね”をキャリーに入れて動物病院へ連れて来た。
“おかね”がどこから来た猫なのかははっきりしない。でも、彼女は表に出たがって玄関の戸をカリカリと引っ掻く。どうやら外に何があるのか、自分がワクワクする景色が広がっているだろう事は知っているらしい。
しかし、外には車も走っているし、知らない人間も居る。縄張り争いに必死な猫だって居るだろう。だから俺は、病院に行く時以外はおかねを外に出さない事に決めた。
“今朝まではスーパーマーケットで買ったカリカリフードを食べさせていたけど…動物病院でどんなフードがいいのか、聞かないとな…”
おかねは、ワクチン接種と健康診断をし、血液検査の結果が出るまで、副反応が出ないかどうか、待合室で俺が見守っていた。
キャリーの中でおかねはあまり元気がなさそうにしていたけど、病院の先生は、こう言った。
「少々の副反応があるようですね。でも、多分4歳くらいの、元気な女の子です。今ワクチンで劇的な症状が出ていないなら、おうちで様子を見ていて下さい。ずっと元気がないようでしたら、またすぐにお越しを」
俺はそれに「ありがとうございました」と返して頭を下げ、キャリーケースを持ち上げる。おかねは、ぐらぐら揺れるキャリーケースの中は落ち着かないのか、出たがってカリカリとケースの金網に爪をつっかけた。
俺はもちろん、すぐに職を探した。猫を養うには、お金が必要だ。俺は無我夢中だった。
おかねが夢の中で言った事を、俺は何度も思い返していた。
“さあ。この子をあたしと思って可愛がってやっとくれ”
俺は今度は、自暴自棄な職探しはしなかった。なるべく安定して給与の保証がされる仕事を探した。仕事探しの合間に勉強もして、宅建や簿記の資格も取った。
しゃにむに勉強をし、何社も断られて、俺はやっと、自宅から少し離れた地方都市部にある会社に、入社した。
俺が自室で座卓に腰掛け、古く低い机に向かっていると、“おかね”は遊んでもらいたがってすり寄ってくる事もあったけど、大抵は俺の傍で丸まって休んでいた。
夜半過ぎまで灯りを消さずに、勉強に勉強を重ねていた頃は少し辛かったけど、“おかねのためだ”と思うと、いくらでも頑張れるような気がした。
俺は時たま、おかねに話し掛け、彼女はいつも「なーお」と返した。ある時、こんな話を彼女にした。
「会社でさ、今時珍しい上司が居て」
俺がそう言うと、おかねは話を聴くため、こちらに顔を向け、俺の顔を見ていた。
「俺に見合い話を持ってきたからさ…「私はやもめになってまだ日が経っていないんです」って言ったら…相手もどうしたらいいのか分からなかったみたいだ…」
俺はおかねを見詰めていた。彼女は俺の膝に登ってきて、満足そうに「なーお」と鳴いた。
俺はおかねのために日々真面目に仕事をし、家に帰れば彼女に話し掛けたり、その晩の食事に満足しなかった彼女に引っ掻かれたりと、毎日愉快な暮らしをしていた。
“このままの暮らしが永遠に続けばいい”
俺は幸福だった。もう何も要らないと思った。また幸せが還って来たんだ。
毎晩おかねを抱いて眠る時、「おやすみ」を言い、翌朝になったら「おはよう」が言えるのが、嬉しくて堪らなかった。
“この幸せも、またあの時のように流れ去ってしまうかもしれない。でも、今しばらくはこのままなんだろう”
そんな事を考えていたある日の仕事中に、突然に俺の胸に強い痛みが走った。それは凄まじい激痛で、瞬時に俺は悟ったのだ。
“ああ、これでおしまいか”
薄れゆく意識の中、そばに居た誰かが俺に向かって叫んでいるのを見た。それが俺の最期だった。
「住職、今日も、ですね」
小さな寺で、小坊主と住職が、襖を開けて墓地の方に目をやり、話をしている。
「ああ。主人の墓から離れたくないんだろう…」
「でも、今日はこんなに酷い雨なのに…」
ざざあーっと降りしきる雨の中、一番手前に見える新しい墓石の前に、黒猫が座り込んでいるのが、頭だけ見えている。猫は墓の前から動こうとしない。
「心配は心配だが、猫には分かるまい…」
「よほどに主人の事が好きだったんですね…かわいそうに…後で様子を見てきます…」
「ああ」
雨が止んで小坊主が墓の方へ猫の様子を見に行くと、墓石のそばには、冷たくなってしまった黒猫が、ぐったりと丸まっていた。
おわり
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