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人生とタイムリミットのはなし

「身体が弱ったり、ボケたりして人に迷惑をかけながら長生きするよりも、老いてしわくちゃになるまで生きるよりも、いっそのこと40歳くらいで綺麗なまま死にたい。」
高校生のときに、ある友人が言っていたことばだ。当時の私はよくわからないな、長生きした方が幸せじゃん、と思っていた。まあそういう考え方もあるよね、と聞き流していたと思う。

20歳を超えたあたりからなんとなくあの頃の友人のことばがわかるようになった。21のときに祖母が亡くなったときを境に、私の死生観は少しずつ変わり始めた。

たとえ長生きして死んだとしても、今いる友人たちのどれほどが私の死を知り、悼んでくれるだろうか。

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社会人になって働き始めると、私は徐々に人生というものに絶望感を抱き始めた。

この先の人生の方が今までよりも遥かに長いのに、自分のための自由な時間は今までよりも遥かに少ない。ひたすら社会の歯車となって働き、結婚をしたら育児に翻弄され、解放されたと思ったらすでに若さと体力は失われつつある。

さらに女性であるがゆえの社会での生きにくさも感じるようになった。中高時代は女子校だったし、大学も比較的女子が多かったのであまり不自由を感じることはなかったが、社会に出てみると自分はひとりの“人間”ではなく“女性”として見られていることに気づく。

就職活動や転職活動の面接では事あるごとに結婚と結びつけた質問が投げかけられる。特に結婚願望も強くないし、人生を共にしたいと思える人に出会えたら結婚するかもしれないな、程度の考えである。別に未来のことなんてわからない。

そうした絶望を繰り返すうちに「30歳まで生きたらもういいかな」と思い始めた。

その先の人生を見据えて、結婚して家庭をもつことを考えてひたすら貯金をする必要もない。あと10年もないのだから好きなことを好きなだけして生きればいい。社会人になる前にやっておきたいことをいろいろやってみたみたいに、むしろタイムリミットが決まっている方が行動力が高まる。

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ここ数年で私はだいぶ悟りを開いたように感じる。ああ、人間って、人生って、所詮こんなものかと。

人の生き方とは多種多様なようで、実は皆同じ正解にたどり着かなければならない。計算によってパキッと決まった答えが導き出される数学や物理が苦手な人であっても、人生においては正解にこだわる。限りなく模範解答に近い生き方を好む。そしてその模範解答から少しでも逸脱すれば、社会はその人を軽蔑する。

例えば学校を留年したり、会社を早期離職したり、何か模範解答と違うことがあればしつこくその訳を問いただす。そこには論理的な理由がなくてはならない。理由のない“なんとなく”ではだめなのだ。

自分の人生だ。模範解答の型から外れていても、それがその人にとっては正解の生き方になる。常に論理を求めていては退屈だ。なんとなくで寄り道してみたっていい。

長く生きれば生きるほど、模範解答から逸れた生き方はしにくい。一度外れてしまえば軌道修正が難しくなる。だから私は、30歳というタイムリミットを定めてみる。

もし30歳になる前に、絶望感を少しでも払拭できたら、そのときはまた改めてタイムリミットを定めよう。そうして私は私らしい人生を追い求めていきたい。


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