あのとき旅でほとんど写真を残さなかったわけ
旅の記録に写真はつきものだ。
玄人はだしのカメラを持ち世界中の一瞬を懸命に切り取る人。スマートフォンで気軽にパシャパシャ撮る人。色々だ。
気軽に何枚だって撮って保存が容易で、動画だって簡単に撮れる。
ここを統制すれば1枚いくらかで国家が税金を徴収することだって可能だ。いくらとれるんだろう?
食べた食事を記録したり、風光明媚な風景、歴史的建造物、あらゆるその時みたものを好きな形で切り取って封じ込めることができる。
気軽に写真を撮る旅行も数多くしたが、
写真をほとんど撮らなかった旅がある。
基本的に写真を撮る事撮られる事、両方ともあまり好きではない。
特に他人が自分を撮った写真を好ましいと思ったことがほとんどない。SNSに掲載の有無を問われると必ず否と答えてしまう。
写真に撮られると魂を抜かれるといわれた時代があった。
少し異なった文脈でそれを自分は信じているもしれない。
写真をとると写真に甘んじてしまうのだ。記録に残したから、どこか、その瞬間を真に頭に刻みこむ事を放棄してるような気がしてならない。
カメラがその風景のホンモノの力強さを、つまり魂のようなものを抜き去るから、残ったのは脳に刺さらないゆるやかな何か。それしか残らないのだと。
その瞬間は二度と戻らないから、写真に残すのだろうが、私は残さなかった。後々思い出せないそんな光景や思い出など、何かの手を借りてまで残す必要などないと思っていたからだ。
最近は撮ったり撮らなかったり。そこまでこだわりがなくなっている。
写真の持つ素晴らしさも認め、また後から記憶を辿るのにやはり鮮明な画像はそれを助け、思わぬエピソードを思い出したりする効用に感謝することもしばしばだ。
とある旅の1枚だけ残った写真。
カメラのレンズを自分に向けた自撮り写真。
その瞳の奥に何が見えていたのか。
その中にあるものがその旅の全てであって、時間が不要なものを勝手にダンシャリしてくれる。
そのときどきの自分に本当に必要なものだけが年々残っていく。本当に大切なものだけで充分なのだ。