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『天然知能』読了

郡司ペギオ幸夫さんの『天然知能』を読了しました。

大変難解な内容でした。
難しすぎて、すべてを理解することは出来なかったのですが、特に面白いと思った部分について、書いてみたいと思います。

「現実とVR(仮想現実)は違うのか」という一節です。
前提として、「天然知能」というのは、「知覚できないが存在する外部」を受け入れる、新しい概念だといいます。
「現実とVR(仮想現実)は違うのか」の節では、「世界全体が天然知能である」という結論が導かれています。

お湯に手を入れて「温かい」と感じるとき、「温かい」が湯の中にあるのか、脳の中にあるのか、という哲学上の議論では、さしあたって湯の中にある、と考える。
一方、VRゲームでは、「現実に物はないのに、手触りが創られ感じさせられるだけで、グローブで摑んだ位置に、その物が置かれていると感じる」。
しかしこれは、実は現実世界も同じことで、結局「温かい」は脳の中にある(「現実における湯は、すでに脳の中にある」)。
……ということだと思うんですが、解釈合っているかな。

こうなると、とても不思議な感覚に陥ります。
普段私たちが暮らしているこの世界も、絶対的安定的なものではなくて、私たちの脳が知覚した、私たちの脳の中にあるものだ、なんて。

さらに著者は、「感覚は時に、それまで全く感じたことのない、異常な感覚へと変貌」する、「自分が世界の中に投げ込まれていて、ずっと生きてきたという感覚がなくなり、目の前の事物が全て嘘っぱちのものに見えてくる」ことが、時として起こり得ると述べます。

ちょっと怖いなと思いました。
何らかの脳の誤作動で、「自分」と「自分以外」の境界が分からなくなり、知覚や認識が正しく(便宜上ここでは「正しい」と表現します。)できなくなる、といったことでしょうか。
夢日記をつけ続けていたせいで現実と夢の区別がつかなくなる、精神障害によって妄想がひどくなり自分で創り上げた虚構の世界で生きる、なんていうことも、この延長にあるような気がしました。

ここでちょっと思い当たることがあって。
ほんの2~3年前の事ですが、「自分」という意識と「自分の身体」が、分離しているような感覚に陥ったことがあるんです。
当時とても大きな心配事があって、その心配が現実になってしまうんじゃないかと常に想像しておびえて暮らしていました。
そんなある日、夜中にお腹が痛くなって目が覚めて、トイレに向かいました。でも、トイレに向かっている私の身体と、心配事をおびえている私の意識がかけ離れているような感覚がして。
いわば身体が勝手に動いてトイレに向かっているような。
トイレに入って、う~~んと踏ん張っていると、お腹が「痛い」と感じる意識と、痛む「お腹」がだんだんと一致してきて、そこでようやく現実感を取り戻しました。
「私の身体」と「私の意識」が一致する感覚です。

この本の記述とは少しずれるのかもしれないけれど、目の前にない心配事を延々と脳の中で想像し続けていたら、それが私の生きる現実になる(妄想の中で生きてしまう?)ことだってあり得ると感じました。
(身体のほうは、本当の「現実」のほうに取り残されて、みたいな。)

ちなみに、のちのお医者さんのご指摘によると、この感覚は「離人感」と呼ばれるようです。
意識が身体を離れて抜け出してしまい、残った身体のほうに新しい意識(人格)が生まれると、解離性同一性障害(多重人格障害)となります。

この節では、現実世界(=超仮想空間)は「外部を受け容れながら、開きつつ閉じる天然知能」であると結びます。
なかなか抽象的で難しいですが、結局私たちが「在る」と信じているものだって、絶対的ではなくて(=「絶対的世界」と「そこに生きる私」という二項対立関係(主体客体関係?)の世界観ではなくて)、もっともっと曖昧なんじゃないかな、と思いました。

とすれば、普段抱えている悩みや心配事とも、もっとゆるっと柔軟に付き合っていけそうな気がしますよね。

難しかったけれど面白かった『天然知能』、読んだことのある人に出会えたら、熱くセッションをしてみたいです。


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