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アメリカでのこと#20日本を好きだといったアジア出身の人達との交流

10年以上前の記憶だが、アメリカで出会ったアジア出身の人達の事を記したい。

数か月とある目的でアメリカで毎日出かけていた場所。そこで顔を合わせるアジア系の人達がいた。

欧米人の身体的特徴と比べて、自分達とはとても近いので、なんとなく親近感が沸き、仲良くなり、一緒に食事をしたり、出かけたりしていた。

彼らは日本の事を大変よく知っていた。自分の国の事を好きでいてくれることがこんなに、人との距離を縮める際に役に立つなんて、日本を出るまで知らなかった。ここで、逆に彼らの国を好きに、、となればよいのだが、なかなかそうは簡単ではなく、リスペクトはするが根本的なところで、興味が持てていなかった事に、どこか自分で気が付いていた。

これは単に自身に対象物を面白がれるほどの教養のようなものが足りていないから故だと思うが。

彼女彼らとの関係が例えば家族や恋人のような結びつきであったり、生死を共にするような戦友のような、お互いの輪郭を形作る物語が不足している場合、それは強烈に「快」として心に刻みこまれたりはしないのだと思っている。

ただ、そこに流れる時間があっただけという。

楽しくなかったかといえばそうではない。楽しい事も、摩擦ももちろんあった。今思い出すのは、とにかく私たちはよく笑っていた。本当になんでもない事でも良く笑っていた。

今よりも自身を律しながら、今とは全く違う流れの中に自分がいた事をとても不思議に思う。

日本の文化が好きな人も数多くいて、日本映画や漫画の話は日常茶飯事で、岩井俊二の「love letter」が好きだという女性のことをふと思い出した。

はて、どんな話だったか。あらすじを調べてみた。

そうだ、彼女は日本語が話せないのに微妙な発音でよくこの真似をして私たちを笑わせてくれた。

「 お 元 気   ですか  」

「 私  は  元 気 です  」

雪山で、声が響き渡るあの場面のこと。 

文字に書き起こすと、アルファベットが標準ではない国が多いことがわかる。ほんの少しだけ、自分の人生と交差した彼らへ、彼らの国の言葉で同じように書き記し今日は筆を置こう。

「お元気ですか。私は元気です。」日本語
「คุณเป็นอย่างไร. ฉันสบายดี.」タイ語
「Necəsən. Mən yaxşıyam.」アゼルバイジャン語
「Apa kabarmu. Saya baik-baik saja.」インドネシア語
「آپ کیسے ہو. میں ٹھیک ہوں.」ウルドゥ語
「Nasılsın. İyiyim.」トルコ語
「你好吗。我没事。」中国語(簡体)
「你好嗎。我沒事。」中国語(繁体)
「안녕하세요? 난 괜찮아.」韓国語