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雑感記録(175)

【「どことなく」惑う】


土曜日からどことなく体調が優れない。具体的な症状、例えば「喉が痛い」とか「熱っぽい」とか「倦怠感」と言ったものは発現していない。ただ何となく体調が優れないのである。日本語の曖昧さとでも言えばいいのか、症状無しでも「どことなく」とか「何となく」とか、そういった表現を使用すればその状況について抽象度を上げ、尚且つ自分がどんな状況かが大枠に説明できてしまうのである。良いことか悪いことかはさておき、この曖昧さを持った日本語が僕は好きである。

そんな訳で、この土日は「どことなく」体調が優れず、気分もそれに合わせて若干滅入っていた。土曜日は人と会う予定があったので、午前中に溜めていた家事をこなし、午後から池袋に向かった。朝から洗濯機を2回も回してしまった。今、「も」と表現した訳だが、この2回が多いのか少ないのかは日頃の自分がどれぐらい洗濯機を使用しているかにもよるが、僕の場合は1日に2回も回すことがないので「も」という助詞を使用したに過ぎない。

僕は家事がわりと好きな方である。だからと言って積極的にこなす方かと言われればそれはそれで違う。僕の場合は「気になったらやる」という程度のものであり、何もないのに毎日家事をしたりはしない。例えば毎日掃除機をかけないし、フローリングを毎日拭きはしないし、シンクを毎日掃除しないし、お風呂だって湯船に毎日浸かる訳じゃないから風呂桶を毎日掃除しないし…。一応、綺麗好きの部類の人間に入る方だと自分では思っているが、それでも毎日家事をするということはない。

それでは、家事を「好き」とは言えないんじゃないかと思えてくる。本当に「好き」ならきっと何があっても毎日家事はやるだろうし、そもそもそれを愉しんでやれているかと聞かれると、正直「愉しい、これ!」となることは家事に於いては殆どない。いや、皆無である。それでも「どことなく好き」という感覚だけはあって、それが具体的にどういうところがということを説明できないのがまたもどかしい所でもある。


そんな訳で、洗濯機を回しフローリングの掃除とトイレ掃除を済ませた。天気が良いから洗濯物は外に干そうかなと思った。しかしだ、何事も万が一と言う事態がある。何となくスマホでYahoo!の天気予報を眺める。すると15:00から雨雲が近づき、雨が降るとの予報であった。僕は外を見て「こんなに晴れて、雲1つないのに雨が降るのか!?」と半信半疑であった。しかしこれまた何となく「部屋干ししよう」と何故か思い立ち、部屋の中に所狭しと洗濯物を干したのであった。

そういえば、「今日は午後から池袋で待ち合わせして、雑司ヶ谷辺りを散歩するんだったな」と思い出し、「午後天気悪くなるのか…」とどことなく体調が優れなくなった。別に散歩がしたくなかった訳では決してない。ただ、天候によって気分が左右されてしまうという事情は少なからずあると僕は思っている。小説の心理描写なんかで、つまりは風景描写というやつか。あれで主人公の心情と風景をリンクさせる如き技法がある訳だ。だが、本来はもっと複雑でそれこそ「どことなく」「何となく」という言葉でしか説明できない心情も当然の如くある訳だ。だから僕はこれ以上自分のその時の心情を書くことは出来ない。

JR線や地下鉄を使って池袋まで行きたくなかったので、都電で池袋まで向かうことにした。僕は家事を済ませ、そそくさと支度をして家を出て行った。上を見上げると快晴であり、雲1つない。用心に越したことはないので折り畳み傘を忍ばせることにした。風は冷たい。僕は一気に疲労感を感じてしまい、何だかここから駅まで歩くのが億劫になってしまった。

聞くところによれば、寒い方と熱い方だと断然、寒さのストレスの方が「やばい」らしい。負荷が半端でないらしい。なるほど。そう考えるとここ1日のどことない体調の悪さも原因がその寒さにあるというように考えられなくもない。いや、と言うかそれだ。あと考えられることは天気予報にある通り、天候不順による低気圧の接近である。僕は低気圧に滅法弱い。台風の時なんて最悪も最悪である。この低気圧も少なからず大いに影響していることは間違えようのない事実だと思う。

そんな訳で、僕は都電荒川線に揺られるために始発駅である早稲田駅へと向かった。僕が駅に着いた時には既に行列。何人もの人が並んでいた。車内で座れるかなと心配になったが、ここから大体5駅ぐらいなものだから立って乗ることもやぶさかではない。しかし、座れるなら座りたいものである。前方の扉が開き、並んでいる人々が一斉に入る。座れる場所を僕は探しながら奥へと進んでいく。

僕は東京に来る前からそうだったのだが、駐車場とかそれこそ電車の席であったりとか、空いていると迷ってしまう人間である。つまり、停めるところや座るところが数多くあると「どこに座ればいいのか?」と迷ってしまい変な所に車を停めたり、席に座ってしまうのである。結局僕は何とも微妙な位置に座ってしまった。出口に行くには遠すぎないが、人が多くて出にくい場所を選んでしまった。「まあ、すぐだから」と諦めて揺られていく。


都電は神田川を通るコースだ。早稲田→面影橋→学習院下→鬼子母神前→都電雑司ヶ谷、そして東池袋四丁目が僕のゴール地点である。春になると神田川の桜が窓から見える。風が吹くと桜が舞う。あの光景を僕は好きである。それも「何となく」好きである。別に桜が好きでもなければ、神田川が好きな訳でもない。都電も別に好きではない。ただ、その雰囲気と言うか景色が僕には不思議と居心地がいい。

昨年まではずっと地元に居たから、わざわざその景色だけ見に行くなんてことはしなかったし、しようとも思わなかった。けれども、今では幸運なことに近くに住んでいる訳なのだから、これからは存分に楽しもうと思う。そう思いながら揺られ、早く3月にならないかなと祈る。しかし、祈る必要などなくて、向こうからやってくるのだからただ待てばよい。それだけの話である。

電車で揺られること20分ぐらいだったと思う。東池袋四丁目に到着。鬼子母神前と都電雑司ヶ谷から乗り込んでくる人たちが多く、都電内はギュウギュウだった。なまじ座ってしまったので、出にくくて仕方がない。僕は自分のリュックを盾にしながら、半ばラガーマンのような心持で突っ込んでいく。しかし、それでも避けようとしない輩もいる。そんな奴は知ったこっちゃないのでとにかく突っ込んで出口へ。

池袋、僕が嫌いな街。

降りてしばらく歩けば人に当たる。どこから湧いてきたか分からないぐらいに人がわんさかいる。駅に近づくにつれてその濃度は厚みを増し、僕の眼球を酷く酔わせる。ふと地面に目をやる。汚い。地面だから当然だよなと納得できるほどではもはやない。誰のものかも分からない、カピカピに乾いた吐瀉物が並ぶ。多分、ラーメンでも食ったんだろう。ナルトがそのままの姿で、今にもピチピチ魚の如く動き出しそうだった。

待ち合わせはJR池袋東口だった。池袋東口から歩いて先程僕が都電で乗ってきたコースを今度は歩きで引き返すみたいな散歩コースを僕自らで提案し設定した。池袋駅に集合にしてしまったのは自分の過ちかとも思ったが、相手のことを考えてみて、どこが1番楽かなと考えた時にここしかなかったというのが現状である。僕のせいで雰囲気を壊すのも嫌なので、こうしてここで書いている訳だ。何とも大人げない。

しかし、池袋東口に着いたところで待ち合わせ場所をどうするかという問題がある。人も多いし、何か入れる店もないし。駅ビルとかも人が多いし、待ち合わせしている人が多くて「何となく」嫌だったから、変な所で待ち合わせることにした。今思えば「いや、絶対駅ナカの方が良かっただろう」というような場所であったという事だけ書いておくことにしよう。

定刻5分後、待ち合わせ場所で合流。いよいよ散歩が始まる。


空を見上げる。何だか雲が薄く広範囲に広がっている。「さっきまであんなに晴れてたのに…」と思わず呟く。「そうだよね、何か嫌な天気」と返答があったので驚いた。僕は独り言のレヴェル感で発していた言葉が拾われると何だか恥ずかしくなってしまう。でも、それと同時に「どことなく」嬉しさも感じるのである。話を聞いてもらえるという事はいつ何時でも嬉しいものである。

池袋駅に近い場所、そうだな…ジュンク堂付近まで僕はサッサと歩いてしまいたかった。でも、相手のペースもあるしそれに歩幅を合わせないととも思うし、相手もきっとこんな人混みで歩きたいとは思わないだろうから、黙々と歩みを進める。何だかその時はお互いに歩くことに専念して、あまり口数は多くなかったのだけれども、一緒に駆け抜けている感が「どことなく」連帯感があって良かった。その瞬間はもしかしたら唯一共有されている事柄なのかもしれないと思うと何だかむず痒くなった。

しばらく無言だったような気もしなくもない。と言うのも、僕は低気圧のせいで心持か体調が優れていないからである。何となく気が重くて、どうも身体と精神の歯車が噛み合わさってないのである。この時は、頭は矢鱈と変なことを考えるのに身体が思うように着いていかないみたいな感じだった。思考するのにも体力が必要であるとつくづく思い知らされる。ただ、それでもタバコはやめられそうにはない。黙々と歩く。ある意味では散歩の趣旨には合っているのかもしれない。いや、どうなのだろう。僕は基本1人でしか散歩しないから、そもそも自分含め複数人での散歩など初めてである。

何とか明治通りを途中で曲がり、鬼子母神があるところまで来た。そこに来れば人もあまり居ないので、雰囲気を味わいながらゆるりと会話しながら歩くことが可能になる。歩幅も先程より幾分か、お互いに小さくなったような気がしなくもない。色々と話しながら歩いていく。

その散歩途中、僕が好きで行ってたパン屋さんでメロンパンを購入しようと思った。何なら今日の散歩の目的はほぼこれ目当てだと言っても過言ではない。歩きながら僕が指差し「あそこです……ってあれ、やってる雰囲気がしない…」と言った。相手は別にそんな怒るでもかと言って落胆したみたいな感じでなく、あっけらかんと「やってなかったらしゃーなくないすか?」みたいな感じで言い放った。何だか僕は凄く安心した。一緒で良かったと「何となく」思った。

結局、そのパン屋さんはやってなかった。これは完全に僕のリサーチ不足な訳で、本当に申し訳ないことをしたなと思った。だけれども「まあ、そいうこともあるっしょ!」みたいな感じで受け流してくれたので本当にそこが救いだった。そうして僕のいつもの散歩コースに戻る。

散歩過程については別に書く必要もないだろう。ただ、いつものコースとは異なったコースに変更したお陰もあってか良い場所を知ることが出来た。2人で「何となくこっちっぽいよね」とか「ここ右っぽい」とか言いながら歩くのは非常に面白かった。しかし、歩いているとやはり寒くなってきて外に居るのがしんどかったのでカフェに向かう事となった。

しかし、ここでまた僕がやらかしてしまう訳だ。

とりあえず、僕が通っていた大学近くまで来たので「じゃあ、僕が大学の時に使ってたカフェ行くけど」と言って連れて行ったのだが、激混雑。凄い行列ですぐに退散した。結局どうしようという話になり、相手が色々と調べてくれてすぐ近くのおしゃれなカフェに入った。このお店が凄く良かった。個人的にリピートしたいお店であったことは言うまでもない。

結局、そのカフェで3時間ぐらい色々と話をしていた気がする。


色々と話が盛りだくさんだったので、何を話したかと言うのは正直断片的にしか覚えていないというのが現状ではあるが、「どことなく」満足感を以てして話が出来たことは間違えのない事実である。事実、こうして時間が経って後日になってこうした文章を書いているのだから。

何というか話をしていく中で、純粋に僕にはない感性を持っている人と言うか、ある種真逆な人と話をするのは面白い。あまり大きな声では言えないが「ちょっと人としてギリやばいんじゃないか」みたいな感じの人なんだが、何だか面白い人柄であった。僕はこれまで色々と会ってきている訳だが、中々これもこれで面白いものである。

実は今日13:00に待ち合わせだった。僕は大抵、予定の5~10分前には必ず着いている人間だ。だから今日もそのような時間で行こうとしていたところ1通の連絡。「5~10分遅れます」との内容だ。しかも20分ぐらい前にそのメッセージが来る。ちなみにこれが初めてではないという事だけ言っておく。ただ、何だかここまでくると面白いのでもう何とも思わない。

そういうことを別に嫌味っぽく聞くことはしないけれども、色々根掘り葉掘り聞いてみるのだが…うん…僕には理解不能の理論過ぎて面白かった。もはやここまで来るとイライラとか、ムカつくとかいう感情など全くなく、面白くなってしまう。ただ、大切な場面では遅刻はしないという事だったのでまあ問題はないかと思うが、しかし、僕は個人的に小さなことの積み重ねが大切であると考えている人間であるのでしっかりした方が良いんじゃないかとは思う。

ただ本当に物凄く面白い人だなとは思った。僕とは真逆の人で考えていることもやっていることも僕からしたら到底出来ないことだからだ。話していくうちに何となくだけれども自分がどんな人間かがあからさまになっていくような気がして物凄く有意義な時間だった。自分がどんなことに興味関心があって、自分がどういうことに関心がないのかとか…色々と見せつけられているような気がした。

正直に言えば、全く以てそういった色恋の感情などは芽生えなかった。本当に「面白い人だな、この人は」という感覚で終止話を聞いていたし、こちらも自分を知るという意味に於いて存分に対話をさせてもらった。何というか初めてと言ったら嘘になるかもしれないが、自分と言う存在が手に取ってそこに掴めそうなところまで来た!という感覚になったのである。


自分と真逆の人と話をすることは面白いなとマッチングアプリを通して会話したり、実際に会って会話することで感じられる。僕は今まで「本好き」とか「映画が好き」とか「美術が好き」とかそういった、ある種「どことなく」感性というか、感覚が似ている人と話しがちになってしまっていた。無論、それはそれで好きなことを話せることに越したことはないのだから、当然の如く、話が弾めば愉しい。

しかし、自分自身と真逆の感性の人と話をすると凄く面白い。言い方は些か失礼になるが宇宙人と会話している感覚になる。相手は僕のことをどう思っているか知ったことではないし、僕みたいにこういう感じで何か書いていれば別の話ではあるが、とにかく相手が僕のことをどう思っているかなんて知らない。僕は少なくともこう感じているというだけの話である。

自分を知らない人と話すことの利点は、現状の自分を再確認できるという点にあると思う。自己開示していく中で自分で話していて、自分で自分自身を発見していくのである。僕にはこれが愉しくて堪らなかった。つまりは鮮度を保ったままの自分自身をある程度把握出来るのである。使い古された過去の経験談を話、「こう思った」とか「こう考えたんだ」みたいな話をすると相手にも自分がどんな人間か伝わるし、自分自身も「あ、自分てこういう風に思うんだな」と改めて再確認することが出来る。

ただ一方的にこちら側からベラベラベラ、そしてダラダラダラと話してはいけない。互酬性とでも言えばいいのか?自分が話したら相手の話も同等に聞くというのが筋であるように思う。だからその日は僕は話すことにも集中したけど、聞くことにも集中していたような気がする。しばしば「傾聴」などと言う言葉で表現される訳だが、僕からしたら別に当たり前のことだと思うのである。わざわざ「傾聴」などという言葉を使用するという事は、それだけ人の話が聞けなくなってしまったことの証左なのだろう。

単純に、自分1人だけ話して気持ち良くなりましたと言うのは何だか嫌である。厳密に言うならば、一人だけ言語を売る(つまりは交換様式で言うところのG-Wという事になろうか?)というのは公平ではない。こちらが売りっぱなしで、購入してくれる者がいなければお話にならないのである。一方的に売りつけるのは押し売りでしかないのである。そんなことを僕はしたくないのである。


3時間はあっという間に過ぎて行った。相手は友人と夜からオールナイトの映画上映を見るとのことで19:00に再度池袋に行くとのことであった。僕もどうせ暇だったので一緒に池袋に行き、そこでお別れして僕は1人、吹きすさぶ風の中をビール1本片手に歩いて自宅へ向かった。

歩きながら今日のことを振り返る。

とにかく面白かったというその一言に尽きる。僕は終止、感心しながら話を聞いていたように思う。自分には全くない感性や、自分には到底できないこと(良いことも悪いことも含めて)が多かったので面白かった。ただ、ここで「面白かった」と書いてしまうのは些か他人事みたいな感じがしなくもない。でも実際そうなのだから仕方がない。

「ないものねだり」という言葉があるが、それを痛感した1日でもあった。自分が持っていない何かを持っている人は魅力的に映るというが、そこは何となく分かったかもしれないなとも思う。そして究極、僕は本当に恋愛するのに向いていないということを「どことなく」「何となく」感じたのである。

そうして僕は「どことなく」惑いながら神楽坂まで酒を飲みながら1人明治通りを歩いていた。

雨は止んでいた。風は吹き続ける。頬は痛い。手は悴む。

何となく、どことなく、体調は優れないみたい。

僕の恋の行く末はいかに。なんてな。

よしなに。


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