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天気の子は自分勝手で美しい(ネタバレ注意)

こんばんは。葵です。
今さっき配信がスタートした新海誠監督の映画「天気の子」を観ました。
ただただ私が感じたことを綴ります。
先に言っておくと、私はこの作品が大好きです。
タイトルの「自分勝手」の意味も読んでいただければきっとわかります。

受験生の夏休み、たった一度の息抜きとして観に行ったこの映画。
私は同じ日に2回観ました。馬鹿だと笑う方もいるでしょうね、笑。
でもそれだけ私に刺さった作品でした。


正直映画を観ながらあれこれ考えられるタイプでもないし、
最初に観たときは綺麗すぎる映像と大好きなRADWIMPSの音楽だけですでに号泣おなか一杯という感じでした。
1年ぶりに配信で観たら色々思ったことがあったので書きます。

この先ネタバレを含みますのでご注意ください。

「天気の子は自分勝手で美しい」

※ここから完全私の主観です。


「青空よりも、俺は陽菜がいい!」
この帆高のセリフにすべてが詰まっていると、私は考えました。
青空は、みんなが望むもの、世界が望むもの。公共の利益っていういい方は変かな。
とにかくそういうもの。多数決を取ったら、もしかしたらこっちが勝ってしまうかもしれない。たとえ1人の命がかかっていても。

だからこの映画の感想に「主人公2人が自分勝手すぎる。」というものがあるのでしょう。

実際、途中で須賀さんは、帆高を追い出したことを非難する夏美さんに向かってこう言う。
「人柱1人で天気が元に戻るんなら、俺は歓迎だけどね。俺だけじゃない、本当はお前だってそうだろ?ていうか皆そうなんだよ。誰かがなにかの犠牲になって、それで回っていくのが社会ってもんだ。」

そしてそれを陽菜は知っている。自分が犠牲になれば世界は救われる。
青空が再び訪れる。
だからといって普通簡単に自分が人柱になることを覚悟できますか?

『世界が君の小さな肩に 乗っているのが 僕にだけは見えて 泣き出しそうでいると 「大丈夫?」ってさぁ 君が気付いてさ 聞くから 「大丈夫だよ」って 僕は慌てて言うけど なんでそんなことを 言うんだよ 崩れそうなのは 君なのに』

これはラストシーンで流れるRADWIMPSの楽曲「大丈夫」の歌詞です。
この歌詞はきっと陽菜ちゃんそのものですね。
全部1人で抱え込んでしまう。そうするしかない。
優しくて、強くて、でも誰にも気が付いてもらえずに犠牲になる運命の少女。
わずか15歳でこの覚悟をしなければならない残酷さ。
世界を選ぶか、陽菜を選ぶか、この2択で唯一陽菜側についたのが帆高だった。そして帆高は多くの何も知らずに自分を止めようとする大人を振り切って行動した。
私は大好きな小説(名前は出しませんが)の中の、世界が終わるその瞬間まで恋をしていた2人を思い出しました。あの小説の場合は、君のついでに世界が救われた。でも「天気の子」では世界か君かどちらかを選ばなければならなかった。

私たちはこの物語を傍観しているから「美しい」と思えます。
しかしこの気持ちは誰もが抱えている「自分最優先思考」(私は勝手にそう呼んでいます)だと言うこともできると思います。

少し「自分最優先思考」についてお話します。
実はタイトルの「自分勝手」と区別したくて使っているだけで、意味はほとんど同じです。自分勝手からマイナスイメージを少し引いた言葉だと認識していただけたら嬉しいです。
名前までつけて大袈裟ですが、そのままの意味です。
「人間は、誰しも自分のためにしか生きられない」
私がこの考えを持ったのは中学3年生の時でした。
道徳の授業で
「あなたは紛争地帯にいる医師です。そこに助からないだろうと思われる一人の少女が運ばれてきました。酸素ボンベは残り少ないです。次の酸素ボンベがいつ届くかはわかりません
あなたは酸素を子供に与えますか?」
こういった内容の議論をしました。
「医者として目の前の患者のために全力を尽くすべきなので与える。」
「次に来た患者さんのために、酸素は残す。助からないのに延命をするのは子どもがかわいそうだ。」
このような意見があったように思われます。
私もおそらくこんなことを言って、自分の正義感に満足していました。
しかし、この授業の後、私はあることに気が付いて、気持ち悪くてたまらなくなりました。
それは、どの考えもすべて「自分が○○したくない」「自分が○○したい」という気持ちから生まれているということです。
「自分が全力を尽くしたと思いたい」
「延命するのはかわいそう、だから酸素は与えない。自分の意志ではない。」
このことをラジオの掲示板に書き込んで、様々な意見を大人からいただいたのを今でもはっきり覚えています。

「子供や妻のためなら、私は自分の命だって犠牲にできますよ。」

そうコメントしてくださった方もいました。
素敵な方です。でももし本当にそうならその裏には
「自分が、妻や子供に死んでほしくない」
という気持ちがあるからだと思います。自分のために、自分ではなく妻や子どもの命を優先します。

結局、「人間は自分のためにしか生きられない」私はこのときこのことを勝手に悟りました。
真偽は不明ですが、私はそう信じています。
気が付いたときは、病気の子どものことを考えてではなく、結局自分の意志で選んでいることを少し気持ち悪く感じてしまいましたが、
「自分最優先思考」は悪でも善でもない、当たり前の思考だと思います。
大体、悪とか善とかいうのは世界の利益の話です。そしてそれを主張するのは多数派である”世界”のほうです。世界の利益の裏には犠牲があります。最近すごくそのことを感じます。給付金の問題、9月入学、自粛警察。みんな自分最優先だから意見がぶつかります。当然のことなんです。自分が自分を優先していることを自覚することもすごく大切だと思います。自分最優先の考えを押し通そうとするのではなく、譲り合うしかないんです。

そしてむしろ人間は、「自分のついでに周りの人も幸せにできる」のです。
それってものすごく幸せなことではないですか?私は「自分のついでに他人を幸せにできるような人」になりたいです。

だいぶ話が逸れましたが、帆高は間違いなく自分を優先しました。

「青空よりも、俺は陽菜がいい!」

この判断を知ったら世界は非難するかもしれません。
「自分勝手だ!」と。
私は「お互い様だよ」と言い返したいです。

いつのまにか私たちは、映画を見ながら世界側ではなく帆高側についてます。

「自分勝手だ」というマイナス評価もネット上では散見されましたが、それはたぶん世界の視点に立ってこの作品を観ているからです。
これは憶測ですが、新海誠監督もこの2つの視点を持つ人がいて、酷評される可能性も十分に理解していたと思います。

「君の名は。」はまさに「君のついでに世界も救った物語」でした。
それに対し、「天気の子」は「世界ではなく君を選ぶ物語」と言えます。


「世界を敵に回しても僕は」なんていうベタなセリフも、「そっち側」に立ってしまう私たちにとっては大好物です。
世界を敵に回す経験はきっとこの先私には訪れないでしょう。
だから私にとって天気の子は他人事でただひたすらに美しいのです。
私はそう思います。
拙い文章ですが、読んでいただきありがとうございました。感想もお待ちしております。

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