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【図解】[歴史]002 ローマ世界 (2) 内乱の1世紀・カエサルの時代・ローマ帝国の成立

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1.内乱の一世紀

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地中海世界を手中に収めたローマでしたが、長く続いた征服戦争で、普段は自作農民であった平民は重装歩兵として従軍し、何年も故郷に帰れませんでした。
その結果、農地は荒れ果て、残された家族やようやく帰還した兵士たちは、農業をあきらめ、農地を売って生活費の足しにします。

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その土地を買い漁ったのが貴族たちでした。
彼らは手に入れた広大な土地を戦争で手に入れた大量の奴隷に耕させ、「ラティフンディア」という大農場を経営するようになり、さらに裕福になっていきます。

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農地を失い没落した平民たちは、家族ごと都市に移動しました。
「無産市民」となった彼らは、市民権さえあればそれなりの生活は政府から保障されました。
各地の属州から集められた税で、政府にはそれだけの余裕があり、無産市民たちに食べ物を与えたり、闘技場などで見世物を催したりしました。
「パンとサーカス」と称されます。

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奴隷たちを使ってラティフンディアを拡大させ、裕福な生活を送る貴族たちとは対象的に、街にあふれかえる中間層・無産市民たち。
彼らの没落は、重装歩兵のなり手が減るということにつながるため、この状況をなんとかしないといけない、と考える政治家たちが出てきました。

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まず「グラックス兄弟」が改革に乗り出します。

紀元前133年、護民官であった兄のティベリウス・グラックスが、貴族たちの土地の一部を取り上げ、無産市民となった農民たちに土地を与えて再び自作農民にしようとしました。
しかし、当然貴族たちからの反発にあい、また元老院と相談せずに無理やり改革を進めようとしたため、ティベリウスは強硬な反対派によって暗殺されてしまいます。

10年後、弟のガイウス・グラックスが護民官となり、兄の政策を実現させようとしました。
しかし、またもや反対勢力による暴動などの混乱の中で、ガイウスは無念の自殺を遂げ、グラックス兄弟の改革は失敗に終わりました。

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改革の失敗で貴族たちは土地を減らさずに済みましたが、重装歩兵不足は問題です。

そこで、将軍からコンスルとなったマリウスが、ローマ軍の改革に着手します。
マリウスは、従来、武器は自前で調達して兵士になるのが原則だったのを、マリウス自身が武器を買い与え兵士を雇い、給料まで支払いました。
そうして軍を編成したマリウスは各地で勝利を続けます。

兵士不足は解消したものの、元々、ローマ市民として自らローマを守るのだ、という意識だった軍が、雇い主であるマリウスのために戦う、という意識に変わっていきました。
マリウスが私財を使ってまで兵士を集めたのは、戦績で政治的な発言権を強め、選挙の際には、兵士たちの組織票で望みの役職につくことが目的でした。

以後、多くの政治家たちがマリウスのやり方を真似るようになり、「私兵化」が進みます。

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また、紀元前91年〜88年には、イタリア半島の各都市がローマ市民権を求めて「同盟市戦争」と呼ばれる反乱を起こし、ローマは、各都市にもローマ市民権を与えることで鎮圧しました。
その後も、紀元前88年〜82年まで、マリウスと、大貴族で多くの兵士を雇っていたスラによる抗争が起こったり、紀元前73年〜71年には闘技場で戦う奴隷・剣奴であったスパルタクスの反乱が起こるなど混乱が続き、グラックス兄弟の改革からの約100年間は「内乱の一世紀」と呼ばれます。

2.ローマ三頭政治・カエサルの時代

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長らく混乱が続いたローマ社会でしたが、紀元前60年、カエサル、クラッスス、ポンペイウスという力のあった将軍3人による政治同盟が成立し、「第一回三頭政治」が始まりました。
カエサルは自ら借金をして平民たちに大量の食糧を買い与えたり、剣奴の試合を開催したりして、民衆から大人気となります。

紀元前58年、カエサルは、現在のフランスにあたる地域のガリアに遠征に出発しました。ガリア各地で勝利を重ね、カエサルは人気に見合うだけの実力をつけていきます。
そうするうちに、クラッススが東方のパルティアとの戦いで戦死すると、ポンペイウスはカエサルに対して不安を抱くようになりました。
同じくカエサルをよく思わない元老院とも結び、ポンペイウスはカエサルとの対立を深めます。

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そんな状況を察したカエサルは、ローマに軍を進めます。当時イタリア本土に軍を率いて入ることは法律で禁じられていました。
イタリアとの境界にあたるルビコン川の手前で、カエサルは「賽は投げられた」と言い、強い決意でポンペイウスとの決戦に望み、見事勝利しました。
ポンペイウスはエジプトへ逃亡しますが、エジプト政府はポンペイウスを殺し、追ってきたカエサルを歓迎します。
その時の女王がクレオパトラでした。

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ローマに戻ったカエサルは紀元前44年、終身ディクタトル(独裁官)になり、事実上の独裁者となりました。
ローマ人たちは自らの共和政に誇りを持っており、元老院はじめ共和主義の貴族たちは、カエサルが王になろうとしているのではないか、と疑うようになります。
紀元前44年、元老院の議場に入ってきたカエサルを、待ち構えていたブルートゥスたちが襲いかかり殺してしまいました。

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ブルートゥス一派はそのまま政治の主導権を握ろうとしますが、カエサルの兵士たちからの強い抵抗にあい、ローマから逃亡してしまいます。

カエサルの兵士たちを引き継いで支持を得たのが、カエサルの養子であるオクタヴィアヌスでした。

紀元前43年、オクタヴィアヌスとカエサルの右腕だった将軍アントニウスにレピドゥスを加えた3人による「第二回三頭政治」が成立します。

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しばらくしてレピドゥスが失脚し、オクタヴィアヌスとアントニウスが残ります。

アントニウスは東方へ逃げていたブルートゥス一派を倒し、ローマ領の東半分をアントニウスが、西半分をオクタヴィアヌスが統治することとなりました。

東方のエジプトの地でアントニウスはクレオパトラと出会い、正式に結婚します。

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東西を分割統治することにしたものの、やはり両雄並び立たず。
二人は対立し、紀元前31年アクティウムの海戦で、オクタヴィアヌスはアントニウス・クレオパトラ連合軍を撃破し、敗れた二人は自殺しました。
エジプトはローマの属州となり、オクタヴィアヌスは政権を掌握。
紀元前27年、事実上の帝政を開始し、以後「ローマ帝国」と呼ばれるようになります。

3.元首政

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オクタヴィアヌスは、ローマを王政で統治するのは難しいと分かっており、元老院を尊重する態度を見せます。
元老院はオクタヴィアヌスに「尊厳者」という意味の「アウグストゥス」という称号を授けますが、オクタヴィアヌスは「第一の市民」を意味する「プリンケプス」を自称します。
この政体を「元首政(プリンキパトゥス)」と呼びます。

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ここからしばらくは、オクタヴィアヌスの血を引く皇帝がローマを統治しますが、中にはカリグラやネロといった暴君もいました。
ネロは結局最後自殺してしまいます。
短い内乱などを経て、5人の優れた皇帝が続く「五賢帝時代」が始まります。

4.五賢帝時代

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内乱の後、血統による帝位継承者が途絶えてしまい、元老院は議員の中から皇帝を選ぶことにしました。そしてネルヴァという優れた指導者が選ばれます。

ネルヴァは当時の財政難や政治的な混乱を収拾し、その後続く平和で安定した時代の基礎を築きました。
ネルヴァには子どもがいなかったため、議員の中から優秀で人望もあるトラヤヌスという人物を養子にして、帝位を譲ります。

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このトラヤヌスの時にローマ帝国の領土は最大となりました。

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その後ハドリアヌス、アントニヌス=ピウス、マルクス=アウレリウス=アントニヌスと続き、それぞれ優れた政治手腕でローマを統治していきました。
マルクス=アウレリウス=アントニヌスは哲学者としても優れた才能を発揮し「自省録」という哲学書を残しています。
アウグストゥスによる元首政の始まりから五賢帝時代までの約200年間(紀元前27年〜180年)は「パックス=ロマーナ(ローマの平和)」と呼ばれています。

5.軍人皇帝時代

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3世紀に入ると、各地の軍団の司令官が皇帝を名乗るようになり、「軍人皇帝時代」と呼ばれる、皇帝が乱立する時代が50年ほど続きます。
この間26人が皇帝になり、そのほとんどが殺されています。

6.専制君主政

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混乱した軍人皇帝時代に終止符を打ったのがディオクレティアヌス帝でした。
すっかり地に落ちた皇帝の権威を回復すべく、ディオクレティアヌスは統治の仕方を大きく変えます。
元老院など共和政的な形式を捨て、「ドミナトゥス(専制君主政)」と呼ばれる統治を行いました。

ディオクレティアヌスは、自らを「主にして神」と名乗り、皇帝という地位に神性を持たせようとしました。
そのため、自分を神として崇めることを拒否するキリスト教徒を迫害しました。

また、帝国の広大な領土を一人では治めきれず、帝国を東西に分け、それぞれ正副の皇帝を置く四分割統治を始め、自らは東の正帝となりました。

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ディオクレティアヌスの死後、残された正帝と副帝による争いを制したのがコンスタンティヌスでした。
彼はディオクレティアヌスとは逆に、313年ミラノ勅令を発布してキリスト教を公認します。
キリスト教徒はディオクレティアヌスの弾圧に反発してかえって増えていたので、コンスタンティヌスは国を治めるのに利用しようと考えたのです。

また、コンスタンティヌスは都をビザンティウムに移し、自らの名を冠して「コンスタンティノープル」としました。現在のイスタンブールです。

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領土の拡大が止まった3世紀以降、奴隷が減少したため、大農場「ラティフンディア」の経営者たちは奴隷の待遇を改善し、「コロヌス」という小作人とし、このコロヌスに家庭を持たせて子どもを作らせることで、不足した労働力を確保しようとしました。
コンスタンティヌスは、コロヌスの移動禁止令を出し身分を固定化しました。これを「コロナトゥス制」と呼びます。

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次の皇帝テオドシウスは、392年にキリスト教を国教化しました。
この頃から、ゲルマン人たちがローマ領内に侵入を始め、帝国は衰退していきました。

テオドシウスは、395年、帝国を東西に分割して二人の息子に引き継ぎました。
ここにローマ帝国は、コンスタンティノープルを首都とする東ローマ帝国(ビザンツ帝国)とローマを首都とする西ローマ帝国に分かれることとなりました。

その後、東ローマ帝国は、ビザンツ帝国として1453年まで続きますが、西ローマ帝国は、476年、ゲルマン人の傭兵オドアケルが皇帝を退位させ、滅亡しました。

【次回予告】
次回は、「中世ヨーロッパ (1)ゲルマン人の大移動・キリスト教会の分裂・フランク王国の発展・封建社会の成立」を予定しています。
お楽しみに!

【参考書籍】

【図解PDF】

今回の図解のPDFファイルはこちらです。


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