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哀れなるものたち

とんでもない作品に出会った感覚を久しぶりに感じた。



私はフェミニズムを感じる事で、逆に”女性ならばこうあるべき”という固定概念から抜け出せない時がある。
そう思うとまだ本当の意味でのフェミニズムが分からないし、知るべきだなと感じる。

そもそも言葉でカテゴライズされてしまうのが苦手なのかもしれない。

哀れなるものたちがフェミニズム作品として注目されることは一つの宣伝材料だと思いたい。
それ以上に作品を観た時に主人公”ベラ”という一人の人間としての自由な生き方や成長に魅入ってしまったから。

まず、監督自身この映画が公開される2024年より10年以上前に原作である小説に目を付け原作者にアピールしていたことに驚愕。
ヨルゴス監督の他作品はまだ1作品しか観たことないにも関わらず、ヨルゴス・ランティモスにしか『哀れなるものたち』の映画化は不可能であっただろうと実感させてくれる世界観の作り込みに2時間以上があっという間だった。
また、映画の主人公である”ベラ”役を演じたエマ・ストーンもプロデューサーとして関わったことが
役者魂以上にこの作品を映画化するに至る作り手としての信念を、演技で存分に堪能することができた。

彼女の旅はリスボンから始まり、旅のスタートから快楽に溺れる。
ここでセックス=”熱烈ジャンプ”にハマってしまうベラ。この表現もまたユニーク。
女性の性に対する考え方をポジティブな方向に運んでくれるセリフには、コメディのような要素も含まれていて思わずクスッとさせられた。
そもそもの前提として、なぜ世間のイメージがそういった行為を女性が好きと主張することにより
“はしたない”、”女性は強かであるべき”などという勝手な先入観が植えられてしまっているのか疑問でしかない。
そこには数々の歴史が存在するであろうことも、無知なベラにとっては何を言われても無傷のような。
さらに一緒に旅をするマーク・ラファロが演じるダンカン(強烈なキャラクター)が加わることで
面白みが増し、男女の関係構築を学んでいく様は観ていて滑稽とも思える。

波乱万丈のようなリスボンのスタートから、ダンカンに乗船させられた船の上では哲学を教えてくれるマダムマーサとの出会いでさまざまなことを学んでいくベラ。皮肉の言えるおばさまは本当に素敵でチャーミング。
教養を得ることで次第に言葉を覚えていくベラに対して、ダンカンは「おまえの可愛い喋り方が失われていく」とベラを避けるようになる。
ここでは”女性はこうであるべき”ということが嫌なほど伝わってくる。
そんなダンカンのベラに対する変貌には、いやあなたの方が男性が言ういわゆる「情緒が不安定になるとヒステリックを起こす女」に近いのでは?と思わされてしまう。
結論、ここには男女の性別的壁はなくヒステリックを起こすのに男も女も関係ないと言い切れてしまうような気がする。

ここに女性なら誰もが経験する”生理”を当てはめた時
大半の女性が生理前になると、体が辛いことに加えて感情がネガティブになりがちである。
生理を初めて知り体験したばかりの頃は「なぜ女だけこんな思いをしなければいけないんだ」「生理なくなれば良いのに」と何度思ったことか。
“女性がこうであるべき”と主張されることが罷り通るのであれば、”女性にしかないもの”をもっと大切にされても良いと思う。
つまりやはりここに生理用品の無償化がくっついてくるのか。
今では何の不満もないけれど、神が体の構造を”少し手を加えて”そういう構造にしただけだとしか感じなくなったから。

停泊したアレクサンドリアで見せつけられたシーンには、観ている側もグッと胸が詰まった。
貧困問題や戦争問題は今現実世界でも社会問題となっている出来事。
それまでの旅では楽しいことしか知らなかった人間にとって”絶望”を初めて知った時の涙してから虚無になってしまうエマ・ストーンの演技には、ベラに人間味が現れ始めた瞬間だった。

布団で何もせず虚無ってる自分かと思った


正直世の中ではどんな理由であれ一日に何人、いや何万人以上が亡くなっている。
私自身もそういった問題をニュースで見たり知ることで、心が居た堪れなくなり自分にできることはないのかと自問自答する時がある。
でも結局問題ごとは自分の身の周りではなく世界規模で起きていること。自分にはどうすることもできないことがあると知り絶望に陥ってしまう。
それは幸せに何不自由なく生きている者にとっては付きものではないかとも思う。
また、貧困を目の当たりにしたベラがダンカンがカジノで儲けたお金を「あの人たちにあげて」と言うシーン
確かに世の中にはお金で解決できる問題もあるかもしれないが、それだけでは解決できないような問題も山ほどあるように思える。
それもまたベラがまだ働くと言うことを知らないからであり、次のシーンであるパリで学んでいく繋がりが
より作品にのめり込めるストーリーの道筋だった気がした。

パリでは無一文になったベラとダンカン。
ここで初めてベラが働いてお金を稼ぐことを覚えるが、行き着いた職は”娼婦”。
性産業で働く女性の在り方についてが強く描かれていたなと感じる。
作品の中でも、娼館の中で働く女性たちの抱えている問題が明確にされているが、そこには貧困から行き着く先に性産業が多いことを物語っている。果たして性産業に行き着いた女性全てに当てはまると言えるのだろうか?
ベラは”労働者”という立場で自らその場で働くことを選んでいる。
ここから、中にはやむ得ず性産業を選んでいる女性もいるかもしれないが現実的な選択として選んでいる女性がいることも考えられることが分かる。
その点から性産業で働く女性への敬意のようなものを感じた。正直なところ私自身は性産業で働いたことはないが、そのリスペクトはあるべきだと思う。

ベラは娼婦として働き学びを得ながら医学への道を進んでいこうとする。
これもまた面白いことに職の中でもいわゆる高所得の分野への道を選んだベラ。
そこには父として育ててくれ、また医者でもあったゴッドへの敬意があるのかもしれないし、
もしくは高い収入を得るためにはどんな職業に就けば良いかさえも習得したのではないかなとも思えた。
人々の仕事に対するモチベーションはさまざまで、好きなことを仕事にする人もいれば
給料が多い、休みが多いと言う理由で仕事や会社を選んだりする人もいる。
人生は自由に選択することができるのだと旅を通してだけではなく、ベラ自身が自らの選択で学んでいった過程だと感じた。

旅を通して成長していったベラも、最終的には”自分は一体何者であるのか?”を知ることになる。
作品が終盤に差し掛かるも、これまた新たな男(元夫)の登場。
この夫ブレシントンがまたなかなかな男で…私は「俺ドSだから」とかいう自称S男のようにしか見えなかった。(偏見?)
ベラの過去については深く触れる場面は少ないものの、使用人に容赦無く銃を向ける夫から見てとるに
どう考えても夫の脅威からベラが逃げたとしか思えない。
ベラも自身それを感じとり、自分がいるべき場所はここではないことを自覚する。
ここでもまた男性優位という点から、逃れたい逃れるべく女性像を映し出しているように思えた。
今でこそ”亭主関白”などと言う言葉はあまり耳にしないが、社会的立場だけではなく家庭での女性の立ち位置というのも低いことを表現しているかのように感じた。
夫であるブレシントンは銃一丁で大きな態度を取りそれだけで誰をも黙らせることができると思っているように見えたが
弱い立場と思っている女性(何でもいうことを聞くと思い込んでいる元妻)にあっけなく不意を突かれて、足に弾丸を打ち込んでしまう。
よく、男性は女性よりも精神年齢が低いと言われるがそういった男性という生き物の幼稚さを具現化しているようにも思えた。

ジントニックかな?私も昼から寝転がってお酒飲みたいや


ベラは足の打たれた夫を治療し、助けることを選ぶがこれがまた私には残酷でもあるなと感じてしまった。
これに関しては、パンフレット内でTOGAデザイナーの古田秦子さんとラストに付いて語っていた意見と全くの同じだった。
ベラは元夫を見殺しにする選択はしないものの、助けることにより元夫の脅威からは逃れられないことが分かっている。
最終的にベラが取った行動は、生みの親であるゴッドが自分にしたことと同じように、元夫にヤギの脳を移し替える治療だった。
人間は時に自分がされて嫌だと思うことを人にしていたり、自らの考えが無意識のうちに第三者の目からすると偏見に写っていたり
するものだと考えさせられた。


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