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宇宙から垂れる蜘蛛の糸


芥川龍之介の「蜘蛛の糸」。
有名な話なのでご存知の方も多いでしょう。

地獄にいるカンダタは蜘蛛を助けたことがあります。そこで釈迦は、カンダタを助けようと蜘蛛の糸を垂らします。
糸を登りだしたカンダタですが、他の罪人たちが下で糸を登ろうとしています。
カンダタは「下りろ」と怒鳴ります。
糸は切れて、地獄の底へ堕ちて行きました。


この話を思い出し、想像してしまいました。
宇宙人があなたに糸を垂らしてきました。
この世という地獄から救い出そうとしてくれてます。しかし、自覚のない世俗の人々が同じ糸を登ってきます。
さぁあなたはどうするのでしょう。

あなただけが救われたいでしょうか。
救われたいという意思があれば、決して切れない頑丈な糸になるのでしょうか。
意思があろうとも、選別があるのでしょうか。
むしろ、家族もだとか、あいつはダメだとか、あなたが選別するのでしょうか。
同じものを見ても、救いの糸に見えるか、更なる地獄の糸に見えるか、そもそも見える見えないがあるのでしょうか。
切れるような糸を垂らす釈迦の様に、この時こそあなたはどうすると問われるのでしょうか。
カンダタ目線ではなく、あなたが他の罪人目線であれば、救われる他人を見てあなたはどうするのでしょうか。足掻くべきでしょうか、指をくわえて諦めるべきでしょうか。
なぜ個別に救うのでしょう。地獄を変える、地獄のようなこの世界を変える方が救いになるのにそうしないのは、「救い」ではなく「選択」なのでしょうか。
そもそも、天国と地獄、救われるか救われないかなどの二元論がおかしな概念で、地獄だとする認識してたことが地獄ではなかったことを知ることが、救いという名の観念の上昇なのでしょうか。
芥川龍之介という人の創作する道徳ファンタジーのように、地獄から救うことは創作する表現で隠喩でしかすぎず、もう既に始まっている何かなのでしょうか。


こんなことばかり考えていると、芥川さんのように「ぼんやりとした不安」で毒を飲みたくなりそうです。

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