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積読癖のはなし

この本を買いに本屋へ行こうと家を出たはずなのに、帰ってきた自分が手にしているのは別の本。あの本とあの本を借りようと心に決めて意気揚々と図書館へ来たのに、出るときには倍以上の数の本を抱えていたりする。

目当ての本の周りにある本をなんとなく眺めたり、本棚の間を縫うように歩いたりしていると、ついつい気になるタイトルや表紙が目に留まる。まるで自分も連れて帰ってと訴えんばかりに視界に飛び込んでくる。そしてそれに抗えず、まんまと手に取ってしまうのは本好きあるあるではなかろうか。

図書館で借りた本は期限があるので優先的に読む。だが本屋で購入した本の場合、いつでも自分の好きなときに読み始められる。今はこの本を読むからこれはあとにしよう!と、とりあえずその辺に積んどく。そうしているうちに、また新たな本を買ってしまい、あとにしようとまた積んどく。こうして“積読タワー”が出来上がっていく。

なぜ人々は積読をしてしまうのか。その謎を解明すべく我々は本屋の奥へ向かい、手には新たな積読を持って帰ってきた(本末転倒)。

本屋や古本屋に行くと、そこにあるすべての本が欲しくなる。私に財力があれば店ごと買えるのにな、なんてことも考える。

人生、この世界に存在するすべての本を読むには短すぎる。労働時間が1日4時間だったら。せめて1日が48時間だったら。

本を買うには部屋が狭すぎる。私の家が東京ドームくらいの広さで、タワーマンション並みの階数があったら。美女と野獣に出てくるみたいな書庫があったら。

こうして私がこの記事を書いている間にも新しい物語が生まれ、古い本が絶版になる。本も人間の命と同じである。新しいものが生まれてばかりでは本が溢れすぎてしまう。世界は今日も循環し、目まぐるしく回る。

循環するという点では、映画も同じである。積読もあるが、積み映画もある。しかし、映画はものとして積むことができない。今観なければ上映が終わってしまう。だから消化できる。配信があるとはいえ、劇場上映に期限があるという点では、映画は図書館の本に似ている。

どうしても部屋の片隅に積んでしまうなら、積めない媒体にすればいいのではないか。紙ではなく電子にすればいいと提案してくる人もいるかもしれない。

媒体が変わったところで、積読癖のある人の行動は変わらない。むしろ電子だからどれだけ積んでもひとつのタブレットないしスマートフォンに収まってしまう。紙であろうが電子であろうが、本は積むものなのである(否、読むものである)。

さて、私には購入したまま若干ホコリをかぶりつつある本が4冊ほどある。なのに先日の神保町ブックフリマでまたもや4冊買い足してしまった。まだ購入はしていなくても、Amazonの欲しいものリストやTwitterのブックマークに気になった本としてまとめているものがさらに10冊以上。ひとつ消化すると5冊ほど追加されるというのが常である。

部屋に本が1冊も積まれていない状態になる日は来るのだろうか。おそらく来ない。でもこれは悲観することではない。一生何かしらの本と付き合っていけるということなのだから。そんなことを考えながら、私は今日もまた順調に積読タワーの建設に励む。

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