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雑感記録(180)

【中身の無い話】


最近、何故か分からないがとにかく書きたいことが沢山ある。それは自分自身がそれなりに読書をする時間が取れていることが何より大きい。果たして本をしっかり読解出来ているかは置いておくとして、純粋に文章そのもののを味わいながら読めていることは事実である。そうすると当然に、このnoteは再三言うようだが、僕が感じたことや考えたことなどを遺す場、好きなことを語る場であるので、ここに書きたくなるのは当然の帰結なのである。

しかし、最近自分自身の記録を読み返したり、他の方の作品をnoteで読む中で自分が何とも「中身の無い話」を取り留めもなく書いているなと痛感されるのである。そもそもこの記録は自分で書き、自分で愉しむことが一種の目的であるから関係ないっちゃ関係ない。その文章の良し悪しというものも。ところが、これも再三に渡って僕は書いているがnoteもSNSの一種であって、自分の為だけに書いたとしても、それが僕の知らない大勢の人に見られるのである。そうともなれば意識しない訳にはいかない。ある種の礼儀として。

それが適度な緊張感となって、僕の書く文章にもっと技巧的な上手さや何かが付与されればよかったのだけれども、どうも一向にうまくならない。何だかよくよく読んでみると同じことをただ何遍も繰り返していたり、結局自分の言葉ではうまく伝えられないから恣意的な引用をしてしまったりと…。まあ、数え上げればキリは無いのだけれども、一向に上達の気配がしない。むしろ自分自身で衰退の一歩を辿っている気さえする。

しかし、これまた何度も言うようだが、僕は文章を書くという事を生業にして生活している訳では決してない。それでお金を稼いで生きているということであれば、何と表現すればいいか分からないが、うん、そうだな…。こういう風に逃げずに真摯に向き合って文章を書き続けているのだと思う。このように書くということは同時に僕が馬鹿であることの証左でもあり、ただ自身が逃げたいというだけの言い訳に過ぎない。「俺は文章が上手じゃないんだぞ」と開き直っている感じがする。自分で書いていて何だが。

皆も文章を書き出して、最後まで書いてみると分かるかもしれないが、書けば書くほど自分の圧倒的な知識の無さに打ちひしがれることがある。その知識と言うものは何も「覚える」という意味合いでの知識ではない。例えばだけれども、自分に寄せてどこまで考えられているかという経験的な知が圧倒的に不足しているということである。知は何も固定的なものではなく、むしろ流動的である。

過去の記録を自分自身で振り返ってみながら、本当にどうも「中身の無い話」ばかりを展開しているような気さえする。それは語っている内容について見てもらえれば一目瞭然だが、所謂「ガワ」しか語っていないのである。表皮みたいな、玉ねぎの皮ぐらいの大したことない問題について勝手に広げて勝手に1人で悦に浸ってふんぞり返って書いているに過ぎないのではないか。

昨日は割と自分では頑張った…とか言うとこれまた意味の分からないことになるから辞めておくとして、とにかく昨日の記録はここ数日ではしっかり書けたかなという印象を持った。しかし、読み返してみて…なんかな…残念!みたいな文章が多い。文章の接続は上手に行ったかなとは思うんだけれども、文章そのものが下手くそじゃお話にならない。いつも悩ましいところではある。

僕は自分自身で「本が好きだ」とか「映画が好きだ」とか「音楽が好きだ」と書きながら、実はある1つの作品に対して論じる、あるいは書くということをこのnoteでは殆どしていない。恐らくそれをちゃんとしたのは小栗風葉の話だけだったような気がする。あとは「ガワ」の問題について全く以て薄っぺらな、しかも取ってつけたような知識で書いているに過ぎない。

つまり、僕は読書が出来ていない。

こういった結論に至るのは当然である。僕は「自分の為に書いている」と声を大にして言っているが、実はただ自分自身をそういった言葉にかこつけて良く見せたいだけなのかもしれない。裏にはきっとそういう思惑が無意識という仮面を被ってこちらに近づいている。加えて、今では必要とすらされなくなっている、死滅した文学や哲学なぞを敢えて持ち出して語ることで「それをやってる俺凄くね?」って対外的にアピールしたいだけなんじゃないか。

もしかしたら、noteを書くこと自体が間違えているのではないか?

これまで雑感記録(180)として数多くの記録を残してきた訳だけれども、本当にこれが自分自身の為になっているのか少し不安になって来た。勿論、僕にとって書くことは愉しい。その時が1番何というか、普段使わない所を思いっきり解放するような感じがして気持ちいい。それに何よりも書いて1番最初に読むのは僕なのだから、その僕だけが楽しめればそれでいいんじゃないか?

それか別にnoteという媒体で書く必要性がどこにあるのかってことも考えなければならない。これも再三に渡って書いていることだが、僕はテクストは自立しないと考えている人間なので、多くの人に読まれてけちょんけちょんに読まれることで初めて「作品」として完成すると思っている。僕のこんな稚拙な言葉の羅列を「作品」なんていうのは甚だ調子のよすぎる話なんだけれども。


と「中身の無い話」をつらつらと今日も書き始めた。

これがどこに向かうかなと思ってタイピングし続けていたんだけど、何だかこの続きを書くのが馬鹿らしくなってやめた。何かもうどうでもいい…というとメンヘラみたいで気持ちが悪い。僕はそこまで落ちぶれてはいないのでしっかりと言語化してみようとは思う。

ハッキリ言って、こんなところで愚痴ったって始まらない。と言うか、そんなことでうだうだ書いてる前にさっさと書けよって話なんだよなと思う。別に他人にどう見られようが、他人にさえ迷惑かけなきゃ別にどうでもよくないかと思えてきた。と言うよりも、こんなところで書いたからって何が変わる訳でもない。大概僕の人生なんてそんなもんだ。

この文章を書こうとしている時には某漫画の主人公みたく「うるせー!書くぞ!」と言う覚悟を以てして書いているのだから、前段の話なんてのはただの自己憐憫にしか過ぎなくて、ただただ哀しい自分を自分で慰めてるというか、オナニーみたいな文章だ。何ならトイレで書いてやればよかったか?トイレットペーパー準備して。

カルヴィーノの言葉をパクッて締めようか。

僕が文章を書くのは、それがなにかに「役立つから」ではない、ということ。僕たちが文章を書かなければならない理由はただひとつしかない。それを書かないより、書いたほうがいいから、だ。

今後も継続!よろしく!

よしなに。




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