レビュー:THINK CLEARLY


なぜ読んだ

友人のレビューが高く、気になっていた!


感想

3回読み返した程内容が良かった!

とにかく内容良すぎ、これは良書って感じで非常におススメしたい


それ以上長く思い悩んでも一ミリも先に進まない
頭の中で検討を重ねることに、意味がないわけではない。短期間でも集中して考えれば、とてつもなく大きな気づきがある。しかし、 時間とともに新たに得られる認識はどんどん小さくなり、すぐに思考は「飽和点」に達してしまう。
だが、言うは易く行うは難し。考えるだけで先に進めないことは私にもよくある。思考の飽和点をとっくに過ぎていても、つい考えすぎてしまう。  どうしてだろう? それは、 考えるほうが簡単だからだ。  率先して行動を起こすより、考えているだけのほうが気楽だ。実行に移すよりぼんやりと思いをめぐらせているほうが、心地がいいのだ。  考えているだけなら失敗するリスクはゼロだが、行動すれば失敗のリスクは確実にゼロより高くなる。ただ考えたり、他人の行動にコメントしたりするだけの人が多いのはそのためだ。  考えているだけの人は現実とかかわらない。そのため、挫折する心配は一切ない。一方、行動する人は挫折のリスクと無縁ではないが、その代わり経験を積むことができる。 「望んでいたものを手に入れられなかった場合に、手に入れられるのは経験である」という、この状況を表すのにぴったりの有名なフレーズもある。 何を描きたいかは、描きはじめないとわからない  パブロ・ピカソは「新しいことに挑戦する勇気」がいかに大切かを、きちんと理解していた。  ピカソはこう言っている。「何を描きたいかは、描きはじめてみなければわからない」。  同じことは、人生にも当てはまる。   人生において自分が何を求めているかを知るには、何かを始めてみるのが一番だ。この章を読んで何か行動を起こしてみようと思った人も、考えているだけではよい人生は手に入らないということだけは常に頭に入れておくようにしよう。

ある一定まで深く考えたらそれ以上深く考えるよりも、実際に行動して、そこから得られる情報や経験を基に行動を修正して動く。行動の修正は誤りを認めることではなく、目標に向けて正しく進むために必要なことなのかなーと。この中にもあるけど、行動よりも考えるほうが簡単で、誰からも攻められることなく、かつなんとなく優位に立てる気がするから、この甘さに濱ってしまうと抜けられないのかな。よくいるじゃん、自分からは何も動かないくせに後出しじゃんけんしかしないで、いかにも俺は前から考えてますよ、みたいな。そういうやつって自分から改善アクションできないからもう完全に敵認定したい感じ。そいつを気にするより動いて、動いて、経験して学んでいきたい。

物事がうまく運ぶことなどほとんどない。人生は常に乱気流の中にあって、私たちはありとあらゆる種類の横風や、予想外の急激な天候の変化と闘わねばならないのだ。  それなのに私たちは浅はかにも、晴天の空を飛びつづけるパイロットのようにふるまっている。 最初の条件設定ばかりを重視し、修正の意義を軽んじすぎている。 重要なのは「スタート」ではなく、「修正技術」のほう
私たちはなぜ、何かを修正をしたり見直したりすることに、こんなにも「抵抗」があるのだろう?  それは、 どんな 些細 な修正も「計画が間違っていたことの証拠」のように思えるから だ。
計画そのものに価値はない。計画しつづけることに意味があるのだ」。  大事なのは「完璧な計画を立てること」ではなく、「状況に合わせて何度でも計画に変更を加えること」。
早いうちに軌道修正した人は、長い時間をかけて完璧な条件設定をつくりあげ、計画がうまくいくのをいたずらに待ちつづける人より得るものが大きい。

ここら辺も、これまでに読んだ本の内容と共鳴するものがある。
手を動かし、足を運びながら考えることの重要性。
仕事と人生を激変させるなら99.9%アウトプットを先にしなさい の
動きながら修正していく、アウトプット→インプットのサイクルを回し続けること。
PDCAではなくiOIF!
→スモールインプット→アウトプット→インプット→フィードバック
これと同じ内容かなと。大事だなー。



数学者のあいだで「秘書問題」として知られる命題である。驚くべきことに、 この秘書問題の適切な解法は、たったひとつしかない。  まず、「最初の三七人」は、面接はしても全員不採用にして、ひとまずその三七人の中でもっとも優秀な女性のレベルを把握する。そしてその後も面接を続け、それまでの三七人のうちもっとも優秀だった人のレベルを上回った最初の応募者を採用するのだ。  この方法をとれば、優秀な秘書を採用できる確率は非常に高くなる。  ひょっとしたら採用を決めた女性は、一〇〇人いる応募者の中で最高の秘書ではないかもしれないが、それでも、あなたは確実に優秀な秘書を雇うことができる。ほかのどんな方法をとっても、統計的にこの方法を上回る結果は出ない。 「三七」という数字の根拠は何だろうか?  この三七とは、応募者数である一〇〇を、数学定数e(=2・718)で割って求めた数 である。  応募者が五〇人だった場合は、最初の一八人( 50 e)を不採用にし、その一八人のうちもっとも優秀だった人を上回った最初の応募者を採用すればいいということになる。
それでは、私たちの人生と数学の秘書問題には、どんな関係があるのだろう? 秘書問題は、私たちに「目安」を与えてくれる。  重要なことを決めるときに、「どのぐらいいろいろなことを試してみてから、最終決定を下すべきか」その指針を示してくれるのだ。

秘書問題はメモ程度で。

心の錯覚のトリック「メンタルアカウンティング」  自分のふところからお金を支払わなければならないときに、どれほど抵抗感を抱くかは、その「お金の出どころ」によって違う。  それは、心の錯覚を利用した一種のトリックといえ、心理学では「メンタルアカウンティング(心の会計)」 と呼ばれている。  これはどういうことかというと、たとえば同じお金でも、「道ばたで拾った一〇〇ユーロ札(一万円札)」なら、「働いて稼いだお金」より、気楽に無造作に使うことができる。  私が交通違反の罰金を「寄付用口座」から支払うのも、こうした錯覚の上手な利用法である。 心が穏やかでいられるように、わざと自分を錯覚させる のだ。
だが、起きてしまったことをどう意味づけ、どう解釈するかは、あなた自身でコントロールすることができる。そう、よい人生を送れるかどうかは、「事実を前向きに解釈できるかどうか」で決まることが多いのである。
失った時間とお金は取り戻せないが、起きた出来事の解釈の仕方を変えることはできる。  人生のあらゆる状況に対応できる「メンタルアカウンティング」のトリックを集めた箱をつくって、使ってみてほしい。ふだん「心の錯覚」をうまく避けられている人ほど、ときにはわざと錯覚を起こして、自分の心を落ち着かせるのが楽しくて仕方ないはずだ。

起きたことは自分の解釈の仕方を変えることで意味のあるものに昇華できる。自分にも、大きな失敗の経験があって、未だにそれは軽いトラウマになってる。これまでに読んだいくつかの本にも同様のことは書いてあったけど、未だに上手に対応できていない。心の奥の扉の先の引き出しにカギかけておきたいくらいの気持ち。でも、こんだけ丁重に扱うくらいだから逆に価値があるのかも、と思った。ドラクエだったら、ダンジョンの奥にかぎかかった宝箱あったらレアアイテムだしね。これは俺の課題。



失敗をして、その失敗の原因を突き止めるごとに、あなたの人生は向上する。失敗の原因がわからなければ、あなたはまた失敗をくり返すことになる。だが、粘り強い分析をして原因を解明しておけば、同じ失敗は避けられるのだ。 「失敗からの学習」は、プライベートなことだけでなく、ビジネスでも役に立つ。どの企業も、失敗から学ぶという手順を標準マニュアルとして取り入れるべきだろう。  素直に事実を受け入れて「失敗からの学習」ができたら、次に、今後のために突き止めた「失敗の原因」を取り除く努力をしよう。  この点に関して、チャーリー・マンガーはこんなことを述べている。「問題を処理せずにその問題が解決不能になるまで放っておくような人間は、大きな問題を抱えて当然の、大間抜けである」。  問題は、手に負えなくなるまで放置すべきではない。 「あなたが現実を飲み込まなければ、現実のほうがあなたを飲み込んでしまう」。

自分でコントロールできる問題、できない問題、時間が経つにつれて大きくなる問題、大きくならない問題を分けて考える必要があるんだと思う。これは仕事だけでなく人生も同じ。たとえば、親の病気や死はコントロールできないけど、相続問題はある程度コントロールできる。ただし、コントロールできるのは親が元気なうちだけ。これは放っておくと打つ手がなくなってしまう。。コントロールできる問題はコントロールできるうちにしておくこと。自分の手の届くところにある問題は手から離れないうちに対処しようと思う。正直めんどくさいことたくさんあるけど、現実に飲み込まれる前に、行動しよう。

失敗の原因を突き止めるごとに、あなたの人生は向上する

これは救いになるなあ。突き止めるごとに、ってことは失敗を恐れず行動してその原因を突き止め続ければ、人はずっと成長できるってことだもんな。

よい人生は、究極の幸せを求めた結果として得られるものではない。馬鹿げたことや愚かな行為を避け、時代の風潮に流されなければ、人生はおのずとうまくいく。「何を手に入れたか」で人生の豊かさが決まるわけではない。「何を避けるか」が大事なのだ。  ユーモアのセンスあふれるチャーリーは、こうも付け加えている。「一番知りたいのは私が死ぬ場所だ。そうすれば、その場所を常に避けていられるからね」。

何を避けるかが大事。ってことは何が起きるかを考えなければならない。
生命保険を払うことに意味があるのか問題はよく話しにあがるけど、これは自分が不慮の死を遂げてしまったときに残された家族の補償を予め考えている。簡単に言うと入っとけば安心で、安心料として先払いしとくといいよねって話。精神的な楽さを購入してると考えよう。これは先のメンタルアカウンティングの活用だな!

たとえば私は自分の感情を、どこからともなく私のところにやって来てはまたどこかへ消えていく、まるで自分とは関係ない何かのように扱うことにしている。  具体的にたとえたほうがわかりやすいかもしれない。私は自分のことを、「感情というありとあらゆる種類の鳥たちが飛んで来ては去っていく、開けていて風通しのいい屋内市場」のようにとらえているのだ。  鳥たちは室内の広場を飛び回っているだけのこともあれば、しばらくそこにとどまっていくこともある。ときには何かを落としていくときもある。でも、結局は、どの鳥もいなくなる。私がお気に入りの鳥もいればあまり気に入らない鳥もいる。  私はこの市場のイメージを頭の中でつくりあげてから、「自分の感情」が自分の一部とは感じられなくなった。まるで私に属していないかのように感じるのだ。  やってくることを歓迎できない鳥もいるが、さほど気にならない。実際に屋内市場に飛んできた鳥に対するように、無視するか、遠くから眺めているだけだ。  感情を鳥のイメージに置き換えるこの方法には、もうひとつ利点がある。感情を鳥の種類になぞらえて分類すれば、さらに遊び心を持って感情と付き合うことができるのだ。 「やっかみ」は、私のイメージの中ではチュンチュンと鳴く小さなスズメだ。「いらだち」は木をつつくキツツキ、「怒り」は猛スピードで飛ぶハヤブサ、「不安」は羽をばたつかせるツグミである。
「ネガティブな感情」は自分の意志では取り除けない

感情は自分でコントロールできるものではないから、コントロールしようとしてはいけないもの。著者の、感情を鳥に見立てるのは言いえて妙って感じ。ふらっと飛んできていつの間にか飛び立っていくもの。自分の感情は自分のものと捉えず、「あー、来たな、イライラしてんなー」と、視点を自分の外に出して観察するくらいがいいのだと思う。「イライラする」ではなくて、「イライラしている自分がいるな」という捉え方をすると、余裕もでるし、自分を俯瞰できて良いのかも。

フォーカシング・イリュージョンとは「特定のことについて集中して考えているあいだはそれが人生の重要な要素のように思えても、実際にはあなたが思うほど重要なことでもなんでもない」という錯覚を表す言葉だと。  つまり、 人生における「特定の要素」だけに意識を集中させると、その要素が人生に与える影響を大きく見積もりすぎてしまう。
たとえ大金は稼げても、喜びをもたらさない仕事に就くのは馬鹿げている。稼いだ多額のお金を、何かを経験することにではなくモノに投資している場合はなおさらだ。

フォーカシングイリュージョンは、この本を読んで最も腑に落ちたというか、腹落ちしたパート。丁度これ読んでた時に仕事辞めようかマジで悩んでて。というか辞めちゃえばいいんだけど、なんとなくこの仕事以外に自分にできる仕事はあるのかなぁとかめちゃくちゃ不安な気持ちもあって。
そんなもん、仕事なんていくらでもあるし、何なら工場勤務から営業部隊に配属になったときもなんとか頑張りながらできたじゃん!と、今思えばそうなんだけど、まさにフォーカシングイリュージョンにはまってたので、今の職場、仕事内容がとんでもなく大きなものに思ってた。でも、実際そんなことないし、きっと仕事辞めちゃえば今の職場のことを考えることなんてほとんど無いはずなのだ。

「モノ」の喜びは消えるが、「経験」の喜びは残る

新婚旅行で行ったバリ、今でも本当に素敵な思い出として残ってる。
あの日々は本当にすばらしくて、シュノーケリング、食べた料理、行ったところ全部が今思い出しても幸せな気持ちになる。まさにこれ。旅行代金は30万位だったと思うけど、もう少なくとも2年弱、思い出すだけで幸せになれる。非常に喜びが続いてるし、これからもきっと続くのでこれはいいお金の使い方だなぁと。逆に趣味のバス釣りのために買ったはいいけど使ってないロッド、ルアーいっぱいあるけどそれらは買ったときはわくわくしてたけど最終的にほとんど使ってなかったりするのでこれはあんまりいい使い方ではない。釣れたときにしかいい思いしないし、そもそも使っていないのだ。。


結論。私たちは「モノ」が与えてくれる幸せの効果を過大評価し、「経験」が与えてくれる幸せの効果を過小評価している。  モノで得られる喜びは時間とともに消えていく。あなたが家のことで頭をいっぱいにしていたとしても、その思考はやがて、日常におけるさまざまな思考の中に紛れてしまう。だが 経験で得られる喜びは、ずっと心に残りつづける。

もうハイライトが多すぎるのでここからは引用のみ。

大事なとこだけ太字にする。。。

ファック・ユー・マネー」という表現がある。上司ともめたあげく、「ファック・ユー(くそったれ!)」と捨てゼリフを吐いてオフィスから飛び出し、結果的に会社を辞めざるをえなくなってもかまわないと思えるだけのお金、という意味である。つまり、いつ上司にたてついて会社を辞めても、経済的に困らないだけの貯金ということだ。


人間は、自分の「能力の輪」の内側にあるものはとてもよく理解できる。だが「輪の外側」にあるものは理解できない、あるいは理解できたとしてもほんの一部だ。



自分の「能力の輪」に常にピントを合わせていれば、そこからもたらされるのは金銭的な成果だけではない。感情的な成果も得ることができる。自分には人より抜きんでた能力を持つ分野があるという、お金では買えない自信である。  そのうえ時間も節約できる。「能力の輪」の境界がわかっていれば、仕事上で何かを承諾したり断ったりしなければならないときでも、そのつど判断しなくてすむからだ。
あなたが、いくつの分野で「平均的」だろうとあるいは「平均以下」だろうと、そんなことはどうでもいい。大事なのは、あなたが少なくとも「ひとつの分野」で抜きんでているということだ。  それが世界レベルの優秀さならいうことなし。もし何かの分野で秀でた能力を持っているようなら、あなたはすでによい人生の前提条件を備えていることになる。   ひとつでもすばらしい能力があれば、欠点がいくつあろうと帳消しになる。  同じ一時間を費やすなら、「能力の輪」の外側よりも内側のことにしたほうが一〇〇〇倍も価値がある。
「性格の変化」については、よいニュースと悪いニュースがある。まずはよいほうから見ていこう。  自分の性格の変化をコントロールするのは難しい。性格の変化の大部分は、遺伝子に組み込まれたプログラムに沿って起きているからだ。  だが、ほんのわずかでも性格の変化に影響をおよぼせる可能性があるなら、それを試してみる価値はある。 もっとも効果が期待できるのは、「あなたが、自分自身の性格を、あなたの慕っている人に近づくように意識すること」 だ。だが、誰をモデルにするかは慎重に選んだほうがいい。  悪いニュースは、相手があなたのパートナーであろうとあなたの子どもであろうと、「自分以外の人間の性格は変えられない」ということだ。本人が望まなければ性格は変わらない。強制してみても論理的に説明してみても、けっしてうまくいかない。


「人生の大きな意義」の答えを探すのはやめたほうがいい。時間を無駄にするだけだ。  だがそれに対して、「人生の小さな意義」の答えを見つけるのは大事だ。  「人生の小さな意義」とは、あなたの個人的な目標や、あなたが意欲的になれることや、あなたがすべきこと を意味する。ゲイリーの留守番電話にあったふたつ目の質問がこれに当たる。個人的な目標がなければよい人生にはならない。  古代ローマの哲学者、セネカはすでに二〇〇〇年前にこう言っている。「すべての行動は、ひとつの目標に向けられていなければならない。そのためには、常にその目標をしっかり見据えておくことだ」。  目標を必ず達成できるとは限らないが、はじめから目標そのものがなければ何も達成できない。「人生の目標」の意味はきわめて大きい。
人が幸せを感じるかどうかは所得の額によって決まるのではなく、目標を達成できたかどうかで決まる のである。人生の目標がお金以外の場合でも、同じような傾向が確認されている。

どうして、「目標」がこれほど大きな意味を持つのだろう?  答えは明確だ。なぜなら、目標を持っている人は、持っていない人より、目標達成のために努力しようとするからだ。それに、目標があれば、正しい決断を下しやすくなる。  人生には、無数の分かれ道がある。分岐点に差しかかるたびに、そのときの気分でどちらに進むか決めてもいいだろうが、目標があれば、それに適した道を選ぶことができる。
大事なのは、少しでも早くどこかにたどり着くことではない。自分がどこに向かっているかをきちんと把握しておくことだ。
人間は、言い訳をすると、失敗から学べなくなってしまう。
「何かに命をかける覚悟のない人間は、人生に未熟である」と言ったのはキング牧師だが、つらい経験に耐える覚悟のない人も、やはりよい人生を手に入れられるほど成熟しているとは言えないのだ。傷つくのを恐れていては、「尊厳の輪」は築けない。
自分の中にある「信念」を外に向かって発信しなければ、あなたは次第に、操り人形になっていく。
よい人生には「自分の判断の基準となる、小さく強固な尊厳の輪が必要」 だという点だ。  私たちはこの輪を、(a)より筋の通った論理、(b)あなたの人生が脅かされる危険、(c)悪魔との契約、という三種類の攻撃から守らなければならない。


人生の困難は「解決する」より「避ける」ほうが早い
人生で起こる困難のほとんどは解決するより避けたほうが早いと気づくこと。 賢明さの定義とはつまり、困難に対して予防的措置をほどこすこと なのである。
実際、人生は難しい。問題はあちこちから、雨あられと降ってくる。目の前に予想もしない溝が突然口を開けたり、行き先をバリケードでふさがれたりしても、あなたにはどうすることもできない。  けれども、どこに危険が潜んでいるかが「予測」できれば、その危険を防止したり、あらかじめ困難を避けたりして通ることができる。  アインシュタインはこんなふうに言っている。「頭のいい人は問題を解決するが、賢明な人はそれをあらかじめ避けるものだ」
結論。賢明さとは、「予防的措置」をほどこすことだ。予防のための措置は外からは目につかないため、残念ながらあなたは賢明さをひけらかすことはできない。だが、自慢がよい人生のためにはならないことを、あなたもすでにご存じのはずである。


健全な精神を保つには、自己憐憫の沼に浸らないことだ。  人生は完璧でないという事実を受け入れよう。ほかの誰かの人生だって、あなたの人生と同じく完璧ではないのだ。  古代ローマの哲学者、セネカはこんなことを言っている。「運命は、いろいろな出来事を人間の頭の上に投げつける。生きるためには、強い精神を持たねばならない」。   過去に不幸だったからといって、いまも不幸でいなければならないということはない。  現在抱えている人生の問題がどうにかして対処できる類いのものなら、対処すればいい。もし対処できないようなら、その状況に耐えること。愚痴をこぼすのは時間の無駄だ。  自己憐憫はさらに始末が悪い。自己憐憫に浸っても問題の克服にはつながらないし、抱えている問題に極端な自己批判が加われば、状況を悪化させるだけだ。


形だけを追い求めるのはやめよう。どんなカーゴ・カルトにもかかわらないほうがいい。中身のともなわない「形式主義」は、私たちが考えるよりずっと社会に 蔓延 している。  よい人生にしたければ、形式主義をきちんと見抜き、あなたの人生から締め出したほうがいい。形式にこだわれば、時間を無駄にするだけでなく、あなたのものの見方まで狭くなる。  そして、カーゴ・カルトに陥っている人や組織とは距離を置こう。仕事の成果によってではなく、わざとらしい態度やくだらないおしゃべりで昇進が決まるような企業もまた遠ざけよう。  成功している人の行動をただ模倣するのもやめたほうがいい。その人が成功できた理由をきちんと理解せず、形だけをまねてもなんの意味もない。



これから何かをしようとするときには必ず、「必然」と「願望」と「期待」をはっきり区別しよう。  次に、「期待」を0から 10 のあいだで評価する。「0」は悲劇的な出来事を予想している場合、「 10」は一生をかけた夢がかなうと期待している場合である。  それができたら最後に、 自分が評価した点から「2点」を差し引き、その数値を頭の中に定着させる。  これは一〇秒とかからないシンプルな作業だが、期待に「数値」をつければ、何の根拠もないのに感覚だけで期待をつくりあげる、無意識の思考を阻止することができる。  また、この作業を行った後にあなたの中に残る期待値は、控えめというより、むしろ適正値を少し下回っているので、失望を避けるための余地もできる。  私はこの三つの手順を一日に数回行うようにしているが、この習慣は私の幸福感の維持に大きく役立っている。  結論。私たちは「期待」という感情を風船のように扱っている。無計画にどんどん高いところまで上昇させてしまうため、ついにはパチンとはじけて、空からしなびた小片になって降ってくる。  「必然」と「目標」と「期待」をいっしょくたにするのはやめよう。 この三つをはっきりと区別しよう。それらをきちんと区別できる能力も、よい人生を手にするための条件のひとつだ。
ふたつ目は、自分を重要視すればするほど、「自己奉仕バイアス」に陥りやすくなる からだ。  自己奉仕バイアスに陥ると、何かの目標に到達するために何かを行うのではなく、自分をよく見せるために行うようになる。有望株だからという理由ではなく、自分の価値を引き上げるために、魅力的なホテルや最先端技術を扱う企業の株を購入する投資家などはその典型的な例だろう。

自分を重要視していると「敵」をつくってしまう からだ。自分を重要視する人は、同じように自分自身を重要視している他人を許容できず、彼らを過小評価する。周りを低く評価しておかなければ、自分が重要な存在だという意識を保てないためだ。


「内なる成功こそが、真の成功」 だというものだ。 「内なる成功」というのは、心の充実や平静さを手に入れることだ。平静な心を保つのは、幸福な人生を送るためのもっとも有効な手段のひとつであり、同時に西洋思想では理想とされる心の状態でもある。  すでに言及したとおり、古代ギリシアや古代ローマの哲学者たちは、こうした心の内側の成功を「アタラクシア」と呼んだ。アタラクシアに到達して心の安らぎを手に入れた人は、不運に見舞われても取り乱すことはない。高く飛行しようが緊急着陸をしようが、心の平静は乱されない。


めっちゃ長くなったけど、本当に良い本だった!!!













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