独裁者カエサル 暗殺の背景と遺書からカエサル を考察する


カエサルは紀元前100年7月12日生まれ
その当時のローマは共和政であったが、将軍たちの争いや、属州民の反乱、スパルタクスの反乱などが相次いでおこり混乱。この間、ローマでは元老院を中心とする閥族派と、平民会を基盤とする平民派が激しい争い。それぞれ中心である閥族派のスラと平民派のマリウスがそれぞれ私兵を率い争っていた。
 カエサルは平民派と目されるようになった。しかし時代は閥族派のスラの方に軍配が上がり、カエサルは閥族派の勢力に迫害されそれを避けるため、小アジアで軍務従事をすることになった。
 紀元前78年、カエサルは政界に復帰する。
ローマに帰ったカエサルは当時の出世コースである「財務官」になるため選挙に立候補する。当時の選挙はとにかくお金をばらまき市民を買収するのが当然だった。

 カエサルは金をばらまきつつ着実にローマの最高位であるコンスル当選に近付いた。紀元前60年、カエサルはコンスルに立候補するためにローマに凱旋。

 ところが、カエサルの急速な台頭に元老院はカエサルを封じ込めようと動き出した。そこでカエサルは同じく元老院と対立していた、スパルタクスの乱を平定した大富豪のクラッスス(かつて借金の保証人にもなってくれた。)と海賊や東方制圧に活躍したポンペイウスと同盟を結び、この三人で政権を掌握することにした。これが世に言う「第一回三頭政治」である。この同盟で、カエサルはガリアをポンペイウスはヒスパニアをクラッススはシリアを勢力範囲と定めた。
 カエサルは農地法を改正して、三人以上の子供のいる二万人の無産市民に国有地を分配する法案を元老院側に反対されながらも成立させ、民衆の支持を取り付け、任期5年の約束でガリアに赴いた。この遠征は紀元前58年から50年まで続き、その間に何度も絶体絶命のピンチはあったが、そのたびに天才的な戦略戦術で切り抜けガリアを平定。 

 クラッススが死に、カエサルがガリアを征服したことにより経済的に膨張するだろうと恐れたポンペイウスは、旧敵である元老院と手を結びカエサルに対抗しようとした。そして紀元前49年、元老院はカエサルに統治下の属州を明け渡して、帰還するように命じた。ここで帰れば暗殺されるのは目に見えているし、もし従わなければ反乱軍として討伐を受けることになる。この選択はカエサル自身の人生の転換点であると同時に、ローマ帝国ならびに世界史の大転換点であったのである。
 カエサルはガリアとローマとの国境のルビコン河畔まで精鋭6000の兵と共にやって来た。川を越えれば国賊。


カエサルは「神の示す方に進まん。賽はすでに投げられた!」と叫び、全軍に渡河を命じた。 

 
 紀元前46年、カエサルは生まれて初めての凱旋式を行い、軍の最高司令官「インペラトル(大元帥)」の称号をうけ、さらに非常時にしか置かれないはずの行政の最高官「ディクタト-ル(独裁官)」を10年の任期で任命された。しかも元老院議員の選任権や官職の任命権まで手に入れ、表面上は共和政でも実質上はカエサルの独裁体勢になった。しかし彼は一流の政治家の力を発揮して公共事業、弱者救済、税制請負制の廃止、干拓開墾、太陽暦の採用、様々な行政改革など民衆にうけることを多く行い民衆の評判はすこぶる良かった。
 しかし、元老院の共和論者はカエサルの行為を共和政を破壊するものと考えた。この計画の賛同者はカッシウスやマルクス=ブルータスを中心として60数人。

そして運命の紀元前44年3月15日が訪れるのである。
 

一方、カエサルは終身ディクタトールに選ばれ2年間のパルティア遠征の前に元老院で王冠を受けることになっていた。院内に入ったカエサルは、多くの元老院議員に取り囲まれ、数々の陳情を受けていた。そのとき突然、その内の一人カスカが短刀でカエサルを刺したのを合図に実行部隊14人が短刀で襲い掛かった。その中に厚遇したブルータスの姿を認めるや、抵抗をあきらめ、ライバルだったポンペイウスの像の足の下で刺し殺された。時にカエサル55歳であった。

 カエサル自身が暗殺を招いた要因を考える。
  

①宥和政策
 

カエサルは戦後処理や属州統治において宥和政策を掲げて行動していた。彼は政敵に対して寛大であり、降伏する者はすべて受け入れていた。そのため多くの政敵が処分されず生き残っていたのである。暗殺グループの多くはこれら生き残りの連中である。
 では何故このような危険な宥和政策をとらなくてはいけなかったのだろうか。カエサルのまわりには様々な政治家が集まっており、中には腹心といえるような者もいた。しかし彼らはカエサルを合法的支配者とは見ておらず、彼に従うことによって得られる富や栄誉をあてにして従っていたにすぎなかった。これでは安心して行政改革などは行えない。とはいうものの、スラのやったように恐怖政治を行い敵対する政治家を次々に粛正しては民衆の支持が基盤であるカエサルにとって、いままで慎重におしすすめてきたことがすべて水泡になってしまう恐れがあったからだ。そこでカエサルは宥和政策をふりかざして閥族派、あるいは広く保守派の連中との協調を図り、彼らまで自分の陣営にひきいれなくてはならなかったのである。 さてこの宥和政策が成功したかというと、これがうまくいっていない。宥和政策で許された者たちは、あちらこちらで反カエサルの策動を行い、これによって重たくなったローマの空気を和らげるために、カエサルはますます恩赦を繰り返すなど悪循環が続くことになる。では何故彼ら保守派の人間がカエサルと協調しなかったかというと次の理由があるからであった。

  

②世界帝国理念と独裁支配
 

カエサルと同時期の将軍たちとの差は、国家に対する見かたが広いか、狭いかである。つまりカエサル以外の将軍の考え方がまだ都市国家理念であった。今や大帝国にまでに発展したローマにおいて、彼ら旧型の政治家は党派的関心、私利・私欲のみ、そしてその目は「ローマの町」から離れることはなかった。もちろんカエサルも当然、強烈な権威欲や私利追及の念があったことは認める。しかしカエサルにはそれにプラスするものがあった。カエサルはローマを離れている期間が長かったせいもあるだろうが、視野が広く帝国全体を見通していたといえる。
 そのころのローマは属州を次々と拡大し、「世界帝国」に発展しようとしていた。ところがローマは元来、都市国家であるため統治機構は都市国家的なものであり、それら制度、組織、機構の面に何の抜本的改革はみられなかった。それに付け加えて市民の自治意識の低下、職業軍人の発生、汚職政治など、ますます市民は「ローマの町」しか見なくなり、とてもこの巨大な世界帝国を統一的に支配することは不可能であった。
 それに対しカエサルはこの世界帝国を維持するために多くの改革と一人支配への道を歩んだのである。まず彼は権力を彼自身に集中させた。そしてローマ市の城壁を取り壊し、ローマ市と属州の境をとっぱらい市民権を属州民に与え属州をローマ化しようとした。また労働者を植民地に送り出したり、医師や教師などの自由業者に市民権を与えたりした。その他にも、司法制度を改めたり刑罰を重くしたり、贅沢を禁止したり、社会保障の引き締めを敢行したりと僅かな期間で多くの改革をおこなった。またもう一つ重要な改革として、元老院議員の定数を大幅に拡大して、属州出身のローマ騎士をはじめ様々な新しい血を元老院に導入したことが挙げられる。つまりカエサルはローマ市だけだった政治の場を帝国全土にいきわたらせ、ローマを統一した中央集権国家にしようと考えていたのだ。カエサルはこれらの緒改革を合法的に公的布告、元老院決議、民会決議などを通して行ったのである。
 しかし、カエサルのこのような改革は保守派は勿論、自分の腹心にも理解されなかった。ローマは王政や帝政などの一人支配に対してかなりのアレルギーがあるお国柄であり、保守派は彼の改革によりローマの共和政がそして自分の地位も崩れるのではないかと警戒し、さらにカエサル配下の者たちまでも保守派と同じ考えであったのだ。そんな中、誰にも理解してもらえないカエサルは一人孤独に改革、独裁へ向かったのであった。
 


この二つの要因を見てもらえればわかるよう、カエサルは身近に多くの敵を残したまま、この時代の社会を根底から揺るがすような改革を行おうとしていたのである。社会変革期に改革を目指そうとする者が、反動的な勢力によって虐げられるのは世の常であるようでカエサルとて例外ではなかった。人間誰もが自分の育った環境、一番良いと思っていた制度が、見知らぬ新しいものに変わるのは怖いものである。カエサルを暗殺した者も多分そのような気持ちだったのであろう。あえて言うならカエサルは社会の変革者としては甘すぎたのである。これが私のカエサル暗殺に対しての考察。その甘さゆえ民衆に好かれ、その甘さゆえ政敵にすきをつかれたのであった。
 しかし、その甘さが英雄「カエサル」の魅力だろう。彼がやろうとしたことはローマが発展していくうえで必要だったことで、現にカエサルの跡を継いだオクタビアヌスによって帝政と言うかたちで実現され、パックスロマーナという結果を生み出している。だが、もっと欲を言えば、もしカエサルが生きて改革を成功させていたならば、ローマは帝政ではなく属州民をふくめて民主共和制の中央集権国家になっていたのではないかと私は考える。
 また、カエサルの人柄を考える上で面白い資料がある、それは彼の遺書である。
  

一、所有の資産の4分の3はオクタビアヌス(妹の孫)に与える。
  

二、残りをピナリウスとペディウス(ともに甥)で2分する。
  

三・四、省略 

五、オクタビアヌスはカエサルの養子となる。
  

六、第一相続人は首都在住のローマ市民に、一人につき三百セステルティ
  ウスずつ贈り、テヴェレ西岸の庭園も市民たちに寄贈させる。
 

カエサルは自分の家督(政治基盤)をまだ18歳の無名の少年に与え、財産はほとんど市民に与えると書き残していた。現在の常識でしかわからないけど、これが独裁者の遺言であるとは私には到底思えないのである。

 暗殺者は市民のためを思ってカエサルを排除した、しかし市民は彼らを歓迎しなかった。それだけではなくカエサルの遺言が発表され、彼らが一ヶ月前にカエサルの身の安全を保障する紳士条約を結んでいたことを知らされると激昂し、国父であるカエサルを殺したということで「父殺し」と暗殺者たちを罵倒した。市民の賛同も得られず、カエサル派の勢力もそげず、暗殺者たちは自分の命を守るためにカエサル派に暗殺二日目にして降伏した。暗殺者の無計画さに反カエサル派のキケロは「何のための殺害であったのか!」と嘆き叫んだ。そして彼らはその後オクタビアヌスの粛正にあい全員処刑されるのである。(処罰者は2300名)一方、カエサルは神として崇められ、共和制は崩壊、そしてカエサルとは比べものにならないほど非情な独裁者オクタビアヌスを生むのである。これが崇高な理想で行ったカエサル暗殺の結果であった。さらに実力行使の文明は「野蛮」である。ローマ人には戦争なしで生きる知恵がなかった。(ガバナンス能力の欠如)ローマは常に征服、搾取、壊滅のプロセスで生きてきたのである。この伝統は近代のアメリカにも経済侵略にも活かされている。ここにもカエサルの遺産を見るのである。

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