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雑感記録(188)

【思いやる気持ち】


僕はテレビを見ないので、これをネットニュースの記事で知るのだが、これは如何なものかと少し思った。特に日テレの製作部だかの声明ね。これは…余りにもメディアを扱っている会社としての品格を疑うというか、ちょっと第一声でそれかね…と思わず絶句。

こういう何というか「原作を実写化する」ということは今に始まった訳ではなくて、前々からある問題である。これは個人的な感覚の問題であるが、小説を実写化する場合よりも、漫画を実写化する場合の方が風当たりが強い気がする。

個人的には不思議な現象だなと思う。

しかし、よく考えてみればそんなに不思議でもなくて。小説は人それぞれ、詰まるところ読者によって登場人物に対する感情、同一性というものはそもそもない。前提として差異しかない。固有名としては同一性を保っていられるが、その人物の「像」としては皆が皆同じではない。仮に映像化される中で、「これは俺の知ってるものではない」という人もいれば、「まあ、そこそこ原作に忠実なんじゃないの?」という人だって存在する訳だ。

言葉のみで表現することの限界性がある。そうしてその限界性に挑戦するからこそ小説の面白さがある。いくら登場人物はこういうやつだ、こういう服を着ていて、こういう性格で…と説明や描写をしたところで名前は同じであっても、想定する人物像は異なる。1人として同じ人物はいない。だからそもそも「原作と違う」という現象は起こりえたとしても、どこか割り切れるように個人的には思えるのだ。

ところが、これが元々が像を持った作品であると厄介である。それこそ「漫画の実写化」がそれだ。漫画ではまず既にどんなビジュアルであるかが決定されている。こちらから想像する余地はない。「作品は既にこれである」と世界観が自身の中で制度化されてしまうのである。簡単に言えば、誰がどう想像しようとも、その作品世界に於ける登場人物は同一性を持つと同時に我々を縛り上げる制度そのものでもあるのだ。

それで、個人的にやはり気になる部分というのはリアリズムの問題なんです。今、僕は簡単にリアリズムと書いてしまったが、例えば「この実写化作品凄いな!」と感じる瞬間っていつだろう?と考えてみた時に、やはり僕もそうなんだけれども「原作に忠実」というのが挙げられる。登場人物も、そこに描き出される背景や雰囲気といった全てのものが原作との同一性を保っていなければならない。

これはハッキリ言って、無理があるんじゃないかなと僕は思う。それこそ、演じる俳優さんと原作の人物はそもそも違う。俳優さんには俳優さんの名前があって、そこに一時的に付与される名前で演じる。結局のところ、俳優は「演じる」ことしか出来ない。もっと言ってしまえば、原作の方が完成されている。そもそも俳優が「演じる」必要すらいらないと僕は思っている。

何故、人々は実写化を求めるのだろう。


とここまで書いて、一旦休憩。というのも、今まで書いてきたことと、この事件と論点がズレているからである。根本にはこういった問題、言ってしまえば「そもそも論」としてあるのではないかという僕の憶測で書いた。そこ恣意的に取り上げただけなのであまり信用は出来ない。自分自身でさえも。

とにかくだ。この事件で僕は個人的に何が1番腹立たしかったかというと、冒頭にも申上げた通り、日テレの製作部によるクソみたいなコメントだ。

芦原妃名子さんの訃報に接し、哀悼の意を表するとともに、謹んでお悔やみ申し上げます。2023年10月期の日曜ドラマ『セクシー田中さん』につきまして日本テレビは映像化の提案に際し、原作代理人である小学館を通じて原作者である芦原さんのご意見をいただきながら脚本制作作業の話し合いを重ね、最終的に許諾をいただけた脚本を決定原稿とし、放送しております。本作品の制作にご尽力いただいた芦原さんには感謝しております

文春オンライン YAHOO!JAPANニュース
脚本トラブル「セクシー田中さん」原作者・芦原妃名子さん《突然の死》訃報の直後に日テレ報道フロアでは「えーっ!」と悲鳴が…芦原さんが「やっぱり怖い」と漏らした数年前の“ある被害”
https://news.yahoo.co.jp/articles/48ad5213e3c732cb4607cf64970fe3977faab3fe?page=4
閲覧日:2024年2月1日(木)12:57

まず以て、僕が違和感を感じたのは真ん中の部分ごっそり。「日本テレビは映像化の…放送しております。」という部分だ。これはどこからどう見ても言い訳にしか見えない。あと、個人的にわざわざ「原作代理人である小学館」という書き方が気持ち悪い。うまく説明が出来ないのだけれども、凄くギトギトしている感じがして嫌らしく感じてしまうのである。

話は大分変わるが、僕はこういう謝罪の日本語がどうも気持ち悪く感じられてしまう。違和感を持った日本語というか、丁寧に書いているように見せて、その実の部分を覆い隠しているような感覚である。これが具体的に説明できればいいのだけれども、いつもそのもどかしさに打ちひしがれて来た。

こう考えると、日本語そのものが本心を隠すような構造で出来ているのではないかと僕には思われる。何だろう。これも表現が上手く出来ないのだけれども…常に「これだ!」っていうものから回避できるような感じ。うーんと、曖昧?ってことなのかとも思ってみたりする。曖昧さがこういう場面になると凄く嫌らしく見えてしまうのではないかと僕は考える。

だから、僕が感じたこの気持ち悪さというのは、ある種の言葉による「逃げ」みたいなことなんだと思う。曖昧であることはその物と物とにある差異をぼやかしてしまうという事なのかもしれないなとも思う。ソシュールは「差異は同一性に先立つ」と言っていた。その差異がぼやけてしまったら、同一性(=価値)というのも至極ぼやけてしまうのではないかなと。

僕がこの声明の中で問題だと思うのは真ん中の部分ごっそりだと書いた。ただ、それを助長する(という言葉が果たして正解か分からないが)文言を文頭と文末に載せることにも厭らしさを感じてしまって、どうもいけない。

定型文の形で「謹んでお悔やみ申し上げます」「感謝申し上げます」という言葉で謝るというのが決まっていて、そのフォーマットに合わせて無理矢理入れ込んだという感じがする。そうすると必然的に真ん中の文章が重要になってくる。そこで彼らが語るのは、どう読んでも「言い訳」にしか見えないような見苦しい文章である。


とこのように批判することは可能だが、それは僕が生前の作者の、今では本人の意思かどうかは知らないが、心情の吐露を読んだためである。これもネット記事で些か信用には欠けるところがあるのは確かだが、もしこれが仮に本当だとしたらと思うと腹立たしさが収まらない。

加えて、この元々脚本を担当していた人もInstagramかなんかで、少し嫌みのようなことを投稿したらしい。詳細について記事を読んで貰えれば十分だから書きはしないが、まあ、何というかSNSの怖さを知らないのかなと僕はそれだけ思った。

僕は正直、第3者だし、大前提として口出し出来るほど立派な人間ではない。しかし、文学や音楽、絵画、映画などを好きな人間としてこれは黙って見過ごせないと思ったのである。特にこの「原作を実写化する」という現象には必ずこの手の問題が付き物である。どうにか出来ないものかと思う。

この記事というか一連の騒動を記事で読んで思ったことは、まず以て日テレは論外。そして、SNSで何やかんや投稿した元脚本家については、「想像力なさすぎ」の一言に尽きる。それとメディア側の私利私欲というか、そういったものが分かったし、わざわざ「小学館」と名前を出したのはある種の責任逃れなのかなとも思ってみたり。

2度とこのようなことが起きないことを心から祈るばかり。

よしなに。








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