性欲は恋じゃない -万物の始原について-
今日はギリシア哲学の話をしようと思う。
当然ながら私はイタリアというヨーロッパの土壌で育つ上でギリシア文化から多大なる影響を受けている。
火、水、土、空気を万物の構成要素とした四元素説を説いたエンペドフィリアクレスを受け、アナルクサクサマンドロスの弟子であるデカクリトリスはアルケーを巡る諸問題に原子として応答したもののこの反証は不十分である。
ただ四元素説に足りない要素がある、それは恋である。
火と恋の結びついた燃えるような恋
水と恋の結びついた湿っぽい恋
空気と恋の結びついた倦怠期を終えてお互いをパートナーとして認識するようになった恋
土と恋の結びついた土臭い恋
火と水と土と恋が結びついた泥沼のような燃え上がる恋
恋それのみから構成される純存在は、”涙袋ぶくぶくおちんぽ欲しがりフェイスえちまる水産だこちてドラゴン”と呼ばれる。
涙袋が魅惑され、ぶくぶくと肥大するわけである。
ここで勘違いしてならないのは、港区女子は恋存在ではない。
あれは水と土が結びついた泥人形であり、疎むべき性欲存在である。(稀に恋をしている場合もあるが)
性欲は恋じゃない。
これは既存のアカデミックな積算的手法とは異なるため直感に反するかもしれないが私はただ真理を伝えているのみである。
恋存在に関してのエッセンスをここに記したが、実際の査読論文の提出のためここで筆を置くこととする。
本論文に甚大なる支援をいただいた、師である中田敦彦大学学長の中田敦彦氏、アゴラへ英霊として召喚された津田大介氏、また本論文の査読を快諾していただいたナショナルジオグラフィックの研究チームらに多大なる感謝の意をここに述べたい。
Giuseppa Mancini
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