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肉屋を支持するブタにならないためのクィア・マガジン『OVER』創刊号読後感

「肉屋を支持するブタにならないためのクィア・マガジン」と銘打っている雑誌『OVER』創刊号を読みました。ストーンウォール50周年という節目に呼応して組んだ「STONEWALL 50 人権!差別!LGBT!」は非常に読み応えがあります。

何故か今(特に日本では)、LGBTについて語る時に「人権」や「差別」について語ることが忌避されているように思います。中には「人権」「差別」といった言葉にアレルギー反応を示す人も、当事者・非当事者にかかわらず存在しているようです。しかしLGBTやセクシュアル・マイノリティに関する問題は、根本的には「人権」や「差別」を巡る問題であること、それは誰が何と言おうと否定のしようのないことです。もっと言うと、「人権」「差別」への眼差しは、LGBTやセクシュアル・マイノリティに関する問題を論じる上で大前提としなければならないものです。この雑誌は表紙で大々的に「人権!差別!」を打ち出している姿勢は、多数派や既得権益者には決して阿らないという意思表明のようで、良質な内容と相まってとても好感が持てました。

以下、特に好きな記事、考えさせられた記事について簡単な感想を書いていきます。

■北丸雄二「作用と反作用の長き派手やかな道――ストーンウォール五〇周年(上)」
この記事は、1969年にニューヨークで起こった「ストーンウォールの暴動」を振り返り、1994年に一審判決が下された「府中青年の家」事件に結び付き、同性愛者をはじめセクシュアル・マイノリティに対する差別と、差別への対抗の歴史について紹介しています。同性愛の標準化と正常化を目指す「ホモファイル運動」や、ゲイとレズビアンの分裂についても言及しています。
近年一部では「日本には同性愛者に対する差別はない」などと言っている人がいますが、それはそうした戦いの歴史に対する無知ゆえの欺瞞以外の何物でもあれません。きちんと歴史を知っていれば、「差別は存在しない」「差別ではなく区別」などの言説をおのずと消滅するはずです。
ほとんど全ての人権運動や解放運動は、正常化を目指すことから始まりますが、正常化の過程で必然的により周縁的な、より力の弱い存在を排除したり、無視したりする力が働きます。それは歴史の中で繰り返されてきたことであり、今でも絶えず起きていますが、誰かを排除することで手に入れた平等は果たして本物の平等か、これは全ての人が考えなければならないことです。

■畑野とまと「ストーンウォールの真実」
この記事は「ストーンウォールの暴動」(記事では「ストーンウォールの蜂起」という用語を使っており、私もこの用語の方がしっくり来ます)が起こる経緯を紐解きつつ、現代日本でしばしば目にする言説と結び付けて、それらの言説に秘められた欺瞞や偏見に反論しています。
近年、LGBTという用語への違和感を示し、「LGBとTは違う」と言っている人がたくさんいます。確かに「LGBT」という言葉の多用は、それぞれのセクシュアル・マイノリティの主体性を埋もれさせてしまう危険性を孕んでいるため、連帯しながらも個別の差異を丁寧に見つめる必要があります。しかしそもそもアメリカで最初の同性愛人権団体が結成した当時では、同性愛者と異性装者の境界線が曖昧だったし、最初に自らを「ゲイ」と呼称し始めたのは、ホルモン製剤を使用していたドラァグクイーンやトランスジェンダーの人達だったし、今のLGBT運動がそこから始まったわけです。これらの歴史を踏まえず、自分達と違うからと言って焦って特定の集団の人々を切り離そうとするのは、結局のところ差別の種を孕んでしまうことになります。アメリカでも、ドラァグクイーンやトランスジェンダーなど周縁的な存在がゲイプライドから排除された歴史があり、そんなセクシュアル・マイノリティ内部の争いの収束は、悲しいことにHIVという大きな危機の登場まで待たなければなりませんでした。
記事では「ハッピープライド」という掛け声にも違和感を示しています。日本の現状を見つめれば――ツイッターでトランス女性排除の言動が蔓延り、同性婚立法への国の動きが鈍く、差別発言を行った議員が謝罪もせず議員の座に安住しているこの日本で、一体何が「ハッピー」なのでしょうか?「ハッピープライド」、それは本物の平等を勝ち取った後の掛け声であるべきですが、現状ではただ、瞬間的な自己麻酔のための言葉ではないでしょうか?

■鈴木賢「LGBT+の生きづらさの根源にあるもの」
この記事はLGBT+の生きづらさの根源について論じており、特に以下のこの文はこれ以上ないほど的を射ているように感じます。「問題は、現実には人はとうの昔から、千差万別、多様な『性』を生きているにもかかわらず、政治や行政、法、社会制度の方は、相変わらずすべての構成員がシスジェンダーで、ヘテロセクシャルであることを前提に作られていることにある……つまり、生きづらさの根源は、権力や社会によって人為的に作り出されているものであって、多様な『性』を生きる当事者たちの内側にはないのである」
文学的な見地からすると、少数派であろうとなかろうと、人間には何かしら苦悩や葛藤、生きづらさを抱えているものであり、それを捕捉するのが文学の役割と言えます。しかしLGBT+の人々にとって、そうした「人間固有の苦悩」に加わり、「政治や行政、法、社会制度」や、そこに派生するもの(伝統的な家庭観や倫理観など)によって背負わされるものの方がずっと大きいです。この世界にはまず人間があって、人間が存在していくために「政治や行政、法、社会制度」といったものが後で作り出されたわけだから、人間の在り方を優先させるのが本来あるべき姿です。しかしLGBT+の話になるとと途端に「伝統ガー」と言い出す人がいます。得体の知れない「伝統」よりも、まずここにいる人達に目を向けるのが、人間としてあるべき基本的な善性なのではないでしょうか。小川榮太郎「政治は「生きづらさ」という主観を救えない」という例の記事の言説は欺瞞であることはもやは自明です。

■笹川かおり「「家族のかたち」から考える、連帯の広がり」
ジェンダーギャップ指数149か国中110位であるこの日本において、女性であること自体マイノリティで、様々な不利益や不平等を強いられています。たとえシスジェンダーでヘテロセクシュアルでも、女性たちが抱える問題はLGBT+とかなり共通しているはずです。そこから連帯の可能性が生まれます。昨今、フェミニストや性暴力サバイバーを自称する人達によるトランス排除言説が目立つ中、この記事はとても有意義なものだと思います。

■八尋遥「LGBTユースの居場所づくりの現場から」
コミュニティスペース「にじーず」運営スタッフである作者が、若者支援の現場から見えたことを綴っています。首都圏をはじめ、今や様々なLGBTユース向けの居場所がたくさんあるようですが、まだまだ足りないし、運営にも困難を極めていることが分かります。未熟で、脆くて、複雑な10代。もし私も10代にそんな居場所があったのなら、どんなに苦しまずに済んだものだろうか、と読みながら想像します。

■ティーヌ「新宿二丁目で『台湾俳句歳時記』を読む」
「誰かが残した言葉が、人と人の間を通り、書き留められ、今ここにある。それをしっかりと受け止めるだけでも、私の頭は、いっぱいいっぱいだ。……とにかく、読んでみて欲しい。知識と、言葉と向き合う時間と、人生の経験値が圧倒的に足りない私には、まだ、それしか言えない」
『台湾俳句歳時記』から見えてきた歴史について、作者は謙遜した口調でそう語っています。しかし、「世界」があまりにも広く、「歴史」があまりにも長く、「他者」があまりにも複雑です。それと比べると個人が持てる時間と認識があまりにも少なく、限られています。「知識と、言葉と向き合う時間と、人生の経験値」が足りている人が、果たしているのでしょうか?「足りない」という認識。全ての創作も、言論も批評も、それが大原則であるべきではないでしょうか。自戒を込めて。

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