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【短編小説】 初恋 SideB-②

青年はあの火災以来、祖父のことが思い出されてならなかった。

しかし、青年は祖父を知らない。
祖母からは、遠い異国の地で戦死したとだけ聞かされている。
小学生の頃、夏休みの宿題をやっつけるために聞いた話だ。

なぜ今になって祖父を思い出すのか、不思議でならなかった。

祖父が助けてくれたのだろうか。
あまりピンと来ないが。
祖父は、どんな人だったのだろう。

思いつめた目の青年に、祖母は静かに語りかける。

祖母は、相手の人となりを知る間もなく嫁ぐことになった。
不安は杞憂に終わった。

祖父は、とても優しい男だったのだ。
子供が大好きで、困った人を放っておけなかった。

面倒見が良い祖父は近所の子供たちの人気者で、隣家の母子家庭には特に心を砕いていた。
戦時中、男手のないその家庭に、何かと力を貸していたという。
そうした祖父の人柄を好ましく思った祖母は、精一杯祖父を支えた。

そのお隣さんに、可愛らしい姉妹がいたんだよ。
祖母はそう言って目を細めた。

いつか戦争は終わる。
それまで、みんなで力を出し合って乗り越えよう。
祖母は固く心に決めていた。

しかし、幸せな日々は長くは続かなかった。
祖母が嫁いでから僅か、ふた月後。
祖父に、日本軍からの召集令状が届いた。

祖母は信じて待ち続けた。
しかし、生活苦の中にも戦争は終わる気配を見せない。
人々は次第に疲弊していった。

そして。
この街にも火の雨が降った。

身重の祖母が、田舎の親戚の家に身を寄せた矢先のことだった。

幼子を連れて街に戻った祖母は、戦後の惨状を目の当たりにして愕然とした。
街だった地には、戦争が終わってもなお、そこかしこに行き場を失った人々が溢れていた。

その中には子供も多く含まれていたが、祖父を慕っていた近所の子どもたちはついに見つけられなかった。
隣家の姉妹の行方も知れないままだ。

貧しいながらもどうにか生活できるようになった頃、祖父の死を知らされた。
祖父は、新しい命の誕生を知ることなく遠い異国の地で果てたのだ。

当時を偲ぶような品は、何一つ残っていない。
全て空襲で焼けてしまった。

それでも良いんだ。
大切なものは、みんなここにしまってあるから。
祖母は微笑んで、大事そうに懐に手を当てた。

そして、青年の顔をまじまじと見つめてフフフと笑った。
泣き笑いのようだった。

どうしたの。
青年が驚いて尋ねると、祖母は泣き笑いのまま言った。

秘密だよ。

半年後、祖母はこの世を去った。
穏やかな最期だった。

今年は、祖父と並んで桜を眺めているだろう。

青年は思いを馳せる。
戦いの中に散った祖父と、多くを語らなかった祖母。
隣家の姉妹。
この地に生きていた、多くの人たち。

果たして僕は、今をきちんと生きているだろうか。
大切な人を守る力はあるだろうか。

墓地を後にしようとする夫婦の背後から、一陣の風が吹き抜ける。
息を呑んだ。

青年は確かに見た。
風の道を。

つられて振り向いた妻も眩しそうに目を細めている。
一瞬の出来事だった。

気づいた時には既に風の道は消えており、柔らかな風が二人の髪を揺らしていた。

その風は青年たちを励ます母のような、それでいて人懐っこい子どもが遊びの相手をねだるような、不思議な肌触りだった。
今また、無邪気に青年の鼻先をくすぐって行く。

心に温かいものを抱きながら、青年は妻とともに歩き出す。

僕らはきっと、大きな何かに守られている。
新しい生活は始まったばかりだ。

青年はふと空を仰ぐと、心地良さそうに微笑んだ。

【初恋 end】

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