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なぜ、組織開発はうまくいかないのか~レヴィンの場の理論と河合隼雄の場の論理から考える~

組織開発にすこしでも関心がある方は、クルト・レヴィン(Kurt Lewin)の場の理論(Field Theory)を知っている読者も多いかもしれない。レヴィンは、社会心理学者であり、グループダイナミクスや組織変革の研究で知られている。彼の場の理論は、主に個々の行動やグループの行動を特定の社会的な状況や「場」の中で理解しようとするものだ。

レヴィンの場の理論は、**B = f(P, E)**の式で表される。「B」は行動(Behavior)を指し、「P」は個人の性格や特性(Personality)、そして「E」はその人が置かれている環境(Environment)のことである。この式は、行動は個人の特性と環境の相互作用によって決定されるという考え方を示している。

たとえば、あなたが上司とある問題に話しているとしよう。あなたが考えた問題を解決するアイデアに対して、上司がしかめっ面になったり、表情が曇ったりしたらどうだろう。もし、あなたが自分のアイデアに自信があったら、妥当性を理解してもらうためのさらなる説明を加えるかもしれない。逆に、アイデアがまだ生煮えだった場合、上司の表情を見た途端、言い訳が口をつくように出てくるかもしれない。あるいは、上司が反射的にあなたのアイデアに対して反対を表明したらどうだろう。まったく、別の行動をとるかもしれない。

場の理論では、個人の行動は、その人が置かれた環境の中で相互に作用する「場の力学」に影響を受けるとされている。場の力学は、他の人物や物理的な要因との相互作用、社会的なルールや期待、価値観などが含まれている。
組織開発では鉄板、かつ重要な理論であり、これ見よがしに場の影響力が強調されていたりする。

でも、よくよく考えてみると日本人は、場の空気を読むことが得意である。空気を読んで行動するのは日本の得意とするところだ。日本人にとっては当たり前なことを重要な発見として、なんの疑問もなく取り入れるところに”日本の輸入病”が見られるのも問題なのだが、まずは、日本的文脈においてクルト・レヴィンの場の理論がどのような意味をもつのかに絞って論を進めていきたい。

日本人は場の空気を読むことが得意である。KY(空気が読めない)という言葉にもあるとおり、日本において適切な社会生活を送るにあたって、空気を読む力は必須条件だと考えられていたりする。では、この「場」というものを日本の文脈に置き換えると、どのような意味をもつのであろうか。

河合隼雄は「場の論理」という言葉を使って説明している。(『母性社会日本の病理』)

「場の論理」は「与えられた「場」の平衡状態の維持にもっとも高い倫理性を与えるもの」であるという。ポイントは、場の「平衡状態の維持」にあるのではないか、と思う。たとえば、仕事上のクレームを例として考えてみたい。ここで、仕事でミスを犯してしまった人が、自分の非を認め、客先に謝罪にいくと、ふたりの間に場が形成され、謝罪を受ける側としてはその場の平衡状態をあまりにも危うくするような返金などを要求することができなくなる。ここで返金を要求すると、仕事のミスを犯したほうが「あれほど非を認めて謝っているのに、返金まで要求しやがる」と怒るときさえある。組織において、この例と同じようなことが至るところで起こっていると考えられないだろうか。

日本人は「場の論理」に突き動かされるが、欧米は「個の論理」によって動く、と河合はいう。個の論理とは、「個人の欲求の充足、個人の成長に高い価値を与えるもの」であるという。だから、上記の例は、欧米の人には理解できない。非を認めた限り、それに相応する返金を払う責任を仕事でミスをしたほうは負わねばならないし、謝罪された側は正当な権利を主張できる。個人と個人が分離しているので、誰に責任があるかを明確にできるのである。

とはいえ、ここからがおもしろいのだが、河合は「場の論理」についてこうも付け加える。「場の中に「いれてもらっている」かぎり、善悪の判断を超えてまで救済の手が差しのべられるが、場の外にいるものは「赤の他人」であり、それに対しては何をしても構わないのである。」つまり、この例においては、ミスをした側が言い逃れをしたりしたりしたときに、同一の場にいないものと判断されるのである。場の外にいるものは村八分にされる、ともいえるだろうか。

話をレヴィンの場の理論に戻そう。場の理論では、個人の行動は、その人が置かれた環境の中で相互に作用する「場の力学」に影響を受けている、と考えた。でも、場の論理と個の論理では、個人の行動に対する「場の力学」の作用の仕方が異なってくる。場の論理では「平衡状態の維持」が重視され、個の論理では「個人の欲求の充足」が重視される。場の論理では、場から逸脱すれば何をされるかわからない。村八分を避けるために、「平衡状態の維持」を希求する。組織開発の視点からすれば、この場の平衡状態を維持したままどのように変化を起こすのかが、解決すべき課題となる。一方で、個の論理はどうか。個人の欲求充足の足かせとなる環境要因を、どのように取り除くのかが主要な課題となるのではないだろうか。だから、心理的安全性の発祥の地も欧米なのだ。

心理的安全性は、欧米のトレンドを受けて、日本でも非常に注目されている。でも、欧米の論理をそのまま輸入して、適切に現場に適用できるかどうかは疑問である。場の平衡状態を維持するために心理的安全性が利用されることになるからだ。それは、「場」の再強化になるだけで、「場」を乗り越えて変化を起こすことにはつながらないのではないか。

ぼくはここ数年、個の論理を、日本においていかに強化するのか、といったことばかりを考えてきた。だから、精神分析や心理学、成人の発達理論を勉強してきた。でも、日本人が個の論理を鍛えることの限界も感じつつある。だからこそ、ぼくは今、日本文化論に注目している。河合もユングの理論がうまく日本人に適応できずに、日本文化理解に向かった。その道10年にしてついに日本の文脈を踏まえた精神分析を確立したのだ。河合が10年なら、ぼくは20年かかるかもしれない。それでも、日本の深い理解を踏まえた組織開発が求められているのではないか。それが、ぼくを突き動かすひとつの動機になっている。

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