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先輩駐在員が眠る場所

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コルカタの中心地にある「天国」を紹介しようと思う。喧騒を離れた天国…そこは墓地だ。

場所はコルカタのメイン・ストリートであるパーク・ストリート。そこにサウス・パーク・ストリート・セメタリー(South Park Street Cemetery)がある。一歩足を踏み入れると、鬱蒼と茂る木々の間に巨大な石のモニュメントがいくつも見え隠れする。石棺のようなシンプルなものから、天をつくようなオベリスク型、優美な柱を持つギリシャ神殿型・・・。ここには1,600以上もの墓がある。これらのデザインは、いずれも当時のイギリスの流行を反映しており、オベリスクに代表されるエジプト文化や古代ギリシャ文化は人気があった。すでに崩れてしまっている墓石も多いが、壮大な墓石を目の当たりにすると、まるで美術館にいるような錯覚に陥る。

サウス・パーク・ストリート・セメタリー園内(筆者撮影)
※園内写真撮影には管理機関からの許可が必要です。

ここに眠る人々はインド人ではない。ヨーロッパからやってきた人々の墓地だ。1767年に近くの教会から、現在の場所に移転された墓地は、ヨーロッパ・アメリカ圏外で最大規模の西洋人墓地だとされている。墓地のゲートには、「OPEN:1767年、CLOSED:1790年」と記されているが、実際には1830年頃に亡くなった人々も埋葬されている。彼らが生きていた18世紀のインド。この地に渡った者の半数が、5年もたたないうちに病などで命を失ったといわれている。各国からやってきた人々が、祖国のため、家族のため、自らの名誉のため、この過酷なインドで死と隣り合わせで奮闘していた姿を感じることができる。

18世紀後半から19世紀初頭まで。コルカタはいわゆる大英帝国植民地インドの首都であり、「東洋のロンドン(London of the East)」と呼ばれる都市だった。インドを支配するにあたり、そこに住むイギリス人の考えも一様ではなかった。例えば、アングリシスト(Anglicist)と、オリエンタリスト(Orientalist)を例に挙げてみよう。前者はインド人に高等教育機関での英語・西洋文化の教育を支持する一方、後者はインド特有の言語や文化に共感、尊重していた。特に、後者オリエンタリストの球心的存在であった研究機関であるベンガル・アジア協会(Asiatic Society of Bengal:1784年創立)は、パーク・ストリートに現存する。この創始者であるウィリアム・ジョーンズ(William Jones)の名前も墓標に見つけることができる。結果として、総督がアングリシストの立場を採択し、インドに英語優位の社会を形成する一因となったが、当時のコルカタは「インドとどうやって関わっていくか」という議論の場であったといえるだろう。

また、商品価値の高い植物の栽培研究に貢献したコルカタの植物園(Botanical Garden)の創立者ロバート・キッド(Robert Kyd)の墓もある。当時、中国から高値で買い付けるしかなかった茶は、大英帝国が最も栽培したい植物のひとつであった。この植物園では茶の栽培研究が行われ、1837年には原木の移植による茶栽培を成功させている。この努力がなければ、有名なダージリン・ティーも存在しなかったかもしれない。

この墓地で眠る人々の名前や、その生きていた時代に思いを馳せると、自分と重なる部分があるだろう。インドにやってきた同じ「外国人」として、彼らが一生をかけて我々に示してくれたことは何だろうか。

インドとの付き合いに疲れた時。この都会の中にある天国に足を踏み入れてみよう。今のインドを築き上げた「駐在員の先輩」である彼らと静かに語り合う時間が、優しく答えてくれるに違いない。

※園内写真撮影には管理機関からの許可が必要です。

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