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個人の意見は適材適所にて

自分が主張したいことは、ソーシャルメディアの自分管轄発信でいい。人の発信のコメント欄にわざわざ自分の主張をアピールしてまわると「距離感がわかってない人」になってしまう。

対面だと今そこに割って入らないだろう、その場でわざわざ手を挙げて発言しないだろう、ということがわかっていてもソーシャルメディアだとやってしまうのは、現実との反動かそれとも。

先日ある料理研究家さんが、美味しいものを作って食べたいなら

「自分好みの料理家を見つければいいだけ。」

という発言をしていた。

その料理研究家さんには、一定数のアンチがわかりやすく露呈している。「この調味料を使うなんて信じられない、いつも味付けが濃い、そんなの料理じゃない」などのコメントが日々書き込まれている。面と向かっては言えないであろう誹謗中傷も多々。

その料理研究家さんがどんな経緯で、今ここで、料理レシピや動画配信をしているのかをきっと知らないのだろう。知ろうともしないから簡単に誹謗中傷ができるんだろうと思うけど、知ったところで配慮できるくらいならそんなことはしないか。

味付けの濃度や調味料、食材選びは宗派の違いのようなものだけど、否定するには正義を振りかざしやすくて簡単だと思う。攻撃しやすい場所をいつも探して、すでに攻撃実績がある場所に集まる人たちがいる。しかしその人たち曰くそれが正義で、なんならよかれと思って発信者を改善させようとすらしている。

ソーシャルメディアが始まったばかりの頃、美容家を名乗る人がマクドナルドの写真をアップしたら、「マクドナルドを食べるのは悪だ」というコメントが書き込まれたと聞いた。マクドナルドがそもそも一定数アンチがいて、子育て中や子どもに食べさせている画像にアンチコメントを書き込むパトロール隊がいることもその時に知った。

その頃、幼い子どものお預かりをお願いした際に、「出かけ先でマクドナルドのポテトを食べさせても大丈夫ですか?」と聞かれたことがあった。「え?大丈夫ですよ、食べ物ですから。え?」と言ってしまった。「マクドナルドなんてとんでもない!って怒られたことがあるので。」と言われたのを聞いて、あっちもこっちもマクドナルドも大変だなぁと思った。

わたしが子どもの頃は、母がマクドナルドでアルバイトをしていて、毎週土曜日は母の帰りを楽しみにしていた。母の持ち帰りでマクドナルドが食べられる日だったから。その当時は今よりももっと衛生面や食材の都市伝説が出回っていたけれど、母親が働かせてもらえてた場所だし、母親が自信を持って「何言ってんの?大丈夫よ。」と言っていたのでその時も今もなんの疑問もないし、わたしにとってはマクドナルドの存在は恩人だとすら思えるエピソードや思い出もある。

たとえばそれを主張したいなら、自分の場所でやればいいだけの話。

料理研究家さんの言う、「料理を楽しみたい、美味しく食べたいと思って料理動画を見るんだろうから、自分の作り方や味付けが良くなると思える、実際に食べてみて美味しかったからまた見ようと思える人を探すのが1番料理が楽しくなること」というまさにこれなのだ。

ソーシャルメディアから情報を得る目的そのものが、より良い自分になるような、そんな大袈裟でなくとも、少しでも自分が進む方法を知るためであった方が穏やかである。

コメント欄でアンチコメントに対して、ファンが守るためにまたコメントを重ね、論争を起こす。それすらも、自分の場所でやったらいい。

スキを楽しいを見つけるために情報を得て、主催者にスキを伝えたい気持ちが溢れてコメントしてしまったという経験があれば、それすらものすごく勇気がいることだとわかる。何度も書き込もうとするけどやめてみたり、あーだこーだ考えまくってそれだけでドキドキしたり。書き込んだ後も気になって仕方がない。その主催者から反応があれば飛び上がって喜んで、緊張で吐きそうになったりする。

しかし最近はそれすらも自分の場所でやればいい、と思ってくる。大好きだからと言ってメンションする理由がなくなってきた。好きな人が発言していることにわかるわかる!とゼロ距離でコメントするのも違う。

そして結局のところ、伝わるべき人たちには伝わるし、どこに書いたって見つかる場合は見つかるし、見つけてもらいにいかなくても、見つけてもらえなくてもそこにその気持ちがあった事実を残して大切にすればいい。あの時書いた、という事実は書いておかないと残らないし、いつか自分の記憶からも無くなってしまう。大切な気持ちならば、その発信はやはり自由。

しかし、シェアという文化が変化しつつある。ソーシャルメディアでの発信が始まった頃、好きなことを自由にシェアしていたはずなのに。お金をもらってももらわなくてもシェアしていいのに、今はすぐにお金をもらってるのか?と聞かれたり、お金をもらってませんからガチです、とわざわざ言わないといけない。

amazonレビューも、その商品を買う可能性がある場所で、その人たちに役立つための情報を書く場所なはず。どんな人にオススメかを書けばいいし、こんな気持ちだと合わなかったくらいでいい。自分の知識や考えマウント主張の場ではない。

個人の意見は言っていいし、書いていい。それを自分の場所で思いっきり。そこにはそう思う人たちが集まるし、まさに共感し合える人と繋がることができる。ずっと楽しい話だけをするもよし、ずっと文句を言い続けるもよし、共通の趣味でつながるもよし。ソーシャルメディアのアカウントは1つの人格で、その発信はコミュニティにつながっていく。

どんな世界が好きなのかは、その人の発信を見ればわかるようにできている。

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