【短編小説】 初恋 SideB-①
桜の色が目に沁みた。
花見を楽しむ人たちの喧騒が、遠くに聞こえている。
青年は新婚の妻を伴い、ある墓地を訪れていた。
川からの柔らかな風が、青年の髪を揺らす。
斜め後ろでは、たおやかな笑みを浮かべた妻が静かに手を合わせている。
これほど穏やかな日を迎えられるとは。
青年は、感慨深げに溜め息をついた。
何処を見るでもなく視線を宙に浮かせていると、自然とあの記憶の淵へと誘われる。
一年前。
肌寒さの残る初春のことだ。
街の中心部にある商業ビルで、大規模な火災が起きた。
飲食店が集まるフロアの一角からの出火であった。
青年は運悪くその場に居合わせ、逃げ遅れた。
当時婚約中だった妻も一緒だ。
青年は彼女を胸にかばう以外、成す術がなかった。
僕はこんなところで死んでしまうのだろうか。
大切な人を守ることもできずに。
歯を食いしばって彼女を抱きしめた。
ついに天井が崩れようとしている。
逃げ場はない。
ああ。焼け死ぬのは、さぞ苦しいだろう。
朦朧とした意識の中、青年は目を閉じた。
その時である。
一陣の風が、炎に囲まれたフロアを貫いた。
青年は確かに見た。風の道を。
その不思議な現象のお陰で、青年と彼女は九死に一生を得た。
青年たちだけではない。同じフロアにいた多くの人の命が救われた。
二人は多少煙を吸い込んではいたものの、大事には至らなかった。
助け出された後、放心状態でビルを見上げた。
炎が渦を巻きながら、曇の中へと吸い込まれていく。
まるであの不思議な風が炎を巻き込み、竜になって天へ昇って行くようだった。
間もなく、街一帯に雨が降った。
春の訪れを静かに告げる、柔らかくて温かい雨だった──。
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