感情と社会 21

暴力という感情から見える景色

前節で眺めたホモ・サピエンスの心の景色から、あらためてぼくたちを取り巻いている、ぼくたちを貫いている、ぼくたちの主要な心を規定している、社会、そして、社会を、いつでも、自分たちの都合に合わせてまとめ上げてようとしている支配機構を見つめてみます。

2013年、ニュージーランドのウィリアムソン議員は、ある法案の成立後のスピーチで有名になりました。同性婚への賛成を訴える彼は、こう訴えていました。
「私たちがやろうとしていることは、愛し合う2人の結婚を認めよう、ただそれだけです。関係のない人には、今までどおりの人生が続くだけです。明日も太陽は上るでしょう、あなたの娘さんは全てを知ったような顔をして反抗するでしょう、住宅ローンが明日増えることもないし、皮膚病にかかったり、湿疹ができたりだってありません。ベッドの中からカエルが出てきたりもしません。明日も世界はいつものように回り続けます。だから、大騒ぎをやめませんか。この法案は関係がある人には素晴らしいものですが、関係ない人にはただ、今までどおりの人生が続くだけです。」
(詳しくは全文が掲載されたこのサイトはこちら:https://www.huffingtonpost.jp/entry/story_jp_5f7a6cdec5b64cf6a2523bd6)

前川喜平さんもTwitterでこう言っています。
「同性婚も選択的夫婦別姓も、それで幸せになる人がいて、不幸になる人はいないのだから、誰にも反対する理由はない。」
そのとおりです。そしてニュージーランドでは、ウィリアムソン議員のスピーチの前に、同性婚を認める法律が成立しました。

日本はというと、2021年の国会で同性婚について議論がありましたが、これを認めるには到底至りませんでした。LGBTをめぐる法案も廃案。それは確かに、「保守的」な人たちが譲ろうとしない<家族>というイメージが大きく関わったせいでしょう。同性愛「なんて」認めたら、この人たちの心は、深く傷つくのかもしれません。2023年に至ってなお、時の政権はこの「問題」を取り扱うことに、とてつもない居心地の悪さを感じているようです。
繰り返しお話ししているように、ぼくたちが抱いている思い、観念、道徳、倫理、そして社会秩序に至るまで、すべてを決定してしまっているのは、感情です。<知的な理屈づけ>、世の中ではそれを好んで<観念>なり<原則>なり<イデオロギー>と呼びたがるのでしょうが、それは、自分が抱いている感情をもっともらしく武装したもの、自分を正当化しようとするもの、自分の立場をより優位にしようとするもの、にすぎません。

前川さんは先ほど引用した言葉に次いで、次のように述べています。
「反対する人は、自分の好き嫌いを人に押しつけて、人を不幸にしているのだ。」
その通りです。好き嫌い。こうした心の状態がまさに、暴力的な感情性を生み出す母体です。嫌いなことを力づくで排除しようとする人がいるのです。
前の節で、暴力という感情が誰の心にでも巣食っていることはお話ししました。でも、そこから、ピンカーのように、そうなのだ、霊長類の一種であるホモ・サピエンスは、猿の群れと同様に、とりわけオスは、強いオスこそが子孫を残すのだから、そのための闘争を行うという性質を生得的に持っているのだ、と短絡的に考えるのは、ぼくには馬鹿げて感じられます。ダーウィンを単純化しすぎている、とか、淘汰圧の考え方が間違っている、とかいう<理論的な>馬鹿馬鹿しさのことを言っているのではありません。ピンカーがそう確信しているという、彼自身が持っている感情のバイアスに、彼自身が気がついていない、それを感じ取っていないことに、つまり彼が彼自身の好き嫌いで物事をあらかじめ仕分けしてしまっていることに、馬鹿馬鹿しさを感じます。まさに社会を貫いている感情を、しかも社会動態の歴史を通観して、集団の情動が激しく変動していることを、そしてその感情が自分自身をも貫通しているということを、知る機会は存分にあったはずなのに、彼は何も感じとらないままにそこを素通りする。

同性婚をめぐって、ウィリアムソン議員のように、他者に対して共感という感情が動く人もいます。ウィリアムソン議員のことばに心を動かされたあなたがいるなら、そういうあなたにもまた、共感性が大きく関わっているのでしょう。前川さんの発言にもそれは感じ取ることができます。
でもその一方で、他者への共感が感じられない、という心の状態の人たちもいるのです。そういう心がとりわけ、人を支配したい、制御したいという欲求に基づいた心情を持つ、政治的野心のある人々に認められることは、ずっとずっとお話しし続けてきました。
共感性が強い人と、猜疑心や敵対心で満ち溢れている人は、ぼくたちの社会に共存しています。それが果たしてホモ・サピエンス<に備わったもとからある>生態なのかどうかという決定論に明け暮れることよりももっと身近に、もっと切実に、この共存が生み出す社会の混乱は、今この瞬間もぼくたちを困らせ、苦しめ、場合によっては命すら奪ってしまうものとして、目の前にぶら下がっています。ぼくは、しっかりとそちらに目を向けてみたいです。

人を不幸にすることを望む心があるということを認めないと、理解ができないことがたくさんあります。政治的でありたがる、つまり他者を服従させたい、屈服させたい、あるいはさらに滅ぼしたいという欲求を持つ人々は、そもそも残虐だということ、そしてそういう信条の人々が暴力を軸にして生きていることは、繰り返し繰り返し述べてきました。政治的であるという心情は、他者を操作したい、他者を自分の意思に従わせたい、他者を利用したい、他者を滅ぼしたい、という心。
<文明化>のプロセスが複雑怪奇に社会を貫いていくにつれて、支配者層の心情は、被支配層の心が支配層によって操作された結果としても、また被支配層が、上昇志向に取り憑かれて、あるいはまた支配者層のcivilité(礼儀作法〜文明開化)を真似することで、自分もイッパシの人間なんだという満足感を得ようとした功名心の結果としても、ぼくたち被支配層にまで深く浸透し続けています。暴力性、残虐さが進化生物学的に見て(とりわけ「オス」に)生得的なものかどうかはどうでもいいとして、支配層を特徴づけている残虐さと暴力性とは、こうしてぼくたちの心の中にも、しっかりと内面化されています。あたかも、自分が持っている心は、自分が生まれ落ちた時からすでに授かっているものなんだ、あらゆる経験に先立っているものなんだ、と思い込むほどしっかりと。この内面化がある程度進行すると、もうぼくたちは、支配層の暴力性に気がつくことはできなくなるでしょう。なにしろ、彼らの心、彼らの行為は、ぼくたちの心にも内面化されて備わっているのですから。

他者の自由(夫婦別姓でも同性婚でもなんでもいいです)を認めないという心は、それを認めると自分が危うくなるという恐怖心に動かされています。恐怖心、自分が保てないかもしれないという、底なしの恐ろしさ(これは比喩ではありません)が心を満たしているので、それをなんとかすることだけに執着するのでしょう。溺れている人が必死なのと同じ。その人は、横で溺れているもう一人の人を助けることなど、思いつくはずがありません。
自発性に満ちた自己を作ることができなかった人たちの、自分が空疎だ、自分は価値がないという感情は、ぼくたちを当たり前のように取り囲んでいる競争の中で、自分の価値を人との比較をして測るという日常に励まされて、つまり「自分は他の人と同じらしい。」ということを確認して、膨れ上がっていきます。そうした心に満ちているのは、不安、緊張、恐怖、猜疑心。この心には、安らぎも豊かさもありません。

この心は、子育てや学校での教育で、すくすくと育ちます。子供は、親のしつけを通して、自分の行為が適切かどうかの基準を、親、あるいは育てている人という、自分の外にいる人の価値判断(もちろんこれは感情にすぎません)に託すことを強いられます。この心の癖は、学校に入る頃には見事に完成しているでしょう。
そして学校では、ありとあらゆる規則、集団行動を通して、価値判断の基準は、先生にあり、クラスの「みんな」にあり、学校にあるということをさらに学んでいきます。自分自身の価値判断、つまり自分自身の心の声を信頼するという経験は、こうして幼少期から、根こそぎ奪われていきます。誰もそれに違和感は感じない。
 親は子供を躾けるものだ。
 先生は子供を教え込むものだ。
 集団は個人に優先するものだ。
 集団のルールは個人の事情を超えているものだ。
2度目の東京オリンピックが始まる夏に、こんな現状をまざまざと感じさせるような小さな事件が水戸で起きました。聖火ランナーに向かって、沿道にいた人が水鉄砲を発射、「東京オリンピック反対!」と叫んだ時のこと。警備に当たっていた女性が発した一言は「何やったのよ!」でした。いたずらをした子供に向けて叱責をする親と同じ言葉、同じトーン。社会ルールに疑問も覚えずに内面化し尽くした人は、それを破る人、それに頓着しない人に対して、ほぼ自動的に、親、年長者、先生として振る舞う(つまり弱者として見下げるという自動化)ことが、手にとるように分かった事件。

自分の価値を測る基準がいつも自分の外部にしかない、つまりいつも他者、しかも常に自分よりも圧倒的に力が強い他者の判断に従うしかない、こうした振舞いが当然になっている社会(まさにこれが疎外 alienation という状況なのですが)では、もうひとつの「当然でしょ」が起きます。
それは他者と自分との価値の高低差の測定。
子供たちは学校で、成績の順位をつけられます。足の速さが比較されます。歌のうまさ、絵のうまさが序列化されます。身長差まで整列順に用いられます。健康度による序列化もありましたが、これはやっと1996年になって廃止されました。
成績、運動能力、体格、絵や音楽に見せる「才能」などは、子供たちの生活の中で、まさに核心となる関心事になっています。学校にいる限り、この比較、この差別、この外部基準に左右される alienation から逃れる術はありません。ぼくたちはこうしてずっと、個として認められることはほとんどないまま、集団としてだけ、管理されていきます。
こうした civilisation を経て、ぼくたちは大人になります。そしてぼくたちは結婚をし、子供を作ります。子供への躾は、自分の親と自分の生育環境の模倣によって行われます。模倣することの意義を考える人は少なく、まして、模倣することに疑いを持つ人はもっと少なく、習慣として、子供はしつけるものだ、という行為がだらだらと続いています。こうして、疎外の連鎖がずっとずっと続きます。

労働の現場でも、幼少期から学校に至る、価値判断の基準が自分の外にあることと、その基準に従って個人が序列化されることは、反復されます。ぼくたちは、「新入社員」から徐々に昇進します。仕事は常に<評価>を受けます。組織化された労働の現場に、ほかの行動原理が入る余地はありません。

労働における疎外 alienation は、どちらかといえば、哲学や社会史に少し触れたことがある人なら、まだ分かりやすいのかもしれません。
子供の発育、それから教育、そして家庭環境にもまた、まったく同じ alienation が起きていることは、それよりもとても気がつきにくい。
でも、育児や教育を含むぼくたちの生育環境と、ぼくたちの労働環境とは、じつは同じ alienation によって成り立っているのです。それは、別の言い方をすると(繰り返しになりますが)、自己に対する評価の基準と評価者が、常に他者である、という自己疎外です。

疎外による個性の剥奪は、さまざまなところで観察できます。そのほんの一部だけを書き留めてみます。
「そんなことすると恥ずかしいでしょ!」という親の叱責に始まり、「あなたはお兄ちゃんなんだから泣いちゃいけません」「もっと女の子らしくしなさい」という定型のしつけ。幼稚園から始まる制服と集団行動による個性の剥奪。
学校では下着の色まで指定されます。体育着の下の下着は着用禁止。髪を染めていないという「地毛」証明がなければ処罰されます。どんなに寒くても、制服の上から外套を着てはならない。
<学力>や<運動能力>は数値化されます。集団行動への順応訓練(体育、様々な儀式など)が毎日繰り返されます。個人よりも、委員会や部活への所属が重視されます。
学校を出たら、<社会人>という集団への帰属が本格化します。肩書きの重視、所属企業や所属部署への従属。そしてまたユニフォームによる没個性化。
列挙していくと切りがないくらい。ぼくたちが知っている社会は、ほぼ alienation で、つまりほぼ個性の剥奪のおかげで、成り立っているという光景が見えてきます。

そしてこの alienation に常に寄り添っているのが、暴力性という感情です。
個を顧みず、外化された価値基準でのみ、ぼくもあなたも他者を判断するという集団では、自分自身を自分が判断できる見込みは、とても、とても少ない。お互いにお互いを評価し合うということは、そうですよね、お互いにお互いを監視し合うということと同じ。(監視という行動の歴史的な推移については、また機会を改めてお話しします。)
そんなきな臭い集団の中で、自分の身の安全が確認できる唯一の方策はといえば、ええ、自分が、少なくとも今自分を取り巻いている状況下では、あまりにも自分に不利に働くくらいな序列の下位に、自分がいないことを確かめることしかなさそうです。もし自分がだいぶ下にいることに気がついたら、どうするか。学校時代と同じです。「もっといい成績を取って浮上すること」が自分の行動指針(保身ということですね)の全てになります。そしてその通りのことが起きています。目的を失ったままの、ひたすら「頑張る」という足掻きに終始する、お決まりの情動と行動。
この、できるだけ他者を蹴落として、できるだけ自分だけはより高いところに浮き上がる、という行動原理が、世間で「向上心」として美徳、倫理とみなされているものの正体です。この行動原理がいかに暴力的なものであるか、というか、ただひたすらに暴力的でしかないということを、感じ取っていただけるでしょうか。
この暴力性は、個という次元で見れば、まさに自己疎外 alienation の産物ですが、ではなんでそんなことになっているかというと、やはり社会全体の仕組みということになるでしょう。そしてその仕組みを作ったり保持したりする圧倒的な力を持っているのは、人口比でごくわずかの人数からなる支配層が動かしている権力装置です。

権力装置が暴力装置であることはすでにずっとお話ししてきました。そして、暴力の発生源が、個性の剥奪、alienation であることは、今回ずっとお話をしました。権力装置が被支配層に、<文明化>の美名をつけて、自分自身の感情性をルール化させ、内面化させる、そしてそれに<道徳性>とか<倫理>といった詐称が行われる、というプロセスのこともお話ししました。

ただ、ここではっきりと見えてきたことがあると思います。それは、暴力性という、社会的に共有されている感情の源を、一方的に支配者、つまり政治に関わる人々に求めるのは間違いだし、暴力性はもともと被支配層にあって、支配者はそれをまんまと利用しているのだ、と考えるのも間違っているし、まして、暴力性はホモ・サピエンスの生得的な習性なんだよと、ことを単純化するのは大間違いだということ。
すべては循環していて、すべてはお互いに影響し合っているのです。支配者は支配者でやはり疎外されています、つまり、自分が本当はどんな存在で、どんなことに充足感が得られるものなのかが感じ取れないまま育って、他者との力比べでしか、自分の安全が確かめられない状態。まともに感じ取れていれば、そもそも人は、他者を支配したいなどという欲求を満たすために一生を費やすことなんてないでしょう。
一方被支配層は、支配層を雛形にして集団形成をせざるを得ない状態に押し込まれています。支配層と被支配層とのこの関係は、おそらく何千年も続いているものなのでしょう。ぼくたちの社会は、この関係性を核として、あたかもこの関係性を守り抜くためであるかのように、いろんな仕組みを作り上げてしまいました。そう簡単に、こうした仕組みの編み合せ Verflechtung(エリアスの言葉ですね) から逃れることなど、できそうにありません。

実存主義という思想はもう、とっくに古くなったとお考えかもしれませんが、じつはおそらく、ぼくたちがぼくたち自身を、自分自身の個を、疎外し続けているということが、この社会全体の(つまり支配、被支配とに関係なく、社会成員のほとんど全員に行き渡っている)暴力性と密接に関わっているという光景が、ぼくには感じられます。政治は暴力装置なのですが、かといって、政治をなんとかすればぼくたちの暴力性が消え失せるかというと、それも見込み薄。ぼくたちがほとんど疑問を感じていない、価値判断の外部委託による相互監視という、alienation から抜け出すこと、ここがおそらく、いちばん肝要なんじゃないかと思います。

毎日のように、暴力性、あるいは別の表現をするなら、他者の命や福祉などどうでもいいという政治の姿が明らかになっています。
冒頭でご紹介した、ジェンダーの緩和に対する拒絶感にもそれは現れています。
麻生太郎は、こんな発言で物議を醸していました。
「とてつもない金持ちに生まれた人間の苦しみなんて普通の人には分からんだろうな。」
確かにびっくりするくらい高圧的な発言ですが、この言葉の裏側に、「普通の人」をなじることで、なんとかして自分自身の境遇を守る口実を見つけ出そうという心が感じ取れませんでしょうか。過剰な防御と報復。それが感じ取れると、じつは麻生太郎が、自分の利害、自分の生活権を侵害されること一切に対して、底知れない恐怖心を抱いている可能性が見えてきます。恐怖を振り払うのに人が行使する感情、あるいは行為のひとつは、そう、暴力です。発言にはっきりと感じられる暴力性の源は、根拠を書いた剥き出しの恐怖心だという推測ができます。
命を奪われたウィシュマさん、オリンピック選手村から逃走したウガンダ選手の扱い、帰国を拒んだベラルーシ選手の扱いなど、日本は亡命や難民申請をほとんど拒否しています。これを、国際感覚がないとか、民族主義的だ、などと解釈することも可能でしょうけれど、それよりもやはり、こうした硬直した態度の背後に、「こんなことを認めていったら、私が安心していられる状態が失われてしまう」という、何の根拠もない、しかし強烈な恐怖心があると考えてみることは、意味がないことではありません。
しゃにむに相手を振り払うという行動は、恐怖に取り憑かれて、自分は攻撃されていると感じている人に特徴的です。そうした場面でふるわれる暴力は、際限がない、制御ができないことがしばしばです。
やるせない気持ちで受け止めるこんなニュースが、政治の側からは聞こえてきますが、それと同じような感情が、じつはぼくたちの中にもしっかりと内面化されていて、その<おかげ>で、ぼくたちが慣れ親しんで「当然だ、当たり前だ」と思い込んでいる社会が運営されていることに、気がつく必要があります。暴力性は、イボのように簡単な外科手術で取り除けるようなものではないのです。

補遺
実存主義のことに触れたついでに、この背景にあるもっと根深い alienation の可能性のことを。
alienation ということばを、とりわけフランスの実存主義者たちが有名にしたことは間違いありませんが、では彼らはこのことばの威力圏からは逃れていたのかというと、じつはそうでもないように思えます。というのは、集団に対する個の重要性を訴える実存主義、特にハイデガーとサルトルは、人間の生き方の基本は、「投企 Entwurf / projet」なのだとしました。人間はまず既存の社会に、自分で臨んだわけではなく「投げ込まれる」のだけれど、意識を持ち始めた人間は、今度は投げ込まれた社会で、自分の可能性、自分の未来の姿を、時間的に未来に向かって「投げる」のだ、と考えたわけです。感覚的にとても分かりやすい図式、自己啓発的な通俗性すら感じさせる図式なので、なるほどと思ってしまう人も多いでしょうけれど、じつはこれ、以前流行ったテレビドラマの決め台詞のような、お返しをしてやる、という報復の連鎖としても感じ取ることができます。「投げ込まれた」のであれば「投げ返して」やる。
もう少し踏み込んでみると、未来に向かって自己を投げるという、ちょうどそれをしている只中にいる自己は、そのちょっと前か、だいぶ前に、昔の自己が投げた未来を実現した、あるいは実現し損ねた自己だということになります。つまり、今の自己を規定しているのは過去の自己で、しかもその自己は、未来の自己に向かうための起点でしかないので、今ここの、現時点での自己は空白のまま。つまるところ、人間は永遠に、今ここの自己を持つことができないままなのです。つまり、「投企」という概念での人間性復権を(das Man という蔑称を発明して大半の人間を高みから蔑むハイデガーは胡散臭いので、このスローガンに合っているとは到底思えませんが、少なくともサルトルは)謳っていると言われている実存主義の心性がすでに、自己を失っている、つまり疎外されている、そればかりか、疎外された自己をそれとして受け入れてしまっている、という姿をして、ぼんやり浮かび上がってきます。
この残念なイメージを裏づけるかのように、サルトルは「対自」ということばを使っていて、人間は常に自己を意識の対象としていないとダメなのだと、つまり人間は頑張れば自己のすべてを意識化できるのだとして、果てしない自己制御の作業へと、つまりは果てしない自己否定と自己疎外の作業へと突き進んでしまったことが窺い知れます。

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