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雑感記録(199)

【散歩の極意/自己との対話】


僕は今日、真に散歩に目覚めた。

ここ最近では頻繁にnoteで散歩の記録を残している。散歩をすると色々と考えることが多くて、個人的には愉しくて愉しくて仕方がないのである。都市の構造と人の精神的構造の類似、時間について、「世界に敗北する」ことを受け入れること…ありとあらゆることを考えてしまう。

今日も相も変わらず、散歩をしてきた。まずは電車で代々木公園へ向かい、代々木公園を散策後、歩いて原宿→渋谷→青山→表参道→外苑前→赤坂→霞が関→東京駅…という様な形でプラプラしていた。9:45ぐらいに代々木公園着。自宅に着いたのは15:00ぐらい。まあ5時間ぐらい黙々と音楽を聞きながら歩いてきた。


僕は散歩をする時に必ず順守するルールが3つある。

1.散歩中は地図を見ない。
2.散歩中は時計を見ない。
3.散歩の目的は決めてはいけない。

僕のInstagramのストーリーを見ていらっしゃる方は分かるかもしれないが、毎回「迷子になる」ということを投稿している。事実、毎回迷子になりながら散歩している。当然である。地図を使わないのだから、道路の青い看板で行き先を決めることしか出来ない。「何となくこっちっぽい」という形でしか歩けないのである。しかし、これが何よりも面白い。僕は積極的に迷子を愉しんでいる。

そして何よりも2と3は僕の中で重要である。

時計を見てしまうと、何と表現すればいいのだろうか。どこか縛られていて嫌なのである。ただでさえ、人の波の中を歩く。せわしない都会の中を歩く時に時間を気にせず黙々と歩く。少し心が楽になる。精神的にゆとりを持って歩き、僕はそこらを歩く人と同じ空間に居るのに同じ空間には居ない所で歩いている浮遊感。これが堪らなく快楽なのである。

そして目的を決めない。スタート地点は決めるが、そこから何をするかということは全く以て決めない。これは肝心である。目的を持ってしまうとそこに自分自身の力がそこに集約されてしまう気がして愉しめない。要するに、余裕がない感じがして凄く嫌なのだ。結局、目的を持ってしまったら、そこらを歩く人たちと同じになってしまう。迷子よる浮遊感が減退し、一気に冷めてしまうのである。

これらを踏まえたうえでの、今日の散歩録をここに残す。


スタートは代々木公園。神楽坂から大手町まで東西線で向かい、千代田線に乗り換え代々木公園駅で下車。駅を出たらすぐに代々木公園だ。田舎民からすると至極不思議な光景である。駅と公園が直結している。これまで僕は公園に色々と行ってきたけれども、大概公園は駅から歩いて少し離れた所にある。その道すがらも僕としては愉しみなんだけれども、今回はそこがごっそり抜けている。寂しさを覚え、西門?という所から公園に入る。

公園に入り驚く。人の多さ、とりわけランニングをしている人たちばかりである。純粋にと言ったら些かおかしな表現ではあるのだが、僕のようにただ「何の目的もなく歩きに来た」という人はいない気がする。そこに居る人々は皆が皆、目的を持ってそこに居るような感じがする。犬の散歩、ランニング、家族と遊ぶ…。それは様々な訳だが「ただ何もなしに歩いている」というのは僕だけだったような気がしなくもない。

しかし、歩けども歩けども、ランニングの人たちばかりだ。すれ違う人は皆ランニングウェアを着て走っている。しかも、皆列をなして走る。そしてせわしなく走っていき僕の横を何人ものランナーが通っていく。風。汗の匂いが鼻孔を刺激する。気持ちよさの欠片もあったものではない。こういった喧騒から逃れるために僕は歩いているのに、どこへ行ってもどこへ行ってもランナーばかり。纏わりつく汗の匂い。僕は早く抜けようと足早に歩く。

公園という、ある種の無目的な空間で過ごしたかったのに、何故かこういう人たちばかりだ。別に何も僕は公園でランニングするなとは全く以て1ミリも思っていない。犬の散歩をするなとも思わないし、何をしようがそんなの他人の勝手だ。僕がどうこう言えた立場にはない。だが、公園にまで来て皆どうも生き急いでいる気がしてならない。折角の休日なのに。走っている人たちの姿を見ると、「道草をくう」ことは許さないみたいな感じがする。何と言うか、うまい言葉が出てこないのだが、ゴールに向かってただ走って行き、その周囲のことはどうでもいいという様な感じが自然の摂理に反しているような気がしてならない。

これはかなり前に、ニーチェやクロソウスキーなどから考え書いた。この現象こそ正しくこれな訳である。つまり、全諸力の集中。目的を決めることによってそれを成し遂げようとする為、我々はそこに自分自身の中にあるあらゆる諸力をそこに集中する。しかし、もしかしたらその目的外に素晴らしいことが落ちているかもしれない。何か自分を動かす何かがあるかもしれない。それを投げうってまで目的を達成しようとする。何だかそんな印象をランナーから感じる。

だからと言って、目的を持つ事が悪いことであるということを言いたいことでは決してない。これは先にも書いたが「生き急いでいる」というある種の時間性と関連してくる。例えば目的を達成したとして、その後はどうなるのだろうか?それを失った時、人間はどうなってしまうのだろうか?本能的以外の部分で目的を持って生きることは「生き急いでいる」ことそのものではないだろうか。ただでさえ日常で会社で会社の目的、あるいは家族という社会での目的の中に居るのにも関わらず、そういう目的の檻から解き放たれる貴重な時間に更に目的を持って生きることは苦痛ではないのだろうか?と僕は思うのである。

それで、僕はこれを過去の記録に接続したい。

僕は先日の記録で「世界に敗北したことを認めたうえで世界を感じなければならない」というようなことを中平卓馬の『なぜ、植物図鑑か』から導出した。畢竟するに、公園ランナーという生き物は自分自身がまだ世界に敗北していないと思いたい生き物なのではなかろうか。つまりは、世界よりも自分自身がより高潔で美しく、世界を超越しているのであると思い込んでいる。もっと言い方を悪くすれば、「世界に敗北している」という事実を認めたくないという生き物であるのだろう。

もっと酷く、最低な言い方をしよう。ハッキリ言おう。恐らく、彼らは余裕がない。「いやいや、休日に走れるぐらいの精神力や体力があるから余裕でしょ。」と言われればそれまでだが、僕の言う「余裕」というのはそう言うことではない。先程の繰り返しになるが、目的を持たずに、あらゆる物が発する諸力を看取することが出来るという意味での「余裕」である。あるいは「開き直り」と言っても良いのかもしれない。既に我々は世界に敗北している。僕はそれを認めている。だからこそ、その上でどう世界と向き合うかを考える。その為にあらゆる諸力を感じなければならない。そういうことである。

僕が散歩に目的を持たせないのはここにある。あらゆる世界を看取すること。あらゆる諸力を看取すること。そしてこの世界、僕等の時間とは関係なくそこにある世界の美しさを見出すこと。それが散歩の魅力でもある訳なのだ。


結局、僕はそんなランナー達に囲まれながら公園を縦断する。この「目的の国」(カント的なものではない)から抜け出そうと必死に歩く。公園内でも迷子になりながらも何とか出口に辿り着いた。

さて、出口に着いたので帰ろうと思ったのだけれども、当然歩いて帰る訳だから途方に暮れる。代々木公園は原宿駅近くにある。そして原宿駅の次は渋谷駅?という情報しかなかったのでとりあえず渋谷に向かう。歩いていれば何とかなるだろうと思い、適当に歩き出した。道路の看板を見ながら渋谷駅に向かう。

僕は渋谷なぞは乗り換えぐらいでしか使用しないので、渋谷の街を歩くのはこれが初めてである。心昂らせながら歩く。周りをキョロキョロしながら歩く。東京は歩くたびに景色が常に変わるので面白い。「渋谷は色んなお店があるんだな…」と思いながら歩く。愉しくて仕方なかった。何だか上京したての気分で散歩していた。

しかし、渋谷は人が多い。それに皆急いでいる。手元のスマホを見ながら歩いてくる。そう、皆悉くスマホに目を落としている。加えて死んだ魚のような眼をしておもむろに歩く人も居た。何より驚いたのだが、皆足早に歩いているのだ。スマホを見ながらである。「都会人は凄いな…」と思いつつ、何と言うか、僕は個人的にこういう人たちみたいにはなりたくないなと感じたのである。

最近の人はスマホにでも世界が詰まっているとでもお思いなのか?

昨今、「メタバース」などという言葉で世界が広がりを見せている。今までは現実の世界で生きていたのが、ヴァーチャルの世界で今度は生きる様になったのである。それはそれで構わないと思うし、面白いことだなとは思う。しかし、それと同時に人間の傲慢さを僕は純粋に感じてしまったのである。この現状は「世界を拡張」するということではなくて、単純に僕は世界に敗北していることを認められないから、自分たちで自分たちがコントロールできる世界を手っ取り早く創った方が人間に都合が良い。それだけのことである。

「可能性が広がる」とテイの良い言葉で取り繕って、その実、そこに存在する世界を感じることを放棄したということなのではないか?僕等が生きている、今こうして歩いているそこに在る世界を感じることを放棄している。手元のスマホで調べ、そこには分からないことは全てが書かれている。しかし、「世界の感じ方」はスマホで検索すれば出てくるのか?…いや、まあ、出てこられたら困るんだけれどもね。

何でもかんでも「スマホで調べれば分かる」と言う。検索すればすぐに出て来る。そこの時間はわずか数秒。例えば自分がこれから帰宅するから自宅までの道のりを調べる。それも検索するまでものの数秒である。楽だ。確かに楽である。しかし、それこそ目的を持ってしまう。指定されたコースを歩くのに必死になり、スマホを見つめながら歩くことになる。あらゆる諸力がスマホに集中する。周囲に様々なお店があり、様々な景色が広がり、そこにある物は諸力を発している。それを素通りして歩くのは勿体ないと思うのは果たして僕だけなのだろうか。

しかも、スマホで調べたルートは所謂「最短距離」が表示される。

「タイパ」というやつである。とにかく時間を無駄にしない。目的地に素早く辿り着く。つまり、迷子することを許さない。迷子が悪のような様相を呈している。それは「時間が無駄になる」ということなのだろう。しかし、その無駄な時間にこそ僕は世界を感じる時間というものが存在しているように思われて仕方がない。僕は個人的にではあるが、あらゆるものには固有の時間というものがあると思っている。

街中に突如現れる神社仏閣、地下鉄の入り口、そこに乱立しているビル群、道路を走る車、傍に植えられている植物…そこら中にあるありとあらゆる物はそこに在るには在るが、当然僕とは異なる時間を生きている。正確には同じ時間に居ながらも、異なる時間を過ごしているのである。ある意味で僕の世界から零れた時間がそこには存在している。それを具に拾い上げ、世界を感じるためには寄り道や迷子は必要ではないか。

世界を感じるということは、畢竟するにあらゆる物が持つ固有の時間を自分の時間に介入させ、新しい時間性をそこに見出すことなのではないか?お互いがお互いに時間を混ざり合わせ時間を創出すること。そう考えると世界もテクストであり、僕等、人間存在は言葉なのではないか。この世界を織り成す言葉。それが目的一直線に向うのは描写のない、報告書のような如きものであり、寄り道や迷子をし、世界を織り成すことは正しく小説のような如きものなのではないか。散歩は小説であり哲学である。


そんなことを考えながら黙々と歩く。

上記で偉そうに書いてきた訳だが、結局のところ散歩の醍醐味というのはこういうように自己との対話が出来ることにある。これこそ散歩の極意である。外界の時間を気にせず、世界を感じ、そうして自分は今どう生きているのかを考える。仰々しく書いているが、実際僕にとっては散歩とは自己との究極の対話である。しかし、昨今はどうも時間に追われて自己との対話の重要性みたいなものが失せている気がしてならないのである。

都会にいると、とかくこういうことを感じざるを得ない。皆が皆どこか時間に追われ、自分の時間、これは物理的な時間ではなく、精神的な時間を確保出来なくなっているのではないか。これは先に書いたところの「余裕」「開き直り」というやつである。「世界に敗けたくない」「俺らはまだ世界をコントロールできる」という気持ちが少なくとも残っているのである。

大切なことなので何度も書くが、我々は世界に敗北している。だからこそ「余裕」を持ち、世界を看取し、我々がどう世界と向き合うかを真剣に考えなければならないのではないか?零れ行く自分の時間を認め、その零れ行く時間から生まれる何かを看取すること。そうすることで新たな世界が開けるのではなかろうか?

最後に引用してこの記録を締めようと思う。

新しいアイデンティティが大衆運動において見いだされるところでは、その事情はあきらかである。つまり、大衆運動は個人をその組織内部に吸収し同化させるが、それは個人の思想や嗜好や価値観を奪いとることによってなされるのだ。それによって彼は幼児の状態にひきもどされてしまう。子供のようになること、これこそが新生が真に意味することである。(中略)さらに、新しいアイデンティティの探求に刺激されて人々がたえざる行動や精力的活動に没入することによって永遠に進行中の状態にとどまるときも、原始化がともなう。成熟するには閑暇が必要なのだ。急いでいる人々は成長することも哀微することもできない、彼らは永遠の幼年期の状態にとどめられているのである。

柄谷行人訳 エリック・ホッファー「未成年の時代」
『現代という時代の気質』(ちくま学芸文庫 2015年)
P.27、28

これこそ、散歩の極意である。

さあ、皆、散歩をしよう。

よしなに。










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