平成、この佳き日に。(Ⅱ・平成二十三年)

 いつか僕ら、シルクロードへ行きたかった。

 ドアの外がかしましい。
 アルコール臭が拭いきれない居酒屋のトイレで、タクミは白い便器に腰かけて、祈るように手を組んだ。
 目をつむると、真っ暗なまぶたの裏に宇宙が浮かぶ。
 そっと宇宙に集中すると、唇は黒く小さく硬くなり、ゆっくりと白く細い糸を吐きだしはじめた。
 現実世界の喧騒が遠くさり、この広い世界にぽつり、と浮かんでいる気がする。

 小さなころから、一人になりたいときは、決まってこうして白い繭になった。
 かつて世界の貿易を動かした絹糸は、しゅるしゅると柔らかくタクミの身体を包み、世界で神様がそこだけ色を塗り忘れたような、真っ白い繭ができあがった。
 繭の内側はいつだって仄白く光って、恐ろしいことからも悲しいことからもタクミを守ってくれるのだ。 
 タクミにとって、白繭とはライナスの毛布のようなものだった。親元を離れて一人暮らしをはじめたのだから、繭に頼るのはこれきりにしようと決めていた。
 これきり、これきり、もしアンへの告白が成功すれば、子どもの世界とはきっぱりと決別して大人の世界の一員になろう。
 真白い繭のなかでサナギになりながら、タクミはなんどめかの決意をした。

 ようやく気持ちが落ちついて、トイレから帰ると、宴もたけなわだった。
 「あの、すみません、」
 酒臭い喧騒。
 席に戻ろうとして声を張りあげても、だれにも届かなくて、いくつもの足を踏まないように、タクミは慎重に下をむいて歩いた。
 「ここ、座ってもいい?」
 人ごみは途切れない。
 席に戻るのをあきらめて、タクミは、端っこの席に座っている子に声をかけた。せっかくなら、できるだけ静かな席に行きたかった。
 ひとりぽつんと座っている子は、遠目からでもめだつ金色のロングヘアのせいで遠巻きにされて、隣にだれにも座ってもらえないらしい。
 「もちろん。きみ、新入生?」
 こちらを向いた瞳が、満月みたいに真ん丸だった。
 「わたしも新入生。よろしくね、農学部生物学科の馬淵瑠奈っていいます」
 「文学部英文学科の梶本タクミです。そっか、格好いいね。きみ、リケジョだ」
 「リケジョ?」
 瑠奈が首をかしげると、ウェーブのかかったロングヘアが月光みたいにゆらゆらと揺れた。
 「理系女子のこと。最近ではそう言うらしいよ」
 突如あがった喝采に、タクミの声は紛れてしまった。どうやらむこうで一気飲みが行われたらしい。
 もういちど説明を繰りかえそうとしたが、どうにか瑠奈の耳にはぶじに届いたようだった。
 「うーん、リケジョっていう言葉は、私はあまり好きじゃないなぁ」
 ぎょろぎょろと目ばかりが輝いて、光彩のなかでウサギが飛び跳ねていた。ちょっとした雑談のつもりだったのに、思いがけずノーを突きつけられて、タクミは面食らった。
 「好きじゃない?」
 「うん。ひとから与えられた言葉をそのままぺたって貼りつけられるのは、あまり良い気持ちではないよね」
 「……あ、そう」
 隅っこにいたから、せっかく会話してやろうとしたのに。
 リケジョじゃないならなんなの。あからさまに不機嫌になったタクミのことも、瑠奈はまったく気にしていないらしい。
 美味しそうにぐびりぐびりと音を立てて、ビールを飲みほした。そしてまた、手酌で注ぐ。その様子がまた、ムカついた。
 「むかしからずっと昆虫が好きなんだ。わたしね、蚕の研究がしたくってこの大学にきたのね。蚕の研究は日本が意外と先進的で、この大学はとくに進んだ研究をしてる教授がいるの」
 いつかわたしの手で、あの美しい白い糸の謎をもっと深いところまで解き明かしてみたいんだ。
 酒を片手に夢を語る瑠奈の瞳は、きらきらと輝いていた。
 「……蚕なら、」
 「ん?」
 「いや、なんでもない」
 蚕なら、俺にとっても身近だよ。
 口を滑らせそうになって、タクミは慌ててビールを飲んだ。高校を卒業して、産まれてはじめて飲んだビールは苦い。なんだこれ。サイダーやソーダのほうが、ずっと美味しい。
 タクミが無言になっても、瑠奈はまるで気にしなかった。むしろ、ずっとひとりで座っていたのが、聞き手に出会ったうれしさで、浮かれた瞳でずっと語りつづけた。
 昆虫の多様性が好きだということ。
 蝶だけで何千もの種があること。
 人間なんて、生まれた時から死ぬまでほとんど変わらない形態なのに、その短い生で形を次々と変える昆虫のなんと多いこと。
 産卵後にオスを食べてしまうメスがいれば、交尾をせずとも受精卵を量産できる昆虫もいて、命のつなぎ方は人間の想像をたやすく超えているということ。
 居酒屋の喧騒で、その話題は明らかに浮いていた。
 正直、タクミはどう反応していいのか分からなかった。目の前の瑠奈の金色の髪が、浸食するように、タクミの手の甲に触れた。
 「うわっ」
 思わず身をのけぞらせてしまった。目の前の女の子が、であったことのないエイリアンのように思えた。認めたくないけれど、肌の下では、ざわざわと恐怖が虫みたいに蠢いている。
 こんなに異質なものに遭遇するのは、初めてだった。
 いきなり身を引かれて、さすがの瑠奈も驚いたようだ。ぱちぱちと、なんども瞬きをしていた。
 「えっと、……あー、ごめん。俺、あっちに知りあいいるから」
 返事を待たずに立ちあがった。ちょうど、ふたつ先のテーブルにアンがいた。居酒屋の安っぽい照明の下、黒髪がきちんと揃えられて、愛らしい。
 そうそう、これだ。これだよ、これ。タクミは足早に、アンのテーブルに向かった。
 「上原さん、俺も入れてくれる?」
 「梶本くん」
 ほっとしたように、アンがこちらを向いた。テーブルに座っているほかの男子から、一瞬、ピリリと痺れる視線を受ける。
 新入生のなかで断トツに可愛いのに、人見知りの気があるアンは、この場で唯一の知りあいであるタクミに安心して、花が咲いたみたいに笑った。
 「だれか友だちできた?」
 「……ううん、だれも」
 アンの細い指で持たれたグラスと乾杯しながら、タクミはちらっと視線を走らせた。人ごみのなかで、ぽつんと瑠奈がひとり座っていた。
 長い金髪が彼女の顔をかくして、どんな表情をしているのかはわからなかった。

 あの夜、慣れない酒にきっと酔っていたのだ。初めて飲んだビールは、にがくてえぐくて、判断力を失くさせるには十分だった。
 三次会も終わったあと、終電まぎわのターミナル駅だった。月の明るい夜で、都会でだって、ネオンにまぎれた月をどうにか確認することができた。
 帰りみち、アンとふたりきりになれた幸運にタクミは感謝した。正直、ここを逃せば機会はないと思った。
 「小さいころからずっと好きだったんだ。でもこれからは、できたら、アンちゃんの悲しいとき、楽しいとき、どんなときもそばにいれたらオレは嬉しい」
 声が震えてしまって、格好悪かった。
 本当はもっとシンプルに伝えるつもりだった。メンズ雑誌のウェブ特集で、女の子は長ったらしい告白は好まないとみかけた。それなのに実際にタクミの口から零れたのは、一言では伝えきれないくらい長年募らせた気持ちだった。
 だって、ずっと好きだった。
 小学校のころから同級生で、タクミのまだ二十年にも満たない人生でどのくらいの割合を占めるのか想像もつかなくらい、アンへの思慕はタクミにとっての宝物だった。
 気がついたら、上原さん、ではなく、ちいさなころに慣れ親しんだ下の名前を呼んでいた。
 幼馴染に突然告白されたアンは、まあるい二重の瞼をもっとまあるく見開いた。
 「……梶本くんは私のどこが好きなの、」
 山手線が一本、ごおお、と音を立てて目の前の線路を走っていった。
 まじまじとタクミを見つめたアンは、瞳はまあるく保ったまま、眉だけ顰めるという器用な芸当をやってみせた。
 初めて遭遇した、アンの笑顔以外の表情にタクミは戸惑った。
 タクミが知っているアンは、いつだって微笑んでいる。小学校、中学校、高校と、男子にからかわれても、怒っているところを見せたことがなかった。おとなしくて、空気が読める子なのだ。優しくって気遣いができると、むかしから評判だった。
 アンの二重の瞳は、そのとき満月のように光っていた。
 「……えっと、一番は雰囲気、かなあ。可愛いし、気遣いのできるその性格も好きだけど。でも一番は、どんな人といても変わらない、一人きりのその雰囲気が素敵だと思う」
 引きだされるみたいに口から零れた言葉に、アンだけではなく、タクミ自身も驚いていた。実際にはそんなこと、一度だって思ったことがなかった。
 整った顔と、控え目な性格と、気遣いのできる賢明さ。アンのそんなところばかりに、タクミは惹かれていたはずだったのに。
 口から零れたその言葉は、ゴム毬みたいに飛び跳ねて、ふたりのあいだをぽんぽんと転がった。

 その答えのどこが合格点だったのかは分からない。それでもその日から、アンはタクミの恋人になった。
 流れる時間はさらさらと過ぎて、早くも来月は交際一周年の記念日だ。

 学生食堂のおおきな窓からは、新入生らしい子たちが歩いていく様子がちらほらと見えた。どこか垢ぬけない服装で、何人もの子が構内地図を熱心に見つめている。名物の合格発表は数日前に終わったけれど、まだ張りだされたままの番号を見に、日に何人かは合格した生徒たちが訪れるのだ。
 「懐かしいねえ。わたしたちもあんなんだったよね」
 「大学に入ってから、あっという間だなあ。高校の三年間はあんなに長かったのに」
 楽しいからだよきっと、とアンがくすくす笑った。黒髪がさらさらと早春の陽光に透けて、一年経っても変わらずにタクミは見惚れた。
 入学して以来、英文学科のあの可愛い子、とアンは学内でも評判で、タクミの鼻も高かった。
 一年の間にキスをしてセックスをして、絵に描いたような大学生カップルはとても順調だ。
 「タクミのとこはさ、新歓コンパ何日に設定するの?」
 「なに、手伝ってくれんの」
 「違うって。運動系のサークルと日程被らないようにしないと、文化系は新入生が来てくれないの」
 アンはせっせと新入生勧誘用のチラシを作っていた。ほつほつと丁寧な手書きで書かれた「東アジア交流」の文字は書写のお手本のようで、タクミがパソコンで作った明朝体のチラシよりも、ずっと人目を惹きつけた。
 結局あのあと、ふたりともあのテニスサークルには入部しなかった。
 タクミはバトミントンサークルに、アンは国際交流サークルに入部して、それぞれの大学生活を謳歌している。
 アンのサークルは、年になんどか、日中韓のどこかで学生イベントを開催するというサークルだった。旅費にそれなりの金額がかかるため、アンはサークルに加えてバイトにもいそしんでいる。
 真っ直ぐな黒髪からは、時折、似合わない居酒屋の煙草のにおいがした。
 「もっと楽なサークルに入ればよかったのに。ゆるいとこ、いくらでもあるじゃん。高校の時みたいに楽器やってもよかったしさあ」
 「うーん、でも、いまのサークル楽しいから」
 にこりと笑うアンの口調はやわらかいけれど、はっきりとしたノーの意思を感じて、タクミはだまった。
 服装だってメイクだって、なんだってタクミの好みに合わせてくれる彼女は、ことこの話題については全く譲る気配をみせない。
 タクミとしては、もっと楽なサークルに入部してもらって、そのぶん恋人ふたりの時間を確保したかった。けれど、いつもはにこやかなアンの瞳が、この時ばかりは満月のように強く光るのが怖くて、普段はできるだけこの話題を避けるようにしていた。
 恋人にはいつだって、しなやかにやわらかく微笑んでいてほしい。彼氏の話に相槌をうって、手料理を振舞って、その役割を果たしてほしい。
 「まあいいけどさあ。でも就活はさ、育休とか産休とか充実しているとこにしろよ。忙しいところじゃなくて」
 「……うーん。タクミは?どこか行きたい会社あるの?」
 「商社とか不動産かな。やっぱりバリバリ働いて、稼ぎたい」
 アンが楽できるように、俺、がんばるな。
 一応、遠まわしのプロポーズをしたつもりだったのに、そうねえ、と、アンはやっぱり桜色の唇で微笑んだだけだった。
 この子と結婚できたらどんなに満たされるだろう、とタクミは空想した。きっと黒髪にウェディングドレスが映えて、みんなが見惚れるに違いない。フェイスブックに写真を投稿したら、いくつイイネが貰えるだろう。
 「あ、ごめん。そろそろサークルの打ちあわせに行かないと」
 「また?たまにはサボれよ」
 「このあいだのイベントで仲良くなった子が日本に留学することになったの。その子が来るから、サボれない」
 ごめんね、と控え目にスカートを翻して、アンは駆けていってしまった。
 ひとり取り残されたタクミは、アンの残したプリンをひとり頬ばった。大学食堂の安いプリンは、味がうすくって、ちっとも美味しくなかった。
 それでも、明日は金曜日だと気を取りなおす。金曜日は、バイトの遅番で終電に間にあわないアンが泊まりにくる日だ。一週間で一番心おどる日。
 せっかくなら、夜までにサークルの雑務を終わらせてしまおう。
 アンの残したプリンひとつで、タクミはそのあと、数時間食堂でねばってみせた。

 次の日の金曜日、東京ははろばろと明るかった。昨夜は家に帰ったあと、友人と徹夜のネットゲームで盛りあがってしまって、タクミが起きた時には時計は正午をまわっていた。
 起き抜けに水道水を飲むと、カルキ臭にむせてしまった。ひとりきりのアパートメントに、タクミの咳こむ音が響いた。
 「さあ、今日は何をしようか」
 一人暮らしを始めてから、ひとり言が増えた。
 実家からの仕送りはアパートの賃料に消えていくから、食べるためには稼がないといけない。卒業までに免許を取得したくて、貯金もそれなりに必要だ。
 春休みのほとんどにはバイトをめいっぱい入れているから、今日はひさしぶりの貴重な休日だった。
 タクミにとって、大学はそれ自体が繭みたいな場所だ。大なり小なりノイズに溢れているから完全な静謐ではないけれど、それでも学問とモラトリアムに守られた、大きな大きな繭だ。
 繭のなかで、おおむねタクミは満足した生活を送っている。アンという彼女ができてからは、ひとりで繭に閉じこもる子どもじみた真似もすっかり影を潜めていた。
 生まれてから絶えまなく不景気で、大人たちからはずっと絶望的な将来ばかりを予言されてきた子ども時代だった。
 不幸を知らなければ幸福も知らない世代だけれど、昨日と今日と明日が平和であれば、それはきっと幸せではあるのだ。
 そんなことを考えながら、タクミは買い置きの栄養補助食品をかじった。うん。こうして少なくとも食べるものはあるから、やっぱり不幸ではないのだ。
 ブロックタイプのそれは、ほろほろと零れていく。
 かじりながら、手の中にあるスマートフォンで、SNSアプリのアイコンをタップした。春休みの旅行、ゼミ合宿、コンビニの新商品。同級生たちの日常にイイネを付けていく。
 イイネ、イイネ、イイネ。梶本タクミはあなたの日常を承認します。
 あっという間に一時間が経過してしまって、そろそろ部屋を片づけようかと立ちあがった時、ぐらりと足元が揺れた。
 地震だろうか?
 最近は小さな地震が頻発しているから、いつもみたいにすぐ収まるだろう。しゃがんで様子を伺っていると、寄せては返す波のように、揺れはどんどん大きくなった。
 キッチンの棚からコップが割れ落ちて、タクミは慌てて立ちあがった。
 中学生のときの新潟中越地震が頭をよぎった。その日はたしか土曜日で、タクミは駅前にひとつきりの塾で、理科の授業を受けていた。あのときも同じように、ゆらゆらと平らな地球が神様に揺すられているような揺れが長いこと続いて、自宅に帰ってテレビをつけたら大変なことになっていたのだ。
 アパートメントの六階はしなるように揺れつづける。
 玄関の鍵が歪めば閉じこめられると、阪神淡路大震災の子どもの手記を読んだことがあった。のたくるように書かれた子どもの筆跡が目の前に浮かんで、タクミは逃げ口を確保しようと玄関のドアを開けに走った。
 ドアから顔をだすと、平日の昼間なのに、何人か隣人たちが顔を出していた。名前を知っている住民はひとりもいない。
 揺れは依然として続いている。遠くで電柱がぐにゃぐにゃとしなっている嘘みたいな光景を、名前も知らない初対面のひとたちと一緒に、タクミは息を呑みながらじっとみつめた。

 それからは、有りえないことの連続だった。ようやく収まった揺れに安心して、テレビをつけたら、信じられない光景がずっと映しだされていた。
 日本中のどこにでもありそうな田舎が、次々と波に呑みこまれていく様子は、タクミをテレビの前に釘付けにした。ありふれたハリウッド映画のようだとおもった。
 錆び始めた記憶がまたひとつ、蘇る。
 中学生だった頃、そうだあれは、ちょうど定期試験の真っ最中だった。深夜、勉強の息ぬきにキッチンに降りると、煌々とテレビがついていた。
 あの夜、家事と介護に疲れはてた母がひとり、束の間の晩酌にビールを飲んでいた。母さん、と声をかけようとしたタクミは言葉を失った。
 呆然とテレビに向かい合う母の眼差しが、もっとずっと幼い頃、横倒しに崩壊した阪神高速道路の映像を見つめるそれと全く同じだった。
 当時よりシワの増えた母の横顔は、ひとりきりの居間で、今度はアメリカのビルに煙を上げて突っこむ飛行機を凝視していた。
 それ以来、タクミにとって、災いで何かがひどくえぐられる記憶は、いつだってテレビを見つめる母の表情と共に在る。
 そうだ。母は、家族は。アンは無事だろうか。友人たちは。
 アパートメントの一室にいては、都内の様子すらわからなかった。電話もメールも遮断されていた。
 日常からも非日常からも断絶された世界に、タクミの頭は泣きそうなほど真っ白になった。縋る思いでSNSを開くと、家族で唯一繋がっていた弟から、弟も母も無事で、会社にいる父とも先ほど連絡がとれたと教えてもらった。
 テレビでは、どのチャンネルをつけても、東北が津波に飲みこまれていく様子と、関東で発生した石油コンビナートの火災がごうごうと燃え上がる映像が、緊迫したアナウンサーの声と共に繰りかえし放送されている。
 二〇一一年三月十一日。
 タクミは、今日のこの日付を、無理やり頭に刻みこんだ。
 この日付はきっと、この国が続く限り、子どもたちが教科書で学び続ける数字となるのだ。八月六日や、九日や、十五日のように、国中がシンと水底に沈む日になるのだ。
 哀悼のシンボルがまたひとつ生まれた、そんな予感だけがひたひたと背筋を這い上がった。
 アンは。アンは、無事だろうか。
 登録しているすべてのSNSでアンのアカウントを探した。どのアカウントも今日の日付ではまだ更新されていない。
 タクミは何度もリロードを繰り返しながら、二〇一一年三月十一日を最後に更新が途絶えるアカウントがいくつあるのだろう、その向こう側に、今までは同じように笑ったり怒ったり泣いたりしていた人々の日常がどれだけ今日を境に止まるのだろうと想像した。
 想像することしかできなかった。
 電話をして、メールを打って、アンのすべてのアカウントにメッセージを送った。
 何分、何十分待ってもアンからの返事は届かない。きっとアンの今夜のバイトは中止だろう。恋人の日中の予定を把握していなかったことをタクミは後やんだ。
 そのうち、吐き気がひどくなってテレビを消した。情けないとは思いつつ、これ以上の情報の摂取に耐えられなかった。
 途端に、音がなくなった。世界がまるきり、静寂そのものとなる。
 深い深い海の底にいるみたいに、昼下がりの時間がひととき止まった。タクミは震える指でスマートフォンをタップした。意識をして深呼吸をしないと、今にも息が止まりそうだった。
 静寂そのものの世界に、家族も友人もアンもいなくて、ひとりきりだ。遮断された孤独の重圧に耐えきれず、生きている人の温もりがたまらなく恋しかった。
 誰でもいい。誰でもいいから、生きている人の温もりが。
 ─俺の家、大学の傍です。帰宅が難しそうな人、よければうちに来てください。
 送信ボタンを押すと、SNSを閉じてタクミはきつく目を瞑った。
 縋るように、祈るように、指を組んだ。ずいぶんと久しぶりのことだった。
 浅い呼吸を繰り返す唇が、黒く小さく変形していく。
 手や足がみるみる縮んで、静かにタクミは人間から蚕に変身した。
 そうでなければとても耐えられなかった。けれど、耐えられないことすら、今生きていることの逃れようのない証左だった。
 白いたおやかな糸がさらさらと視界も音も塞いでいく。なにもない無から柔らかさが広がっていく。
 安全地帯だからこそできる、傲慢な身の守り方だ。それでも、一旦繭のなかに閉じこもらなければ、この何の変哲もないアパートメントでタクミは濁流に呑みこまれそうだった。

 それから、何分、何時間経ったのか知れない。
 繭を破ると、カーテンの向こう側はいつの間にか真っ暗だった。寝起きの頭がぼやけて、それでもテレビをつけると、信じられない悪夢はまだ続いていた。
 SNSには、二通、返信が届いていた。一通はアンからのものだ。
 ─タクミよかった、無事だったんだね。大学にいるんだけど、タクシーも電車もストップして、実家に帰れそうにないから予定どおり泊まらせてもらってもいい?友達をひとり連れていきたいです、気分が悪そうなんだ。
 さあっと、手の先まで温かくなった。
 よかった。アンが無事だ。
 繰りかえし読み返すと、次第に身体中の筋肉が弛緩していった。只の文字の連なりを、こんなに愛おしく感じたことはなかった。
 ─無事で本当に良かった。友達なんて、何人でも連れてきなよ。
 鼻をすすりながら返信をした。
 もう一通の返信は、見慣れないアカウントからだった。
 ─馬淵瑠奈です。一度だけ居酒屋で隣同士になったのだけれど、覚えてる?大学にいたんだけど、自分の家に帰れなくてどこで夜を明かそうか困っています。そっちまで歩いて行ってもいい?
 満月の子と結びつくまでに、数秒がかかった。ああ、ひとりきり現代社会のリズムに乗り遅れたような、あの子か。
 一度しか会ったことのない異性の家に身を寄せる気楽さに呆れもしたが、この非常事態だ。すべての常識が雲散霧消したような夜に、そんな些末なことはきっとどうでもいいはずだった。 
 ─覚えてます。蚕の子だよね。住所を送ります。迷ったら迎えに行くので、連絡してください。 
 女の子が三人も家に来るだなんて、普段だったら胸が騒いで落ち着かないところだ。けれど今日ばかりはそれもどうでもよかった。
 そのうち、テレビの放送に「原子力緊急事態宣言」という新しい言葉が加わった。政治家も記者もアナウンサーもタクミも、その言葉の正確な意味を把握していた人間はきっとほとんどいなかった。
 新しい言葉を覚えた子どもみたいに、誰もがその経文を繰り返し唱えていた。
 昨日までの日常がほろほろと零れ落ちていく。
 幸せな未来なんてもともと知らないけれど、幸福の証拠であった昨日と今日と明日の平穏ですらも、ほろほろと崩れていく音をタクミは聴いた。
 せめて何かしら食糧を調達しようと、地震がおきてから初めて外に出た。
 外はあっけないほどいつも通りで、ただスーパーの食料品ばかりがすっからかんに売り切れていた。仕方なく残っていたビスケットと栄養ドリンク、ミネラルウォーターだけを買った。
 すっかり暗くなって、夜が黒黒と人間を呑みこもうとしていた。
 冷たい暗い水に浸かることもなく、靴がぼろぼろになるまで歩くこともなく、ただただ、花粉症で鼻水がぼろぼろと止まらなかった。
 アパートに戻ると、人影がふたり、ドアの前に座りこんでいた。
 見慣れたアンの横顔を確認した瞬間、涙が零れそうになった。肩を抱こうと近づくと、切羽詰まった様子で、そっとアンが手を外した。
 「タクミ、急にごめんね。この子、サークルの子なの。具合悪そうなんだ。寝かせてあげて」 
 「そんなの、」
 もちろん、と答える前にアンはあがりこんだ。唇の端に笑みの一つもなく、こんな彼女を見るのは初めてだった。横顔が、割れたガラスみたいに怜悧だ。
 急いで布団を敷いてやると、真っ青な顔色の女の子が身を守るように、どさりと倒れる音がフローリングに響いた。
 水を飲ませたり、汗を拭いたり、アンはかいがいしく世話をしてやる。その手つきの献身さに見惚れたとき、インターホンが鳴った。
 「ごめんね、食べ物が全部売りきれてたの。泊めてもらうお礼にって思ったんだけど、これしかスーパーになかった」
 ふわふわとした鮮やかな金髪が一年前とまるきり変わらない。
 「ようこそ、」
 なんだか、日常の時間と再会したような懐かしさだった。いよいよゆるんだ涙腺を堪えるのに、タクミは必死だった。
 今夜は涙もろくて仕方ない。過去と断絶されたようなこの夜に、変わらないものはそれだけで価値があった。
 一年ぶりの瑠奈は瞳をくるくるとさせて、スーパーで売っている透明ビニルの萎びた花束を手渡した。
 「どうぞ、歓迎するよ」
 タクミはもう一度言って、瑠奈を部屋まで案内した。

 それは、全く時間がとまったような夜だった。
 テレビを消すと、海底に沈んだように部屋は再び静寂に包まれた。
 こういう時にどんな会話が許されるのか、タクミには見当がつかなかった。
 瑠奈や、アンの友人がどんな人間なのかも知らない。何歳なのか、出身地はどこなのか。もしテレビの向こう側に彼女たちの故郷があったらと思うと、何気ない会話でさえも慎重な注意を必要とした。
 丸裸にされた気分で、タクミは時計の音を聞いた。きっちり等分された時間が刻まれていく、そのリズムばかりが日常であり救いだった。
 「……タクミ、ありがとう。ディアナ、少し落ち着いたみたい」
 しばらくして、ずっと友人に付きっきりだったアンが、ようやくほっとした様子でこちらを向いた。
 目元はまだ強ばっていたが、口元はいつもの微笑みの形に取り繕われていた。
 「ディアナ?」
 「うん、ディアナ。私の親しい人。台湾からの留学生で、本名は、」
 「怡君といいます。呼びにくいので、ディアナと呼んでください」
 驚いて、声が聞こえた方を振りむいた。
 細い腕でどうにか身体を支えた女の子は、真っ直ぐの黒髪の間から覗く目と鼻が静謐で美しかった。ディアナと名乗ったその子は、一晩お世話になります、と流暢な発音と仕草でお辞儀をすると、糸が切れたようにまた毛布の上にうずくまってしまった。
 異国の地で大災害が起こって、外国語での情報はほとんど無くて、どれだけ心細いだろう。折れてしまいそうな細いその身体を、アンの指先が何度も撫でた。
 「外国人には自分の名前の発音が難しいから、イングリッシュネームで呼んでほしいんだって。サークルでもそう呼ばれている」
 そこから先の説明はアンが引き受けた。
 青い顔をしたディアナに、タクミの知らない言葉でアンは何度も呼び掛けた。きっと励ましているのだろう異国の言葉の響きに耳を澄ませれば、この国に圧しかかっているものでさえも、ひととき消え去るような気がした。
 夕方に見つけたインターネットを思い出して、タクミはアプリを開いた。
 「見なよ。加油日本、だってさ。台湾の人たちがインターネットでタグを作ってくれたって」
 加油、って頑張れって意味だろう。
 台湾は親日だって聞いてたけど本当なんだな、と指させば、ぽつねんと三人を眺めていた瑠奈もスマートフォンを覗きこんで、ほんとだね、と呟いた。
 部屋はシンと静まって、早春の夜に寄るべなく浮かんでいた。
 ディアナも日本が好きで留学したのだろうか。瑠奈とほつほつと会話を交わしていると、それはちょっと違います、と丸まったままのディアナが静かに口を開いた。
 「私は、マイノリティなんです。日本の文化が好きなマイノリティなんです」
 毛布にくるまっているせいでくぐもっていたが、詩の朗読が似合うような、凛とした声だった。
 「日本の文化は好きです。今日も優しくしてもらって、タクミさん、本当に感謝しています。けれど私のこの気持ちは、国というおおざっぱさではまとめられないんです。……日本に来て、マイノリティの自分は居場所が無いと感じる時があります。労働力として、消費者として、若い女の子として居るうちは、この国は暮らしやすい。それでも、人間としてのディアナは居場所を認められていないように思う時があります」
 与えられた役割を果たしている女の子しか、生きているのを認められないみたいです。
 流暢な日本語の歌うような調子に合わせて、真っすぐな黒髪が布団に影を落とした。
 「それでも、文化の美しさに救われます」
 震えていても、自分で感じたことを伝えようとする様子が美しかった。
 こんな風に自分の言葉で語る生き物に出会ったのは初めてのことで、タクミは息を呑んだ。いや、見ようとしてこなかっただけ、視界に入れてこなかっただけなのかもしれない。
 タクミも、アンも、瑠奈も誰もが言葉を失っていた。ポワン、と携帯が新着メッセージの受信を告げるまで、四人の人間は黙りこくった。
 「うん、あなたの言うとおりだわ。ディアナさん。軽率な発言をしちゃったね。ごめんなさい」
 瑠奈が真面目な顔で謝って、ようやく我に返ったタクミも慌てて謝った。ディアナの言葉のすべてを理解したわけではないけれど、ここで謝らなければいけない気がした。
 ふたりの謝罪ににっこりと笑ったディアナは、そのまま瞼を伏せて、緊張が溶けたように眠りこんでしまった。
 「ね、ディアナ。私の恋人のタクミ、と、そのお友達の瑠奈。いい人たちでしょう?」
 ようやく赤みが差し始めた寝顔に、安心したようにアンが話しかけた。眠っている彼女には届かないだろうそれは、子守歌のようにふくよかな響きでタクミの心をそっと撫でた。
 スマートフォンでニュースをチェックすると、東北の夜の海で炎が轟轟と燃えていた。タクミは落ち着かずに、何度も足を組みなおした。
 日本中のありとあらゆる記号が、当たり前だとされていたことが、ぼろぼろと崩れ落ちていくような夜だ。そしてその崩れ落ちていく綻びのうちに身を置くことは、どこまでも生きている者の特権だった。
 自分たちが抱えている、逃れようのない生者の傲慢さをなんと例えればよいのだろう。或いはそれこそが原罪と呼ばれるものなのかもしれない。
 津波と炎に呑みこまれた人たちが眠る同じ大地で、どうして自分はのうのうと息をしているのか。
 この夜の静謐さを享受しているのか。
 ともすれば涯のない罪の意識に、容易く溺れそうな夜だった。それでも、アンの乱れた黒髪に、眠るディアナの睫毛に、瑠奈の満月のように大きな瞳に、今日この日に四人がここに集ったこともまた、タクミにとってひとつきりの真実だった。
 四人の白い繭たちは月明かりに透けて、身を寄せ合うようにして眠った。


 ねえ、あの夜からタクミはずっと彼岸にいる気がする。
 半身が彼岸、半身が此岸で呼吸をして、此岸ではいつの間にかひどく派手な色彩ばかりが氾濫している。
 注がれたビールを一気飲みすると歓声があがって、せり上がってきたげっぷをタクミは無理やり飲みこんだ。
 「梶本、良い飲みっぷりだなあ。お前を連れてくると先方さんが盛り上がるから助かるよ」
 「いやいや、この程度、後輩の仕事っすから」
 ネクタイを緩める仕草も、お決まりの会話にもいつの間にか慣れた。新卒営業職で就職した会社では、こうして極彩色のアルコールが欠かせない。
 リーマンショックの大波はこんな果ての島国にも襲来して、例え二日酔いが続いても、毎日がタクシー帰りになっても、どこかに就職できたこと自体がとても幸運なことだった。
 会社では自分の頭で考えることよりも、その場に流れる空気を俊敏に読みとって、役割に沿った発言をする頭の良さが求められた。
 テンプレに沿って、コミカルにシニカルに、相手に引かれない程度のエッジをきかせて。
 そこに梶本タクミはいらない。言葉に意味なんていらないのだ。下手に自分の言葉で語ろうとした同級生たちは、ぼろぼろと就活戦争で敗れていった。
 「いやあ、こいつの彼女めちゃくちゃ可愛いんですよ。大学でも有名な美人だったらしくて」
 ビールを注いで注がれて煙草を吸うと、赤ら顔の先輩に肩を抱かれた。いつもの流れだ。いやあ大したことないです夜の具合がいいから付き合ってるだけです、とスマートフォンの画像を見せてやれば、案の定男ばかりの宴会は一気に色めき立った。
 胸がでかい、清楚、でもエロい、俺はもっと薄い顔の方がいい。あー、分かる。
 品評会を聞いているうちに、タクミは無性にアンに会いたくなってしまった。ぽかりと吐き出した紫煙が、所在なくどこかへ消えていく。
 社会人になってもアンとの付き合いは順調だった。
 タクミの意向どおりに福利厚生が充実した会社に就職した彼女は、タクミよりはずいぶんと人間らしい生活を送っている。
 ここのところ、深夜の会議が連日続いているせいでしばらく会えていなかった。最近じゃあ休日も眠りこんで終わってしまっているけれど、アンの傍で、彼女が料理を作る音を耳にしながら眠ることができたらどんなに癒されるだろう。
 ─今日、夜に家に行くな。久しぶりに会いたい。
 ひとしきり品評会が終わって、手元に戻ってきたスマートフォンでメッセージを打った。
 記号をまとって優秀な部品になれば、生きていくだけに必要な金が手に入る社会で、タクミはほぼ満点の記号の持ち主だった。緩やかな貧困に慣れきった世代の優等生に、アンもきっと満足しているんじゃないだろうか。
 こうして、周囲に隠れてスマートフォンをいじるたびに、あの不思議な夜がふっとタクミの頭をよぎる。あの夜、生者も死者も、この国に住む人たち全員がくたびれた迷子になったような夜だった。
 誰かの手垢のついた枠の外、命と命を直接すり合わせたようなざらつきを覚えたのはあれが初めてのことだった。
 「梶本、お前、この後キャバクラ行かないか?先方の部長さんの行きつけがあるらしいんだよ」
 あの夜以来、この国に住む人々は人の痛みに聡くなって、皆どこか優しくなった気がしていた。でもどうやらそれは、青臭い勘違いだったみたいだ。
 キャバクラに行くとアンは悲しい顔をする。怒られることもある。だけど仕方ないじゃないか。ロールプレイングゲームなんだ、飲み会も会社もキャバクラも。
 将来家族を養うだけの金を稼ぐためには、ロールプレイングゲームでうまくやるしかなかった。そう思えばキャバクラに通うのはアンのためですらあるのだ。
 「いっすね、ぜひご一緒させてください」
 二つ返事でタクミは快諾した。心の中で繭が仄かに光った。寝不足で頭がくらくらする。誰かの痛みを無視したまま流転するゲームは止まらない。
 そう、若い幻想は勘違いだった。勘違いだったけれど、それでも尚、あの夜はタクミの心の中で確かな位置を占めていた。キレイに区分けされた世界で、どろどろと白く濁ったままの唯一の混沌だった。
 タクミが役割を演じる時、心を切り捨てる時、真白い混沌が仄かに光る。その光を唯一の糧にして、記号化された社会で働き続けるのだ。
 ─ごめんなさい、今日は来ないで。
 スマートフォンの画面にポップアップのメッセージが通知された。アンからの返信だ。都合が悪いのだろうか。すぐに返信を打ちこむ。
 ─なんで?親でも来る?
 すぐに既読がついて、次のメッセージを読んだタクミは自分の目を疑った。
 ─ごめん、本当はもっときちんと伝えるべきだったんだけど。私たち、別れよう。
 私たち、別れよう。
 横っ面がぶん殴られたようだった。緑色の吹き出しで告げられた文字はちっとも頭に入ってこなくて、宙に浮いた。
 チリチリと赤く燃え切った灰がスーツの上に落ちる。
 何度読み返しても理解できずに、タクミは繰り返し目を滑らせた。
 どういう、ことだろう。大学時代から付き合って、浮気もせず、正社員でそれなりに稼いでいた。最近会えない日が続いているから拗ねているのだろうか。もっと満点に近い相手を見つけたのだろうか。
 どろどろと、繭の中でさなぎになる前の体液が滴り落ちた。
 ─そっか。別れるなら、きちんと会って理由を聞きたいな。だから今日、家に行ってもいい?
 とりすがるのはみっともない気がした。感情的になった相手には、一度下手に出るのが定石だ。極めて冷静なふりをして送ったメッセージは、既読がついたまま随分と返信が来なくて、居ても立っても居られずトイレに行くふりをして電話をかけた。
 数回の呼び出し音の後にアンは出た。タクミはばれないように、ほっと息をついた。もしもし、と画面の向こう側の声の感情は読み取れない。
 「さっき送ったとおりなんだけど。理由を聞きたいから、今日家に行ってもいい?」
 「うん、私も、文字だけで別れるなんて乱暴だなって思ってたとこ。また飲み会?いいよ、待ってるから。終わったら来て」
 ひどくざらついた声だった。
 電話が終わって、席に戻っても、酒席のざわめきは、膜を挟んだ別世界のように現実感がなかった。取引先に注いだビールが泡立って、小さなあぶくがいくつもいくつも弾けた。
 宴会が終わるころ、気分が悪くなったふりをして、先輩の興ざめをした顔と引きかえに駅に走った。アンの家はここから十も離れた駅だ。
 早く、早くと焦れるホームの向こう側に、三日月がひとつきり輝いていた。
 「いらっしゃい」
 玄関を開けたアンの黒髪が、さらさらと夜風になびいた。瞳の二重のカーブも弧を描いた唇もいつも通りだった。
 他愛のない会話をして通されたワンルームはきちんと整理整頓されていて、丁寧に入れてくれた紅茶の香りすらいつも通りだ。先ほどの別れ話は夢だったのかとさえ、思ってしまう。
 こんな時になんと話せば良いのだろう。
 迷子がふたりきり、白い箱舟に取り残されたように沈黙が続いていた。窓ガラスが夜風でカタカタと揺れた。先に切りだしたのはアンだった。
 「……さっき伝えたとおりです。ごめんね、別れてもらえますか」
 伏せた睫毛の下で、堪えようもなく声が震えていた。
 謝るようについた三つ指には、いつか贈ったペアリングは付けられていなかった。
 「なあ、なんでか聞いてもいい?最近会えなかったのを怒ってる?プロポーズしてほしかった?それとも、他に好きな人ができた?」
 いくつもの疑問符の最後に、俯いたままの黒髪がこくりと頷いた。一番恐れていた答えに、タクミの頭が真っ白になった。
 思わず、肩を掴んで、誰、と問いただしてしまった。
 何度も揺すぶられたあと、ディアナ、とようやくアンは白状した。
 ディアナ、ディアナ。ディアナ?
 それが黒髪の静謐な瞳を持つ女の子と結びつくまでに、数年分の記憶をさかのぼらなければいけなかった。
 「……嘘だろう?」
 思わずアンを掴む手に力が入った。揺すぶられるまま、アンは静かに首だけを横に振った。
 アンの眼差しの光に、タクミは圧倒された。
 窓の外から落ち葉が舞う音がきこえた。そうか、大学のイチョウ並木が無いから気づかなかったけれど、そういえばもうすっかり秋なのだ。
 「嘘じゃないよ。私、ディアナが好きなの。まだ正式には付き合ってないけれど、ディアナも同じ気持ちだって確認している。そりゃあ、気持ちに気づいたきっかけはタクミと付きあう虚しさだったけれど……、それでも今は私の気持ちとして、ディアナが好きなんだ」
 「何、アンって……、そうなの。そういう人なの。俺と付き合ってたじゃん。キスもセックスもしたじゃん。気の迷いだろ、どうせ」
 男同士の恋愛は揶揄する言葉も仕草もたくさん知っているのに、女同士のその感情を表現する言葉をひとつも知らなくて、タクミは咄嗟に、それ、としか言えなかった。
 気の迷いで私がこういうこと言わないってタクミが一番よく知っているでしょう、とアンの整えられた唇が皮肉の形に歪んだ。
 どうして今夜はこんなに理解が追い付かないことばかりなのだろう。業界トップ企業の社員に恋をした、そう言われた方が幾分かましだった。
 「タクミにも私、恋をしていたよ。幼かったし淡かったけど、きちんと私の恋だったよ。でも今はディアナのことが恋として好きなんだ。……過剰な友情かと思ったけど違うみたい。私、ディアナと一緒に生きていきたい」
 感情ってね、境界線がないみたい。グレーみたいだよ。
 自分がそうなるまで気づかなかったし、見極めるのにも随分時間がかかっちゃったけど。
 初めて自分の気持ちを物語るときの罪深さにおびえて、アンの声は震えていた。記号として誰かの期待に応えてきた彼女にとって、それは確かに罪だった。
 声は震えていたが、恋人としての役割を越境して、タクミは初めて生身のアン自身と会話している気がした。歯の根が合わないほど青ざめながら微笑んでみせるアンは異形の怪物のようだ。
 瞳が燃え上がって、狂った満月のように光っていた。
 こんな人、こんなアン、タクミは知らない。
 おかしい、おかしい、おかしい。頭の中には反駁が溢れるのに、目の前の異形に怖気づいて、その気持ちを否定する言葉はひとつも声にならなかった。
 「……アンの気持ちが本当だったとして、だとしても苦労するに決まってる。ディアナのことが好きだとしてさ、どうしてそんなに大変な道を歩むんだよ。同性で、外国人で……、そういうことで判断される社会だって、アンだって知ってるだろ。俺と一緒にいた方が、絶対人生楽だよ」
 どうにか口にしたセリフは、アンにつられたように震えていた。
 裸の自分が、出たくない出たくないと騒ぎだすのを抑えつけるのにタクミは必死だった。
 「大丈夫だよ、私もディアナも言葉ができるもの。そりゃあ、タクミと一緒にいるよりは大変な道だろうけど、それでも望んだ分だけ私たちは遠くで、違う場所で生きることができる」
 罪を丸ごと呑みこんで、覚悟を決めたようにアンは真っ直ぐ笑った。
 「タクミといると、雑誌に出てくるAさんと付き合ってるみたいなの。私まで、Aさんの彼女のB子さんになっちゃうのが怖いの。私は、上原アンのままでいたい。B子さんであることを求めてくる社会だからこそ、人として愛し合いたい」
 黒目がちの瞳はぎらぎらと光っていた。
 こんな女、知らない。タクミが知っているアンは、いつも微笑んでいて、彼氏を立てることを知っていて、気配りができる子だ。こんな、血が噴き出しそうな心の叫びをざらつく言葉で吐露するような子は知らない。
 知らない、知らない、知らない、
 怖い。
 破裂音が鳴り響いて、気がつくと右手が赤く腫れあがっていた。
 はっと気づいて視線をあげると、ぐったりとしたアンが壁にずるりと凭れ掛かっていた。
 「、あ、ごめ、」
 慌てて抱え起こしたアンの頬は、真っ赤に腫れている。唇に一筋の血が伝って、身の毛がよだった。なんてことをしてしまったのだろう。
 愛しく思うひとに手を挙げてしまった。
 それはタクミが生まれてはじめて自覚した罪の意識だった。
 「ごめん、アン、俺、……あん、ごめん、」
 「帰って」
 それは、ふくよかな響きの何一つない拒絶だった。
 瞬きひとつない強い瞳に睨まれて、壮絶な怒りと憎しみとは美しいのだとタクミは知った。
 背中を押す両手の力はか弱かったが、気がつくとタクミは部屋から追い出されて、ひとりきりで三日月を見上げていた。
 三日月がぼやけて、つう、と涙が滴り落ちる。きっと、アンの血はもっと生あたたかった。  

 叶うことなら、ずっと雨の国に住んでみたい。
 雨はよい。冷え冷えとした空気が肺に染みわたって、限りなく続く雨だれの音に耳を澄ませていれば何も考えずに済む。
 毛布にくるまったタクミはまどろんで、とろとろとした意識で雨の音だけを聴いていた。
 今日が雨でよかった。晴れていると、とりとめのない思考に頭が暴力的に支配されて、気が狂いそうになる。
 あの傷はもう治っただろうか。目立つ位置を腫れさせてしまって、次の日、アンは会社でなんと言い訳をしたのだろう。
 心配事は留まることを知らず、それでも浮かんでくるそれらをひとつひとつ、タクミは丁寧に封印していった。心配をすることすら、エゴイスティックでうんざりした。
 会社に行かなくなってもう何日になるのだろう。朝と晩の区別すらつかなくなって、窓から差しこむ柔らかい光が明け方のそれなのか夕方のそれなのかも区別がつかなくなっていた。
 彼女に別れを告げられた夜、どうやってアパートメントに帰ったのかすら覚えていない。気が付いたら自宅のベッドで眠っていて、朝、身体が動かなくなっていた。
 初めて会社を休んだ。上司にはメールを一通送るだけで精いっぱいで、最初は電話がひっきりなしにかかってきたが、三日目を過ぎたころから静かになった。
 世界との断絶に安心して、昼夜を問わず泥のように眠った。疾うに身体は限界を迎えていたのだと思い知った。
 蚕には、繭にはちっとも変身できなくなってしまった。何度も白い糸を吐き出そうとしたがまるでうまくいかなくて、それは確かな絶望だった。梶本タクミとして丸裸にされたようだ。纏っていた服も、記号も、意識も剥ぎ取られて、ひりひりと肌を風に舐められる恐ろしさに息が止まりそうになる。皮膚を晒す痛みに耐えかねて、毛布にくるまって目をつむると、柔らかい絶望がそっとまどろみを連れてきた。
 私は、マイノリティですから。
 雨だれの音に紛れて、いつか誰かが零した言葉が、何度も雫となって波紋を作った。幾重にも重なる波の文様に見惚れて、また忍び寄ってきた絶望にタクミはそっと身を任せた。
 もう、何も考えたくはなかった。ついこの間まで当たり前のように手のひらにあったはずの希望を、気づかずに踏みにじってきた罪はあまりにも重くて、直視する勇気はなかった。
 私は、マイノリティですから。
 誰の言葉だったろう。タクミはまどろみの中で反芻する。
 ひとつひとつは水滴に過ぎないが、何度も繰り返し思い出す度に、その言葉の一滴一滴が器に溜まっていった。
 もう三日間、何も口にしていない。かろうじて水で口を湿らす程度で、空白に慣れた胃は空腹を訴えることもなくなっていたが、時折鈍く傷んだ。
 惑星の重力をあまねく受けて、身体は驚くほど重い。唯一動かすことのできる指先で、タクミはSNSのアプリをタップした。
 ─このまま死んでしまいたい。
 どうして投稿したのかは分からなかった。
 まだSNSで繋がっているアンへの腹いせかもしれない。それとも人間は、例え身体が動かなくとも表現をせずにはいられないのだろうか。
 ありふれた呟きはきっと誰にも気づかれずに、そのままビックデータに埋もれるのだろう。それでよかった。誰にも届かない救援信号が、きっと自分には似合っている。
 白い繭で傷を修復することもできずに、面白いほどあっという間に命のバランスは崩れていた。

 雨が降る。一滴一滴が波紋を作っていく。
 いつの間にやらまた眠っていたらしい。窓の外は薄暗く、何時間経ったのかは分からなかった。流石に丸一日は経ってはいないと思うが、毛布に包まれた薄暗闇の中で、スマートフォンだけが真っ白に発光している。通知を知らせる瞬きが、寄せては返す波のように手元に模様を編み出す。海のようだと思った。
 SNSを開けば、通知欄にひとつ、返信が届いていた。
 ─今どこ?住所、変わってないよね。夜に行くね。
 真っ白なアイコンにはまるで見覚えがない。社会人になってSNSを開く回数はずいぶんと減っていたから、一握りの友人を除いて、どのアカウントが誰のものなのかすっかり判別ができなくなっていた。
 「読めないな……。しるく、シルクウォーム?」
 久しぶりに震わせた声帯は掠れていた。それから、眠っているうちに雨がやんだことに気づいた。ああ嫌だ、また思考の波に呑みこまれる拷問の時間がやってくるのだ。脳みそを真綿にくるんで休ませたいのに、脳内に渦まく罵倒と絶望に抗うすべをタクミは知らない。
 アンがいない、職もきっともう失ってしまった、タクミはもう空っぽだ。
 アン、アン。
 あれだけタクミが自慢に思っていたストレートロングの黒髪も、きちんと整えられた爪先も、柔らかくて大きな胸も、真っ白い果ての向こうに消えていた。いま、思い出すのは数年分の積み重なった会話ばかりだ。
 涙が溢れるほど今でもこんなに好きならば、瞳の奥をもっときちんと見つめればよかったな。あんなにこだわっていた記号なんて、本当はどうでもよかったのだ。梶本タクミと上原アンとして時間を過ごせばよかった。
 後悔にのみこまれたそのとき、薄闇を切り裂くインターホンが鳴った。
 「梶本君、いますか?」
 調子っぱずれの歌を歌っているような声だ。
 久方ぶりの生の人間の声を耳は受けつけず、タクミが朦朧としているうちにもう一度インターホンが鳴った。続けて、二度、三度。
 仕方ない。立ちあがると、足がもつれて毛布ごと倒れた。骨までぶつけたみたいな痛みに呆然としても、インターホンは鳴りやまない。
 しばらく誰も通らなかったフローリングには埃が積もっていた。
 どうにかこうにか、ようやくドアを開けると、金色の髪をひとつに結んでにっこりと笑う瑠奈が立っていた。
 「はあい、シルクウォームです。梶本くん、私が私だって分かってなかったでしょ?」 
 金色の髪は月光みたいだ。いつだか教科書で見た、ムンクの月明かりの絵画が頭をよぎった。シンとした夜の海面に月の光がぼってりと、ひとすじの道のように伸びている絵だった。
 ぴちゃん、と雫が滴り落ちる音を聴く。
 光が目の前に現れたようだった。身体中の筋肉が弛緩する感覚を最後に、タクミは安心して意識を手放した。

 それから、ひとつの夢を見た。まどろんでいる間は視界は真っ暗なことが多かったから、夢を見ること自体がとても久しぶりだ。
 夢の中でタクミは、無の空間で眠っていた。手足が重く瞼もあかないのに、眠っているうちに、自分の身体がするすると糸になっていく。髪の毛が伸びて白い絹糸になっていく。手の指、足の指が解体されて、一本一本絹糸としてほどけていく。
 何もない暗闇に月が昇って、気がつくとタクミは繭になっていた。繭のなかでタクミの身体は溶けていく。皮膚も体液も遺伝子すらもどろどろに溶けて、白い繭のなかで液体となる。溶けきった後、茶色い乾いたさなぎになったところで目が覚めた。
 「おはよう。体調はどう?お粥でも食べる?酷い顔だね、まずは白湯かな」
 「……身体中が、痛い」
 「あはは、ごめんね。君がいきなり倒れるもんだから引きずるしかなかったんだよ。たぶんその時いろんなところをぶつけたんだと思う。で、どう?お粥食べる?」
 化粧っけがないのに、唇だけは真っ赤な口紅が荒々しくて、眩暈がした。
 タクミの返事を聞く前に瑠奈はさっさと立ち上がって、ケトルで湯を沸かしながら鍋でレトルトの粥を温めはじめた。
 見慣れたキッチンに見慣れない女の子が立っている不思議をじっと見つめている間に、はいこれ飲んで、と白湯を入れたマグカップを渡された。言われるがままにゆっくり口に含むと、冷え切った体内を温めるように熱い液体が流れこんでいく。
 「、ふっ」
 器の縁から溜まった雫が溢れでた。ぼたぼたと、どうしようもない涙がとめどなく落ちていった。
 希望が去った空白の嘆きではなく、罪を贖いたいという気持ちが頬を伝っていく。
 人前で泣くことなんていつぶりだろう。羞恥に頬が熱くなったが、嗚咽は止まらなかった。
 愛しい人から五年近くも時間をもらっていたのに、一度も向き合わないまま浪費をしてしまった。
 思考を止めた記号のおこがましさのままに尊厳を殺してしまった。
 自らの弱さが招いた恐怖の拒絶が憎しみとなって衝動的に暴力をふるってしまった。
 それに加えて、この期に及んで許されたいと願う自分がいやしくて、涙は留まることがなかった。
 「ねえ、粥ってさあ、可愛い漢字だよね。花みたいだ。私、世界で一番可愛い漢字は粥だと思う」
 嗚咽を聞こえないふりをしたまま、キッチンで瑠奈が歌うように呟いた。差しだされた粥を弱りきった胃袋は受け付けず、面白いくらいにむせてしまった。
 やっぱりダメだったか、とちっとも悪びれずに瑠奈が笑った。


 イースターになるとあの頃を思い出す。
 タクミは手元のわら半紙に、シャーペンで「粥」と書いてみた。確かに花のようだと思った。
 夕暮れに紛れてひらひらと桜の花びらが散っていく。シャーペンでなぞった、粥、粥、粥という文字が、透明なゼリーみたいな春の空気のなかでふるふると震えた。
 「ごめんねえ、梶本くん、連日残業お願いしちゃって。この時期はどうしたって忙しくって」
 「いえいえ、全然。前の会社に比べればこのくらい」
 事務室の外からは、新入生歓迎用の合唱やシェイクスピアの台詞が聴こえてくる。この時期、職員も学生も大学全体がそわそわと落ち着かない。
 それは留学生を担当しているタクミの部署も同じで、白い繭が桃色に染まって宙に揺蕩っているみたいだ。
 職員として母校に雇われて二年、二回目の春にタクミは笑った。
 「あとねえ、この書類だけお願い。そしたら帰っていいよ、あと今日中のは私がやっておくから」
 「いや、大丈夫ですよ。分担しましょうよ」
 「いやいや、梶本くん、昨日も一昨日も帰りが遅かったでしょう。私は昨日早く帰らせてもらったから。今日はこの辺で切り上げなさい」
 二回目の季節を迎えても、この仕事場の肌に触れるような優しさに慣れずにタクミは頭を掻いた。前の職場とは確かに忙しさが異なっていたが、それよりも尚、人間として尊重される扱いに慣れない。
 人間だから、体力には限りがある。人間だから、集中して頭を使うことのできる時間にも限りがある。人間だから休息が必要で、それぞれに心がある。人によっては、仕事のほかに面倒をみなければいけない他者がいる。そういった当たり前の事情が当たり前のように認められていて、そのことにタクミはまだ戸惑ってしまう。こんな風に扱われたことなんてなかった。
 人を大切にすることがどんなことか、あと少し早く分かっていればアンを傷つけずに済んだのかもしれない、と悲しくなることもある。
 あれからすぐに、前の会社を退職した。会社を辞めることなんて命を絶つことよりもずっと難しいように思えたが、瑠奈が引きずるように連れて行ってくれた心療内科の診断書のおかげで、辞表はあっさりと受理された。それから、生来賢いらしい彼女が失業保険や社会保険について調べてくれて、タクミは言われるがままに書類にサインをして提出するだけで済んだ。
 「……あの、本当にありがとう。その、友達にこんな迷惑をかけてしまって」
 書類の提出だけでも、外に出ると分かりやすく身体は悲鳴をあげた。
 生きること、それだけのことがこんなにも大変なのかと新鮮に驚きながら、毛布に包まることしかできないタクミを瑠奈は一度も責めなかった。 
 「ほら、ちゃんと食べて、寝よう。きちんと食べないと綺麗な白い糸は作れないよ」
 レトルトの粥には黄色い卵がひとつ落とされていた。瑠奈はタクミを責めない代わりに慰めの言葉をかけることもほとんどなかったが、麻痺した心にはかえってそれがありがたかった。
 瑠奈は研究者としてのキャリアを地道に歩んでいるらしかった。
 東京の端にあるという蚕の大規模な飼育施設と、大学と、実家を往復する彼女からは、いつだってかすかに緑色の匂いが立ちのぼった。
 きっとあの時期、彼女も多少無理をしていたのだ。昏々と眠って目を覚ませば、カーテンから零れる月の光がゆらゆらと揺蕩うフローリングの海で、瑠奈はいつだって分厚い文献とノートパソコンに向き合っていた。パソコンの画面には、カイコ、という小さな文字がいくつも散らばっていた。
 大学時代をバイトに明け暮れて過ごした自分はゆとり世代と揶揄されても仕方ないけれど、こうして真摯に勉学に打ちこむ子までそのとばっちりを受けるのは可哀想だ、と思った。そんなことを思った自分にびっくりした。
 一度壊れた機械の身体と心は、新しい糸で縫いつくろわれて、少しずつ少しずつ白い有機体となっていた。
 瑠奈との狭い静かな世界は、本当に少しずつ、生きる力のようなものをタクミに蓄えさせてくれた。小さなころからずっと生き物係だったという彼女は、何かの命をはぐくむことに長けていた。
 自分で料理をできるようになるまで数週間、自分から何か話すようになるまで一か月と少し。コップから水が溢れるみたいに、ある日、一滴一滴溜めた光が零れ落ちて、タクミは自然と口を開いた。
 「……馬淵さんさ、」
 久しぶりの声に驚いて、瑠奈がくるりと振り向いた。
 「馬淵さんさ、どうしてそんなに親身に面倒みてくれるの」
 タクミはいつものように毛布に包まって、瑠奈は合成羽毛マットの上にぺたんと座って論文を書いていた。雑談とか、たわいのないこぼれ話とか、そういった日常のために必須ではない言葉を発するのはずいぶんと久しぶりのことだった。
 倒れる前のタクミだったら、俺のことが好きなのだろうか、とでも思っていただろう。ただ、数か月という短くはない時間を共にして、そういう世界で生きている子ではない、ということはタクミにも漠然と分かっていた。
 元気になってきたみたいね、と瑠奈はまあるい瞳で弧を描いて、にやっと笑った。
 「せっかく蚕と違って人間には言葉があるんだから、SOSが聞こえたら親身になりたいじゃない。死にたいって言っておきながら結局死ななかったら何よりだしね。死にたいって言わないまま死んでしまうよりもずっといい」
 私はこんな性格だから友達が少ないの、と瑠奈は言った。友達が少ないから、誰かのSOSがノイズにまみれないままで届くの。
 絆が貴しとされるこのご時世に、恥じることなく孤独を隠そうとしないこの人のことをもっと知りたいと思った。
 「馬淵さんってどこの出身なの」
 「あれ、言ってなかったっけ。私、北の大地出身だよ。開拓民のたくましさがほら、こういうとこに宿ってるでしょう」
 力こぶを作ってみせる仕草が彼女風のジョークなのかは判別がつかない。はは、と曖昧に笑ってごまかしてから、ずいぶんと久しぶりに笑ったことにタクミは気づいた。愛想笑いには違いない、それでも笑うってとても不思議だ。
 数か月間乾いていた口内がそっと湿って、すらすらと言葉が続いた。
 「家って関東じゃなかったっけ。今はそこから通学してるって聞いた気がするんだけど」
 大通りでは、真夜中の大型トラックがガタゴトと走っていた。きっと地元なら平成に生き残るヤンキー達のバイク音が聞こえて、北海道ならどんな音が夜に響き渡るのだろうか。雪が降り積もってしんしんと、すべての音が消えゆくのだろうか。
 ああ、それはねえ、とどこから説明しようか迷った風に瑠奈は眉を寄せた。
 北海道なら、このふたりきりの会話も積雪に吸いこまれるのだろうか。秘密が秘密のままに消えていく。想像上の雪原はとても贅沢な場所に思えた。
 「この前の地震で実家が全壊しちゃったんだよ。お母さんの実家、つまり私のおばあちゃん家が関東だから、お母さんとお父さんは今そこに住んでて、私もそこに帰ってるの」
 「それは、」
 「うん?」
 「それは、なんというか……、とても、気の毒だったね」
 「そうだねえ。まあ、でも、よかったんだよ。父方の祖父母はもう亡くなってたから、地震で家が壊れるのを見ないで済んだし。父はちょうど定年退職をしたばかりだったから、仕事の心配をしないでよかったし。母も、祖母の介護を叔父さん達に任せきりにするのをずっと気にしていたみたいだし。だから、なんていうか、よかったの。全てが丸くおさまって」
 「よかったの?」
 「うん、よかったの」
 瑠奈にしては珍しい、きっぱりとした口調だった。血が乾ききっていない生傷に、雪が静かに降り積もっていく。
 口元をあげてみせた恩人の所作は、それ以上のタクミの言葉を封じてしまった。
 よかった、よかった。それはまるで経文のようで、神様でも仏様でもない第三者は無力だ。
 結局、そんなに沢山の人が一緒に住んでいると大変そうだね、と当り障りのない返事を選んだが、瑠奈はにっこりと笑ってみせた。
 「そうなの、大変なの。ごちゃごちゃ、ごちゃごちゃして、日常のひとつひとつが大ごとで。だから君のアパートメントは、私にとっての繭なんだ。君のアパートと、それからこのカセットテープがあるから、私は今正常を保っている」
 にっこりと笑って、瑠奈は得意げにリュックから秘密道具を取り出した。それは古びたカセットテープだった。
 一緒に取り出したプレーヤーに慣れた手つきで差しこむと、ワイヤレスイヤホンの片方をタクミに手渡してくれた。きゅるきゅる、と懐かしい巻き戻しの音がする。
 ベッドとフローリングの距離を保ったまま、ふたりは同じ音楽を聴いた。
 「カセットプレーヤーってまだ売ってたんだ」
 「意外と安く買えるよ。これね、私の伯母さんがピアノの先生をやっているんだけど、独身時代のピアノの演奏を録音したものなの。沢山おばあちゃん家に残ってたんだ。私、彼女の弾くピアノが小さい頃から大好きで、勝手に持ち出して、しんどい時にいつも聴いてる」
 録音は全てクラッシックで、音楽に疎いタクミでも聞いたことのある有名な曲も複数混じっていた。テープが傷んでいるのか時折音が飛んでしまう。
 瑠奈が何度か巻き戻しと早送りを繰り返して、タクミは三曲目でようやく名前を知っている曲に出会った。
 「ああ、これは流石に知ってる。あれでしょ、喜びの歌」
 「うん。本当は交響曲なんだけど、ピアノアレンジしたみたい。素敵でしょう」
 二十年近く前のピアノはふたりの孤独にそっと寄り添った。
 悲しみをすっかり呑みこんだ音色は海の中にいるみたいにカーテンを揺らして、このアパートメントのあちらこちら破れてしまった繭の隙間から、月光が流れこんでくるようだった。
 「……馬淵さん、世話をかけて本当に悪いんだけど、できればもう少しの間だけ、俺が自分の人生を生きるのを手助けしてくれないかな」
 「もちろん。何かの世話をするのは蚕の飼育で慣れてるからね」

 その夜から、瑠奈が置いていってくれたカセットテープを利用して、タクミは少しずつ音楽を学び始めた。相変わらず毛布に包まっていたけれど、世界との関わりを取り戻すリハビリテーションには違いなかった。
 クラシックについての本を数冊読み終わる頃には、タクミは新しい路について、少しずつ考え始めていた。

 誰もの人生の岐路に立ちあう桜の花びらがひらひらと、今年も大学のレンガ道に降り積もっていく。
 先輩の言葉に甘えて先に帰路についたのはいいものの、早春の夜はまだ肌寒くて、今朝がた薄手のマフラーを忘れたことをタクミは後悔した。
 体育館からは吹奏楽団が演奏する曲が聞こえてくる。いつだか高校生のころ、制服を着たアンが熱心に譜面をさらっていたものだった。
 いまだってこうして、日常の折に触れてアンのことを思い出してしまう自分に、タクミはうんざりとした。
 あれからアンには一度も会っていない。SNSでは元気そうな様子で、保険会社で働く傍ら、日本語教師の資格を取るべく勉強しているようだった。
 この間はインスタグラムで、ディアナとふたり、ウェディングドレスを着て口づけをしている写真がたくさんのハートを獲得していた。たどたどしい文で嘘のないように愛しい人を紹介する様子に、タクミはそっとハートを贈った。
 本当は会って謝りたかった。だって、未練たらしくても格好悪くても、気がつけばもう人生の半分以上をアンに恋していた。振られたからといって、そうですかと簡単に無くなるような気持ちではない。
 それでも、自分の存在がアンにとって恐怖になっているかもしれない可能性を考慮すれば、ひとつきりのハートを捧げることが許容範囲の瀬戸際だと思った。
 「ただいまぁ」
 大学生の頃から八年近く住んでいるアパートメントは、もう実家よりも肌になじんでいる。手探りで電気をつけてコートを脱いで、鍋で湯を沸かす間に手を洗った。白く立ち上る湯気にパラパラとパスタを入れて、昨日買っておいた春キャベツをざくざくと切る。
 今の自分を見たらアンは何というだろう。料理を作れるようになった。台所での立ち居振る舞いが滑らかになった。
 自分が何者なのかはまだ分からないが、大学と研究所を往復する瑠奈を目の当たりにして、前を向く人が少しでも遠くまで歩けるように支えたいと仕事を変えた。給料はぐんと減ったが、家にきちんと帰れるようになった。
 人間が人間を大切に扱う方法を学んだ。
 フライパンで炒めたキャベツを一口齧れば仄かに甘い。パスタと和えると、玄関のドアがかちゃりと開いた。
 「ただいまぁ、お邪魔します」
 「お帰り、ちょうど晩御飯ができたよ」
 「ほんと、すごく嬉しい」
 春風と一緒に帰ってきた瑠奈からは、相変わらず緑色が香り立つ。
 実家が蚕の飼育施設の近くにある瑠奈は、蚕の飼育施設に行く日は実家に、大学に来る日はタクミのアパートメントに、ほとんどきっちり一日置きに往復していた。奇数の日はタクミのアパートメントに泊まる日だ。
 パスタを皿によそって、インスタントスープと合わせれば、繁忙期にしてはきちんとした夕飯が完成した。小さなテーブルで瑠奈とふたりで食卓を囲む。
 「これ、少ないけど、今月分の食費と家賃」
 「え、いいよ。瑠奈には借りがあるし」
 「私がこういうのきっちりしたい性分なの」
 舌鼓を打ちながら、突拍子もなく渡される飾りっ気のない茶封筒を受けとることにももう慣れた。
 再就職が決まった後、タクミが倒れていた間の食費をきっちり請求した瑠奈は、自分の食費や泊まった分だけの家賃も毎月きっちり払っていく。格好悪い気もするけれど、考えてみたら人生で一番格好悪いところを瑠奈には見られているので、今更格好をつける気にもならなかった。
 「今日は泊まってくよね」
 「……うーん、実は相談があってね。それの結果次第かな。あれだったら研究室のソファで寝るから大丈夫」
 「相談?」
 「うん。ご飯食べ終わったら話すよ」
 瑠奈が言いよどむなんて珍しい。よほど言いにくいことなのかと気長に待つことにして、タクミも食べることに集中した。
 白い糸みたいなパスタがつるつると二人の唇に吸い込まれていく。食器を片付けてすっきりとしたテーブルで、瑠奈はきちんと正座をしてタクミと向き合った。
 「さて、本題ですが」
 「はい」
 「実は、私と結婚をしてほしいんだ」
 あまりにも突飛な申し出に、咄嗟に返事ができなかった。そうなるよねえ、と瑠奈も困り切ったように腕を組んだ。
 ふたりともいわゆる結婚適齢期で、友人たちはもう何人も婚活に精を出しているけれど、タクミと瑠奈の親しさはどこまでも友人のそれだ。瑠奈は結婚自体に興味が無いように見えたし、タクミ自身もアンへの気持ちの整理がつくまでは結婚なんて視野に入れたことが無かった。このこんがらがった恋を一生ほどくことができなかったとして、それで生涯独身となってもきっと後悔はしないと思っていた。
 「家族がね、恋人がいるなら早く結婚しなさいってうるさいんだ。このアパートに泊めてもらっているのがこの前ばれちゃったの。研究者としてのキャリアを考えても、半同棲なんて体裁が悪いなんていうから」
 恋人ならダメで夫婦なら良いっておかしな話だよねえ。月のような瞳は、この星の風習に馴染めないように惑っていた。
 同棲している恋人と別れるか、結婚するかの二者択一。そんな記号で区切られるような簡単な世界でばかり、僕ら、生きているわけではないのに。
 いつも学問の世界に身をゆだねている瑠奈が、こんな俗っぽい悩みに頭を抱えている様子は意外ではあったが、不思議とすんなりと納得した。
 「でもねえ悲しいけど、そういう旧弊な面があっても私、家族を嫌いになれないんだ。家族だけじゃなくて、研究という世界にもそういう旧弊な面があるんだけど、どうにも嫌いになれない。だからと言ってそれを理由にタクミと会えなくなるなんて、馬鹿みたい。家族もタクミも研究も全部捨てたくないの。ねえ、我ながら弱虫で吐き気がするけど、……どうだろ、タクミ。あたしと結婚する気ない?」
 キッチンからはオリーブオイルの残り香が漂っていた。瑠奈の最低限に整えられた眉が垂れ下がって、真冬にぽつんと揺れているみの虫のようだ。
 「私、蚕の研究も続けたいし、タクミとずっと友だちでいたいし、今までみたいに気軽にタクミの部屋に泊まったりしたいよ。君が生きていく様子を見守ってたいよ。タクミの繭が好きだもん」
 「……なんだかそんなの、悲しいな。よく分からない多数決だけが道理の理屈で、君が選択を迫られるなんて」
 つられてタクミも腕組みをしながら首を傾げた。
 朧月は薄絹に隔てられているから、今夜は月の光も射しこんでこない。この部屋でひとりきり金色を纏った瑠奈は、そうねえ、とタクミの言葉を咀嚼した。触れれば雫が滴り落ちそうだという、いつだか教科書で学んだ春の月の句が浮かんだ。
 「そんなこと言うなんて君も変わったね。たぶん良い方向だ。そうなの。私、きっと悲しいんだ。でも悲しいのをひっくるめたうえで、家族も蚕もタクミも私の意思で好きなの」
 「そっか」
 「そうなの」
 歌うみたいにおしゃべりをして、タクミは黙りこくった。
 「……でも、俺はきっとずっと、恋愛的な意味ではやっぱりアンが好きだよ」
 今だけじゃなく、きっとこの先の未来ずっと。それは安っぽい映画の台詞みたいだったけれど、紛れもないタクミの本音だった。
 だってずっと会えていないのに、忘れるどころか、彼女の好きだった食べ物や、街中のBGMを、日常のところどころの痕跡でそっと思い出してしまうのだ。
 そんな気持ちに当てはめる言葉を、恋、以外にタクミは知らなかった。
 「瑠奈のことは好きだけど、……恋、ではないかなあ。きっとそれは恋というより、愛と表現した方が近いと思う」
 「うん、知ってるよ。それでいいんだ。そのうえで一度考えてほしい。それで、返事がどんな風でも、できたらこれからも友達は続けてくれると嬉しい」
 大丈夫だからと聞かない瑠奈を無理やり研究室まで送って行くと、ひとりきりの部屋はシンと静かになってしまった。
 その夜、タクミは繭になった。瑠奈のおかげで、タクミはふたたび、繭になれるようになっていた、
 その夜、大きな鍋で数えきれないほどの繭が煮沸される夢を見た。煮立つ湯のなかで、いつのまにかそれぞれの繭はほどけて、瑠奈の金色の髪となって空へ立ち上っていった。

 あの夜瑠奈は、一週間待つ、と言ってくれた。ダメでもオッケーでも保留でも、とりあえず一週間後に一度返事が欲しいと言った。
 明日に迫ったタイムリミットを思って、イースターの学内イベントポスターを壁に貼りながらタクミはため息をついた。まだ返事は決まっていない。
 最初は十分だと思った七日間という期間は、この複雑な問題に答えを出すには短くて、こんな短期間で世界を創造するだなんて神様は流石だと思った。
 数年間きっと一番近い場所にいて、ふたりの間に恋愛めいた雰囲気がうまれた瞬間は一度だってなかった。
 友人同士の結婚なんて代物、本当に存在するのだろうか。存在してよいのだろうか。
 イースターのカラフルなポスターは、灰色の壁のなかでぽっかりと浮いている。
 一番仲良しの友人が困っていて、それを自分が解決できるのだという。アンのことは未だに恋しかったけれど、いまさら結婚したいかと問われれば言葉に詰まった。それならどうせひとりのこの人生、困っている友人のために使うというのは素朴な友情がすぎるだろうか。
 この建物は普段授業に使われているから、春休み中はぐんと人が減る。サークル活動に熱心な学生たちはコミュニティホールにばかり集まるから、この建物は日暮れ前の光が零れる音が聴こえそうなくらいに静かだった。
 コツ、コツと靴音が響いた。
 「イースターを学校でやるんですか」
 「ええ。今年から異文化理解の一環で、そんなに大規模なものではないですけど」
 よかったらチラシ持っていきませんか、と振り返ると、色彩溢れる服装がタクミの網膜を刺激した。
 沈黙に耐えきれずに、やあ、とどうにか片手をあげると、相手もぎこちなく会釈を返した。画面越しではない彼女に会うのは、あの夜以来だ。
 ディアナのロングブーツが足音を止めると、廊下は本当に静寂に包まれて、さらさらと時間が流れ落ちるせせらぎだけが二人をくすぐった。
 「……久しぶり」
 俺のこと覚えているだろうか、という心配は杞憂だったようだ。こくり、と黒髪が揺れた。
 「ええと、よかったらお茶でもどうだろう?」
 沈黙に急かされるように口を滑らせてしまった言葉だったが、首を傾げて腕時計を確認したディアナは、夕方なら、と唇をほとんど動かさないまま答えた。
 「下の窓口で卒業証明書をもらう必要があるんです。台湾で就職することになったので」
 「ああ、それなら俺の担当だ。そっか、ごめん、誘っといてあれだけど俺も仕事があるから、夕方の方が有難いな」
 「担当?」
 「今、この大学で働いているんだ」
 階段を一緒に降りる間もひりひりした緊張は変わらず、ふたり分の靴音が反響した。石造りの室内は春になっても空気がひんやりとして、日本よりも暖かい場所から来たこの子は寒くないだろうかとそればかりが気になったが、それを尋ねるほどの親しさではないように思えた。
 卒業証明書を発行している間、大学院まで卒業したことを素直に称えると、台湾は日本よりもずっと学歴社会ですから、と秀麗な眉が少しばかりほぐれた。

 学生食堂はアンとの思い出が散らばっているから、待ち合わせ場所には学内の別のカフェを指定した。大学を訪れた保護者や近所の住民に人気のカフェで、高いからと、学生時代は足を踏み入れたことのない場所だった。
 この子とひとつのテーブルに向かい合う日が来るなんて、あの夜の自分は想像しただろうか。ちら、と紅茶を飲むディアナを見れば、大人びた眼差しと目が合った。
 「ええと、就職おめでとう。再会と未来を祝って、少しだけどここは奢らせて」
 「……ありがとうございます」
 最初の二言が宙に浮いたように沈黙が続いて、タクミは途方に暮れた。パートナーの元恋人が突然お茶に誘ってきたのだから、ディアナの警戒は当然のものだ。タクミ自身、どうしてお茶に誘ったのか判然としない。
 ただ、あそこで別れてしまうことだけは避けなければいけないと思った。チャンスの神様が糸を伸ばしてくれたのなら、今度こそ間違えずに掴み取りたかった。
 黄昏色に染まる店内に他の客の姿は見えず、バイトらしい店員はカチャカチャと食器を洗っている。もう少し賑やかな場所にすれば話しやすかっただろうかと後悔しながら、結婚おめでとう、とタクミは続けた。思わぬ寿ぎの言葉に、ディアナは瞳をまあるくした。その表情はいつだかのアンのようで可愛かった。
 「アンのインスタで見たよ。ふたりともドレスが似合ってて、幸せそうで、よかった」
 「……結婚っていっても、写真を撮って揃いの指輪を買っただけです」
 「うん、それでも結婚は結婚だよ。誰かと一緒に生きていくことを決めたんだから。おめでとうございます」
 ありがとうございます、と桃色の口の端があがった。ぎこちなかったが、確かにそれは笑顔だった。
 アンは、と、いつかの夜よりも少しだけ小さな音量で、ディアナは言葉を紡いだ。その唇から零れる恋しい人の名前に、タクミの心臓は波打った。
 「英語に加えて私の母語も勉強してくれています。私の仕事が落ち着いて、アンの準備が整ったら、どこか、ふたりで生きやすい国に行くかもしれません。台湾は日本よりも私たちに寛容ですから」
 「そっか。確かに大学の頃から頑張ってたもんな。……あの、アンは、元気かな」
 途端にディアナの眼差しに剣呑さが増して、慌ててタクミは付け加えた。
 「違うんだ。アンのことはそりゃまだ、正直に言うと好きなんだけど、今更どうこうしたいって気はないよ。そうじゃなくて、あれからずっと心配だったんだ。……その、例えば誰かに触れられたり、男性と会うのがトラウマになっていたりはしない?」
 会って二回目の子に、自分の心の一番柔らかな、それも自己満足の欺瞞を明かすのはひどく気恥ずかしかった。それでも、空回りをしても嗤われても、ここで頑張らなければ嘘だと思った。
 ミルクティーで何度か口を湿らせながら懸命に言葉を尽くすうちに、次第にディアナの瞳が柔らかくなっていくのが分かった。一言では言い尽くせないアンへの気持ちが、拙い言葉でもできるだけそのまま伝わるようにと願った。
 「貴方がどういう人か、……どういう人だったかは、アンから何度か聞いています。弱いけれど優しい人、だったと。アンが今、貴方をどう思っているかは知りません。貴方たちがどういう風に関係を終わらせたのか、アンが貴方と話したいのかどうかさえ、私は知りません。それはプライベートなことですから。……ただ、アンは元気ですよ。サークルの同窓会でも男性も含めて楽しそうに話していますし、私と手を繋いだりキスをしたりする時は幸せそうです」
 「……そっか、よかった。そっかあ」
 本当に良かった。
 身体中の筋肉が弛緩していくのが分かった。アンの一番傍にいるディアナが言うのであれば、きっとそうなのだろう。数年間、ずっと心に刺さっていたひっかかりがほどけて、タクミは安堵した。
 それはどこまでも自己満足には違いなかったが、アンにつけてしまった傷跡が彼女の道を狭めていなかったことは、確かにひとつの救いだった。罪が許されたわけでもなく、後悔が消えたわけでもなかったけれど、最悪の事態は免れていたことにどこまでもほっとした。
 へたへたとテーブルに伏せると、頭上からディアナの声が落ちてきた。硬くなった心を扱いかねて途方に暮れた声だ。どうしたのかと顔をあげても逆光で表情は見えなかった。
 「……タクミさん、私は最初、貴方にコンプレックスを持っていました。私は元々女性が恋愛対象ですが、アンは女性も男性も恋愛対象ですから。彼女は子どもが好きだから、好きな人同士の血を分けた子を持つことができない点について、アンに対して申し訳なさと、貴方に対してコンプレックスを私は持っていました」
 「いや、そんな、」
 「……もちろん、子どもを持とうと思えば、アンと私でも方法はいくつかあります。それでも、台湾も日本も少子化ですから、何かにつけて子どもを産めと強制されることは苦しい。私の命には遺伝子の器としての価値しかないのかと息がつまります。私はこうして、考えて歩いて、アンを愛して、毎日がこんなにも色鮮やかなのに。その一瞬一瞬に価値はないのかと」
 ひと息に言いきると、話しすぎたと思ったのか、失礼しましたという呟きがBGMに紛れた。いつのまにかクラッシックからジャズに変わっていたそれは、紫めいた春の夜の雰囲気によく似合う。
 夜はバーとなってアルコールを提供するこの場所で、店員に気を使ったのか、ディアナはミモザカクテルをひとつ注文した。聞いたことのない名のカクテルに興味を持って、タクミも同じものを注文した。
 「遺伝子の器かぁ。ごめん、俺は正直そんなことについて考えたことがなくて、貴方になんと言葉をかければ良いのか分からないのだけれど……ただ、その苦しさを想像することはできるよ」
 運ばれてきたカクテルはミモザの花と同じ鮮やかな黄色だ。カラカラとかき混ぜる時のディアナの唇のひずみが、あの夜聡明さでタクミを叩き伏せた彼女もまた、ただの同世代の人間なのだと証明していた。
 アンの愛を勝ち得たライバルが目の前にいるのに、不思議と薄暗い気持ちはひとつも湧いてこなかった。
 想像を、してみよう。
 記号のなかで溺れないよう息継ぎをしていた時期、丸裸にされて消えかかっていた時期、月と繭に加護されてひとつひとつ傷を治している今、これまでの短い人生で、それでも片手では足りないほど諦めてきたもののひとつひとつをタクミは思い浮かべた。
 自分たちが諦めたもの、仕方がないとやりすごしてきたもの、知らずに人に押し付けていたもの、そうして自分たちだけではなく、過去からずっと連なる夥しい数の人々が諦めてきたものに思いを馳せた。
 人類の悲しい営みを呑みこむように、ジャズのリズムがバーを包んだ。
 初めて飲むミモザカクテルはとびきり贅沢なオレンジジュースのようで、完璧な美味しさだった。こんなに鮮やかなジュースを、平成の春のこの時に自分が味わうまでに、人類がここまで生きながらえるまでに、一体どれだけの無数の声が苦しんだのだろうと思った。その宇宙のような果てしなさに呑みこまれた瞬間、ひとときタクミは呼吸ができなくなった。ここで負けてたまるかと思ったが、無理やりに息を吸っても大げさにむせるだけで、ディアナが訝し気にこちらを見つめた。
 「ディアナさん、俺、きっとこれからもアンのことがずっと好きだと思う。でも、貴方と一緒に笑ってるアンが俺は好きだよ。ディアナさんのおかげで色彩が増えた世界をめいっぱい甘受しているアンが好きだ。SNSの写真でしか今のアンのことは知らないけれど、ずっと一緒に育ってきた分、そのくらいのことは画面越しでも分かる」
 だからさ、ふたりが世界で一番幸せになってくれるといいなと思うよ。
 どうせ人に手渡すのなら、悲しみではなく、巡る優しさの一環を手渡したいと思った。この数年間、瑠奈や一緒に働く人々に大切にされてきた分だけ、今度はディアナに少しだけでも報いることができないかとタクミは必死で方法を探した。
 ぎゅ、と手を握ると、ほっそりとした左手の薬指にシルバーリングが光って冷たかった。ディアナは握られた左手をまじまじと見つめて、負けないくらい強い力でタクミの手を握り返した。
 「女同士で気楽なことは、子どもが欲しいと思ったときに、好きな人にばかり苦しみを強いないで済むことです。その時々の自分の身体の具合や、仕事の都合や、下手したらジャンケンで、どっちが産みの苦しみを背負うのか決められるのは、私たちの特権です」
 「それは、とても素敵なことだね」
 アンという初恋の人を通じて、このもがきながらも凛と生きている人と出会えてよかったと、タクミはそっと光栄を心にしまった。
 きっとひとつの人生の指針となるだろう右手の中の温かさを忘れないように、明日、瑠奈に会いに行こうと思った。


 次の日、まだ温かい右手をポケットにつっこんで、タクミは有給休暇を使って東京郊外にあるという蚕の飼育施設を訪れた。
 ゆったりとしたそこは、グーグルマップの目印が驚くほど少なくて、駅を離れるとすぐに桑畑に囲まれた。青い葉をつけ始めた木々は腰ほどの高さで、誰かが一本一本を丁寧に剪定している。被っている麦わら帽子のちぐはぐさですぐに瑠奈だと分かった。
 「瑠奈、久しぶり」
 「タクミ!」
 一週間しか離れていないけれど、僕らにとっては久しぶり。
 こんなにはろばろとした場所では、声の伝わり方も二重三重に自由な気がする。大声で手を振れば、手ぬぐいで汗を拭いながら瑠奈も手を振り返した。
 青いツナギが金色の髪によく似合って鮮やかだった。
 「すごいな、初めて来たけどこんなに桑畑って広いんだ」
 「年間数十万頭の蚕を飼育するんだよ。人口飼料を買ってたらお金がかかるったら。それに、実験用の蚕の多くは人工飼料を食べないんだ。」
 「食べないんだ?」
 「実験では昔からの系統の品種と、突然変異系統の品種を使うの。昔からの系統は人工飼料を食べるよう品種改良されていないから、例え人工飼料をあげても食べないで餓死しちゃう」
 思えば、瑠奈の領分に足を踏み入ったのは初めてだった。瑠奈だけではない。自分以外の誰かのテリトリーに踏み入れたのは初めてだ。
 初めての瑠奈の領域は、はろばろと頭上が開けて、青い滴る緑に囲まれて、昼間の安心に満ちていた。夏になるまでに驚くほど桑の木は伸びて、目を見張るほど葉が生い茂るのだという。
 「せっかくだし施設の中も見てく?まだ学部生が飼育を開始する時期じゃないから、今日は私以外誰もいないの。案内するよ」
 プロポーズの返事のために訪れたことは分かっているだろうに、瑠奈は決して急かすことをしなかった。
 飼育室という名の小さな建物は、一見田舎の集会所のようだ。人々が集まった時の賑やかな記憶を湛えて、普段は孤独な静謐の中に佇んでいるような建物だ。
 ぎい、と錆びついたドアを開けると、埃にまみれた廊下にふたり分の足跡がついた。
 「ゴールデンウィーク前に研究室総出で掃除をするから、そうしたら少しはきれいになるよ。それから一斉に掃きたてして、蚕の飼育が始まる」
 「掃きたて?」
 「孵化したばかりの毛蚕を桑の葉に乗せて、飼育箱に移し替えるんだ」
 自分の好きな世界を説明する瑠奈は、満月みたいな瞳を眩しそうに眇めている。
 それから、人工飼料で細々と飼育しているという蚕を見せてもらった。可愛らしいお菓子箱の中で蠢く独特の白さの幼虫はグロテスクで、思わず喉の奥から変な悲鳴があがってしまった。
 「あはは、幼虫でそんななら、毛蚕や卵はもっと厳しいかもねえ。蚕って見たことなかった?」
 靴の鳴る音がふたりだけの廊下に響く。幼い頃から、生きることの重みに押しつぶされそうになると繭にこもってきたのに、実際に蚕を見るのは初めてだった。生命の猥雑さに冷たいものが流れ落ちた背中を、瑠奈がそっとさすってくれた。ペンだこのできた手に触れられた場所から、じわりと血が通っていく。
 「全く。俺にとっての蚕は、おしらさまやシルクロードや、それから女工哀史とか、そういった世界の起点だったよ」
 「ああ、女工哀史ねえ。そんなの、無いほうがずっとよかった。私は日本での蚕糸研究の恩恵を随分と受けとっているけれど、誰かの苦しみの上にたっている繁栄なんてまっぴらだよ」
 飼育室の外は晴れていて、ふたりとも自分の足で立っていた。自分の肺で緑色の呼吸をする度に、開け放された窓から眩しい空気が舞いこんでくる。
 瑠奈がそっと手のひらに乗せた幼虫はのろのろと蠢いて、恐る恐る触ってみれば白く柔らかく、どこか冷たかった。
 「過去の踏みにじられた涙が目の前のこの子たちに繋がってるなら、せめて無駄にはしたくないなぁ。最大限活かしてやって、人類の智の最先端を切り開いていきたいよ」
 まるで祈るような声だった。瑠奈がこんなに寂しそうに話すのを聞いたことがなく、青嵐になる前の風がごうっと吹きぬけた。
 さて、お茶にしようかと案内された休憩室では桑茶をご馳走になった。昨日もこうして月の名前を持つ人とお茶を飲んだよ、と宝石のようだった会話の一粒一粒を、タクミは丁寧に手渡した。
 「遺伝子の器、……遺伝子の箱舟かあ」
 桑茶の苦味の強さに顔をしかめると、今は商品化の途中なの、と瑠奈は笑った。予算が少ないご時世だから、少しでも自力で稼ごうとどの研究室も必死なのだという。
 卒業論文や修士論文の時期になると学生で賑わうという休憩室は、小学校の教室にあったようなガスストーブと、ガムテープで補修された扇風機が乱雑に置かれていた。
 「それ、なんとなく分かるな。私、幼稚園の時に叔母さんの結婚式に出たんだけど、なんだかすごく悲しかったよ」
 「叔母さん、ってあのピアノの人?」
 「うん、ピアノの人。叔母さんも叔父さんも笑ってたけどね。それでも、なんだか色々なものを、叔母さんや叔父さんの意思ではなく剥ぎとられていたよ。結婚するならそれが代償だっていうみたいに。それが私にとっての結婚の起源のせいで、結婚願望は小さい頃からなかったんだ」
 遺伝子の箱舟ばかりが望まれて、行く先には何が待っているのだろう。遺伝子の箱舟が遺伝子の箱舟を産んで、遺伝子の箱舟ばかりが何艘も幾重にも繁栄して、そのためにひとりの幸せが押し潰されるのだとすれば、遺伝子の箱舟が存在する意味とは何なのだろうか。
 それはのどかな桑畑が、蚕が、絹糸が、焼き払われるような悲しみだった。
 夢見がちなこの子のなかにこんなに烈しい感情が在るだなんて、と目を見張ったところで、タクミはアンのことを思い出した。記号のなかに実は驚くほどの生きる力を秘めていた彼女との記憶が、今度は間違えずに傍らの手のひらを握らせた。
 「悲しい?」
 「悲しい。悲しくて、おなかが痛くなったりするよ」
 だって心は原子に宿っているから、感情で内臓の原子が動いたって何もおかしくないよ。
 科学と空想の不思議な両立を、この子はいつだって容易く実現させてみせる。瑠奈の手のひらは白く柔らかく、どこか冷たかった。
 きっと幸せに触れたのなら、こんなかたちをしているのだろうと思った。
 「俺、悲しくない夫婦のかたちがこの国で実現できるのか、瑠奈と人生をかけて挑戦してみたいよ」
 座ったまま、顔を覗きこんで囁けば、桑の葉がくすくすと笑った。瑠奈も顔をくしゃくしゃにして、蚕が葉を食む時の音みたいだと笑った。
 「私たちがこの身体で実験するんだね。蚕みたい。私、いちど蚕の気持ちになりたいって考えていたんだ。最高」
 たったひとつの恋心はアンに捧げたきりだったが、もう大丈夫だと思った。この人と一緒に生きていく選択にひとかけらの後悔もなく、きっとこれが自分の幸せのかたちなのだ。
 指きりをすると、結われたふたりの心が桑の葉に祝福されて笑った。

 それから、待つ理由もなかったので、週末には婚姻届を提出した。梶淵なんて新しい名字を作れたらよいのにねと戯れながら、市役所の入り口でじゃんけんをして、タクミが馬淵になることが決まった。
 これから研究の世界で生きていく瑠奈は、馬淵瑠奈という名前がひとつの商売道具なのだとひどく喜んだが、それなら先に言ってくれればよかったのにと思った。桃色の糸が空を下地に刺繍をしているような、穏やかな春の日だった。
 簡単にでも式は挙げなさいという親たちの意向で、仕事と研究の合間を縫って式場を探して、結局瑠奈の叔母に紹介されたレストランに決めた。
 黄金色のレンガ道に佇むレストランで、青い天井と白い床が印象的なその場所を、オアシスみたいだと瑠奈は褒め称えた。
 「あの場所でよかった?」
 式場を決めた帰り道、珍しく不安そうに瑠奈が顔を覗きこんできた。レンガ道にじゃりじゃりと砂が混じってふたりの靴底をすり減らす。
 「え?うん、もちろん」
 「よかった、タクミがあんまり話さなかったからさ。私ひとりで決めちゃったのかと心配だったんだよ」
 「ああ、大丈夫だよ。担当のさ、糸倉さんだっけ。俺が名字変えたことに驚かなかったの、あの人が初めてだ。なんかほっとしちゃって、それであんまり喋らなかっただけ。この人になら晴れの日を預けても大丈夫かなって肩の力が抜けたんだよ」
 そうかあ、と瑠奈も安心したように笑った。ペットボトルを回し飲みすると水が乾いた喉にぐんぐん染みこんでいく。
 横断歩道の信号を待っているあいだ、いつかのようにスマートフォンにポップアップのメッセージが表示された。タクミは目を見開いた。
 ─タクミ、久しぶりです。ディアナからこの前会ったって聞いたんだ。今度の週末、ディアナが台湾に帰る前の最後の週末なんだけど、良ければ観光に付き合いませんか。
 三年間ずっと更新されていなかったアンからのメッセージだった。ひとつ上にスクロールをすれば、別れたあの夜の言葉が残っていて、過去と未来があっという間に繋がった。
 信号が青になったのに止まったままのタクミをいぶかしんで、瑠奈が手元を覗きこんだ。あらあ、と間の抜けた声が場違いに響いた。
 「いいじゃない、行ってきたら?」
 何が正解か分からずに、タクミは言葉に詰まってしまった。
 アンには会いたかった。同時に、アンとの五年の間に、自分がしでかした罪の大きさを目の当たりにするのが途方もなく恐ろしかった。今でも好きな人に軽蔑の表情で見られたらと思うと、知らず知らずのうちに呼吸が早くなる。
 「タクミ、復活のチャンスがあるのなら勇気を出したほうがいいよ。罪の大きさを思い知ったのなら、少なくともその姿の見えない不安からは抜け出せる。謝るチャンスもあるかもしれない。せっかく糸が垂らされたのだから、掴んでみてもいいんじゃない」
 瑠奈の白く冷たい手が、迷うことなくタクミの手を握った。そのかたちに背中を押されて、それでも絞り出した声は情けなく震えていた。
 「……着いてきてくれる?」
 「私が?」
 「うん」
 「しょうがないなぁ」
 私もあの素敵な人たちには会いたいから歓迎だけれど。
 瑠奈はタクミの手をとったまま、励ますように歩き出した。震える指で返信をすれば、待ち合わせ場所と時間の指定がすぐに返ってきた。語尾には懐かしいアンのお気に入りの顔文字がついていた。
 桜はとっくに散って、もうすぐイースターの季節だ。気がつけばあのどろどろに溶けた禍々しい日々から、もうすぐ三年が経つのだ。

 ゴールデンウイークを目の前に控えて、その日は抜けるように晴れていた。
 「ほら、来たよ。タクミ、頑張れ」
 東京のなかでもこのあたりはいつ来ても人でいっぱいだ。大型連休を前にした足取りの軽い人々の間で、タクミだけが場違いに青白い顔色をしていた。
 瑠奈に背中を押されて、タクミはそっと手のひらを挙げた。ひと息遅れてこちらに気づいたアンも、そっと片手を挙げた。隣にいるディアナと手を繋いで、あの頃よりも大人びた柔らかい雰囲気を纏っている彼女は相変わらず美しかった。
 アンが待ち合わせ場所に指定した東京都庁は、真下から見上げると大きな卵のカーブに呑みこまれてしまいそうになる建物だ。改めて懐かしく恋しい顔に向き合うと、喉があっという間に乾いたが、唾を呑みこんで持てる限りの勇気を振り絞った。
 「アン、久しぶり。会えてとても嬉しい」
 「……うん。今日は来てくれてありがとう」
 久しぶりに聴いたその声に、タクミはそっと頭を下げた。
 「それで、本当にごめん。あの夜、君を殴ってしまってごめん。君の気持ちを否定してしまって、ごめん。五年間、きっと俺は君のことを女の子としか見ていなかった。上原アンという君に向き合っていなかった。本当にごめんなさい」
 自分の気持ちを自分の言葉で語るのは恐ろしく、砂漠の砂みたいなざらついた手触りに眩暈がする。
 出会いがしらの謝罪にアンは思いきり眉をしかめたが、その黒黒とした瞳でじっとタクミを見つめた。
 こんな風に会った途端に謝るのはずるいかと思った。それでも、会ったら一番最初に伝えなければいけないと思った。頭を下げているせいで表情は見えなかったが、瑠奈とディアナも息をつめている様子がふたりの呼吸の音で分かった。
 「……君にされたことで、許せることと、許せないことが両方あるの。許せることは今の謝罪で許します。許せないことは、分からない。これからの君との関係で許すかもしれない。一生許さないかもしれない。それは私が決めることだけれど、許せないことがあっても、君との関係は修復できたらって思っていたの。だって五年間一緒にいて、タクミの尊敬できるところも私、いっぱい知っているから。タクミは?」
 「もし君の心が辛くないのなら、こうして時々、アンやディアナさんとも会って話せたらって思うよ」
 それじゃあ握手ですね、とディアナがタクミの頭をあげさせた。互いに握りしめた左手は、異なるリングがそれぞれに薬指で輝いていたが、確かに人生の一時を共に過ごした、馴染んだ感触だった。
 へら、と久しぶりに見たアンの笑顔はとてもへたくそで、記憶の中のどの笑顔よりも可愛かった。
 「祝您的結婚」
 「謝謝」
 握手が終わると、拙い発音で瑠奈が寿いだ。練習してくれたんですか、とディアナが零れるように笑った。それから、貴方たちもおめでとう、とアンとディアナにそろって祝福を贈られて、四人で展望台に向かった。エレベーターの前は日本人に加えて、観光客らしい外国人がずらりと列をなしていた。大きな卵のなかで、どの人種も宗教も神さまに守られているようだった。
 東京の見納めにスカイツリーや東京タワーも考えたけど、もっと混んでるだろうからこっちにしたの、とアンが瑠奈に語る声が聞こえた。
 「ディアナさんはさ、アンのどこが好きなの?」
 天空に近づいていくエレベーターの中でタクミは訊いた。国籍や性別が違っても、同じ人を好きになったよしみで、今では彼女に不思議な友情を感じていた。ディアナも同じなのだろう、照れたアンには睨まれたが、眦に紅をさして真剣に考えてくれた。
 エレベーターが疾く疾く天空に近づいていく。小さな箱のなかで、東アジアも中央アジアも、インド洋も草原もヨーロッパも、かつてはシルクロードで繋がれた古今東西の、老若男女すべての気持ちが混ざり合って高揚していた。
 「うーん……、魔法が使えるところでしょうか」
 「魔法?」
 高揚した雰囲気にふさわしい、おとぎ話じみた回答だった。タクミが首を傾げると、にっこりとディアナは笑った。
 「アンを見ていると、私、心がそっと明るくなって、嫌なことや恐ろしいことがあっても、どうにか息ができる気がします。アンと仲良くなって、私、この人は魔法が使える人だと思いました」
 実際、本当に使えるんだと思います。
 澄んだ電子音が鳴って、展望台に到着した。はろばろとひらけた東京の空を背景に悪戯っぽく笑ったディアナは、アンの手をとって駆けだした。
 異国の言葉でこんな風に愛を語る聡明さに、やっぱりとても敵わない、と思い知った。曲がりなりにも恋敵がこんなに敵わない高みにいてくれて、敗北もいっそ清々しかった。
 私たちも行こ、と瑠奈がそっと手を引いた。
 「ねえ大丈夫よ。あんな先達がいるんだもん。私たちも、きっとハッピーに生きるよ」
 背後を振り向くと、エレベーターのガラスの窓からは、ビルとビルとビルと、時折初夏の青葉が混ざる、人ばかりの東京が見えた。こんなに小さな那由他の人々が、わざとぶつかってぶつかられて、そのうちに見つけたひとひらの幸福を抱えて交差点を渡っていくのだ。
 愛すべき光景に背中を押されるように、タクミも一歩踏み出した。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?