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雑感記録(167)

【デスク思考大系】


馬鹿みたいなタイトルだ。実は『四畳半神話大系』みたいな感じにしたかったんだけれども、何かしっくり来ていない。あの作品自体も何というか別に"四畳半から始まる物語"ということであって、何も無理矢理にそこと連結させる必要もないっちゃない。だからこうして『デスク思考大系』と名付けているけど、別にデスクの話をしようとしている訳じゃない。そこまで語るには調べるのが億劫である。それだけの話だ。

実際、じゃあ何を語るんだというところなのだが、特筆すべきことはまず以てない。というのも、僕のデスクはデスクだからである。一般的なデスクにただ本が矢鱈と積み重ねられ、僕のワークスペースが侵食されているという事実以外に書けることなどさしてない。では、何でこんなタイトルで以て書こうとしたのか。よく分からない。


従前、勤めていた銀行ではタブレットと大きなゲーミング用なのかな?モニターを接続していた。曰く「紙の削減」とか何とかっていうお題目のもとにやっていたんだった。

銀行はとかく書類が多く、尚且つ保管しなければならない資料が膨大にある。それこそ個人情報の類であったり、あとは銀行で使用した伝票だったり、契約書とか…。そういったものが大量に存在する。基本的に契約は紙ベースなので当然に紙の消費量は多くなる。最近では「電子契約」なるものが増加してきており、僕の元いた銀行でも電子契約がもう主流だった。どうしても紙でなければならないという場合には紙で対応していたが、原則は「電子契約」ですることが徹底されていた。

銀行の内部書類に於いても紙が多く無駄だなと感じることが多かった。それで導入されたのがパソコンの巨大モニターであった。実際それで紙の使用量が減ったかどうかと言われると…不明だ。ただ確実に言えることは便利になったことである。いちいち上席や支店長のところまで「お願いします」とハンコ巡りをしなくてよくなったということに関しては楽になった。しかし、思い返してみると…それだけだ。

今の職場はどうか。

まず以て、パソコンのモニターが2台。加えて個人ノートパソコンが至急。まずもうこの段階でかなり違う。それに紙で出力するものなんて発注書やたまに依頼のある証明書の発行だ。しかし、これも「原本が欲しい」というお客さんに対してなので、実は殆ど紙で印刷して郵送してなんてことはない。全て電子印で対応するので、紙を出さずに全てが完結するのである。

加えて、銀行みたいに書類を回覧するという事が殆どない。従業員同士Slackでデータを直接送ったり確認したりするので煩雑なコミュニケーションが不要で楽である。現状の僕には全く以てないことだが、苦手な人に直接お願いできない時なんかはSlackがあると非常に便利に感じる。社内SNSとして堂々と利用されているので、下手したら直接話に行くよりもSlackの方が返答が早いこともある。

デスク周りなんかも銀行とは比較にならない程自由である。無論、一般常識の範疇というのは当然あるだろう。例えば個人情報の掲載されているものを机に置いてはいけないとか、業務に関係のないものは置いてはいけないとか。一定のそういったものはある。ところが、僕なんかは本が好きなので本しか置かない。加えて、今在籍している会社は少なくとも出版関係であるから本も言ってしまえば「業務に関係のあるもの」ではある。

ところが、自分自身で言うのも何だが、あまりにもその量が多すぎる。

これは何度も過去に書いているから、あんまりくどくど書きはしまいが、僕の在籍している会社は神保町にある訳だ。そうすると、昼休みとかになると僕は飯を食わずして神保町の古本屋をひたすら黙々と歩きまわるのである。すると会社に戻ってくると手には数冊の本が抱えられている。それを置く場所がデスクしかない。それを毎日継続すれば…。あとは想像にお任せすることにしよう。


幸か不幸か、今日は身の回りの整理をする日だ。デスク周辺も整理整頓しなければならない。しかし、だというのに僕はまた本を購入してきた。不思議なんだが、どうも何かを片付けると自分の中では理解していても身体は勝手に動いてしまうものである。人間という生き物は複雑に出来ているらしい。

しばしば、デスクを見ると大抵その人がどんな人間かが分かると言われている(らしい)。その人の趣味趣向などが全面的に押し出されるからである。まあ、少なくとも僕のデスクはそうだ。本しかない。一目見れば「この人の全ては知らないけれども、本が好きということは何となく分かる」のである。はたまた、本の置き方1つにしても、丁寧に並べられているか、煩雑に置かれているかで人間性が出る。僕は多分大雑把な人間なんだろう。

実はこのデスクに並べられた本たちは、僕の借りている部屋に置き切れそうにないというか、そういった本を置いている。言ってしまえば、僕のデスクはある意味で「本棚化」しているのである。しかし、これまた不思議と本に囲まれて仕事をしていると集中できる。僕は恐らくだけれども、周りが騒がしくないと出来ないタイプの人間なのかもしれない。あながち間違ってはいなさそうである。ガチャガチャしている方が集中できる。この傾向は意外と変わっていないかもしれない。

僕は静かなところが苦手だ。静かだと集中できないタイプの人間だ。だから高校の時とか、大学の時とか結局勉強する時は必ず音楽を聴きながら勉学に勤しんでいた。周囲に雑音がないと何だか落ち着かない。僕は静寂に耐えられない人間なのかもしれないと、デスクを見て思う。

僕はわりと図書館が好きで行くのだが、実は図書館で本を読むことは苦手である。図書館で僕がすることは自分の思考を整理する場であると自分の中で考えていて、どちらかというと読書がメインではなくノートに殴り書きするために図書館に行くことが多い。その思考の爆発に際して、何か手引きが欲しいときに図書館に居ると便利ということである。そうすると周りは本に囲まれてわちゃわちゃしているし、何だかそこに僕の思考が相まってぐちゃぐちゃっとした、混沌のような場所が僕は好きなのかもしれない。

僕が落ち着いて読書出来る場所ってどこだろうとふと考える。

冷静に考えて、僕は今借りている部屋で読むことが多い。それは自分が快適に暮らせる空間なのだから、当たり前といえば当たり前のことである。気にせず自分で読める空間は自室しかない。そう、そうなのだ。僕は本を読むときにノートとかメモをあまり取らない代わりに独り言をぶつくさ言いながら本を読むのである。何だか気持ち悪いな…。

自分だけの空間だと、別に誰に見られているでも、聞かれている訳でもないのだから何をしようが自由である(盗聴とか盗撮されていたら話は別だが、こんなブ男を誰が!といった感じである)。だから読んでその時に感心したことや、「これってこいつはこういうことを言いたいんだな!」っていうことをデカい声で独り言する。何というか、そういう自分に酔いたいだけなのかもしれないが、これが僕には堪らなく愉しいのである。…僕は変態なのかもしれない。

僕はロゴス中心主義の人間では些かないのだが、しかし音声にも何かしらの役割は当然にある訳なのだ。音声がアプリオリにあって、文字はアポステリオリに存在していて…とかいうことを言いたい訳ではない。ただ、少なくとも自分の言葉を自分自身で聞くという行為にそのものについては何かしらがあると僕は思っている。別に僕はデリダではないので、音声中心主義、ロゴス中心主義を否定したいという気は更々ない。

兎にも角にも、僕は読書する時にどうも心の声が漏れて仕方がない。加えて言うならば、詩とか僕は朗読したいタイプの人間である。この間は谷川俊太郎の詩集と吉増剛造の詩集を夜な夜な朗読していた。今思うと近所迷惑だったのだろうが、何も言われなかったという事は、まあ、そういうことだと良い方向に捉えておくことにしよう。


江戸時代、漢学と言うと素読をしていたらしい。つまりは漢詩文やらをとにかく音読しまくって覚えていたらしい。僕は個人的にだけれども凄くいいなあと思っている。実際文字で書かれている言葉とそこに音が介入するには大分異なった、隔たりみたいなものがあると僕は少なくとも思っている。音で覚えてから意味を覚えるというのは面白いなと個人的に思う。僕らは最初文字の形と音を覚えて言葉そのものの意味を看取する。つまりはどちらかがアプリオリ、アポステリオリとか関係ないのである。

加えて日本語の場合、これは漢文でも同じことが言えるかもしれないけれども、漢字そのもののシステムが変わっている訳で。これについて細かくは触れることはしないけれども、そういう事情もあるのだと思う。

でも、何だろうな。ここまで僕はなんか偉そうに書いてしまっている訳なのだけれども、事実僕は僕の欲求として「声に出して読みたい」というのがあるだけなので、実際ここまで能書きを散々垂れてきた訳だけれども、ただの欲求なのである。そして詰まるところ、自分が好きであるということに他ならないのではないのか?自分大好き、万歳。

そういえば、一時期会社のデスクに園子温のエッセーを置いていた。その中でも言っていたが、「自分が自分の関係者であることを棄てちゃったらいかん!」とか何とか。結局この言葉に尽きるような気がするのである。自分は自分自身でしか救われないと僕にも思えて仕方がない。

少しどころか、大分話は脱線するが、この間友人から「彼女と別れた」という旨のLINEを貰った。正直、僕にメッセージしてくる余裕があるんだから彼自身の中でも折り合いがつけられているんだろうと勝手に確信し、仕事終わりにそいつの所へ向かい一緒に飯を食った。実際会うとかなり落ち込んでいて、ずっとため息ばっかりついてるし、淡々と話し始めた訳だ。

僕はてっきり「彼女と別れちゃったんだよね、アハハ」みたいな感じを想定していたから肩透かしを食らった気分である。気分というか食らったんだが。まあ、それは別に良いとして。それで彼は自分の置かれてる現状とか話し始めた。僕は前から彼から話を聞いていたから別に驚きもしなかったし、「まあ、しょうがないよ」としか言いようがないんだが、あまりにも「自分のせいで…」「おれのせいで…」みたいな主語ばかりで何だか腹が立ってきて仕方がなかった。別に落ち込むのは構わない。誰だって落ち込む。しかし、必ずどこかで折り合いは付けなければならない。それに自分だけが悪い訳じゃない。彼は結局自分で自分を見捨てたのだ。いいじゃんか、その時ぐらい「おれのせいで…」とか「自分のせいで…」とかじゃなくて、他人のせいにしたって。と僕は感じた。

「お前みたいにはなれないんだよ、俺は」と言われたときに正直僕はカチンときた。「当たり前じゃねえか、このタコ!」と言ってやりたかったが、言ったらこっちがまたムカつきそうだったので辞めた。僕は自分で自分自身を救おうとする意志のない者は嫌いだ。だから僕はそそくさと帰った。帰ってから悪いことしたかなとは思った。精神的にも参っている彼に言ってしまったのだから。しかし、何度も言うようだが、自分を救えるのは結局自分自身しかいないのだ。周りに助けてもらうことも大切。多くの人に話を聞いてもらうなり、居てもらうということは重要だ。ただ、それでも結局は自分がどうしたいかが1番なのであって、ウジウジ「自分のせいで…」とか「俺のせいで…」とか考えている時間があったら、その自分を救ってあげられる方策や何かを試みる方がよっぽど意味のある時間である。


僕は常々、本を読む時にはナルシズムを以てして臨むと良いと言っている。中学生の時に教育実習生に言われた言葉が実は凄くこれに関係しているのである。

中学生の時、あれは僕の記憶から察するに…中学3年生の時だったはずだ。教室の感じとか、その言葉を言われた場所の微かな断片的な記憶だが、そうあれは中学校3年生の頃だったような気がする。その教育実習生は数学を僕らのクラスでは数学を教えてくれた。僕の担任が数学だったということも多いに関係しているのだろうが、そこらへんの事情はよく分かっていない。

数学で教育実習生が作成したプリントを使用して図形の問題をやった時のことだったと思う。授業が終わって、放課後あたりだったかな。その教育実習生に帰り際「授業どうだった?」と聞かれた。僕は正直に話をしたことを覚えている。「先生の授業は分かりやすいけど、僕自身が数学出来ないから元も子もないんだよ」みたいなことを言った。

そしたらその教育実習生は笑って僕にこう言った。

「数学は難しいよね。私も難しくて大変だったし、最初は苦手だったけどやっぱり問題数をこなすことじゃないかな?」と。それに対して僕は更にこう答える。「そもそも、苦手意識があるのに問題数をこなすことのハードルが高いんです。」というようなことを話した。そして、ここからが僕に結構響いたところであり、先の話にも接続されるものとなる。以下会話。

教育実習生:「君は彼女とか、好きな人とかいる?」
僕:「いや、いません。」
教育実習生:「じゃあ、好きなアイドルとかは?」
僕:「いや…いませんね…。」
教育実習生:「そしたらそこからだね。」
僕:「それと数学ってなんか関係するの?」
教育実習生:「数学だけじゃなくて、勉強に関係するかな?」
僕:「どうしてですか?」
教育実習生:「ところで、君は下ネタ好き?」
僕:「え?」
教育実習生:「あのね、下ネタは言い過ぎだけどね、勉強する時のモチベーションとしてね、私は下心っていうのかな?そういうのって大事だと思うんだ。」
僕:「言っている意味がよく…」
教育実習生:「つまりね、これは男性とか女性とか関係なく『誰かによく見られたい』とか『誰かにモテたい』って気持ちはあるんだけれども、そういうことが継続することの力になったりすると思うの。好きな子の為に振り向いてほしくて頑張る、好きな子が居なくてもいつかモテる様に頑張る。そういった下心が1つの継続のモチベーションにもなるの。動機は不純かもしれないけど、それでも継続し続ければそれがクセになるから。」
僕:「……はあ…」

あの当時はよく分からなかったけれど、今になってこれが良く分かる。何かを継続するということは一筋縄ではいかない。好きなことであっても、それを継続することは難しい。何かに遮られてしまったり、何かの事情で時間が取れずに思うようにいかないということは往々にしてあるはずだ。それでも続けられる、継続できるというからには何かそこに根源的なものがあるように思うのである。純粋な「好き」以外の何かである。

それは僕にとってのこれである。要するに敢えて声にして言わないだけで、僕は「モテたい」というある種の邪な気持ちがあったからこそここまで継続的に本を読んでこられたことは言うまでもない。恥ずかしついでに言うが何となく本を読んでる人って知的で格好良さそうに見える。だけどそこに中身が伴っていなければ意味はない訳であって。だからある種の「男磨き」という意味合いも含まれている。

つまりは、「本を読んじゃってる俺、カッコよくね?」という気持ちが少なからずあるからこそ、そこに中身が伴っていないとまずはお話にならない訳である。続いてそこから数読んでいくうちに自分に自信がついてくる。「俺こんなに本読めちゃうんだもんね」と。そして段々とそれが実態を伴ってくる。気が付いたらこんな人間になってしまっていたのである。


つまり、これまでの話で導き出したいことは簡単で「読書行為そのものが自己肯定感を爆上げするのである」ということである。それは男性女性に限らず、まず以て読書をするという行為が外面的に影響を及ぼす(これは"モテる"という何とも通俗的なものではあるのだが…)。加えて自分自身の内面にも大きな影響を及ぼす(これは詰まるところ、中身が伴うということである)。

僕は先に「自分は自分自身でしか救われない」と書いた。その手段(という書き方が道具的な感じがして常々嫌だなと思う訳なのだが仕方がない)、つまりは自分自身を救うには読書行為が少なくとも必要だと僕には思われて仕方がないのである。しかしだ、この物言いはある種純粋に本を好きで読んでいる人たちを敵に回してしまうのかもしれない。

「お前らは邪な気持ちで作品に向き合っているのか?」

そう聞かれたら、多分今までの僕であれば「そんなことは微塵もない!」って断言したかもしれないけれども、現状そういうことは声を大にしては言えないかもしれない。最近は理由はどうであれ、作品そのものについて深く向き合い、そして自分の中に落し込み、自分自身が愉しく生活できればそれでいいんじゃないかと考えている。畢竟するにここが1番肝心な気がしてならない。理由はどうあれ、その作品と向き合えればそれで良い気がする。

とここまで書いておいてだが、何だか過程をすっ飛ばした感が否めなくて自分で自分の言葉に承服しかねるのは何故だろう。


はてさて、デスクの話から何だか変な方向へ話が飛んでしまった。これもまた年末に書かれている訳で、もしかしたら新年になると書くことが枯渇してしまっているかもしれない。まあ、その時はその時で、僕の書きたいという欲望に任せるとしよう。

よしなに。


※この記録は12月28日(木)、仕事中に書かれたものである。なお、途中12月29日(金)に加筆修正を適宜加えている。






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