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『裁判官も人である』、推論することの怖さ。理解の欲動と賦存効果

GWが終わった。
人から譲ってもらったWiiUでやるゼルダが面白すぎた、というのが正直な過ごし方であった。プレステ2以降、10年近くゲームをやってこなかったので、たまたま最新のゲームをやってみたら「今ゲームってこんな綺麗なの!?」とカルチャーショックを受けた。
おかげでGWの色々な予定が、ゼルダに置き換わってしまった。が、外出自粛で暇を持て余しそうな気もしていたので、まあまあ良かったことにする。現実世界で外に出られない代わりに、ゲームの中で高原に出かけ、草刈りしてバッタを捕まえていた。

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さてさて、そんな中でもちまちまと読書は捗ったので読書noteだ。いつものごとく感想や要約というより、読みながら考えたことなので、レビューやサマリを求めている人には役に立たないかも。
読んだのはキンドルで実質半額セール中の「裁判官も人である」というノンフィクション。(Amazon
全国に3,000名程度いる裁判官の実情を扱った本で、司法を担う人々がどんな組織で、どんな苦悩や矛盾を抱えながら生きているのかが書かれている。
「法解釈」という、白にも黒にもとれる定性的で複雑なものを扱い、なおかつ自分の解釈の結果が、あまりにも多くの人生を変える。判決文を何度も何度も推敲し”正しい”判決を織り上げるまでの困難が書かれる。

バラエティ番組で裁判所が批判されたことがあった。いわく「被告に死刑判決を下したはずの裁判所が、次いで控訴を被告に勧めるのは『死刑を判決したが、自分の判断に自信がありません』と言っているのと同じ」とのことだ。それに対して裁判官が答えるインタビューがある。

ギリギリまで思い悩んだ末に、やはり究極の刑を選択せざるを得ないと決断しながら、なお裁判長が上訴審での判断を求めるよう勧めるのは、高裁の裁判長のもとでいま一度、審理してもらうことで救うことのできる何らかの事情を見出せるかもしれないと思うからなんです。

人間を裁く人間という特殊な仕事の深淵をのぞき込むような、こうしたインタビューがそこここに散りばめられている。

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判決の仕事を「適切な条文・判例を暗記しており、必要に応じて引用・適用できれば良い」というように、究極の暗記物のごとく理解するのは間違いだ。四章では矢板市尊属殺人事件のケースが書かれる。そこでの一審判決では「刑法200条の条文は憲法に違反している」という、刑法自体をひっくり返すものだった。すでに書かれて印刷された条文に従うことでは不十分なら、裁判官は何を拠り所にして人を裁いているのか。特定個人の親近感や情、先入観にほだされないで正義を体現するとはどういう仕事なのか。
リーガルハイに以下のようなセリフもある通り、彼らは異能の碩学なのかもしれない。

判決を下すのは断じて国民アンケートなんかじゃない。
わが国の碩学であられるたった5人のあなた方です!
どうか司法の頂点に立つ者の矜持を持ってご決断ください。
お願いします。

さて、そうした高潔で高尚な裁判官の仕事を描くノンフィクションかと思いきや、本書の副題は「良心と組織の狭間で」である。
任官したら、基本的にはキャリアライフのほとんどを過ごす、3,000人のクローズド・サークルの中で、組織人事、組織政治がどれほど裁判官の”良心”や司法に影響を与えているか、という暗い部分も丁寧に記述されている。

上司にあたる裁判官に反論することは許されない、硬直的な組織を変革する動きをする若手は人事考課であからさまに冷遇される、など、読んで楽しい話ではないが、さもありなんというエピソードが色々書かれている。

原発を稼働させたい企業・政府と、原発稼働にNOを言う裁判所のせめぎ合いは、スケールダウンさせれば、あらゆる企業で起きているような事業サイドと法務・コンプラサイドのせめぎ合いに読めなくもない。

普段覗けることのない世界を覗ける、という意味ではノンフィクションの醍醐味がつまった一冊の気もする。なんとなく裁判傍聴に行ってみたくなる。

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さて、ここからは本書の内容とは離れて考えたこと。
本書の魅力は、図鑑的な説明書きやインタビューに終始することなく、実際の事件・捜査について生々しいケーススタディが盛り込まれていることだ。
その中に1995年の「東住吉事件」がある。

大阪府の住宅で火災が起き、住んでいた女児が命を失うという事件だ。大阪府捜査一課はこれを「女児にかけた保険金目当てに、わざと火災を起こした」と断定し、同居の母親を逮捕した。

結局これは冤罪との判決が下るのだが、捜査一課が立てた仮説として以下のものが紹介されている。

火災前に満タンにしたはずのホンダ・アクティの燃料計が四分の三に落ちていることがわかる。それで短絡的に車からガソリンを抜いてポリタンクに移し、そのガソリンを撒いて火を付けたと考えた

結局これに対する真実は何であったかというと、

この燃料計は、熱で加熱されると針を固定しているシリコンが軟化し、四分の三まで針が下がる構造にあった

ということらしい。

二つ前の引用で、「燃料計の針が事実と食い違って低い!」⇒「燃料を、人には言えない理由で使ったに違いない」という仮説に対して「短絡的な」という形容がされているし、人の人生を左右する操作でその雑さはあり得ない、という話が前提、としても、

この、一見それらしいストーリーで「謎が解けた!」となることの快感、そこに快感を覚えてしまう怖さは他人事として笑えない。

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「動機づけ理論」の研究によれば、人間を突き動かすモチベーションとして、「金銭やモノを獲得したい」「安全を確保したい」というようなものと並んで「モノゴトを理解したい」というものがある。こうしたモチベーションは、人間をアクションに突き動かす強い力として「欲動」と呼ばれている。特に、最後の「モノゴトを理解したい」というものは「理解の欲動」と呼ばれる。(出典)

早い話が、世の中のことを理解し、説明づけて把握することはどうしようもなく気持ちいいのだ。

そして、人間の心理と行動を扱う行動経済学では「賦存効果(ふぞんこうか)」という言葉がある。色々な場面で使われる言葉だが、一つのニュアンスは「人間は自分が一度獲得したもの・手元にあるものの価値を高く評価する」というものだ。ものすごくざっくり言えば愛着のようなもので、たとえば店で売っているスニーカーより自分の持っているスニーカーの方が、機能的に優れていると思うようなことかもしれない。

理解の欲動と賦存効果が組み合わさるとどうなるか?

頭を抱えている問題に対して、それらしい解が見つかった瞬間、その解に固執し、ほかの可能性は考えられなくなる。あるいは「どうせ最初に俺が思いついた説があっている」という前提で、おざなりに他の解を評価するようになる。

東住吉事件の捜査官の視点に立てば、純粋な事故か?保険金殺人か?保険金殺人を匂わす手掛かりは無いか?という頭で捜査をする中で「不自然な数値を示している燃料計」を見つけた瞬間、頭の中でパズルのピースがはまる音がしたに違いない。

自分の仕事で考えてみても、色々な数値を読んでいて、急に「もしかして今、こういう『根本課題』が生じているんじゃないか。それに対してこういう打ち手があるんじゃないか」というストーリーがひらめき、それに夢中になることは良くある。

そして、「その閃きがハズレているかもしれない」という観点で検証作業をすることにはまったく気が乗らない、という気持ちになることはもっとよくある。

パズルが解けた気になっている捜査官の立場に自分を置いてみたとき「燃料計の計器はそもそも正確だろうか?」という論点はどう見えるだろうか?改めて気にするべきでもない,ごくごく些末な論点に見えないだろうか?

ダメ押しで付け加えるなら、イギリス哲学誌の編集長であるジュリアン・バジーニは「もっともらしい理由付け・説明はどのような主張に対しても付け加えられる。たとえそれが『子供が帽子を前後逆に被ることを好むのには生物学的な理由がある』というたぐいの主張であっても。その仮説構築の自由度に対して、個々の仮説の検証可能性はずいぶん限定的である」ということを書いている。

全てを合わせると

世の中のすべてのことについて、もっともらしい仮説と理由付けは成り立つ。何かの仮説を閃いてしまった者は、泥沼式にその閃きにはまり込んでしまう

というモデルが成り立つ。世の中の混沌を整理して、自分なりにストーリーを紡ぎだすということは、別の見方をすれば「どこかの落とし穴に落ちるまで、落とし穴だらけの平原を歩き回る努力を重ねる」ということなのかもしれない。僕はこのモデルを間抜けだと思って笑うことはできない。

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かなりひねくれた思考をしてきたが、では落とし穴に落ちないようにするためにはどうすればいいのだろうか?

一つは、理解の欲動・賦存効果・「万物はもっともらしく説明可能」ということの怖さを知ったうえで、健全な反証・検証のプロセスを持つということだろうか。プロセスを持つということ以上に、閃いたアイデアを潔く捨てるという心の強さをもつ、ということの方が大きいかもしれない。

落とし穴を避けるもう一つのやり方は、「すでに実証済みのこと」のみ信じるというものだ。
mp3というテクノロジーに翻弄される音楽業界を扱った「誰が音楽をタダにした?」という本には1990年代のワーナーミュージックを支えたモリスという音楽プロデューサーが出てくる。

モリスはマーケティングデータを追ったり、音楽シーンのトレンドをストーリーにする代わりに、CDの受注・発注の実績から「どこかの地方で小規模なヒットが生じていないか?」ということを徹底的に追った。
オハイオ出身のぱっとしないバンドが、平凡な曲をリリースして、ヒットの理由が誰にも分らなくても、カンバーランドという田舎町でその曲がヒットしているのを察知したモリスは「これは全米でもヒットするはず」としてプロモーションをかけ、実際にヒットさせた。
思考やストーリーへ深入りすることをさけ、試行と実証だけを追ったのである。

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裁判官の葛藤と、人間の思考と、世の中の複雑さ。
どうすれば我々は、晴れた日に骨と筋肉を使って野原を走るのと同じくらいの健全さで、脳を使って考えられるのだろうか?

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